All Chapters of 『運命の番に捨てられた私、狼王国の婚約契約を裁く女王になりました』: Chapter 1 - Chapter 10

33 Chapters

第1話 運命の番に捨てられました

第1話 運命の番に捨てられました「ミレイア・セレス。俺は今日、お前との番契約を結ばない」 その言葉を聞いた瞬間、ミレイアは、聞き間違えたのだと思った。 王都の月神殿、その中央大聖堂には、昼だというのに淡い月光を思わせる銀色の灯りが満ちている。天井から吊られた無数の水晶灯が、今日ここで新たに結ばれる番たちを祝福するように輝き、正装した貴族や神官たちの衣装には、狼族が神聖視する三日月の紋章が刺繍されていた。 本来ならば、十八歳になったミレイアにとって、今日は人生で最も幸福な一日になるはずだった。 幼い頃からずっと一緒だったカイラス・ローデンと、正式な「月誓契約」を結ぶ日。 七年前、二人の手首に同じ銀色の番紋が現れた時、誰もが祝福してくれた。 少なくとも、あの頃は。「……カイラス?」 名前を呼ぶだけで、声が妙に遠く聞こえた。 祭壇の向こうに立つ青年は答えなかった。 いつもならミレイアを見る灰褐色の瞳が、今日は一度もこちらを向かない。 濃紺の礼装に身を包んだカイラスは、磨き上げられた黒い床だけを見つめていた。握り締めた右手だけが、不自然なほど固い。 代わりに、彼の隣から柔らかな女の声がした。「ミレイア様。突然のことで、おつらいお気持ちはよく分かりますわ」 その声音があまりにも穏やかだったため、ミレイアは一瞬、自分が慰められているのかと思った。 ヴィオラ・アルメネス。 王国でも指折りの大公爵家に生まれ、希少な金狼への完全獣化能力を持つ令嬢。艶やかな蜂蜜色の髪には月石の髪飾りが輝き、白銀の式典衣装は、どう見てもただの参列者が着るものではない。 花嫁の色だった。 そこで初めて、ミレイアの胸の内に冷たいものが落ちた。「どうして……ヴィオラ様が、そこにいらっしゃるのですか」 聞きながら、答えを知りたくないと思った。 けれどカイラスは、ようやく顔を上げた。「ヴィオラと婚約するからだ」 大聖堂のどこかで、息を呑む音がした。 ひそやかな囁きが波のように広がっていく。 ミレイアには、その一つ一つが聞こえてしまった。「やはりね。ローデン家の跡取りが、獣化もできない娘と結婚するなんて無理だったのよ」「でも、あの二人は真の番なのでしょう?」「番だから何だというの。番紋だけでは領地は守れないわ」「お気の毒に。棄て番になった女性なんて、もう
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第2話 狼王だけが、私の言葉を笑わなかった

第2話 狼王だけが、私の言葉を笑わなかった「その三つを、俺の前で証明できるか?」 アルドリック・ノクスの声は低く、よく通った。 大聖堂に集まっていた貴族たちのざわめきは、あれほど大きかったというのに、その一言で潮が引くように静まっていった。 ミレイアは破棄契約書を胸の前に抱えたまま、返事をすることができなかった。 証明。 その言葉が重い。 自分には、確かにこの羊皮紙から奇妙な音が聞こえている。署名、血印、証人記録。三つの箇所から、それぞれ異なる濁った響きが伝わってくる。 けれど、それをどうやって他人へ説明すればいいのだろう。「黙ったところを見ると、やはり未練からの言いがかりだったのではありませんか?」 ヴィオラが先に口を開いた。 声は柔らかい。しかし先ほどまでよりも、その微笑にははっきりした棘があった。「ミレイア様が傷ついていらっしゃることは理解しておりますわ。ですが、ここには外国の国王陛下までいらっしゃいます。個人的な感情で神殿の正式な契約を偽造扱いなさるのは、さすがに許されることではありません」「ヴィオラ」 カイラスが制した。「お前は黙っていろ」「でも、カイラス様」「今は俺が話す」 ヴィオラの顔が僅かに強張った。 先ほどまで一枚岩に見えていた二人の間にも、どうやら完全には噛み合っていない部分があるらしい。 そんなことに気づいた自分が、ひどく嫌だった。 今さら二人の関係に何か問題があったとして、それが何だというのだろう。 カイラスが自分を捨てた事実は変わらない。「ミレイア」 カイラスは祭壇を回り込み、一歩だけこちらへ近づいた。「さっきから何を見ている? お前は昔から細かいところに気づく性格だったが、だからといって――」「細かいところ、ですか」 ミレイアは思わず聞き返した。「私が見ているのは、あなたの署名と血印と、証人記録です」「それは聞いた」「では、まず署名から確認してもよろしいですか?」 カイラスが眉を寄せる。「何を?」 ミレイアは羊皮紙を両手で持ち直した。 まだ指先へ、あの嫌な響きが伝わってくる。 怖い。 もし間違っていたら。 もし、この場で笑われたら。 いや。 すでに一度、人生ごと笑われたようなものだ。 それに比べれば、今さら一つ恥を増やしたところで大した違いはない。「カイラ
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第3話 私を追放する家族

