All Chapters of あなたを愛した十年は、もう終わった: Chapter 1 - Chapter 10

11 Chapters

第1話

離婚まで残されたこの30日間、私は朗真と一緒に行った思い出の場所を巡り、二人で座った席につき、彼の好きだった料理を注文して、かつて二人でしたことを一つずつ繰り返した。そして、そのたびに撮った写真や動画を彼に送った。【もう一度だけ昔のことを思い出してくれない?】けれど、彼から返事が来ることは一度もなかった。最後の日、私はもう外へは出ず、大学時代に使っていた古いスマホを引っ張り出した。トーク履歴を遡れば遡るほど、そこには私を愛していた頃の朗真がいた。どんなにくだらないことを聞いても、彼はいつだって真剣に答えてくれた。私が何気なく雲の写真を一枚送っただけでも、【君と一緒に見たい】と返してくれていた。そしてついに、私たちが付き合い始めた日まで遡った。あの夜、彼は窓の外に広がる夜景の写真を送ってきて、もう家に着いたと教えてくれた。思わず口元がほころんだ。けれど、その写真を開いた瞬間、私は凍りついた。窓ガラスに映り込んだ景色の隅に、一人の女が彼の肩にもたれかかっていた。その手首につけていたのは、私が冴香に贈ったお揃いのブレスレットだった。――そうだったんだ。彼女が何度も私に諦めるよう勧めていたのは、ずっと私が自分から身を引き、朗真のそばから消えるのを待っていたからだった。私はしばらく呆然と座り込んだあと、朗真にメッセージを一通送った。【もうこれ以上待つ必要はない。離婚しよう】メッセージを送ってから1分もしないうちに、朗真から電話がかかってきた。この30日間で、彼が私にすぐ反応したのは初めてだった。画面に浮かぶ彼の名前を見つめても、胸にはもう何の期待も湧かなかった。電話に出ると、彼は少し黙ったあと、低い声で言った。「寧々、今度は何をするつもりだ?」思わず笑ってしまった。ようやく私が離婚に同意したというのに、彼には、それが私がこの結婚を諦めたからではなく、また何か騒ぎを起こそうとしているようにしか思えないらしい。古いスマホの画面はまだ明るく、あの写真が目の前に映し出されていた。窓ガラスの反射の中で、冴香は彼の肩にもたれかかり、その手首には、私がこの手で彼女につけてあげたお揃いのブレスレットがあった。あの日、ブレスレットを贈ったとき、私は笑いながら言った。「この先、私が結婚して家庭を持っても、
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第2話

冴香の家には、これまで何度も足を運んだことがある。彼女は静かな暮らしが好きだから両親とは一緒に住みたくないし、恋愛にも興味がなく、一人で気楽に暮らすのが性に合っていると言っていた。あの頃、私が少しでも落ち込むと、冴香はいつも自分の家に呼んでくれた。温かいスープを作って、夜が明けるまでずっとそばにいてくれた。私は何度となく、あのソファに座って息もできなくなるほど泣いた。けれど今、こうしてその家の前に立ってみると、すべてがひどく皮肉に思えた。何度もインターホンを鳴らし、しばらくすると、ようやく中から足音が聞こえてきた。ドアが開いた瞬間、冴香は真っ青な顔で私を見つめた。彼女は男物のコートを羽織っていた。そのコートには見覚えがあった。去年の冬、私が朗真のために買ったものだった。彼は厚すぎて動きづらいと言い、一度袖を通したきり、二度と着ようとしなかった。気に入らなかったわけじゃなかったんだ。とっくに別の女へ渡していただけだった。冴香の目に、一瞬動揺が走った。「寧々、どうしてここに……?」私は答えず、彼女の向こうにある部屋の中へ目を向けた。ダイニングテーブルには二人分の食器と箸が並び、スープからはまだ湯気が立っている。玄関の棚には、朗真がいつも使っている車のキーまで置かれていた。冴香は目を赤くし、私の手を取ろうとした。「寧々、お願い、話を聞いて」私は一歩後ろへ下がり、その手を避けた。「何度も病院に付き添って、私が死にたいって話すのを聞いてたとき……何を考えてたの?」冴香の目から、堰を切ったように涙がこぼれ落ちた。「寧々……違うの、そんなつもりじゃなかったの」彼女を見つめ、震える声で言った。「冴香、私が聞いてるのはそんなことじゃない。この3年間、泣いてる私を抱きしめてたとき、一瞬でも私に申し訳ないって思ったことはあった?」彼女の顔からさらに血の気が引いた。唇がわずかに動いたものの、声にはならなかった。私は手を上げ、彼女の頬を平手で打った。乾いた音が響き渡り、部屋の中が死んだように静まり返った。次の瞬間、朗真が寝室から飛び出してきた。彼は冴香を自分の背後に庇った。「寧々、いい加減にしろ!」その声には怒りが滲み、私を見るその目には、まるで理不尽に騒ぎ立てる他人を見るかのような苛立ちと嫌
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第3話

