Lahat ng Kabanata ng 私の救世主は、傷を知りすぎている: Kabanata 11 - Kabanata 20

40 Kabanata

11話. 君が受け取ったもの

「どこが間違っているの?」修吾は、紗月が持ってきた紙を見て聞いた。「私が確認した内容と違います」火曜の午後、修吾はいつもより早く帰ってきた。予定の会議が終わったと言った。玄関の扉が閉まる音で部屋を出た紗月は、まず彼の脱いだ靴を見た。リビングのソファに座った修吾の前には、紗月が整理しておいた支援事例集の原案があった。黒田が先に渡したらしい。「何が違う」「この受領確認書は、荷物がいくつ届いたか確かめたものです。支援金を受け取ったと確認した書類ではありません」修吾は落ち着いてページをめくった。「その荷物は、紗月が暮らす家に届いたんだろう」「ギャラリーに送り直しました」「それで?」修吾が、ソファの隣を軽くたたいた。「立ったまま話さないで、座って。大事でも起きたみたいな顔をしなくていい」紗月は向かいの椅子に座った。修吾の手が、少し長くソファの上に残った。「こう書かれたら、私がその品をもらったことになります」「受け取った人なのは、間違いないだろう」「自分のものとして、もらったわけではありません」「紗月。支援額に入るのは、現金だけじゃない。住んだ家、使った場所、治療に必要だったもの。どれも費用がかかっている」紗月は膝に手を置いた。「その費用と、この荷物は別の話です」「どうして、それが全部わかるの」修吾の笑みが、ほんの少し消えた。「紗月が知らなくても回るように、俺がしてきたんだよ。そんなところに頭を使わなくて済むように」「では、自分がわかるところだけ確認します。この署名は、運ばれてきた荷物を受け取ったという意味です」修吾が紙をテーブルに下ろした。「今日は、誰に何を言われた?」「私が見たんです」「そういう意味じゃないだろう」彼が額を揉んだ。疲れた顔をすれば、紗月が水を持ってきて、話をやめ、謝る。そうなることを知っていた。紗月は立ち上がらなかった。テーブルの端に水のボトルがあった。修吾が目で示す。紗月はボトルではなく、署名の切り取られたページを彼の前へ押し出した。「この部分だけ、もう一度見てください」修吾は紙を取らなかった。差し出したままの指先から、ファイルが少しずつ下がった。腕が痛い。紗月はファイルをテーブルへ置いた。引き戻して、膝に隠したりはしなかった。「水も注げないくらい、俺が嫌いになった?」「お水は用意します
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12話. 署名の下から消えた言葉

「この署名は、確かに私がしました」紗月は橘弁護士へ、そう言った。電話の向こうで紙をめくる音がした。弁護士は、紗月が送った過去の業務ファイルと、支援事例集の添付資料を照合していた。欠けていた添付は、送信済みフォルダの、ギャラリーへの引継ぎ返信に残っていた。下のメモまで写っているファイル。宛先は篠原直人だった。紗月は画面に出した、もとのファイルを見た。2025年11月に作成した物品受領確認書だ。あの日、家に届いた梱包箱は三つ。彼女が確認したのは、外観と個数だけだった。その下に、自分の字で書いた一文があった。【内容物は未検品。ギャラリーへ引渡し予定】支援事例集に添えられた写しには、その部分がなかった。署名の上の受領欄は見える。だが、下のメモが切れていた。「当時、このファイルを誰へ送りましたか」「篠原さんです。家で一時保管して、翌日ギャラリーへ渡しました。搬出確認のメールも残っています」「このメールに残った、もとのファイルも併せて提出しましょう」紗月はモニターを近づけた。内容物は未検品。あの日、箱を開けなかったから残した一行だった。早くサインだけしてくれという篠原が、そばにいた。それでも書いた。あとで中身を聞かれても、答えられないから。彼らが切り落としたものが、今日、自分を守っていた。紗月はその行まで見えるファイルを、もう一度保存した。「受け取ったってサインしたものがあれば、それで終わりだと思っていました」「受け取って一時保管したことと、自分の財産として取得したことは、同じではありません。相手がどう説明しても、まず紗月さんが実際にしたことを分けなければ」「その違いを、知らない人ではないのに」修吾は弁護士だった。紗月がそのことを忘れそうになるたび、彼は思い知らせてくれた。* * *ギャラリーの担当者から、遅れて返事が来た。以前預けられたというヴァイオリンは、今も保管室にあるという。貸与元と保管名義人を確認中のため、すぐの搬出はできないとあった。紗月は椅子に座り、長いあいだ画面を見た。あった。どこかへ消えてしまったのではなかった。修吾が返したと言った楽器は、自分が何度も通ったギャラリーの中にあった。触れたいと、真っ先に思った。ケースを開けて、木の匂いを嗅ぎたい。まともに弾けなくても、顎の下に当ててみたかった。ギャラリー・アルテ
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13話. 今日は帰りません