第3話 私を追放する家族 セレス伯爵家の屋敷へ戻った時には、すでに陽が傾き始めていた。 王都の西側に建つ屋敷は、子供の頃から何度も見てきたはずなのに、今日はまるで他人の家のように見えた。石造りの門柱も、冬になると葉を落とす並木も、玄関前に置かれた古い狼像も何一つ変わっていない。それなのに馬車を降りた瞬間、ミレイアは自分だけがそこから切り離されたような感覚を覚えた。 神殿での出来事が、すでに屋敷へ伝わっていることは分かっていた。 玄関脇に控えていた使用人たちが、いつもより深く頭を下げたまま顔を上げない。視線を向けられないことが、かえって何を考えているのかを雄弁に物語っていた。「お帰りなさいませ、お嬢様」 老執事のデリックだけは、いつもと変わらない声で迎えた。「ただいま戻りました」「旦那様が書斎でお待ちです」 やはり、とミレイアは思った。「母も?」「奥様もご一緒です」「そうですか」 デリックは一瞬だけ何か言いたそうにしたが、結局は黙って道を譲った。 その沈黙がありがたかった。 今、「大丈夫ですか」と聞かれても、何と答えればよいのか分からなかったからだ。 大丈夫ではない。 けれど、泣き崩れるほどでもない。 怒っている。 傷ついている。 そのくせ、どこか妙に冷静でもある。 自分の感情なのに、自分でもまだ整理できなかった。 廊下を歩きながら、ミレイアは無意識に左手首へ触れた。 銀色の番紋は消えていない。 神殿で破棄契約が凍結された以上、当然だった。 ただ、以前ならその紋様を見るだけで胸が温かくなったのに、今は古い傷痕を眺めているような気分になる。 書斎の前に着くと、デリックが扉を叩いた。「ミレイアお嬢様がお戻りです」「入れ」 父の声は硬かった。 扉が開く。 中には父エドガー・セレス伯爵と、母クラウディアがいた。 父は執務机の前に立ち、母は長椅子に腰掛けていた。いつもなら客人を迎える時に出す銀の茶器がテーブルに置かれているが、誰も手をつけた形跡はない。 ミレイアが部屋へ入るなり、父は挨拶もなく言った。「何をしてきた」 予想していた言葉だった。 それでも、胸の奥が少しだけ冷えた。「神殿でのことでしたら、すでにお聞きになっているのでは?」「聞いたから尋ねている。なぜあんな場でローデン家と神殿に恥をかかせた
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第4話 狼王から届いた招待状

