『運命の番に捨てられた私、狼王国の婚約契約を裁く女王になりました』

『運命の番に捨てられた私、狼王国の婚約契約を裁く女王になりました』

last updateLast Updated : 2026-11-02
By:  常陸之介寛浩Updated just now
Language: Japanese
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「無能力のお前を、妻にはできない」 運命の番であるカイラスから、大勢の貴族の前で捨てられたミレイア。獣化すらできない彼女は家族にも見放され、すべてを失った――。 しかし破棄された番契約書に触れた瞬間、ミレイアは気づく。その契約には、誰にも見抜けない「嘘」が隠されていた。 彼女の真の力は、番契約に潜む偽造、強制、裏切りを見抜く古代能力《誓約聴取》。 その才能を見抜いた冷徹な狼王アルドリックに招かれ、ミレイアは狼王国で番契約を裁く審理官となる。 虐げられた花嫁たちを救い、腐敗した貴族を裁き、やがて「月律の女王」と呼ばれるようになるミレイア。一方、彼女を捨てたカイラスは、失って初めて本物の番の価値に気づき始める。

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Chapter 1

第1話 運命の番に捨てられました

第1話 運命の番に捨てられました

「ミレイア・セレス。俺は今日、お前との番契約を結ばない」

 その言葉を聞いた瞬間、ミレイアは、聞き間違えたのだと思った。

 王都の月神殿、その中央大聖堂には、昼だというのに淡い月光を思わせる銀色の灯りが満ちている。天井から吊られた無数の水晶灯が、今日ここで新たに結ばれる番たちを祝福するように輝き、正装した貴族や神官たちの衣装には、狼族が神聖視する三日月の紋章が刺繍されていた。

 本来ならば、十八歳になったミレイアにとって、今日は人生で最も幸福な一日になるはずだった。

 幼い頃からずっと一緒だったカイラス・ローデンと、正式な「月誓契約」を結ぶ日。

 七年前、二人の手首に同じ銀色の番紋が現れた時、誰もが祝福してくれた。

 少なくとも、あの頃は。

「……カイラス?」

 名前を呼ぶだけで、声が妙に遠く聞こえた。

 祭壇の向こうに立つ青年は答えなかった。

 いつもならミレイアを見る灰褐色の瞳が、今日は一度もこちらを向かない。

 濃紺の礼装に身を包んだカイラスは、磨き上げられた黒い床だけを見つめていた。握り締めた右手だけが、不自然なほど固い。

 代わりに、彼の隣から柔らかな女の声がした。

「ミレイア様。突然のことで、おつらいお気持ちはよく分かりますわ」

 その声音があまりにも穏やかだったため、ミレイアは一瞬、自分が慰められているのかと思った。

 ヴィオラ・アルメネス。

 王国でも指折りの大公爵家に生まれ、希少な金狼への完全獣化能力を持つ令嬢。艶やかな蜂蜜色の髪には月石の髪飾りが輝き、白銀の式典衣装は、どう見てもただの参列者が着るものではない。

 花嫁の色だった。

 そこで初めて、ミレイアの胸の内に冷たいものが落ちた。

「どうして……ヴィオラ様が、そこにいらっしゃるのですか」

 聞きながら、答えを知りたくないと思った。

 けれどカイラスは、ようやく顔を上げた。

「ヴィオラと婚約するからだ」

 大聖堂のどこかで、息を呑む音がした。

 ひそやかな囁きが波のように広がっていく。

 ミレイアには、その一つ一つが聞こえてしまった。

「やはりね。ローデン家の跡取りが、獣化もできない娘と結婚するなんて無理だったのよ」

「でも、あの二人は真の番なのでしょう?」

「番だから何だというの。番紋だけでは領地は守れないわ」

「お気の毒に。棄て番になった女性なんて、もうまともな縁談は望めないでしょうに」

 誰も大きな声では言わない。

 それでも、聞かせる気がないとも思えなかった。

 ミレイアは両手を腹の前で重ねた。指先が震えているのが見えないよう、右手で左手を強く握る。

「昨日まで……何もおっしゃいませんでしたよね」

「言えば、お前は今日ここへ来なかっただろう」

「来ませんよ」

 思わず答えてから、ミレイアは自分でも驚いた。

 涙はまだ出なかった。

 代わりに、胸の奥から乾いた怒りが少しだけ顔を出した。

「婚約を破棄されるために、朝から母に髪を結ってもらって、父の用意した馬車に乗って、親族全員の前でこちらへ来る人間がどこにいるのですか。あなたが昨日のうちに話してくださっていれば、少なくとも私は、こんな格好で皆様の見世物になることはありませんでした」