その夜、修吾は二人分のお茶を注いだ。紗月の前に、いつものお茶が置かれた。彼も同じカップを持ち、向かいに座る。急いで書斎へ戻る気はなさそうだった。「里香は、暮らしに困っていたんだ」彼が言った。「家も傾いて、まともな仕事にも就けなくて」紗月はカップを取らなかった。「それで、お金を渡したんですね」「放っておけば、また紗月の前に現れるかもしれないだろう。昔のことを言いふらしたり、金を要求したり」「何も知らずに暮らしていたほうが、いいと思ったんだ」「そうやって、10年間ですか」「必要なあいだは」「私の名前で整理された支援費に、どうしてそのお金が入っているんですか」「紗月に関係する支出だから」彼は少しもためらわなかった。「俺が、ほかに何のためにあの女へ金を使うと思う? 紗月がいなければ、会う理由もない相手だよ」カップの隣で、紗月の右手が縮まった。無理に伸ばそうとはしなかった。震えるなら、そのままにしておいた。「あの人も、修吾さんが怖いそうです」修吾の手が止まった。「直接、会ったの?」紗月は答えなかった。修吾がカップを置いた。この会話で初めて、計算になかった表情が出た。驚きというより、侮辱された人の顔だった。「自分を傷つけた相手に、俺に黙って会いにいった?」「私に何があったのか、聞きにいきました」「俺が説明しただろう」「里香からも、聞きたかったんです」修吾は口を閉じた。しばらくソファの肘掛けを指でたたき、低く言った。「そこまでしたのなら、俺に言えることはないよ。ただ、あの女の言葉を信じる前に考えてごらん。手があんなふうになったとき、誰が病院にいたのか」紗月の目が熱くなった。病室に座る修吾。そのシャツをつかむ自分の手。彼が来てくれたことが、あんなにもありがたかった。「覚えています」紗月はカップから手を離した。「あの日から、一人でボタンを留められなくなりました。病院に来てくださったのがありがたくて、それがどんなに怖いか、言えませんでした。雨が降ると、今も手が痛むんです」修吾が彼女の手を見た。今度は紗月も、膝の下へ隠さなかった。「だったら、いい」修吾が立ち、隣へ来た。紗月は座ったまま動かなかった。肩に手を置こうとする彼に、先に言った。「今日は、触らないでください」手が、宙で止まった。「紗月」「手にも」自分の右
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14話. 自分の名前で入ります