第4話 狼王から届いた招待状 銀狼の封蝋を見つめたまま、ミレイアはしばらく動けなかった。 昨日、月神殿で自分の言葉を笑わなかった男。 ノクシア王国国王、アルドリック・ノクス。 その人物から、家を追い出された翌朝に正式な書状が届くなど、偶然にしては出来すぎている。「こちらで、お読みになりますか?」 使者の男が尋ねた。 四十歳前後だろうか。黒い制服の胸元にはノクシア王家の銀狼紋が縫い取られている。立ち方も言葉遣いも隙がなく、ただの御者ではないことはすぐに分かった。「いえ……でも、本当に私宛てなのですね」「ミレイア・セレス様以外へお渡しするよう命じられてはおりません」 念を押され、ミレイアは少し恥ずかしくなった。「失礼しました。昨日までの私なら、国王陛下から手紙をいただく理由がありませんでしたので」「昨日までではなく、昨日から理由ができたのでしょう」 思いがけない返答だった。 ミレイアは顔を上げたが、男は特に笑っていない。 まるで天気の話でもするような顔で続ける。「少なくとも、我が王はそう判断しております」 その言葉だけで、胸の奥に妙な落ち着かなさが生まれた。 必要とされた、と考えるには早い。 昨日のアルドリックは、契約の不正を見抜ける可能性があるなら調べる価値があると言っていただけだ。 それでも、父から「家に利益をもたらせない娘」と言われた翌朝に、他国の王から使者が来るという状況は、あまりに皮肉だった。「お嬢様」 後ろからデリックが遠慮がちに声をかける。「せめて中でお読みになっては。朝露も冷えております」 ミレイアは屋敷を振り返った。 ついさっき、この敷居をまたいだ時には、もう中へ戻らないつもりだった。 たった数歩しか離れていないのに、今さら戻るのは何となく嫌だった。「ここで読みます」 封筒の縁へ指をかけたところで、ふと止まる。「開けても構いませんか?」 使者が僅かに目を瞬いた。「もちろんでございます」「そうですよね」 自分でも可笑しくなった。 他人から手紙を渡される経験なら何度もある。なのに国王から届いたというだけで、開封にも許可が必要な気がしてしまう。 封蝋を割る。 中には厚手の便箋が一枚だけ入っていた。 仰々しい挨拶が何枚も続くのかと思ったが、文章は驚くほど簡潔だった。 ミレイア・セレス
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第5話 国外逃亡

第5話 国外逃亡 ノクシア使節館の空気は、先ほどまでより明らかに重くなっていた。 机の上には、王都北門から送られてきた出国制限申請書が広げられている。書面そのものは簡素だったが、そこに記された一文一文が、ミレイアの足首へ見えない鎖を巻きつけているように思えた。 婚約破棄契約に関する重要関係者につき、調査終了まで王国外への移動を禁ずる。 申請者はローデン侯爵家。 正式な神殿命令ではない。それでも侯爵家ほどの家格が国境管理局へ申請すれば、少なくとも事情確認が終わるまでは門を通れなくなる。「これ、カイラス本人が申請したのでしょうか」 ミレイアは書面を見たまま尋ねた。「署名はローデン侯爵本人だ」 アルドリックが答える。「カイラスではない」「お父上……」 少しだけ、胸の奥がほどけた。 それに気づいて、自分で嫌になる。 カイラスが自分を捨てる選択をしたことは変わらない。それでも、彼自身が逃げ道まで塞ごうとしたわけではないと分かって安堵してしまう自分が、まだどこかにいる。 人の気持ちは、決意を一つしたくらいではきれいに切り替わってくれないらしい。 アルドリックはそんなミレイアの顔を見ても何も言わず、申請書の末尾を指した。「問題はここだ」「神殿の副署?」「ああ。ローデン家単独の申請なら、俺の使節団に同行する君を止めるには少し弱い。だが月神殿の副神官が『調査への協力が必要』と追認している」「昨日、証人欄に名前があった副神官ですか?」「同一人物だ」 ミレイアはゆっくり顔を上げた。 昨日の破棄契約書には、証人として月神殿の副神官が署名していた。その同じ人物が、今度はミレイアの出国を止める書面に名を連ねている。「偶然にしては、できすぎていますね」「俺もそう思う」「では、私を国内に残して、何をしたいのでしょう」「君が昨日見つけたものを、これ以上掘らせたくない可能性はある」「でも、私自身にも能力のことはまだよく分かっていません」「それでも、相手はそう思っていないかもしれない」 アルドリックは紙を畳まなかった。 むしろ、何度も読み返している。「自分でも正体の分からない力を持つ人間というのは、使う側からすれば扱いづらい。だが隠したい側からすれば、もっと厄介だ。どこまで見えているのか判断できないからな」 その言い方に、ミレイアは無意
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第6話 狼王国ノクシア

