Lahat ng Kabanata ng 私の救世主は、傷を知りすぎている: Kabanata 21 - Kabanata 30

40 Kabanata

21話. まだ残っていた音

ケースを開けると、最初に匂いがした。長く閉じ込められた布と、松脂と、木の匂い。紗月は椅子に座ったまま、少し身を乗り出した。顎当ての近くに、擦れた跡がある。写真で見るより小さかった。記憶の中では、あの跡ほど大きな傷は、この世にないように思えていたのに。「こちらで、間違いありませんか」貸与元の国内担当者が尋ねた。紗月はうなずいた。「私が使っていた楽器です」工房の主人が楽器を持ち上げ、状態を確かめた。紗月はその手を目で追った。一人なら、もう触ろうとしていただろう。だが、今日は待たなければならない。自分の楽器ではないから、だけではなかった。急いで触れたら、壊してしまいそうで怖かった。所有者側が許可したのは、今日の状態確認だけ。また借りられるかは、まだわからなかった。「今日は、見るだけでも大丈夫です」そう言っても、ケースから目を離せなかった。工房の主人が楽器を台に置いた。「外からわかる部分は確認しました。長く保管されていたので、調整は必要です。以前使われていたとき、不便だったところはありますか」紗月は少し考え、顎当てを指した。「ここの高さを変えていました。今ついているものは、当時とは違います」主人が脇へ寄ると、紗月は顔を近づけた。触る前に、目で確かめた。指で触れればはっきりわかる気がするのに、記憶と違ったら何と言えばいいのかわからなかった。「ゆっくり、確かめてください」主人が言った。紗月は顎当ての縁を指した。幼い頃、少し高いものを使っていたが、合わなくて替えた。修吾に調べてもらった品ではない。レッスンのあと、父と工房へ寄り、何度も顎を当てて選んだ。父は何がいいかわからず、紗月が座ったり立ったりするたび、ケースを支えてくれた。もう一回、やってみなさい。それしか言えないのに、もう一回のたびに、必ず同じ高さで支えてくれた。紗月は台の下へ下りた自分の手を見た。今は、ケースを持ってくれる人がいないことよりも、あのとき選んだ高さを、自分の顎が先に覚えていたことのほうが痛かった。「あのときは、私が、これでいいって言ったんです」口にしてから、今ここにいる人には必要のない話だと気づいた。顔を離した。主人が、彼女の指した箇所を撮影した。「その点も、記録しておきますね」紗月は付け足しかけた言葉をのみ込んだ。写真の中の顎当ては、父が支えてくれた高さのま
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22話. 確かめられること

工房の外の階段で、蓮司が彼女の鞄を見た。「それは、私が持ってもいいですか」紗月は少しためらってから渡した。今日、右手を酷使したわけではない。ただ、小さな動きにも緊張していたせいで、腕全体が重かった。蓮司は左手に鞄を持ち、隣を歩いた。「がっかりしました」紗月が言った。彼が足を緩めた。「楽器があって、ただ嬉しいと思うはずだったんです。でも、持ってみたら昔と全然違って。初めて他人の楽器を借りたみたいでした」「また手にするまで、長くかかりましたから」紗月は首を横に振った。「そうやって、納得したくないときもあります」言い方が尖った。蓮司が答えないと、すぐに後悔が来た。「すみません。社長に言いたかったわけではないんですけど」「今日は、そういう日でもいいでしょう」彼は階段の下で待った。紗月は最後の一段を下り、隣に立った。「悪くなかったって、言ってくださると思いました」「そう言われて、嬉しかったですか」「嘘をついてるって、言ったと思います」蓮司が短く息を吐いた。笑い声に似ていた。「難しい立場だったわけですね」その返事に、紗月はとうとう笑った。蓮司も彼女を見て笑う。今日は初めて、楽器の話をせずに顔を見合わせて笑えた。「蓮司さんに意地悪を言ったら、嫌いになりませんか」聞いてから、呼び方が変わったことに気づいた。社長ではなく、名前を呼んだ。その響きが、外の空気に置かれた。蓮司の表情が、少し変わった。「紗月さんだって、いつも私を気に入るとは限りません」「それは、もうそうです。食事の時間が遅すぎます」「その程度からで、よかったです」紗月は道沿いの小さなパン屋の前で止まった。棚には、塩気のあるパンが残っていた。鞄を持つ彼の手を見てから、自分で扉を開けた。「今日は私が買います。鞄を持っていただいたので」「そこまで高い労働ではありませんが」「では、私がお腹がすいたので」蓮司は扉の上のベルが大きく鳴らないよう、扉を押さえてついてきた。「その理由は、断りにくいですね」紗月は彼のパンを選んだ。気に入ってくれるだろうかと、一つ取ってから戻した。電話が来た。紗月の依頼を受け、蒼和の実務担当者が、白井の次の出庫担当者を見つけていた。M-17は海外展示から戻ったのではなく、国内の保管室のあいだを動いたという。翌日、実物と記録を一緒に見ることに
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23話. 崩れた値札