家に戻る頃には、もう夜が明けかけていた。部屋の中はひどく散らかっていた。ローテーブルの上には、この30日間、あちこちを巡って持ち帰ってきたレストランのレシートや、二人で撮った写真をプリントしたものが、まだそのまま置かれている。その一枚一枚が、この30日間ずっと現実から目を背け、自分を騙し続けていた私を嘲笑っているように見えた。私は床にしゃがみ込み、引き出しの一番奥にしまってあった書類袋を取り出した。中に入っていたのは、3年前の診断書だった。紙はすでに少し黄ばんでいたが、一番上に記された診断内容は今でもはっきりと読めた。重度の抑うつ状態。流産後、子宮内容除去術施行。指先がその文字の上で止まった瞬間、あの日の血に染まった光景が鮮明に蘇った。あの頃、私は自分が妊娠していると知ったばかりだった。医師は検査結果を渡しながら、まだ妊娠初期だから無理をしないようにと笑顔で言ってくれた。私はその一枚の紙を大切に胸に抱き、病院を出たときには、まるで雲の上を歩いているような気持ちだった。朗真を驚かせたかった。けれど、そのことを彼に伝えるより先に、ホテルの前で彼の車を見つけ、私はホテルの中へ入った。ロビーに入ると、ちょうどエレベーターに乗り込む彼の姿が見えた。私は咄嗟にあとを追い、少し距離を置いたまま同じ階まで上がった。廊下の奥へ消えていく彼の姿を見届けてから、私は震える手でスマホを取り出し、彼に電話をかけた。すると、廊下の先にある一室から、聞き慣れた着信音が聞こえてきた。やがてドアが開き、そこには明らかに動揺した様子の彼が立っていた。そのとき、廊下の先にある非常階段へ駆け込んでいく女の後ろ姿が見えた。顔までは見えなかったが、すれ違いざまに漂ってきた香水の香りには、どこか覚えがあった。私は咄嗟に女のあとを追った。朗真もすぐに追いかけてきた。非常階段の前で振り返り、私は彼の袖を掴んで、震える声で問い詰めた。「あの女、誰なの?」朗真の表情が険しくなった。「俺を尾行したのか?」「あの女が誰なのかって聞いてるの!」彼は私の手を振り払い、冷たい声で言い放った。「いい加減、狂ったみたいに騒ぐのはやめてくれないか?」私はよろめきながら後ずさりし、足を踏み外して、そのまま非常階段から転げ落ちた。下腹部
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第4話

