LOGIN離婚が正式に成立した日、セレヴィアでは今年一番の大雪が降った。弁護士から電子書類が届いたとき、私はキッチンで真奈美のパン作りを手伝っていた。スマホが一度震えた。画面には、こう表示されていた。離婚届が正式に受理されました。私はその短い一文を、長い間見つめていた。思っていたような大きな喜びも、深い悲しみもなかった。ただ、長い間きつく締めつけられていた縄が、ようやくほどけたような気がした。真奈美が尋ねた。「いい知らせ?」私は頷き、それから首を横に振った。「……まあ、そうかもしれません」真奈美は笑うと、焼き上がったばかりのパンを一つ、私に手渡してくれた。「じゃあ、甘いものでも食べましょう」夕方、私は宿の庭へ向かった。宿の庭からは、薄い氷の張った湖面と、その向こうに静かにそびえる雪山が見えた。私はお揃いの二つのブレスレットを小さな箱に入れ、真奈美に許可をもらい、宿の庭にある一本の木の下へ埋めた。それらはかつて友情の証だった。そして同時に、裏切りの証にもなった。もうこれ以上、手元に持ち続けたくはなかった。けれど、何かを壊したり捨てたりして、無理に「もう吹っ切れた」と自分に言い聞かせたいとも思わなかった。その場を離れようとしたとき、スマホが鳴った。朗真だった。私は電話に出た。長い沈黙のあと、電話の向こうから掠れた声が聞こえてきた。「寧々、弁護士から連絡が来た。離婚届が正式に受理されたって」「うん」彼の呼吸が少し重くなった。「いつ帰ってくる?」いつの間にか雪は止んでいた。私は夕日に染まり、金色に輝く遠くの雪峰を見つめながら、小さな声で答えた。「もう帰らない」朗真は何も言わなくなった。長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。「俺が会いに行く」「来なくていい」私は少し間を置いた。「朗真、私、もう新しい生活を始めてるの」彼の声が震えた。「そこには……もう俺はいないのか?」3年前の私だったら、きっと泣きながら、そんなことを聞かないでと縋っていただろう。けれど今は、その言葉があまりにも遅すぎたとしか思えなかった。「もういないよ」電話の向こうで、小さく息を呑む音が聞こえた。朗真は掠れた声で尋ねた。「寧々、本当にもう、俺のことを少しも愛してないのか?」私は雪山を
その後、体調が安定し、医師から旅行しても問題ないと言われた冴香が、朗真から宿の住所を聞いて私を訪ねてきた。けれど、私はそれほど驚かなかった。彼女は大きめのダウンジャケットに身を包み、顔は青白く、以前よりひと回り痩せていた。私を見るなり、その目から涙がこぼれ落ちた。「寧々、私に会いたくないのは分かってる。でも、もう本当にどうしたらいいのか分からなくて……」私は宿の1階にある窓際の席に座っていた。真奈美は温かいお茶を運んでくると、眉をひそめて冴香を一瞥したが、結局何も言わなかった。冴香は私の前に立ち、嗚咽を堪えながら言った。「朗真が、私と別れるって言ってるの。体調が安定したら、子供のことは責任を持つけど、もう私とは付き合えないって」カップを口元へ運びかけた手が、わずかに止まった。そうか。今回、彼女がここまで来たのは謝るためではなかった。朗真に捨てられたから来たのだ。急に、すべてがひどく滑稽に思えた。「それで?」冴香の顔からさらに血の気が引いた。「あなたから彼を説得してくれない?あなたたちはもうすぐ離婚するんでしょう?このままじゃ、私……これからどうすればいいの?」私は彼女を見つめた。胸の奥で古い傷がゆっくりと疼き始めたものの、その痛みはもう、以前ほど鋭くはなかった。「冴香、覚えてる?3年前、病院のベッドに横たわっていた私が、『これからどうすればいいの』ってあなたに聞いたこと」彼女の泣き声が止まった。あのときの私は、手術室から出てきたばかりで、心も体も、何もかも空っぽになってしまったようだった。私は冴香の手を掴み、何度も尋ねた。「冴香、私……これからどうすればいいの?」彼女は泣きながら私を抱きしめて言った。「大丈夫、私がいるから」そして今、その彼女が私の前に立ち、自分はこれからどうすればいいのかと尋ねている。運命とは、なんて皮肉なのだろう。冴香は両手で顔を覆い、泣きながら言った。「あなたにひどいことをしたのは分かってる。でも、私、本当に彼を愛してるの」私は頷いた。「だから、私が壊れていくのを見ていられたんだね。私の通院に付き添って、死にたいって話を聞きながら、それでもずっと本当のことを隠していられた」冴香は首を横に振った。泣きすぎて、今にも立っていられなくなりそうだった。「違う