確認の手続きが終わったあと、麗華が廊下で紗月を呼び止めた。蓮司は主催者と協賛金の執行資料を確かめていた。橘は数歩離れたところで電話をしていた。紗月は、二人の見える場所から動かなかった。「満足ですか?」麗華が聞いた。「名前を外してほしいというお願いは、聞いたでしょう。どうして、ここまでするの」「あの品を私が受け取ったと、書かれたからです」「だから、間違っていたところは直しました」「ほかへ送った資料も、直してください」麗華が鼻で笑った。「鷹宮蓮司が後ろにいるから、何を要求しても通るとお思いのようね」「私の署名は残して、私が書いた言葉だけを消したんです」紗月は鞄を開けた。「戻してください。私の言葉も。この紙が送られたところ、全部に」もとの受取書の写しを取り出し、メモが見えるように広げた。麗華が目をそらした。「それは、天城総合へ伝えてください」「天城総合にも送りました。ギャラリーで使った先については、館長にお願いします」麗華はそれ以上答えず、背を向けた。扉を閉める直前、スタッフを呼ぶ声が聞こえた。「篠原直人に連絡して。原本を受け取った人から、来て説明するように」紗月は受取書をファイルに戻した。麗華は振り向かなかった。閉まった扉の中で、篠原が電話に出ないのかと急かす声が、もう一度した。外へ出る途中で、輸送担当者が短く会釈した。「先ほどは、ありがとうございました」「ご自分で確認したことを、お話しになっただけです」「それでも、館長との取引が切れると、私も困りますので」「追加の質問が来て、直接話しにくいことがあれば、担当者を通してください」橘が連絡先を渡した。男はファスナーの擦れた鞄へしまい、道を渡った。遅れて出てきた蓮司が、眉間を押さえた。「検討案を作り直すと伝えてきました。今夜は、会社へ戻ります」紗月はそこで初めて、この人にも失った予定があるのだと気づいた。午後には、出品契約の解除手続きと、追加協賛の停止通知が来た。既存の生徒の楽器貸与は維持される。紗月は、その一文を先に保存した。訂正依頼の受付日は、ホテルの廊下で手を隠して立っていた日だった。その日付が見えるよう、通知を保存した。* * *会議室から、麗華の名札が外された。スタッフは申し訳なさそうな顔で、名札を封筒へ入れた。翌月の美術館拡張事業説明会に参加する予
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24話. 名前を書き直す人

紗月は楽譜室で、初めての入金通知を受け取った。2万円。先週のサンプル作業を見た遠山が、正式に試行分の束を任せてくれた。10月12日、月曜日。紗月は作業用の席で、借りた楽譜と一覧を合わせていた。一枚に予想以上の時間がかかり、担当する量は減らした。残りの4万円は、仕事を終えなければ入らない。銀行の通知を閉じてから、もう一度開いた。振込人は、つむぎ楽譜室だった。今日終える楽譜の横に、スマートフォンを置いた。「入っていました。ありがとうございます」遠山が机にファイルの箱を置いた。「確認できたなら、よかったです。これは次の束ですが、今日は手をつけないでください。今の分を、先に終わらせましょう」紗月は癖で箱を引き寄せかけ、止まった。もう少しやれば、仕事のできる人に見えそうだった。けれど、すでに引き受けた分に時間がかかると伝えたばかりだった。「はい。金曜までに、中間の結果を送ります」廊下で子供の声がした。美緒と悠斗が、担当教師と楽譜を返しに来たのだった。美緒は紗月を見つけ、入口から顔を出した。「先生、ここで働いているんですか」「少しずつ、やってみようと思って」「この楽譜も、先生が選ぶんですか?」「ううん。誰が何を借りたか、探しやすいように整理しているの」悠斗が楽譜の端のクリップを外した。「これまで、返すところだった」美緒が手を出した。「私のだからね」「わかってる。だから外したんじゃん」紗月は笑った。机の一覧は少し遅れていたが、これくらい手を止めても、大丈夫だった。美緒が、修正された貸出案内を見せた。「写真を撮らなくても、そのままになりました。次のレッスンも、いつもどおりだそうです」少女は案内を畳み、次に練習する曲を話した。悠斗がぶつぶつ言いながらクリップを返す。二人が先生についていくまで、紗月は笑っていた。そのとき、主催者側から最終通知が来た。「暁の天使」の出品契約解除。関連する協賛金執行経路の再検討。紗月が指摘した受取書の説明については、すでに送付された機関にも訂正通知。添付の案内には、自分の手で書いた言葉が戻されていた。内容物は未検品。ギャラリーへ引渡し予定。最後の宛先まで見た。彼女を検品者だと思っていた機関へも、二行が送り直されていた。遠山が呼んだ。「七瀬さん。この表の英語の題を、見てもらえますか」「はい。今、
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25話. 篠原直人の条件