第6話 狼王国ノクシア 馬車の側面へ突き刺さった矢が、細かく震えていた。 森の中から飛び出してきた男たちは、十人を超えている。全員が黒い布で顔を覆い、身につけている装備にも紋章らしいものはなかった。野盗に見せかけたいのだろうが、ミレイアの目には、どうにもそうは見えなかった。 動きが揃いすぎている。 剣を抜くタイミングも、馬車を囲む位置も、まるで何度も訓練してきた兵士のようだった。「窓から離れてください」 同乗していた女性騎士が素早く剣を抜き、ミレイアを座席の陰へ押し込んだ。「イレーネ様もこちらへ」「ええ」 女性官吏のイレーネは青ざめていたものの、取り乱してはいなかった。床近くへ身を屈めながらも、膝掛けをミレイアの肩へ被せる。「頭を守ってください。窓硝子が割れるかもしれません」「ありがとうございます」 礼を言った直後、外から金属同士がぶつかる甲高い音が響いた。 馬が嘶き、誰かが叫ぶ。 その声は一瞬で途切れた。 ミレイアは両手を胸の前で握り締めた。 何もできない。 そう思うと、悔しかった。 昨日までなら、こんな状況に巻き込まれること自体あり得なかった。守られる側でいることに疑問も持たなかっただろう。 けれど今は、自分を狙っているかもしれない相手と、命を懸けて戦っている人たちが外にいる。「私にできることはありませんか」 思わず尋ねると、女性騎士が振り返った。「今はここにいてくださることが一番助かります」「でも――」「護衛される側が勝手に外へ出ると、守る側は二倍困ります」 言い方は穏やかだったが、内容は明快だった。 ミレイアは口を閉じる。「……分かりました」「それで十分です」 直後、馬車が大きく傾いた。 イレーネが小さく悲鳴を上げる。 女性騎士が扉の取っ手を掴み、体勢を保つ。 外では怒号が飛び交っていた。「左から三人!」「弓兵を先に!」「王車へ近づけるな!」 ノクシア側の騎士たちは、明らかに襲撃へ慣れている。 指示が短く、互いの動きが噛み合っている。 その中に、聞き覚えのある低い声が混じった。「生け捕りを一人残せ。全員殺すな」 アルドリックだ。 ミレイアは思わず窓へ顔を向けた。「駄目です」 女性騎士に止められる。「見たいわけではありません。ただ、陛下が外に……」「陛下は、こういう時に
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第7話 最初の番契約事件

第7話 最初の番契約事件 ノクシア王都へ入ったのは、国境を越えてから四日目の午後だった。 途中の街道では襲撃者たちの尋問と警戒のため予定より進みが遅くなったものの、それ以降、新たな襲撃はなかった。捕らえた男たちは依頼主の名を知らず、金と指示書は仲介人を通して受け取ったと供述している。彼らが所持していた旧・月誓監査院の紋章についても、誰一人として由来を知らないと言い張った。 ただし、アルドリックは「知らない」と「話さない」を同じものとして扱わなかった。 王都へ着くまでに分かったのは、襲撃者たちがミレイアを殺すことを固く禁じられていたこと、身体を傷つけるのも極力避けろと命じられていたこと、そして捕らえた後は祖国へ連れ戻すのではなく、国境近くの廃修道院へ運ぶ予定だったことだった。 その先に誰が待っていたのかは、まだ分からない。 分からないことばかりが増えている。 それなのにミレイアは、以前ほど「分からない」ということを恐れなくなっていた。 分からないなら、一つずつ確かめればいい。 誰かにそう言われてから、まだ数日しか経っていないのに。「見えてきました」 向かいに座っていたイレーネの声で、ミレイアは窓の外へ目を向けた。 遠くに、雪を戴いた山々を背にして巨大な城壁が立っている。その中央には黒灰色の石で築かれた王城がそびえ、いくつもの尖塔の先で銀狼の旗が北風にはためいていた。「……大きい」 思わず声が漏れた。 生まれ育った王都にも立派な王城はあった。 だがノクシアの王都は雰囲気が違う。 美しさより、まず生き残るために造られた都市なのだと感じさせる。城壁は厚く、見張り塔の間隔も狭い。街へ入れば、建物は石造りが中心で、窓は小さく、どの屋根にも雪止めが付いている。 その一方で、通りには思った以上の活気があった。 市場では毛皮や香辛料、干し肉、金属製品が所狭しと並び、半獣化した商人たちが大声で客を呼び込んでいる。荷車を引く大男の背後には狼の尾が揺れ、走り回る子供たちは興奮すると耳まで出していた。「王都では半獣化して歩いても問題ないのですね」 ミレイアが尋ねると、イレーネは頷いた。「むしろ隠すほうが珍しいかもしれません。完全獣化は場所を選びますが、耳や尾程度なら日常の一部ですから」「私の国では、公式の場ではあまり出さない人が多かったです」
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第8話 誰も逆らえなかった伯爵

