私の救世主は、傷を知りすぎている

私の救世主は、傷を知りすぎている

last updateTerakhir Diperbarui : 2026-10-14
Oleh:  YuImBaru saja diperbarui
Bahasa: Japanese
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「私の手を折った女に、修吾さんは今月も50万円を送っていた。」 十年前、右手を傷つけられ、ヴァイオリンの夢を失った七瀬紗月。治療費も母の世話も引き受けた弁護士・一条修吾は、彼女にとって唯一の救世主だった。 だが、隠された送金記録と一つの録音が、十年の信頼を崩していく。優しさは愛か、それとも逃げられない檻なのか。 傷つく前の彼女の音を覚えていた社長・鷹宮蓮司との出会いが、紗月の選択を変える。 もう、誰かに人生の答えを決めさせない。自分の名前で真相を追い、再び弓を握ると決めた彼女は、本当の愛と明日を取り戻せるのか。

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Bab 1

1話. 毎月50万円

――私の手を折った女に、修吾さんは今月も50万円を送っていた。

紗月は受取人の欄を指で隠した。相沢里香。指をどけても、そこにある名前は変わらない。

同姓同名ならいい。珍しい名前ではないのだから。署名さえ、違っていれば。

最後の一画が長く伸びて、名前の下に線を引いていた。学校で紗月の素描帳を台無しにしたあとも、里香は必ずこうして名前を残した。誰の仕業か、隠す必要すらないとでもいうように。

紗月は紙をめくろうとした。右手の薬指が伸びなかった。

ヴァイオリンの弓を取り落としたあの日から、10年。思うとおりには伸びてくれない指だった。

「紗月。コーヒー、冷めるよ」

書斎の外から修吾が呼んだ。

紗月は広げた書類を閉じられなかった。左手で右の薬指を包み込んで、ようやく紙の上の影が揺れなくなった。

「うん。すぐ行きます」

いつもと同じ声が出たことに、自分で驚いた。

修吾から預かった支援金の精算ファイルだった。いつもは日付順に領収書を並べるだけ。誰に渡した金なのかは、管理番号に隠されていた。

今回は、C-04の後ろに受領確認書がついていた。金を受け取った相手の名前と署名が、初めて見える形で載った一枚。

相沢里香。

支給理由は、生活支援。

紗月は次のページをめくった。前の月も50万円。その前も同じ額。支払日は、すべて毎月15日だった。

先月の15日は雨だった。右手が痛んで、水の入ったグラスを落としかけた日だ。修吾は代わりにグラスを持って口元に運び、夜のあいだずっと手を揉んでくれた。

あの日、この女にもお金を渡していたんだ。

水をこぼした紗月に、修吾は気にするなと言った。シャツなんて買い直せばいい、と。その言葉がありがたくて、手を揉んでもらいながら、痛いとさえ言えなかった。

里香も、あの日に金を受け取った。新しいシャツなら何枚でも、好きに買えるだけの金を。

紙の縁が爪の下に食い込んだ。今度は、どこが痛いのかはっきりわかった。

「まだかかりそう?」

修吾の足音が近づいてきた。

紗月はスマートフォンのカメラを起動した。受領確認書を一枚。管理番号と日付の入った精算表を一枚。二枚目には、自分の手の影がかかった。

ドアのレバーが下がった。

画面を消し、スマートフォンを伏せた。確認書をほかの紙の下へ滑り込ませた指先が震える。悪いことなど何もしていない。それなのに、見つかってはいけないことをしている人間みたいだった。