退院した日は、空一面を厚い雲が覆っていた。私は誰にも知らせず、一人でタクシーに乗って家へ帰った。リビングは、私が運び出されたときのままだった。薬の箱は床に散らばり、診断書も出しっぱなしで、ソファのクッションも斜めに崩れている。まるで、あの日の惨状が誰にも片づけられないまま、そこに残されているようだった。私はしゃがみ込み、一つずつ床の物を拾い上げた。それからスーツケースを引っ張り出し、パスポートや衣類を詰めていった。古いスマホもスーツケースの内ポケットへしまったところで、インターホンが鳴った。ドアを開けると、そこには母と兄が立っていた。母の目は赤く腫れていた。けれど、私の手首に巻かれた包帯を見るなり、最初に口にしたのは「痛くないの?」という言葉ではなかった。「寧々、いつまでこんな騒ぎを続けるつもりなの?」私は一瞬、言葉を失った。母の後ろに立つ兄も眉間に深く皺を寄せ、その声には隠しきれない疲労が滲んでいた。「家族みんなで3年間、お前の騒ぎに付き合ってきたんだ。もう十分だろ」二人を見つめていると、胸が少しずつ締めつけられていった。3年前、私が流産したばかりの頃、母はずっとそばに付き添い、私の手を握りながら、まともに言葉も出ないほど泣いていた。朗真をひどい男だと罵り、私がどんな状態になっても絶対にそばにいると言ってくれた。兄も朗真のもとへ乗り込み、彼を思いきり殴った。あのときの私は、たとえ世界中に裏切られても構わないと思っていた。私にはまだ、家族がいるのだから。なのに今、その家族にとってさえ、私はいまだに騒ぎを起こし続けているだけの人間だった。私は震える声で尋ねた。「じゃあ……二人とも、とっくにあの女が冴香だって知ってたの?」リビングが突然、静まり返った。母は一瞬目を逸らし、兄は唇を引き結んだまま何も言わなかった。その沈黙は、何よりも残酷な肯定だった。やがて母が小さな声で言った。「冴香だってつらかったのよ。この数年、ずっとあなたの面倒を見てくれたでしょう。あの子があなたを大切に思っている気持ちは本物なの」「本物?」私は母を見上げた。胸の奥が痛みを通り越して痺れていく。「3年前、私が手術室から出てきたとき、朗真はいなかった。冴香が私の手を握って、『寧々、私がいるから』って言
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第5話

病院の廊下は、白い照明が目に痛いほど明るかった。誰もが冴香のそばに集まっていた。朗真は彼女の手を握り、母は白湯を用意し、兄は受付や会計の手続きに追われている。父は病室の入り口に立ち、険しい顔で私に釘を刺した。「もう妊婦を刺激するようなことはするな」私は一人、廊下の端に立っていた。手首はまだ痛んでいた。退院したばかりの傷口は、あちこち動き回ったせいで再び血が滲み、真っ白なガーゼには、うっすらと赤い染みが滲んでいた。けれど、誰も気づかなかった。ふと、3年前に流産した日のことを思い出した。あのとき病室にあったのは、すっかり冷めた雑炊と、鼻をつくような消毒液の匂いだけだった。朗真は病室の外に立ったまま中へ入ろうとせず、母は泣き疲れてベッドのそばに突っ伏したまま眠っていた。そんな中、冴香だけが私の手を握り、何度も「ずっとそばにいるから」と言ってくれた。あの頃の私は、自分はもう十分すぎるほど惨めだと思っていた。けれど今日になって、ようやく分かった。もっと惨めだったのは、あのとき唯一縋ることのできた人まで、私を騙していたことだった。医師が処置室から出てきて、ひとまずお腹の赤ちゃんは無事だと告げた。その場にいた全員が安堵した。朗真は目を閉じ、張り詰めていた肩からようやく力を抜いた。母は小さな声で「よかった」と繰り返し、兄も壁にもたれながら長く息を吐いた。私はそんな彼らの後ろに立ち、まるでそこにいる必要のない影のようだった。目を覚ました冴香は、ずっと涙を流していた。やがて私を見ると、弱々しい声で言った。「寧々、私のことを憎んでるのは分かってる。でも、子供には何の罪もないの」彼女がそう言い終えると、朗真が私を振り返った。その眼差しは、見知らぬ人のように冷たかった。「謝れ」一瞬、聞き間違いかと思った。「……私に、彼女に謝れって言ってるの?」朗真は眉をひそめ、冷えきった声で言った。「君が騒がなければ、彼女だってこんなことにはならなかった」胸を締めつけられたように息が詰まり、しばらくしてようやく声が出た。「朗真、私のところに勝手に来たのは冴香のほうよ」すると母まで目を赤くしながら歩み寄り、私の袖を掴んだ。「寧々、お願いだから謝って。お母さんからも頼むわ。もうこれ以上騒がないで。冴香
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第6話