 カイラスの眉が動いた。

「見世物にしたいわけじゃない」

「では、何のためですか」

「正式な手続きのためだ」

「それなら控室でできます」

「ミレイア」

「分かりません。私には、本当に分からないのです。七年間、私たちは番だと言われてきました。あなたも、ずっとそう言ってくれていましたよね」

 今度こそ、カイラスはミレイアを見た。

 一瞬だけ。

 その顔には、後ろめたさがあった。

 だからこそ、ミレイアは余計に苦しくなった。

 心から嫌われたのなら、まだ諦められたかもしれない。

 だが違う。

 彼は何かを捨てると決めて、その捨てる側にミレイアを選んだのだ。

「俺も……簡単に決めたわけじゃない」

 カイラスは低い声で言った。

「お前のことを嫌いになったわけでもない。だが俺はローデン侯爵家を継ぐ。北境の防衛にも関わる家だ。父上の代から財政は悪化しているし、隣領との境界争いも続いている。これから先、家を支える妻には、それ相応の力が必要なんだ」

「私には、その力がないと?」

 カイラスは黙った。

 その沈黙が答えだった。

 ミレイアは、自分の左手首を見た。

 薄い銀色の狼と三日月。

 カイラスの手首にも、まったく同じ紋様がある。

 間違いなく、二人は運命の番だった。

 それでも足りないらしい。

「俺は、お前を責めたいわけじゃない」

「では、誰を責めるのですか。獣化できない私ですか。それとも、私を番に選んだ月神様ですか」

「そういう言い方をするな」

 初めて、カイラスの声に苛立ちが混じった。

「俺だって苦しんだんだ。お前と結婚すれば、俺個人は幸せかもしれない。だが家はどうなる。領民はどうなる。ヴィオラと結婚すればアルメネス大公家の支援が得られる。金狼の血もローデン家に入る。次の世代には強い狼が生まれる可能性が高い。俺は自分一人の感情だけで生きていい立場じゃない」

 聞いているうちに、ミレイアの中で何かが少しずつ冷えていった。

 七年前。

 初めて番紋が現れた夜、十七歳だったカイラスは十一歳のミレイアの手を握って、「俺がずっと守る」と笑った。

 熱を出した時には薬草園から勝手に薬を取ってきて神官に叱られた。

 ミレイアが獣化できないと分かった時も、「俺には関係ない」と言ってくれた。

 あの記憶まで嘘だったとは思いたくなかった。

 けれど、人は変わる。

 あるいは、変わったのではなく、優先するものが増えただけなのかもしれない。

「そうですか」

 ようやく、それだけ言った。

 カイラスの顔に、ほんの少し安堵が浮かんだ。

 その表情を見た瞬間、ミレイアは傷ついた。

 きっと彼は、ミレイアが理解してくれると思っていたのだ。

 いつものように。

 幼い頃から、カイラスが忙しければ待った。約束を破られても責めなかった。彼の母に「侯爵夫人になるなら我慢を覚えなさい」と言われれば、歯を食いしばった。

 だから今回も、最後には物分かりよく頷くと思われていた。

「でしたら、一つだけ教えてください」

「何だ」

「ヴィオラ様とは、いつからこの話を?」

 ヴィオラの唇が僅かに動いた。

 カイラスは答えるまでに少し時間を置いた。

「三か月前からだ」

 三か月。

 ミレイアは心の中で繰り返した。

 三か月前。

 カイラスはミレイアの誕生日に首飾りを贈ってくれた。

 一か月前には、式典後に住む屋敷について話していた。

 十日前には、「忙しくなるが、式が終われば少しゆっくりできる」と笑った。

「三か月もあったのですね」

「……ああ」

「私に話す時間が」

「ミレイア」

「いえ、もう結構です」

 自分でも驚くほど静かな声だった。

 泣いたら負けだとは思わない。

 けれど、今だけは泣きたくなかった。

 ヴィオラが一歩前へ出た。

「ミレイア様。カイラス様をあまり責めないでくださいませ。わたくしも最初は迷いました。お二人が番であることは存じていましたから。でも、家同士の将来を考えれば、感情だけでは決められないこともございますでしょう?」