朝、目を覚ました紗月は、自分がどこにいるのか、すぐにはわからなかった。カーテンの色が違う。修吾がシャワーを浴びる音もしない。寝過ごしたと思って起き上がりかけ、昨夜鞄を置いた小さな机を見た。それでようやく、息が戻った。夜中にスマートフォンは何度か鳴ったが、修吾からの追加のメッセージは見なかった。返答が必要な仕事の連絡は、橘弁護士と相談して対応することにしていた。今日はオークションが開かれる水曜日だ。洗面台で顔を洗った。鏡の前に、自分で選んだ服をかける。以前、催しの補助の仕事をしたときに買った紺色のワンピースだった。ウエストの皺を手で伸ばしかけ、フロントへアイロンを借りられるか聞いた。温まったアイロンで、腰の皺を押さえた。ベージュを着ろという人はいない。この紺色が似合うかどうか、決めてくれる人もいなかった。服を持ち上げ、鏡の前で当てた。手の甲の傷痕が見える。袖を引っ張りかけ、やめた。今日は、この手でした仕事のことを話しにいくのだ。橘から、母を今日急いで移す必要はないと連絡があった。病院も、外部から面会の申し出があれば、先に紗月へ知らせることになった。紗月はワンピースをベッドに置き、母へ電話した。母は、新しいカーディガンのボタンが一つ、留めにくいと言った。「次に行ったとき、替えるね」「服は気に入ったよ。柔らかくて」* * *午前11時を過ぎて、輸送会社の資料が届いた。紗月は橘の事務所で、蓮司側の担当者とファイルを確認した。蓮司は会議を終え、少し遅れて入ってきた。彼女の服を見て一瞬足を止めたが、何も言わなかった。「お待たせしましたか」「先に、資料を見ていました」机には、三種類の文書があった。海外の出荷明細、国内輸送時の写真、ギャラリーへの引渡し確認書。三つの書類にある梱包番号と日付が、順につながった。問題の箱は、紗月が受け取り、翌日ギャラリーへ送ったものと一致した。出荷明細には、展示用複製品と書かれていた。同時期の写真には、台座の長い溝が見えた。今のカタログでは、照明に隠れていた場所だった。紗月は写真を指した。「これ、私が見た箱です。角に青いテープが貼ってありました」蓮司側の担当者が、紗月の引継ぎメールを写真の隣へ置いた。梱包番号も、日付も同じだった。「現在展示されている実物は、別に検証が必要です。ここまでは、輸送会社の元資
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15話. 私の名前を外してください

「何か、誤解しているようです」修吾が先に言った。通りかかった関係者へ、軽く笑いかける。紗月には、さらに低い声で付け足した。「奥で話そう」「ここで確認できる内容です」紗月はファイルを開いた。指先が震え、うまく紙をめくれなかった。橘が隣で、ファイルの下を支えてくれた。代わりに話し始めたりはしなかった。「これは、私が梱包された箱を受け取ったという確認書です。支援金や作品を、自分のものとして受け取った確認書ではありません」麗華は紙を見るなり、言った。「支援の内訳を作成したのは天城総合です。ギャラリーと関係のないことで、ここで騒がれては困ります」「でも、この荷物をギャラリーの方が、引き取りにいらっしゃいました」紗月は次のページを開いた。「翌日の搬出確認です。担当者の返信もあります。出品作の取得経緯や、支援金の受領根拠に、私の名前を使わないでください」修吾が書類を取ろうとした。紗月はファイルを自分へ引いた。「写しをお渡しします。元の資料は、別に保管しています」彼の手が止まった。後ろから、誰かが近づいた。蓮司と、共同主催側の実務責任者だった。蓮司は紗月が話し終えるまで待ち、それから責任者に目を向けた。「二件とも、ご依頼は届いていますね」蓮司が確かめた。紗月は署名のあるページと、もとの受取書を並べて渡した。「このメモを、切らないでください。ここまで一緒に見て、判断してください」責任者が書類を受け取った。「事例集は、まだ正式配布前です。該当ページは、ひとまず除きます。出品資料は、別途確認を進めています」責任者が後ろのスタッフへ、事例集の配布を止めるよう伝えた。スタッフは紗月の名前のあるページを開いて印をつけ、別に分けた。自分の名の入った一枚が、配布用の束から抜かれた。修吾が手を伸ばしたが、責任者はすでに別の封筒へ入れていた。「訂正依頼の資料と一緒に、保管します」そこで紗月は、ようやくファイルを下ろした。今、この紙を消そうとするなら、修吾には自分以外にも説明しなければならない人がいる。麗華が蓮司を見た。「鷹宮社長。再搬入した品だと、ご説明しましたよね。言葉一つを取り上げて、催し全体を台無しにするおつもりですか」「再搬入する前の履歴が提出されていません。輸送会社は、展示用複製品を運んだ記録を確認しています」「それが、この作品だとい
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16話. 口座ではなく、帳簿