飛行機がセレヴィアに着陸したとき、空はまだ夜明け前の薄暗さに包まれていた。窓の外には、灰青色に沈む雪山の稜線が浮かび、空港では私には聞き取れない言葉のアナウンスが何度も流れていた。私はスーツケースを引きながら出口へ向かった。袖口が擦れるたび、手首の傷がひりひりと痛んだ。空港を出る前、いったんスマホの電源を入れてみると、朗真からは10数回も電話がかかってきていた。母からも5回着信が入っていた。兄からもメッセージが届いていた。【どこに行ったんだ?】【また意地を張ってないで、これを見たら家に帰ってこい】その文字を眺めていると、ひどく皮肉に思えた。病院では、私が騒いでいると言った。私が人を傷つけたと言った。それなのに今度は、私が本当に姿を消してしまうことを恐れている。あの人たちが望んでいたのは、最初から私が元気に生きていくことなんかじゃなかった。ただ、取り返しがつかなくなるほど騒ぎを大きくしてほしくなかっただけなのだ。私はスマホからSIMカードを抜き取り、待合ロビーのゴミ箱へ捨てた。列車が雪山の奥深くへと入っていく頃、窓にもたれていた私は、ようやく今になって涙を流した。声を上げて泣いたわけではない。ただ、涙が次から次へと頬を伝い、いくら拭っても止まらなかった。朗真が初めて私を雪景色に連れ出してくれた日のことを思い出した。大学時代の冬だった。あの年は珍しく、大学のある街にも大雪が降った。薄手のコートしか着ていなかった私は、それでも嬉しくてグラウンドまで走っていった。朗真は自分のマフラーを私の首に巻きながら、笑って言った。「寧々、いつか本物の雪山を見せてやるよ」あの頃の私は、その言葉を信じていた。信じていたからこそ、その後も冬が来るたび、あの約束を思い出しては何度も期待した。けれど、最後まで待ち続けた私に残ったのは、すっかり空っぽになった心だけだった。小さな町に着くと、宿の女将が迎えに来てくれた。同じ国の人で、小林真奈美(こばやし まなみ)という50代くらいの女性だった。話し方がとても穏やかで、私の顔色が悪いことに気づくと、温かいミルクの入ったカップを手渡してくれた。「一人で来たの?」私は頷いた。彼女はそれ以上何も聞かず、ただ優しく言った。「まずはゆっくり眠りなさ
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第7話

朗真は、すぐには帰らなかった。町に一軒しかないホテルに泊まることにしたらしい。朝食を運んできてくれた真奈美が、小声で教えてくれた。「下にいるあの人、朝からずっと待ってるわよ」私は俯いたままサンドイッチを口に運び、何も言わなかった。真奈美はしばらく私を見つめたあと、小さくため息をついた。「会いたくないなら、会わなくていいのよ。こんな遠くまで来たんだもの。ここに来てまで、自分の気持ちを押し殺すことなんてないわ」指先がぴたりと止まり、また目頭が熱くなりかけた。これまで周りの人たちは、みんな私に、もっと大人になれと言った。頭を下げろと言った。これ以上騒ぎを大きくするなと言った。それなのに、知り合ってまだ数日しか経っていない人だけが、会いたくないなら会わなくていいと言ってくれた。午前10時、私は傷の処置をしてもらうため、診療所へ向かった。町の診療所はそれほど大きくなく、診てくれたのは桐谷知宏(きりたに ともひろ)という私と同じ国の出身の医師だった。私の手首の傷を見ると、彼の手がほんの一瞬止まった。けれど、何も詮索せず、ただ静かな声で尋ねた。「まだ痛みますか?」私は首を横に振った。知宏は手首のガーゼを新しいものに取り替えてくれた。その手つきはとても優しかった。「傷の治りは悪くありません。ただ、かなり体力が落ちていますから、しばらくは一人で遠出をしないようにしてください」私は目を伏せたまま、小さく返事をした。彼は処方箋を書き終え、紙を私に差し出したところで、ふと口を開いた。「江田さん、傷にはすぐに治らないものもあります。無理に平気なふりをしなくていいんですよ」私は思わず彼を見つめた。その言葉はとても穏やかだったのに、不意に心の一番痛むところに触れられたような気がした。診療所を出ると、朗真が入り口に立っていた。私の手首に巻かれた新しいガーゼを目にした瞬間、彼の目に痛ましげな色が走った。「宿まで送る」「いい」私は彼の横を通り過ぎ、そのまま歩き出した。朗真は後ろからついてきた。「寧々、少し話さないか?」掠れた声だった。私は足を止めた。道端には雪が厚く積もり、靴で踏むたびに小さな音がした。「何を話すの?」朗真は私の前まで来ると、赤くなった目で見つめてきた。「俺たちのこれ
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第8話