 ミレイアは彼女を見た。

「ヴィオラ様は、カイラスを愛していらっしゃるのですか」

 予想していなかったのか、ヴィオラは一瞬だけ目を見開いた。

 しかしすぐに優雅な微笑を作る。

「もちろんですわ」

「いつから?」

「それを、今ここで申し上げる必要があります?」

「ありません。ただ、知りたくなっただけです」

 ミレイアは少しだけ笑った。

「私だけが、何も知らなかったようですから」

 ヴィオラの笑みがわずかに硬くなった。

 その時、祭壇横に控えていた神官長が咳払いをした。

「これ以上、式典を混乱させるわけには参りません。ローデン侯爵家より提出された番契約破棄申請は、必要な署名、血印、証人記録のすべてを満たしております。ミレイア・セレス嬢、こちらへ」

 銀の盆に一枚の羊皮紙が載せられていた。

 番契約破棄証書。

 ミレイアはその言葉を見ただけで、胃の奥が縮むのを感じた。

「私の署名は必要ないのですか」

「拒絶する側が規定の補償金を支払い、神殿が正当な理由を認めた場合、被拒絶側の署名は必須ではありません」

「正当な理由とは?」

 神官長は少し困ったような顔をした。

「能力差、家格、後継者問題などを総合的に勘案しております」

 なるほど、とミレイアは思った。

 何とも便利な規則だった。

 運命の番は神聖だと教えられてきた。

 番を裏切れば月神の加護を失うとも聞かされてきた。

 だが、有力な家同士の都合が絡むと、その神聖さにも例外が生まれるらしい。

「最後に、破棄内容を確認してください」

 神官長から羊皮紙を差し出される。

 受け取ろうとした瞬間、カイラスが言った。

「ミレイア」

 彼女は顔を向けなかった。

「補償については、できる限りのことをする。屋敷も用意するし、一生困らないだけの金も――」

「いりません」

「意地を張るな」

「意地ではありません。あなたのお金で暮らしたら、毎朝目を覚ますたびに、これは私を捨てた代金なのだと思い出すことになります。それは少し、つらすぎます」

「だが、棄て番になったお前が今後どうなるか分かっているのか?」

 その言葉は、心配から出たのだろう。

 だからこそ残酷だった。

 周囲のざわめきが、再び耳へ刺さる。

 棄て番。

 一度番に拒絶された者。

 番制度を何より重んじるこの国で、その烙印は特に女性に厳しい。

 再婚を嫌がる家は多い。子供を望まれなくなることもある。社交界では「番にも選ばれなかった女」と囁かれ、生涯を親族の庇護下で過ごす者もいる。

 カイラスはその未来を知りながら、ミレイアを捨てる。

 そして、心配までしてくれる。

 なんて人間らしく、勝手なのだろう。

「分かっています」

 ミレイアは答えた。

「あなたがそうなると分かっていて選んだのですから、私も受け入れます。ただし、その後の生き方まであなたに面倒を見ていただくつもりはありません」

 カイラスが何か言おうとした。

 その前に、ミレイアは羊皮紙へ手を伸ばした。

 指先が触れた。

 その瞬間だった。

 ――ギィィ……。

 耳の奥を鉄の爪で掻かれたような音がした。

「……っ」

 ミレイアは反射的に手を引いた。

「どうしました?」

 神官長が眉を寄せる。

「今……音が」

「音?」

 周囲を見回した。

 誰も反応していない。

 水晶灯が微かに鳴る音でも、扉が軋んだ音でもない。

 確かに羊皮紙から聞こえた。

 ミレイアは恐る恐る、もう一度触れる。

 今度ははっきりした。

 低く濁った音が三つ、重なっている。

 一つは細い糸が無理やり引きちぎられるような音。

 一つは水の底から金属を叩くような鈍い響き。

 そしてもう一つ。

 泣き声に似ていた。

 言葉ではない。

 それなのに、なぜか意味が分かった。

 違う。

 これは違う。

「ミレイア?」

 カイラスの声も、もう遠かった。

 彼女は羊皮紙を見つめた。

 署名。

 カイラス・ローデン。

 ヴィオラ・アルメネス。

 神官長。

 二名の証人。

 そして下部には鮮紅色の血印。

 形式上、何もおかしくない。

 けれど。

 ミレイアは幼い頃から書類を読むのが好きだった。父の執務室に入り浸り、帳簿の数字が一桁合わないだけでも気になって仕方がない子供だった。