第8話 誰も逆らえなかった伯爵「これは契約ではありません。売買です」 言い切った瞬間、ミレイア自身の胸にも、その言葉の重さが落ちた。 部屋の空気が変わる。 エマは泣きながら息を呑み、ローデリクは眼鏡の奥で目を細めた。グレンは何も言わず、アルドリックだけが椅子に座ったまま、ブレン伯爵の反応を見ている。 一方の伯爵は、しばらくミレイアを睨んでいた。 怒鳴るかと思った。 しかし、そうはならなかった。 むしろ彼はゆっくりと息を吐き、先ほどまでの苛立ちを押し込めるように口元を整えた。「なるほど」 声は低かったが、落ち着いている。「陛下がお連れになった客人は、ずいぶんと勇ましい方らしい」「勇ましいつもりはありません」「では、無知なのだろう」 ミレイアの眉が僅かに動く。 ブレン伯爵は続けた。「そなたは国外から来たばかりだ。ノクシアの家制度も、番契約の歴史も、貴族の責任も知らない。その状態で、数十年この国に仕えてきた私を人身売買の当事者のように扱う。無知でなければ、よほど無礼だ」 言葉だけなら、理にかなって聞こえる。 少なくとも、怒声を上げるよりずっと厄介だった。 ミレイアはすぐには反論しなかった。 知らないのは事実だ。 この国の慣習を、自分はまだほとんど知らない。 そこを否定すれば、逆に自分の言葉まで軽くなる。「おっしゃる通りです」 ミレイアが答えると、伯爵は意外そうに目を細めた。「私は、この国について知らないことが多いです。ですから、慣習まで否定するつもりはありません。ただ、エマさんが拒絶していることと、その拒絶を消したように見える契約書が存在していることは、私が外国人であるかどうかとは別の問題だと思います」「思う、で国法を語るのか」「だから、法務院の方に確認しているのです」 ミレイアはローデリクを見る。「先ほど伺った条件が違うのであれば、訂正してください」 ローデリクは一瞬、伯爵とアルドリックを見比べた。 その間に、何か目に見えない重さがあることをミレイアは感じた。 そして理解する。 ブレン伯爵は、ただの金持ちではない。 この場にいる法務院の次席判事でさえ、言葉を選ばざるを得ないほどの相手なのだ。「法文上は」 ローデリクが慎重に口を開く。「先ほど申し上げた通りです。番契約における代理署名は、本人の明確
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第9話 契約書は嘘をつく