その日の午後、篠原は橘弁護士の事務所へ来た。蓮司も会議室で待っていた。篠原は窓際を確かめてから座った。書類鞄は、膝から下ろさなかった。「何をお持ちですか」橘が尋ねた。「署名するよう渡された確認書です。実際に報告した内容と、違う部分があります」一枚取り出した。紗月は責任者の名前と、日付から読んだ。単独処理という言葉が、何度も出てきた。蓮司は最後まで読んでから、テーブルへ置いた。「違うことを確認できる資料も、ありますか」「あります」篠原は鞄を開かなかった。「蒼和で、私の職歴は認めていただきたい。天城総合をこのまま解雇されれば、ほかでも同じ話を流されます。業界でどうやって働けと言うんですか」「蒼和への採用を、お約束する場ではありません」蓮司が言った。篠原の口元が硬くなった。「では、何のために来たのかわかりませんね。資料だけよこせ、ということでしょう」「まず、何をしたのかを伺います」「一条代表の下で、言われた仕事をしただけです」紗月が顔を上げた。「私が病院へ行ったことも、直接問い合わせたことも、報告しましたよね。それも、ここに入れてください」「それは、日程管理です」「私の質問は日程管理で、篠原さんの質問は再検討の要請ですか」篠原の唇が止まった。「それまで、していないと言うつもりはありません」紗月は確認書を返した。「篠原さんが理不尽な目に遭ったからといって、私がされたことは消えません」蓮司が身を乗り出した。蒼和の名を出せば、あの鞄は開くかもしれない。紗月は彼の唇が開くのを見た。「私にしたことを外すのが条件なら、受け取りません」蓮司の視線が、鞄から紗月へ移った。手にしていたペンを置いた。「私は紗月さんの代理人です。篠原さんご自身の責任については、別の弁護士とご検討ください」橘が言った。篠原は長く動かなかった。壁時計の秒針だけが聞こえた。やがて、鞄から薄い束を取り出した。「これは、置いていきます」確認書を渡される前に、仕事でやり取りしたメールと添付一覧だった。原文の番号が不完全で、再確認が必要だという一文が見えた。その下には、ひとまず決められた日程どおり進めるようにという返信があった。送信者は別の実務担当者で、本文に「代表確認済み」とあった。「一条代表が、直接指示したのですか」蓮司に問われ、篠原はメールの束
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26話. 切り取られた声の前後

里香は、くしゃくしゃにした紙を一枚持ってきた。「これにサインしろって」紗月は、テーブルの向こうの女を見た。前にカフェで会ったときより、頬がこけていた。けれど、その表情を気の毒に思う余裕はなかった。里香が広げた紙の表題は、支援終了に伴う事実確認。2016年に学校で起きた個人間の争いに対し、修吾が事後の支援を行ったという説明が続いた。紗月の目が「個人間の争い」で止まった。そこには、手のことも、退学のこともなかった。紗月は伸びない薬指を、テーブルへ置いた。「これを、書こうとしたの?」「だから、書かずに来たじゃない」里香が背もたれに寄りかかった。隣には、彼女が別に相談した弁護士が座っていた。橘と連絡を取り、設けた場だった。紗月の代理人と、里香の代理人は、違う側に座っていた。里香が鞄を握った。「明日が、振込日なの。これを片づけないなら、もう払わないって」「だから、録音を渡すということ?」「私だって、どうしようもないから」里香が唇を噛んだ。「全部渡したら、あんたはそれで一条修吾を捕まえて、私は一人になる。先に約束して。私に不利なところは、省いて」紗月は、長く言葉が出なかった。里香は答えを待っていた。あの日、扉の前を塞いで笑った女が、今日は自分に都合のいい言葉を待っている。「何を、省いてほしいの」紗月が聞いた。里香が目をそらした。「私が言ったこと。余計に興奮して言ったことだって、あるし」「じゃあ、私が聞いたファイルから、あなたの言葉を切ったの?」すぐには返事がなかった。里香の弁護士が、少し相談の時間を求めた。紗月と橘は、外へ出た。廊下に出て、紗月は水のカップを置いた。「不利な部分を省かなければ、ファイルをもらえなくても、ですか」橘がうなずいた。「受け入れられない条件なら、断って構いません」紗月は扉を開け、戻った。「その約束は、しない」里香が目を閉じて、開いた。「あんた、本当に私が刑務所に入ったら嬉しいの?」「嬉しいか、嫌か。どうして、あなたが選ぶの」紗月の声が低くなった。「あの日、私の手をつかんだのは、あなたよ」鞄を握る里香の手を見た。「今日は、自分の言葉を支えてくれる人が必要なんだね」里香の唇が開いた。「私はしない。あなたがしたことは、あなたが話して」里香は膝の鞄のファスナーに、ずっと触っていた。隣の
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27話. 記憶の空白