 だから、違和感を無視できなかった。

 カイラスの署名の最後の払い。

 血印の色。

 証人記録に記載された時刻。

 それぞれが、ごく僅かに噛み合っていない。

「神官長様」

「何でしょう」

「この血印は、いつ押されたものですか」

「申請書類が提出された昨夜です」

「カイラス本人が?」

「当然でしょう」

 ミレイアはカイラスを見る。

「昨夜、あなたはどこにいました?」

「何を言っている」

「お願いです。答えてください」

 困惑しながらも、カイラスは答えた。

「王城だ。北境会議が長引いて、日付が変わる頃までいた」

 大聖堂の空気が少し変わった。

 ミレイアは羊皮紙へ目を戻す。

 血印欄の記録時刻。

 昨夜、二十二時十二分。

 王城から月神殿までは、馬車でも三十分以上かかる。

「では、これは?」

 ミレイアが示すと、神官長の顔から僅かに色が引いた。

「それは……申請手続き上の記録で、実際の押印時刻と多少ずれることはあります」

「多少、ですか」

「ミレイア、何が言いたい」

 カイラスの声に苛立ちより困惑が増している。

 ミレイア自身にも分からなかった。

 ただ、羊皮紙から伝わる異様な感覚だけは消えない。

 むしろ、細部を見るほど強くなる。

 署名。

 血印。

 証人記録。

 三つ。

 まるで、羊皮紙そのものが教えてくれている。

「この契約には……」

 声が震えた。

 言っていいのだろうか。

 この場には大公爵家も、侯爵家も、高位神官もいる。

 自分は今しがた捨てられた、無能力者の伯爵令嬢にすぎない。

 ここで妙なことを言えば、未練から騒ぎを起こした哀れな女として笑われるだけかもしれない。

 それでも。

 おかしいものを、おかしくないふりはできなかった。

 ミレイアは顔を上げた。

「この契約には、三つの嘘があります」

 静まり返った。

 先ほどまで彼女を憐れみ、嘲笑していた貴族たちまで言葉を失っている。

 最初に笑ったのはヴィオラだった。

「まあ……ミレイア様。お気持ちは分かりますけれど、さすがにそれは――」

「その話、詳しく聞かせてもらおう」

 低い男の声が、大聖堂の後方から響いた。

 誰かが息を呑む。

 次の瞬間、参列者たちが一斉に道を空けた。

 黒銀の髪。

 灰青色の瞳。

 漆黒の礼装の肩には、北方の大国ノクシア王家を示す銀狼の紋章がある。

 ミレイアも肖像画でなら知っていた。

 狼王国ノクシアの若き国王。

 アルドリック・ノクス。

 彼はゆっくりと祭壇へ歩み寄ると、誰よりも静かな顔で、ミレイアの手にある破棄契約書へ目を向けた。

「今、三つの嘘があると言ったな」

「……はい」

 喉が乾いた。

 けれど、アルドリックは笑わなかった。

 憐れむこともしなかった。

 まるで初めてこの場で、ミレイアの言葉そのものを聞こうとする人に出会ったような気がした。

 アルドリックは彼女を真正面から見据えた。

「その三つを、俺の前で証明できるか?」

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第7話 最初の番契約事件
第7話 最初の番契約事件 ノクシア王都へ入ったのは、国境を越えてから四日目の午後だった。 途中の街道では襲撃者たちの尋問と警戒のため予定より進みが遅くなったものの、それ以降、新たな襲撃はなかった。捕らえた男たちは依頼主の名を知らず、金と指示書は仲介人を通して受け取ったと供述している。彼らが所持していた旧・月誓監査院の紋章についても、誰一人として由来を知らないと言い張った。 ただし、アルドリックは「知らない」と「話さない」を同じものとして扱わなかった。 王都へ着くまでに分かったのは、襲撃者たちがミレイアを殺すことを固く禁じられていたこと、身体を傷つけるのも極力避けろと命じられていたこと、そして捕らえた後は祖国へ連れ戻すのではなく、国境近くの廃修道院へ運ぶ予定だったことだった。 その先に誰が待っていたのかは、まだ分からない。 分からないことばかりが増えている。 それなのにミレイアは、以前ほど「分からない」ということを恐れなくなっていた。 分からないなら、一つずつ確かめればいい。 誰かにそう言われてから、まだ数日しか経っていないのに。