七瀬直之の名前の隣に、残高があった。紗月は父の写真を裏返した。終わってから冷麺を食べに行く。あの字を見ていると、画面の数字が読めなかった。父はもう亡くなったのに、その名前の下で金が動いていた。それを自分が受け取ったという。銀行アプリで同じ日付を探し、また添付ファイルへ戻った。どこにも合うものがなかった。夜が明けても、七瀬直之の名は画面から消えなかった。朝、橘弁護士の事務所に座ってからも、同じページを開いた。「父には、借金があったのでしょうか」橘は印刷物の上から読んだ。すぐに、違いますとは言わなかった。「銀行名も、口座番号もありません。現段階では、天城総合が作った帳簿として読むべきでしょう」弁護士は「七瀬直之に関する遺族支援」という小見出しに印をつけた。分類番号はHD-16だった。「この数字を、そのまま借金に置き換えないでください。誰に支払った金なのか、まず説明を求めます」紗月は鞄からスマートフォンを出した。昨夜、自分の銀行アプリで確かめた明細が残っていた。「私の口座には、こんなお金はありません。給料と、自分で使った分しか」銀行アプリを閉じた。帳簿の下にある父の名前は、隠さなかった。弁護士が添付一覧を開いた。「天城総合は、保管中の資料の返却と、どの取引に関与したかの説明を求めています。今日答える部分と、追加資料が必要な部分を分けましょう」「私に間違いがあったら、それも教えてください」言うと、口の中が乾いた。「どのあたりが、気になっていますか」「読まずにサインしたものがあります。数字が違うのに、前の月の資料をコピーしたことも。全部知らなかったと言ったら、それは嘘になる気がして」弁護士は少し彼女を見てから、別の紙を取り出した。「覚えている仕事から、書いてみましょう」紗月は日付を書き、先日事例集で一部を切られた受領確認書を隣に置いた。署名した事実は消さなかった。ただ、箱を三つ受け取ったことを、5億円の作品を贈与されたことにはできなかった。母の診療費の領収書には、修吾のカードで払った日を記した。次の支出表には、知らない会社がいくつもあった。保管料、相談費、生活管理費。口座明細を調べても見覚えがない。わかっているふりで読み進めるのをやめると、初めて見るもののほうが多くなった。「これは、わかりません」「そのまま、印をつけてください
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17話. 退職の理由

7月15日。50万円。8月15日。50万円。9月15日。50万円。紗月はスマートフォンで、最初に撮った写真を開いた。コードと日付が一致する。新たな150万円が見つかったわけではない。すでに見た三度の支払いに、今度は違う説明がついていた。七瀬直之遺族保護に関する生活管理費。紗月は小さく息を吸った。里香の名を聞いて、父は学校へ行くと言った。大丈夫だからと、自分が引き止めた父だった。今、その名の下に里香の生活費が記されている。紗月は紙を押さえた。薬指が曲がって、数字の一枠を隠せなかった。50万円という額が、指のあいだから見えていた。「この人は、私たちの家族じゃありません」紗月は紙を指した。「私を、傷つけた人です」橘が写真と印刷物を一緒に見た。「支払先が同じかどうか、元資料を追加で求める必要があります。今ある確認書と併せて、説明は求められますね」紗月は指を引かなかった。「父の名をつけたのが誰なのかも、聞いてください」声が、さっきより低くなった。ペンを取り、父の名前の下に「作成者」と書いた。紙が動かないよう、左手で角を押さえた。* * *服よりも、紙のほうが多かった。金曜の午前、紗月は天城総合の応接室にある箱を見て、少し立ち尽くした。楽な服をまとめたという三田の連絡を受けて来たのだった。家には戻らないと伝えると、黒田に事務所で受け取るよう言われた。カーディガン二枚、かかとの低い靴、小さなタオル。その下に、会社の書式に挟んだ紙の束が敷かれていた。黒田が椅子を勧めた。「代表が、少しお顔を見たいとおっしゃっています。お忙しいので、長くお待たせはしないはずです」紗月は座らなかった。「自分の物を受け取りに来ただけです」「業務の整理も必要です。突然、席を空けられたのですから」隣の橘が、黒田へ名刺を差し出した。「今日は個人の荷物の受領と、資料一覧の確認までと伺っています。追加のご依頼は、私へお送りください」黒田は名刺を受け取っても、紗月へ話した。「奥様。ここまでお互いに手間をかける理由がありますか」「七瀬さんと、呼んでください」扉の横の職員が顔を上げた。黒田はその視線を見てから、遅れて笑った。「癖になっておりまして」箱の横の受取書を差し出した。紗月はすぐにはペンを取らなかった。一覧と中身を一つずつ合わせる。業務ファイル四冊
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18話. あの家を出たあとで