話し合いが終わると、里香が扉の前まで追ってきた。橘も二人のそばで立ち止まった。里香は紗月の手を見て、目をそらした。「あの日……ちょっと脅せば、済むと思ったの」紗月は鞄の持ち手を、反対の手へ替えた。「ちょっと脅しただけで、私の手はどうしてこうなったの」右手を少し上げてみせると、里香の視線が落ちた。「その言葉で、私に何をしてほしいの?」里香は答えられなかった。「今日は、それ以上聞けない」紗月は先に出た。階段を下りかけ、手すりをつかんで止まった。脚が急に重くなった。弁護士が隣で、エレベーターにしようと言った。大丈夫と答えかけ、うなずいた。「はい。今日は、そうします」外へ出て、蓮司に録音の前後を聞いたと知らせた。会いますかと聞かれた。「今日は、先に少し休みます。あとで、自分から電話してもいいですか」「ええ。お電話が来るまで、仕事をしています」紗月は通話を終えた。彼の一日まで止めたわけではない。それが、少し楽だった。宿へ戻っても、音楽はかけなかった。窓を少し開け、洗面台で手を洗った。洗っても、あの声は消えない。それでも、水を止めてタオルを選ぶ動作はできた。持ち帰った診療資料の封筒を、机に置いた。あの日、自分が直接見たものと、あとから修吾に説明されたことが、何度も混ざった。紗月は二つに分けて書いた。病院で、修吾を見た。修吾は、知ったのが遅かったと言った。同じ記憶としてまとめていた二文のあいだに、初めて空白の行ができた。紗月は、その行へペンを置かなかった。「知ったのが遅かった」の下には、疑問符を一つだけ残した。* * *雨が降っていたことは、覚えていた。けれど病院へ向かう車の中でも、雨音を聞いたかどうかは、わからなかった。紗月は書いた文を消した。橘は向かいで別の資料を読んでいた。記憶を書いているあいだは、何も言わないと約束していた。旧校舎の廊下。閉じた窓。焦げた匂い。手を放してと頼んだこと。病院で横になっていたこと。包帯が大きすぎると思ったこと。修吾が顔の近くへかがんだこと。そのあいだに、抜けた時間があった。折っていた紙を開き直した。昨夜の文には、修吾が自分を運んだとあった。長く見たあと、名前に線を引いた。病室で彼を見たことと、誰が運んだかは、別の記憶だった。消すと、あの日がいっそう頼りなく見えた。そんなに大切なこと
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28話. 取り次がないでください