「見えてきました」 向かいに座っていたイレーネの声で、ミレイアは窓の外へ目を向けた。 遠くに、雪を戴いた山々を背にして巨大な城壁が立っている。その中央には黒灰色の石で築かれた王城がそびえ、いくつもの尖塔の先で銀狼の旗が北風にはためいていた。「……大きい」 思わず声が漏れた。 生まれ育った王都にも立派な王城はあった。 だがノクシアの王都は雰囲気が違う。 美しさより、まず生き残るために造られた都市なのだと感じさせる。城壁は厚く、見張り塔の間隔も狭い。街へ入れば、建物は石造りが中心で、窓は小さく、どの屋根にも雪止めが付いている。 その一方で、通りには思った以上の活気があった。 市場では毛皮や香辛料、干し肉、金属製品が所狭しと並び、半獣化した商人たちが大声で客を呼び込んでいる。荷車を引く大男の背後には狼の尾が揺れ、走り回る子供たちは興奮すると耳まで出していた。「王都では半獣化して歩いても問題ないのですね」 ミレイアが尋ねると、イレーネは頷いた。「むしろ隠すほうが珍しいかもしれません。完全獣化は場所を選びますが、耳や尾程度なら日常の一部ですから」「私の国では、公式の場ではあまり出さない人が多かったです」
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第8話 誰も逆らえなかった伯爵
第8話 誰も逆らえなかった伯爵「これは契約ではありません。売買です」 言い切った瞬間、ミレイア自身の胸にも、その言葉の重さが落ちた。 部屋の空気が変わる。 エマは泣きながら息を呑み、ローデリクは眼鏡の奥で目を細めた。グレンは何も言わず、アルドリックだけが椅子に座ったまま、ブレン伯爵の反応を見ている。 一方の伯爵は、しばらくミレイアを睨んでいた。 怒鳴るかと思った。 しかし、そうはならなかった。 むしろ彼はゆっくりと息を吐き、先ほどまでの苛立ちを押し込めるように口元を整えた。「なるほど」 声は低かったが、落ち着いている。「陛下がお連れになった客人は、ずいぶんと勇ましい方らしい」「勇ましいつもりはありません」「では、無知なのだろう」 ミレイアの眉が僅かに動く。 ブレン伯爵は続けた。「そなたは国外から来たばかりだ。ノクシアの家制度も、番契約の歴史も、貴族の責任も知らない。その状態で、数十年この国に仕えてきた私を人身売買の当事者のように扱う。無知でなければ、よほど無礼だ」 言葉だけなら、理にかなって聞こえる。 少なくとも、怒声を上げるよりずっと厄介だった。 ミレイアはすぐには反論しなかった。 知らないのは事実だ。 この国の慣習を、自分はまだほとんど知らない。 そこを否定すれば、逆に自分の言葉まで軽くなる。「おっしゃる通りです」 ミレイアが答えると、伯爵は意外そうに目を細めた。「私は、この国について知らないことが多いです。ですから、慣習まで否定するつもりはありません。ただ、エマさんが拒絶していることと、その拒絶を消したように見える契約書が存在していることは、私が外国人であるかどうかとは別の問題だと思います」「思う、で国法を語るのか」「だから、法務院の方に確認しているのです」 ミレイアはローデリクを見る。「先ほど伺った条件が違うのであれば、訂正してください」 ローデリクは一瞬、伯爵とアルドリックを見比べた。 その間に、何か目に見えない重さがあることをミレイアは感じた。 そして理解する。 ブレン伯爵は、ただの金持ちではない。 この場にいる法務院の次席判事でさえ、言葉を選ばざるを得ないほどの相手なのだ。「法文上は」 ローデリクが慎重に口を開く。「先ほど申し上げた通りです。番契約における代理署名は、本人の明確
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第9話 契約書は嘘をつく