修吾がいなくなっても、荷物の確認にはずいぶん時間がかかった。業務資料の原本は応接室へ残し、紗月が持つ写しの一覧を弁護士が確かめた。個人の写真、診療でもらった検査結果、大学の在籍関係の書類は別に入れた。服の箱の下にあった紙は、そのようなものがほとんどだった。三田が、角の破れた封筒をテープで補修してくれていた。上に一行、書いてあった。【捨ててはいけないものだと思い、一緒にお送りします】その字を読み、紗月は写真二枚を封筒に入れた。黒田が新しい受取書を差し出した。今度は、彼女が持ち帰る品だけが書かれていた。紗月が署名すると、彼は言った。「外へ出ても、結局は代表へ連絡することになりますよ」橘が顔を上げたが、紗月が先に聞いた。「置き忘れた物があったら、ですか?」黒田が言葉を止めた。「そのときは連絡します。荷物のことで」紗月は箱を抱えた。思ったより重く、弁護士が下を支えた。ロビーへ下りると、三田から電話が来た。「お洋服、受け取れました?」「はい。書類も。ありがとうございます」「厚手のものは、もう少し寒くなったら送りますね。ご住所は、あとで教えてください」「別に受け取りに来ます。住所は、まだ……」「では、そうしましょう」三田はあっさり答えた。何も詮索しなかった。紗月は箱の上へ、少し顎を下ろした。「時々、電話してもいいですか」「もちろん。荷物がなくても、かけてください」紗月は箱のテープを見た。三田が破れた封筒に貼ったものと、同じ色だった。「それなら……次は、三田さんのお話も聞きたいです」電話の向こうで、三田が少し黙った。「ええ。私の話も、たくさんありますよ」ロビーの外へ出て、紗月は泣いた。あの家から持ち帰ったものの中に、修吾に返せとは言えないものが、一つあった。蓮司から電話が来たときには、涙はほとんど収まっていた。「荷物は受け取れましたか」「はい。思ったより多くて」「運ぶのに人手が必要なら……」「車は、呼びました」紗月は付け加えた。「明日は母のところへ行きます。今日受け取った写真を、見せたくて」「お母様も、喜ばれるでしょうね」蓮司は、どうして声がかれているのか聞かなかった。聞かれなかったから、紗月は別のことを言えた。「今日、退職すると伝えました」短い沈黙があった。「決めたんですね」「怖いです。あの人の言うこ
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19話. 母が選ぶこと