午後、母に電話をかけた。入院費の話をするつもりではなかった。昔の診療資料を誰が整理したのかを尋ねた。母は覚えていることと、わからないことを分けて話した。修吾が持ってきた封筒があったという。父のことで受け取った書類も、似たような紙の封筒に入っていた、と続けた。「お母さん、あれ、全部捨てた?」「家にあったものは、あなたが持っていったと思うけど」紗月は小さな箱を見た。「うん。探してみる。わからなかったら、今度一緒に見よう」通話を終え、財団の連絡票をもう一度開いた。上部には引き継ぎの分類が記されていた。HD-16。天城総合から届いた管理勘定の表紙で見た番号だった。七瀬直之に関する遺族支援という名目で、今も続く支出をまとめていた分類。二つの資料を並べ、橘弁護士に知らせた。「病院への連絡資料に、父のほうの管理番号が入っています」「二つの資料がつながるのか、作成者を確認しましょう」銀行の借金ではなかった。父の死後の支援を担当した人々が、紗月が負傷したときにも登場する。紗月はHD-16の下に黒田室長の名前を書いた。日が傾く頃、日付と担当者の部分を蓮司にも共有した。ファイルを送ったあとも、紗月は電話を切れなかった。「全部覚えているつもりだったのに、そうじゃありませんでした」「ずいぶん前のことですから」「でも、あの人は何もかも覚えているみたいに話すんです。私が何に泣いて、どうしてやめて、どんな言葉を聞きたがっていたかまで」紗月は窓の外を見た。「私のほうが、あの人の話に自分の記憶を合わせていたんでしょうね」蓮司は少し黙った。「私も姉のことで、そうなったことがあります。話してくれた人の確信を、借りたかったんです」紗月は静かに聞いた。どうしてそうしたのか、説明は求めなかった。いつか彼自身が話してくれたら、そのとき聞きたかった。電話を切ると、フロントから連絡が入った。「七瀬紗月様、お荷物をお届けしたいという方がお見えです。一条修吾様とおっしゃっています。ご宿泊の有無は、お客様にはお伝えしておりません」紗月は手から力が抜けるのを感じた。並べたばかりの紙の上に、スマートフォンが触れた。画面の下には、蓮司との通話を終えた時刻が表示されていた。「取り次がないでください」紗月は言った。最初の返事は、思ったより早く出た。「その方には会いません」
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29話. 握ってほしいと頼んだ手

蓮司が到着した頃には、ロビーはいつもの静けさを取り戻していた。 紗月はスタッフに案内された休憩スペースへ下りた。エレベーターの扉が開くと、思わず出入り口を見た。修吾の姿はなかった。蓮司が立ち上がり、近づいてきた。 彼は椅子の横に鞄を置いた。スーツの袖には、飛行機でできた皺がついていた。 「こちらに座りましょう」 紗月は勧められた席にすぐには座らなかった。出入り口に背を向ける椅子だった。隣の椅子を引くと、蓮司が自分の席を変えた。 「ここがよさそうですね」 紗月が見ようとしていた出入り口を遮らない場所へ、鞄まで動かした。彼女が座ってから、自分の椅子を引いた。 修吾をどこで見つけられるか尋ねたり、人を向かわせると言ったりはしなかった。これまで届いた連絡を橘に伝えたかを確認すると、スマートフォンを伏せた。 「どこかに行かなくていいんですか」 紗月は尋ねた。 「今は大丈夫です」 「私、少し時間がかかると思います」 彼は頷いた。 紗月はテーブルに手を置いた。ずっと力を入れていたせいで、薬指が強張っていた。蓮司の視線がそちらへ下がり、止まった。 紗月のほうから、少し手を伸ばした。 「こっちの手じゃなくて」 左手を差し出した。 「こっちを、握ってくれますか」 蓮司は少しだけ彼女の顔を見た。それから掌を上にして、テーブルに置いた。紗月はその上に手を重ねた。 大きくて、温かかった。指を伸ばしてみな
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30話. 私のカレンダーにないシンガポール

二人は事務所を出て、近くの食堂に入った。唐揚げの店ではなかった。ただ、その時間にも昼食を食べられる場所だった。 蓮司は注文を済ませると、スマートフォンの画面を見た。指は動かなかった。紗月が向かいに座って水差しを持ち上げると、ようやく画面を消した。 「今日は思ったより話してしまいましたね」 彼は言った。 「嫌ではありませんでした」 紗月は自分のコップに水を注いだ。蓮司にも水差しを渡した。 「でも、ずっと悪いことをした人みたいに話すんですね」 蓮司は水差しを置いた。 「遅かったという思いが消えないんです」 「あの日の夕食に?」 「その日もそうですし。事故のあとも」 彼は窓の外を見た。 「戻って資料を探している間にも、姉の話は変わっていきました。無理をした、一人で事を起こした。姉を弁護したいのに、まずそんな話から確かめなければならなかった」 紗月は手に取った箸を置いた。 「いい人だったと言えば、済むと思いましたか」 蓮司が先に尋ねた。紗月が答えずにいると、彼は小さく首を振った。 「私は、そう思っていました。みんなが姉をよく知れば、正せるのだと」 料理が運ばれてきた。二人は少し話を止めた。紗月は汁物を一匙すくい、蓮司がまだ箸を取っていないことに気づいた。 「先にいただきます」 そう言った。 蓮司が顔を上げた。 
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