第9話 契約書は嘘をつく 翌朝、ミレイアが王城の法務資料室へ入った時、ローデリクはすでに机いっぱいに書類を広げていた。 窓の外には薄い雪が降っている。まだ積もるほどではないものの、石造りの王城は朝から底冷えしており、資料室の隅では小さな暖炉が赤々と燃えていた。 それでもローデリクは外套も脱がず、眉間に皺を寄せたまま一枚の帳簿を睨んでいる。「おはようございます」「おはようございます、ミレイア様。ちょうどよいところへ」「ちょうどよい?」「私一人で読んでいると、だんだん腹が立ってきまして」 昨日までの淡々とした印象からは珍しい言葉だった。「法務院の方でも腹を立てるのですね」「人間ですから」「最近、その言葉をよく聞きます」「陛下も同じことを?」「ええ。ただ、あの方の場合は狼族ですけれど」 ローデリクは一瞬きょとんとした後、眼鏡の奥で少しだけ笑った。「陛下相手にそれを言えるなら、思っていたよりずっと逞しい方ですね」「褒め言葉として受け取っておきます」「そうしてください」 机の上には、エマの父親の債務記録、ブレン伯爵家の出納簿の写し、契約申請の受付簿、そして月神殿から取り寄せた本人確認記録が並んでいた。 ミレイアは空いている椅子へ腰を下ろす。「何か分かったのですか」「かなり」 ローデリクは一冊の帳簿をこちらへ向けた。「まず、エマさんの父親が抱えていた借金です。総額は銀貨換算で七千二百枚。平民家庭が返せる金額ではありません」「そんなに……」「三年前から少しずつ増えている。最初は母親の治療費、その後は生活費と家賃、さらに利息ですね」「お母様は亡くなったと聞きました」「ええ。その治療が長引いたようです」 ミレイアは帳簿を眺めた。 数字の列は冷たい。 けれど、その裏には人の生活がある。 病気の妻。 借金を重ねる父親。 幼い子供たち。 そして十七歳の娘。「お父様も、最初からエマさんを売ろうとしたわけではないのですね」「おそらくは」 ローデリクは別の紙を出す。「ただし問題はここからです。三か月前、この債権が別の金融業者へ譲渡されています」「別の業者?」「名前だけなら民間の貸金業者です。しかし実質的な出資者を辿ると、ブレン伯爵家の関連商会に行き着く」 ミレイアは顔を上げた。「つまり、伯爵はエマさんのお父様の
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第10話 無能力者が大貴族を裁く日
第10話 無能力者が大貴族を裁く日 公開審理の日、王城の大審理院は朝から異様な熱気に包まれていた。 普段なら爵位継承や領地争いなど、限られた関係者しか足を運ばない場所だという。ところが今日は、傍聴席が開くより前から廊下に人が溢れ、貴族、神官、法務官だけではなく、王都の商人や職人、新聞を扱う書記まで詰めかけていた。 十七歳の侍女と五十二歳の伯爵。 父親の借金。 代理署名。 本人の知らないところで使われた血印。 そして、その契約の不正を見抜いたのが、国外から来たばかりの「獣化もできない無能力者の女」だという。 噂になるには十分すぎる材料だった。「帰りたくなってきました」 審理室へ続く控室で、ミレイアは正直に言った。 窓の外では薄い雪が降り続いているというのに、手のひらにはじっとりと汗をかいていた。 ニーナが後ろから髪を整えながら、鏡越しにこちらを見る。「昨日は『やめません』とおっしゃったそうではありませんか」「やめません。でも、やめたくなるのと、やめるのは別の話です」「なるほど」「そこは否定してください」「私に嘘をつかせないでくださいませ」 最近、周囲にこういう人間が増えた気がする。 誰の影響かは考えないことにした。 今日のミレイアは、王城から貸与された濃紺の法務官補佐服を着ていた。正式な官吏ではないため胸章は仮任命用の銀色だが、それでも昨日までとは違う。 誰かの婚約者として着飾るための服ではない。 家名を示すためでもない。 自分が仕事をするために渡された服だ。 その事実に気づくと、少しだけ背筋が伸びた。「ミレイア様」 ニーナが最後に襟元を整える。「よくお似合いです」「本当ですか?」「はい。ただ、顔はかなり緊張されています」「やっぱり」「耳があれば、たぶん伏せています」「私には出ませんよ」「ですから顔で分かります」「それはそれで困りますね」 ニーナが笑った。 控室の扉が叩かれる。「ミレイア」 アルドリックの声だった。 ニーナが慌てて一礼する。「陛下」「準備は?」「できています」 答えたものの、声は少し上ずった。 アルドリックはミレイアを一度見て、それから言った。「無理なら出なくてもいい」「昨日と話が違いませんか?」「逃げ道があると知った上で出るのと、逃げ道がないと思って出るの
last updateLast Updated : 2026-10-10
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