第9話 契約書は嘘をつく 翌朝、ミレイアが王城の法務資料室へ入った時、ローデリクはすでに机いっぱいに書類を広げていた。 窓の外には薄い雪が降っている。まだ積もるほどではないものの、石造りの王城は朝から底冷えしており、資料室の隅では小さな暖炉が赤々と燃えていた。 それでもローデリクは外套も脱がず、眉間に皺を寄せたまま一枚の帳簿を睨んでいる。「おはようございます」「おはようございます、ミレイア様。ちょうどよいところへ」「ちょうどよい?」「私一人で読んでいると、だんだん腹が立ってきまして」 昨日までの淡々とした印象からは珍しい言葉だった。「法務院の方でも腹を立てるのですね」「人間ですから」「最近、その言葉をよく聞きます」「陛下も同じことを?」「ええ。ただ、あの方の場合は狼族ですけれど」 ローデリクは一瞬きょとんとした後、眼鏡の奥で少しだけ笑った。「陛下相手にそれを言えるなら、思っていたよりずっと逞しい方ですね」「褒め言葉として受け取っておきます」「そうしてください」 机の上には、エマの父親の債務記録、ブレン伯爵家の出納簿の写し、契約申請の受付簿、そして月神殿から取り寄せた本人確認記録が並んでいた。 ミレイアは空いている椅子へ腰を下ろす。「何か分かったのですか」「かなり」 ローデリクは一冊の帳簿をこちらへ向けた。「まず、エマさんの父親が抱えていた借金です。総額は銀貨換算で七千二百枚。平民家庭が返せる金額ではありません」「そんなに……」「三年前から少しずつ増えている。最初は母親の治療費、その後は生活費と家賃、さらに利息ですね」「お母様は亡くなったと聞きました」「ええ。その治療が長引いたようです」 ミレイアは帳簿を眺めた。 数字の列は冷たい。 けれど、その裏には人の生活がある。 病気の妻。 借金を重ねる父親。 幼い子供たち。 そして十七歳の娘。「お父様も、最初からエマさんを売ろうとしたわけではないのですね」「おそらくは」 ローデリクは別の紙を出す。「ただし問題はここからです。三か月前、この債権が別の金融業者へ譲渡されています」「別の業者?」「名前だけなら民間の貸金業者です。しかし実質的な出資者を辿ると、ブレン伯爵家の関連商会に行き着く」 ミレイアは顔を上げた。「つまり、伯爵はエマさんのお父様の
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第10話 無能力者が大貴族を裁く日

第10話 無能力者が大貴族を裁く日 公開審理の日、王城の大審理院は朝から異様な熱気に包まれていた。 普段なら爵位継承や領地争いなど、限られた関係者しか足を運ばない場所だという。ところが今日は、傍聴席が開くより前から廊下に人が溢れ、貴族、神官、法務官だけではなく、王都の商人や職人、新聞を扱う書記まで詰めかけていた。 十七歳の侍女と五十二歳の伯爵。 父親の借金。 代理署名。 本人の知らないところで使われた血印。 そして、その契約の不正を見抜いたのが、国外から来たばかりの「獣化もできない無能力者の女」だという。 噂になるには十分すぎる材料だった。「帰りたくなってきました」 審理室へ続く控室で、ミレイアは正直に言った。 窓の外では薄い雪が降り続いているというのに、手のひらにはじっとりと汗をかいていた。 ニーナが後ろから髪を整えながら、鏡越しにこちらを見る。「昨日は『やめません』とおっしゃったそうではありませんか」「やめません。でも、やめたくなるのと、やめるのは別の話です」「なるほど」「そこは否定してください」「私に嘘をつかせないでくださいませ」 最近、周囲にこういう人間が増えた気がする。 誰の影響かは考えないことにした。 今日のミレイアは、王城から貸与された濃紺の法務官補佐服を着ていた。正式な官吏ではないため胸章は仮任命用の銀色だが、それでも昨日までとは違う。 誰かの婚約者として着飾るための服ではない。 家名を示すためでもない。 自分が仕事をするために渡された服だ。 その事実に気づくと、少しだけ背筋が伸びた。「ミレイア様」 ニーナが最後に襟元を整える。「よくお似合いです」「本当ですか?」「はい。ただ、顔はかなり緊張されています」「やっぱり」「耳があれば、たぶん伏せています」「私には出ませんよ」「ですから顔で分かります」「それはそれで困りますね」 ニーナが笑った。 控室の扉が叩かれる。「ミレイア」 アルドリックの声だった。 ニーナが慌てて一礼する。「陛下」「準備は?」「できています」 答えたものの、声は少し上ずった。 アルドリックはミレイアを一度見て、それから言った。「無理なら出なくてもいい」「昨日と話が違いませんか?」「逃げ道があると知った上で出るのと、逃げ道がないと思って出るの
last updateLast Updated : 2026-10-10
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