一度帰国した朗真が再び私を訪ねてきたのは、それから1週間後のことだった。その日、診療所を出ると、街灯の下に立つ彼の姿が目に入った。手には書類袋を持っていた。朗真はずいぶん痩せていた。目はひどく充血し、まるで何日もまともに眠っていないように見えた。「寧々」私は足を止めた。彼は手にしていた書類袋を差し出した。「離婚協議書を作って、俺の署名もしてある。家も、預金も、会社の株も、全部君に渡す」私は受け取らなかった。「いらない」朗真の目に苦痛の色が浮かんだ。「これは俺が君に償うべきものだ」「あなたが私に償わなきゃいけないのは、そんなものじゃない」私は彼を見つめ、静かな声で言った。「朗真、あなたが私に償うべきなのは、本当なら大切にされていたはずの時間よ。でも、それはもう何を差し出したって返せない」彼の手は、書類袋を差し出したまま宙で止まった。長い沈黙のあと、朗真は低い声で言った。「冴香とは別れた」私は彼を見上げた。彼は何かを必死に証明しようとするように続けた。「俺が君を捜しに来ると知って、彼女は泣きながら残ってほしいと頼んできた。でも、ちゃんと話した。これ以上、間違い続けるわけにはいかないって」思っていたほど、胸がすくような気持ちにはならなかった。むしろ、胸に広がったのはどうしようもない虚しさだけだった。「それで?」朗真は呆然とした。「あなたが冴香を捨てたら、今度は私があなたを受け入れるとでも思ってたの?」彼の顔から、少しずつ血の気が引いていった。私は少し先へ歩き、また足を止めた。「朗真、私はもう冴香とあなたを取り合ってるわけじゃないの。とっくに、あなたなんていらなくなってる」その言葉を口にした自分自身が驚くほど、声は穏やかだった。朗真の目が、突然赤くなった。「寧々……そんなに簡単に俺を捨てないでくれ」私は彼を見つめながら、あの30日間のことを思い出した。あの30日間、私は彼に何枚もの写真や動画を送り続けた。初めてデートした店では、あのときと同じ席に座り、彼の好きな料理を注文した。結婚前、二人でウェディングドレスを見に行った店にも足を運び、ショーウィンドウの前に長い間立っていた。大学にも行った。あの頃よく二人で過ごした湖のほとりで、日が暮れるまで一人で座っていた。
真奈美の宿の固定電話にかかってきたのは、母からの国際電話だった。どうやら朗真から宿の連絡先を聞いたらしい。受話器を取ると、母は私の声を聞いた途端、激しく泣き出した。「寧々、どうして一人でそんな遠くまで行っちゃったの?お母さん、本当に心配してるのよ」私は受話器を握ったまま、その言葉を聞いていた。けれど、心は思っていたほど揺れなかった。「私のことが心配なの?それとも、本当にもう帰ってこないんじゃないかって不安なだけ?」電話の向こうで、母が言葉に詰まった。やがて、嗚咽を堪えるような声が聞こえてきた。「あの日、病院でお母さんが言ったことは間違ってたわ」私は静かに尋ねた。「どの言葉?」母は黙り込んだ。あまりにもひどい言葉をいくつも口にしたせいで、きっと母自身でも、どれが一番私を傷つけたのか分からないのだろう。だから、私のほうから言った。「冴香に頭を下げろって言ったこと?それとも、お兄ちゃんが全部私のせいにしたのに、否定もせず黙ってたこと?」電話の向こうから、押し殺した泣き声が聞こえてきた。長い沈黙のあと、母はようやく小さな声で言った。「お兄ちゃんも、あの日は気が動転してたのよ」私はそっと目を閉じた。また、それだ。気が動転していたから。私を傷つける人には、いつだって理由があった。朗真は、冴香を刺激したくなかったから。兄は、気が動転していたから。母は、みんなの間に挟まれて、どうすればいいのか分からなかったから。冴香は、朗真を諦めきれなかったから。なのに、どれだけ苦しくても、心が壊れそうでも、私だけが「もっと大人になれ」と責められた。「お母さん」私の声は、自分でも驚くほど静かだった。「もう、そういう話は聞きたくない」母は慌てた。「寧々、私たちを捨てないで。お願いだから帰ってきて。これからは絶対に、お母さんがあなたの味方になるから」私は窓の外に連なる雪山を見つめた。3年前、病室で私のそばに座っていた母も、私の手を握りながら、「何があっても、ずっとあなたの味方だから」と言ってくれた。けれど、その母はやがて、冴香の病床のそばに立っていた。母に愛されていたことは確かだった。そして、その愛が少しずつ別の誰かへ傾いていくのも、私はこの目で見てきた。「帰らない」私は言った。