扉が開き、修吾が入ってきた。まだ結んでいないネクタイが、シャツの両側に垂れている。

「先に食べよう。難しい仕事を頼んじゃったかな」

「日付の合わないものがあって」

「そういうのは篠原に回せばいい。紗月が頭を悩ませる必要はないよ」

隣に来た修吾が手首を取った。力を込められたわけでもないのに、紗月は反射的に立ち上がっていた。紙の下に隠した名前が、視界から遠ざかる。

「また右手が震えてる。昨日、早く寝るように言っただろう」

「ちゃんと眠れました」

「じゃあ、どうして」

修吾の親指が、指の関節を押した。古い傷痕の縁が白くなる。

痛いとは言えなかった。手を確かめる彼の顔を見ていたからだ。額に寄った細い皺。不調のあるところを探す視線。10年間、一度も疑わなかった表情だった。

「お腹がすいたのかもしれません」

「だから、食べようって」

修吾は笑って、彼女を食卓へ連れていった。

2026年9月。隅田川を見下ろす住まいの朝は、いつもよく似ていた。一人が先に座れば、もう一人がナプキンを広げる。修吾の前にはコーヒー。紗月の前には温かいお茶。自分が最後にコーヒーを飲んだのはいつだったか、ふと思い出せなくなった。

カトラリーを持ちかけた手を止め、修吾のネクタイを結んだ。喉のすぐ下で引っ張れば、この人も息が苦しくなるだろうか。そんな考えがよぎって、手を緩めた。修吾はスマートフォンを見ていた。

「今夜、西園寺常務と食事がある。紗月も来て」

「西園寺麗華さんですか?」

「オークションの資料は紗月が整理したんだから。聞かれたことに答えてくれればいい」

経済誌で見た写真が浮かんだ。西園寺グループの令嬢と、天城総合法律事務所の若き代表弁護士。肩が触れそうな距離に立つ二人の下に、縁談という文字があった。

「ベージュのを着て。この前、仕立てたやつ」

「あれはクリーニングに出していて」

「午前中に届けてもらえばいいだろう」

修吾は返事を待たず、画面を送った。紗月は手に残ったネクタイの先を放した。学生の頃から、そうだった。彼が決めて、自分がやり方を探す。

彼がいなかったら、治療費をどう払っていただろう。母を誰に頼れただろう。18歳。手を傷めて入院した病室でそんな問いを口にすれば、答えはいつも一つだった。

一条先輩。

彼は病室の前まで里香を連れてきて、膝をつかせた。里香が口を開くより先に、その頬を打った。紗月は音に驚いて目を閉じ、開けたときには、修吾が自分の前に座っていた。

――あとは俺に任せて。

そう言ってくれた。

任せろと言ったことの中には、毎月50万円を送ることも入っていたのだろうか。

「今日、母の面会予約も入れておきます」

考えを追い払おうとして口にした。画面の上で、修吾の指が止まる。

「この前、行ったばかりじゃないか」

「髪を切ってもらう約束なんです。水曜に訪問理美容の方が来るそうで」

「それは病院でやってくれるだろう」

紗月はティーカップを持ちかけ、置いた。髪は病院で切ってくれる。服だって運転手に届けてもらえる。どんな理由を口にしても、修吾はもっと楽な方法を見つけてくれるはずだった。

お母さんに会いたいんです。

その一言で済むはずなのに、まだ言えない。

「切ったところだけでも、見たくて」

修吾はしばらく彼女を見た。

「わかった。運転手と一緒に行っておいで。一人で無理をしないように」

「ありがとうございます」

それを聞いて、彼はようやくスマートフォンに視線を戻した。

紗月は口に入れたパンを噛んだ。バターの味がしなかった。

玄関でスタッフが彼を呼んだ。立ち上がりかけた修吾が、もう一度食卓を向く。

「精算のファイルは、そのまま置いておいて。明日の午後、篠原が取りに来る」

「はい」

「写真も選んでおいて。昔の演奏会の写真。広報が支援事例集に使いたいそうだ」

「私の写真を?」

「青陵の頃から支援してきた例があれば、説得力があるだろう。紗月の話以上にいいものはないよ」

修吾が彼女の頭に手を置いた。少しかがんで顔をのぞき込む、優しい仕草だった。

「気負わなくていい。俺が全部確認してから出すから」

扉が閉まっても、紗月は食卓に座っていた。ついさっきまでいた人がいなくなると、この家はひどく静かになる。空のカップに触れて初めて、お茶を飲み終えたことに気づいた。

書斎に戻り、精算ファイルを開いた。

里香の確認書には、受取額以外にも記載があった。住所と連絡先を変更したという短い一文。横浜の小さな店、ブルー・パブ。電話番号の下四桁を書き写しかけたところで、紗月のペンが止まった。