真奈美の宿の固定電話にかかってきたのは、母からの国際電話だった。どうやら朗真から宿の連絡先を聞いたらしい。受話器を取ると、母は私の声を聞いた途端、激しく泣き出した。「寧々、どうして一人でそんな遠くまで行っちゃったの?お母さん、本当に心配してるのよ」私は受話器を握ったまま、その言葉を聞いていた。けれど、心は思っていたほど揺れなかった。「私のことが心配なの?それとも、本当にもう帰ってこないんじゃないかって不安なだけ?」電話の向こうで、母が言葉に詰まった。やがて、嗚咽を堪えるような声が聞こえてきた。「あの日、病院でお母さんが言ったことは間違ってたわ」私は静かに尋ねた。「どの言葉?」母は黙り込んだ。あまりにもひどい言葉をいくつも口にしたせいで、きっと母自身でも、どれが一番私を傷つけたのか分からないのだろう。だから、私のほうから言った。「冴香に頭を下げろって言ったこと?それとも、お兄ちゃんが全部私のせいにしたのに、否定もせず黙ってたこと?」電話の向こうから、押し殺した泣き声が聞こえてきた。長い沈黙のあと、母はようやく小さな声で言った。「お兄ちゃんも、あの日は気が動転してたのよ」私はそっと目を閉じた。また、それだ。気が動転していたから。私を傷つける人には、いつだって理由があった。朗真は、冴香を刺激したくなかったから。兄は、気が動転していたから。母は、みんなの間に挟まれて、どうすればいいのか分からなかったから。冴香は、朗真を諦めきれなかったから。なのに、どれだけ苦しくても、心が壊れそうでも、私だけが「もっと大人になれ」と責められた。「お母さん」私の声は、自分でも驚くほど静かだった。「もう、そういう話は聞きたくない」母は慌てた。「寧々、私たちを捨てないで。お願いだから帰ってきて。これからは絶対に、お母さんがあなたの味方になるから」私は窓の外に連なる雪山を見つめた。3年前、病室で私のそばに座っていた母も、私の手を握りながら、「何があっても、ずっとあなたの味方だから」と言ってくれた。けれど、その母はやがて、冴香の病床のそばに立っていた。母に愛されていたことは確かだった。そして、その愛が少しずつ別の誰かへ傾いていくのも、私はこの目で見てきた。「帰らない」私は言った。
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第9話