朗真は、すぐには帰らなかった。町に一軒しかないホテルに泊まることにしたらしい。朝食を運んできてくれた真奈美が、小声で教えてくれた。「下にいるあの人、朝からずっと待ってるわよ」私は俯いたままサンドイッチを口に運び、何も言わなかった。真奈美はしばらく私を見つめたあと、小さくため息をついた。「会いたくないなら、会わなくていいのよ。こんな遠くまで来たんだもの。ここに来てまで、自分の気持ちを押し殺すことなんてないわ」指先がぴたりと止まり、また目頭が熱くなりかけた。これまで周りの人たちは、みんな私に、もっと大人になれと言った。頭を下げろと言った。これ以上騒ぎを大きくするなと言った。それなのに、知り合ってまだ数日しか経っていない人だけが、会いたくないなら会わなくていいと言ってくれた。午前10時、私は傷の処置をしてもらうため、診療所へ向かった。町の診療所はそれほど大きくなく、診てくれたのは桐谷知宏(きりたに ともひろ)という私と同じ国の出身の医師だった。私の手首の傷を見ると、彼の手がほんの一瞬止まった。けれど、何も詮索せず、ただ静かな声で尋ねた。「まだ痛みますか?」私は首を横に振った。知宏は手首のガーゼを新しいものに取り替えてくれた。その手つきはとても優しかった。「傷の治りは悪くありません。ただ、かなり体力が落ちていますから、しばらくは一人で遠出をしないようにしてください」私は目を伏せたまま、小さく返事をした。彼は処方箋を書き終え、紙を私に差し出したところで、ふと口を開いた。「江田さん、傷にはすぐに治らないものもあります。無理に平気なふりをしなくていいんですよ」私は思わず彼を見つめた。その言葉はとても穏やかだったのに、不意に心の一番痛むところに触れられたような気がした。診療所を出ると、朗真が入り口に立っていた。私の手首に巻かれた新しいガーゼを目にした瞬間、彼の目に痛ましげな色が走った。「宿まで送る」「いい」私は彼の横を通り過ぎ、そのまま歩き出した。朗真は後ろからついてきた。「寧々、少し話さないか?」掠れた声だった。私は足を止めた。道端には雪が厚く積もり、靴で踏むたびに小さな音がした。「何を話すの?」朗真は私の前まで来ると、赤くなった目で見つめてきた。「俺たちのこれ
飛行機がセレヴィアに着陸したとき、空はまだ夜明け前の薄暗さに包まれていた。窓の外には、灰青色に沈む雪山の稜線が浮かび、空港では私には聞き取れない言葉のアナウンスが何度も流れていた。私はスーツケースを引きながら出口へ向かった。袖口が擦れるたび、手首の傷がひりひりと痛んだ。空港を出る前、いったんスマホの電源を入れてみると、朗真からは10数回も電話がかかってきていた。母からも5回着信が入っていた。兄からもメッセージが届いていた。【どこに行ったんだ?】【また意地を張ってないで、これを見たら家に帰ってこい】その文字を眺めていると、ひどく皮肉に思えた。病院では、私が騒いでいると言った。私が人を傷つけたと言った。それなのに今度は、私が本当に姿を消してしまうことを恐れている。あの人たちが望んでいたのは、最初から私が元気に生きていくことなんかじゃなかった。ただ、取り返しがつかなくなるほど騒ぎを大きくしてほしくなかっただけなのだ。私はスマホからSIMカードを抜き取り、待合ロビーのゴミ箱へ捨てた。列車が雪山の奥深くへと入っていく頃、窓にもたれていた私は、ようやく今になって涙を流した。声を上げて泣いたわけではない。ただ、涙が次から次へと頬を伝い、いくら拭っても止まらなかった。朗真が初めて私を雪景色に連れ出してくれた日のことを思い出した。大学時代の冬だった。あの年は珍しく、大学のある街にも大雪が降った。薄手のコートしか着ていなかった私は、それでも嬉しくてグラウンドまで走っていった。朗真は自分のマフラーを私の首に巻きながら、笑って言った。「寧々、いつか本物の雪山を見せてやるよ」あの頃の私は、その言葉を信じていた。信じていたからこそ、その後も冬が来るたび、あの約束を思い出しては何度も期待した。けれど、最後まで待ち続けた私に残ったのは、すっかり空っぽになった心だけだった。小さな町に着くと、宿の女将が迎えに来てくれた。同じ国の人で、小林真奈美(こばやし まなみ)という50代くらいの女性だった。話し方がとても穏やかで、私の顔色が悪いことに気づくと、温かいミルクの入ったカップを手渡してくれた。「一人で来たの?」私は頷いた。彼女はそれ以上何も聞かず、ただ優しく言った。「まずはゆっくり眠りなさ