スマートフォンを取り、修吾の名前を押す。通話ボタンのすぐ上で、指が止まった。

聞けば答えてくれるだろう。優しく、間違いのない言葉で。それを聞いて安心してしまう自分が浮かび、首の後ろが冷たくなった。

電話はかけず、画面を消した。

里香の番号を、最後まで書いた。今度は、修吾に先に答えを決めさせない。

朝に撮った写真を確認した。精算表の端に、手の影が落ちている。相沢里香の名前も、支給額も読めた。

扉がほんの少し早く開いていたら、この二枚すら残らなかった。

廊下から掃除機をかける音がした。紗月はスマートフォンを伏せた。

「奥様、書斎もお掃除しましょうか」

家事を任されている三田が、扉の隙間から声をかけた。

「いいえ。ここは自分でやります」

奥様。

式も挙げていないし、婚姻届も出していない。それでも、この家では皆がそう呼んだ。最初にやめてほしいと言ったとき、修吾は笑った。いずれそうなるんだから、細かいことを気にするな、と。

その「いずれ」が来る前に、麗華との縁談が新聞に載った。

紗月は写真二枚を人目につかない場所へ保存し、ファイルを元の位置に戻した。今度は、紙の端がずれていないか、それだけを確かめた。

明日の午後には、この紙は篠原の手に渡る。書き写した番号を、財布の奥へ押し込んだ。

あの日、私を救ったというあの人が――どうして、あなたにお金を払うの。

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1話. 毎月50万円
――私の手を折った女に、修吾さんは今月も50万円を送っていた。紗月は受取人の欄を指で隠した。相沢里香。指をどけても、そこにある名前は変わらない。同姓同名ならいい。珍しい名前ではないのだから。署名さえ、違っていれば。最後の一画が長く伸びて、名前の下に線を引いていた。学校で紗月の素描帳を台無しにしたあとも、里香は必ずこうして名前を残した。誰の仕業か、隠す必要すらないとでもいうように。紗月は紙をめくろうとした。右手の薬指が伸びなかった。ヴァイオリンの弓を取り落としたあの日から、10年。思うとおりには伸びてくれない指だった。「紗月。コーヒー、冷めるよ」書斎の外から修吾が呼んだ。紗月は広げた書類を閉じられなかった。左手で右の薬指を包み込んで、ようやく紙の上の影が揺れなくなった。「うん。すぐ行きます」いつもと同じ声が出たことに、自分で驚いた。修吾から預かった支援金の精算ファイルだった。いつもは日付順に領収書を並べるだけ。誰に渡した金なのかは、管理番号に隠されていた。今回は、C-04の後ろに受領確認書がついていた。金を受け取った相手の名前と署名が、初めて見える形で載った一枚。相沢里香。支給理由は、生活支援。紗月は次のページをめくった。前の月も50万円。その前も同じ額。支払日は、すべて毎月15日だった。先月の15日は雨だった。右手が痛んで、水の入ったグラスを落としかけた日だ。修吾は代わりにグラスを持って口元に運び、夜のあいだずっと手を揉んでくれた。あの日、この女にもお金を渡していたんだ。水をこぼした紗月に、修吾は気にするなと言った。シャツなんて買い直せばいい、と。その言葉がありがたくて、手を揉んでもらいながら、痛いとさえ言えなかった。里香も、あの日に金を受け取った。新しいシャツなら何枚でも、好きに買えるだけの金を。紙の縁が爪の下に食い込んだ。今度は、どこが痛いのかはっきりわかった。「まだかかりそう?」修吾の足音が近づいてきた。紗月はスマートフォンのカメラを起動した。受領確認書を一枚。管理番号と日付の入った精算表を一枚。二枚目には、自分の手の影がかかった。ドアのレバーが下がった。画面を消し、スマートフォンを伏せた。確認書をほかの紙の下へ滑り込ませた指先が震える。悪いことなど何もしていない。それなのに、見つかってはいけないことをしてい