一度帰国した朗真が再び私を訪ねてきたのは、それから1週間後のことだった。その日、診療所を出ると、街灯の下に立つ彼の姿が目に入った。手には書類袋を持っていた。朗真はずいぶん痩せていた。目はひどく充血し、まるで何日もまともに眠っていないように見えた。「寧々」私は足を止めた。彼は手にしていた書類袋を差し出した。「離婚協議書を作って、俺の署名もしてある。家も、預金も、会社の株も、全部君に渡す」私は受け取らなかった。「いらない」朗真の目に苦痛の色が浮かんだ。「これは俺が君に償うべきものだ」「あなたが私に償わなきゃいけないのは、そんなものじゃない」私は彼を見つめ、静かな声で言った。「朗真、あなたが私に償うべきなのは、本当なら大切にされていたはずの時間よ。でも、それはもう何を差し出したって返せない」彼の手は、書類袋を差し出したまま宙で止まった。長い沈黙のあと、朗真は低い声で言った。「冴香とは別れた」私は彼を見上げた。彼は何かを必死に証明しようとするように続けた。「俺が君を捜しに来ると知って、彼女は泣きながら残ってほしいと頼んできた。でも、ちゃんと話した。これ以上、間違い続けるわけにはいかないって」思っていたほど、胸がすくような気持ちにはならなかった。むしろ、胸に広がったのはどうしようもない虚しさだけだった。「それで?」朗真は呆然とした。「あなたが冴香を捨てたら、今度は私があなたを受け入れるとでも思ってたの?」彼の顔から、少しずつ血の気が引いていった。私は少し先へ歩き、また足を止めた。「朗真、私はもう冴香とあなたを取り合ってるわけじゃないの。とっくに、あなたなんていらなくなってる」その言葉を口にした自分自身が驚くほど、声は穏やかだった。朗真の目が、突然赤くなった。「寧々……そんなに簡単に俺を捨てないでくれ」私は彼を見つめながら、あの30日間のことを思い出した。あの30日間、私は彼に何枚もの写真や動画を送り続けた。初めてデートした店では、あのときと同じ席に座り、彼の好きな料理を注文した。結婚前、二人でウェディングドレスを見に行った店にも足を運び、ショーウィンドウの前に長い間立っていた。大学にも行った。あの頃よく二人で過ごした湖のほとりで、日が暮れるまで一人で座っていた。
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第10話

その後、体調が安定し、医師から旅行しても問題ないと言われた冴香が、朗真から宿の住所を聞いて私を訪ねてきた。けれど、私はそれほど驚かなかった。彼女は大きめのダウンジャケットに身を包み、顔は青白く、以前よりひと回り痩せていた。私を見るなり、その目から涙がこぼれ落ちた。「寧々、私に会いたくないのは分かってる。でも、もう本当にどうしたらいいのか分からなくて……」私は宿の1階にある窓際の席に座っていた。真奈美は温かいお茶を運んでくると、眉をひそめて冴香を一瞥したが、結局何も言わなかった。冴香は私の前に立ち、嗚咽を堪えながら言った。「朗真が、私と別れるって言ってるの。体調が安定したら、子供のことは責任を持つけど、もう私とは付き合えないって」カップを口元へ運びかけた手が、わずかに止まった。そうか。今回、彼女がここまで来たのは謝るためではなかった。朗真に捨てられたから来たのだ。急に、すべてがひどく滑稽に思えた。「それで?」冴香の顔からさらに血の気が引いた。「あなたから彼を説得してくれない?あなたたちはもうすぐ離婚するんでしょう?このままじゃ、私……これからどうすればいいの?」私は彼女を見つめた。胸の奥で古い傷がゆっくりと疼き始めたものの、その痛みはもう、以前ほど鋭くはなかった。「冴香、覚えてる?3年前、病院のベッドに横たわっていた私が、『これからどうすればいいの』ってあなたに聞いたこと」彼女の泣き声が止まった。あのときの私は、手術室から出てきたばかりで、心も体も、何もかも空っぽになってしまったようだった。私は冴香の手を掴み、何度も尋ねた。「冴香、私……これからどうすればいいの?」彼女は泣きながら私を抱きしめて言った。「大丈夫、私がいるから」そして今、その彼女が私の前に立ち、自分はこれからどうすればいいのかと尋ねている。運命とは、なんて皮肉なのだろう。冴香は両手で顔を覆い、泣きながら言った。「あなたにひどいことをしたのは分かってる。でも、私、本当に彼を愛してるの」私は頷いた。「だから、私が壊れていくのを見ていられたんだね。私の通院に付き添って、死にたいって話を聞きながら、それでもずっと本当のことを隠していられた」冴香は首を横に振った。泣きすぎて、今にも立っていられなくなりそうだった。「違う
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