事務担当者は、土曜の午前勤務を終える直前だった。紗月は予約していた費用相談の時間に合わせて、窓口へ下りた。9月分は支払われていた。問題は、この病院で決められていた10月分の前払い日だった。担当者は診療費と、別に契約しているケアの費用を分けて説明した。支援者が変わったからといって、今日すぐに病室を空けなければならないわけではなかった。紗月はその説明を書き、自分の口座残高と比べた。先に13万円を払い、残りは日を分けて納められないか尋ねた。担当者は、すぐにできるとは答えなかった。過去の支払履歴を調べ、責任者へ電話した。隣の窓口で番号を呼ぶ声がした。紗月は案内用紙を置いて待った。断られたらどうすればいいのか。頭の中で、また宿泊費を引いたり足したりした。修吾に、払わないという言葉を撤回してもらえば、少なくとも今日は楽になる。どんな顔で頼めばいいのかも、知っていた。スマートフォンを、鞄の奥へ押し込んだ。担当者が戻ってきた。「今回は、先ほどの金額を先に納めていただき、残りについて分割の予定を取り決めることができます。来月以降も、同じ条件になるとは限りませんが」紗月は日付を確かめた。未払いの9月の報酬が入るはずだという見込みだけでは、書けなかった。ほかの支出を減らしても払える、最初の日を選んだ。「費用が増える場合は、早めに連絡をいただけますか。すぐには用意できないかもしれないので」「承知しました。診療計画が変わる部分については、先に医療スタッフからご説明します」病室は、窓際の相部屋が空いたら、もう一度母に説明して決めることにした。費用の支援については、平日に医療ソーシャルワーカーへ相談できるという。何が利用できるかは、収入や状況を確認する必要があった。支払いを終えると、13万円が引き落とされた。紗月は残高をもう一度押した。同じ数字だった。宿へ戻って、食事をするための金が、さらに少なくなった。領収書を折ろうとして、紙が滑った。職員が封筒に入れてくれた。紗月は受け取った。誰かに返しますと頭を下げなくてもいい金を、初めてこんなに使った。怖かった。それでも今、母が過ごす夜を用意した。そのとき、美緒の担当教師から電話が来た。「この前のお話なんですが。楽譜の一覧を整理するお仕事も、できますか」紗月は廊下の壁際へ寄った。「どんな仕事でしょうか」小さな楽譜
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20話. もう一度、手を知る

「どんな動作で、いちばん不便を感じますか」火曜の午前。医師は画像より先に、紗月の手を見た。紗月は用意してきた診療資料を膝に置いた。「全部、不便です」そう答えてから、すぐに言い直した。「いえ、全部ではありません。ドアを開けたり、字を書いたりはできます。長くやると、指が伸びにくくなります」「長くというのは、どれくらいか覚えていますか」時間を測ったことはなかった。修吾に手を使うのをやめるよう言われれば、やめた。痛いと言えば揉んでくれて、その日は何をしてはいけないかも、彼が決めた。紗月は昨日、引継ぎ一覧を書いたときのことを思い出した。「ずっと紙を押さえていました。一枚ずつめくるより、束を持っているほうがつらかったです」医師がうなずき、指の動きを確かめた。できる動きと、難しい動きが分かれた。右の薬指がほかの指についていくまで、時間がかかった。紗月は知らずに、手首と肩に力を込めていた。「今は、ほかの部分に力を入れて補おうとしていますね」医師が言った。「こうすれば、何とかできますから」「今日は、うまくできるところを見せなくていいんです。どこで負担がかかるかを知る必要があります」紗月は手を下ろした。固まっていた肩から、少しずつ力が抜けた。医師は古い資料と今の状態を、交互に見た。一度の診察で演奏できるかどうかは決められないと言った。すでにできる生活動作を生かしながら、繰り返し使ったあとの状態も見なければならなかった。「もう一度、ヴァイオリンを弾きたいですか」紗月は手を見下ろした。最初に、修吾にそう言ってもいいのかと考えた。ここに彼はいないと気づいても、すぐに返事は出なかった。もう一度握って、また落としたら。今度こそ、誰のせいにもできなかったら。「少しのあいだでも、持ってみたいです」口にすると、涙がたまった。紗月は顔を上げ、もう一度言った。「自分に、どんな音が出せるのか。私も、聴いてみたいんです」「それを最初の目標にしましょう。先に演奏会の日を決めたりはせずに」治療室では、軽い道具を握って放す動きを改めて見た。最初は簡単だった。二度目も平気だった。少しすると、薬指の下からこわばりが上がってきた。紗月は口を閉じ、もう一度やろうとした。「今、表情が変わりましたね」療法士が言った。「まだ、できます」「まず、どこが変わったか教えてください
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