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2話. 秘書の席
食卓には、椅子が三脚しかなかった。紗月は入口で足を緩めた。修吾と麗華。それから、まだ到着していない客。自分が持ってきた書類鞄を置く椅子さえない。「それは、こっちに」修吾が自分の椅子の後ろを指した。紗月はサイドテーブルに鞄を下ろした。麗華が彼女のブラウスを見て、小さく笑った。「おうちから、そのままいらしたのかと思った。一条先生は、職員の服まで選んで差し上げるんですね?」「麗華さんが気にすることではありません」修吾がメニューを開いた。出かけるときには、紗月の襟元まで直してくれた手だった。今は、向かいの椅子にかかった麗華のバッグをどけてくれようともしない。紗月は書類を取り出した。ベージュの袖が食卓の端をかすめた。座って食べる人のための服ではなかった。卓上にオークションカタログを並べる。角をそろえるのには慣れていて、考えるより先に手が動いた。厚い表紙を右の親指で押さえた瞬間、麗華の視線が傷痕に触れた。「今回は、うちの奨学生たちにも舞台に立ってもらうの。紗月さんも昔は楽器をなさっていたんですって?」「ヴァイオリンを専攻していました」「ちょうどよかった。子供たちが緊張しないように、そばで見ていてくださる? あまり硬い顔をされると、写真映えしないから」紗月は表紙から手を離した。「演奏の指導は、担当の先生にお願いしたほうがいいと思います」「レッスンを頼んでいるわけじゃないの。服を整えて、順番どおりに舞台へ上げて。そういうの、お得意でしょう?」麗華がシャンパングラスを押し出した。紗月はクーラーからボトルを取り上げる。首に巻かれた白い布が、冷たく湿っていた。修吾の視線が、右手で止まった。「左手で支えて。また落とさないように」紗月はボトルを持ち直した。言われなければ、震えなかったかもしれない。麗華のグラスを満たすあいだに、一滴、シャンパンがテーブルクロスに落ちた。「あら」麗華がナプキンを置いた。食卓の端から手を離した拍子に、布が紗月の足元へ滑り落ちた。「構いませんよ。新しいものを持ってきて」その言葉を聞く前に、紗月は身をかがめていた。「紗月、手に気をつけて」頭の上から修吾の声がした。拾えとも、拾わなくていいとも言わない。紗月は床に触れる寸前で手を止めた。入口のほうで、誰かが言った。「スタッフを呼びましょう」紗月が顔を上げる。開い
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3話. 口を閉ざした代金
「C-04ですか? ずっと同じ方です」篠原の返事は短かった。紗月は肩と耳のあいだにスマートフォンを挟み、精算表をめくった。修吾は朝、出勤していた。午後には篠原が書類を取りに来る。その前に確かめる時間が必要だった。「今回は受取人の名前もついていたので。番号が変わったのかと思って」「担当者が替わって、原本を添付したのでしょう。金額だけ合わせておいていただければ結構です」「昔の資料も、同じ番号で探せばいいんですよね?」電話の向こうで、キーボードの音が止まった。「代表から、過去の資料まで整理するよう指示があったのですか」紗月は広げた紙を見下ろした。早く、いいえと答えなければいけない気がした。叱られないためには、いつもそう答えるのがいちばん早かった。「支援事例集に使う資料を選んでおくように言われて。私の治療費も含まれていますし」嘘ではなかった。「それは代表が選んでお渡しになるはずです。まずは前の四半期分だけお願いします」「はい、わかりました」通話が終わり、紗月はメモしていたペンを置いた。ずっと同じ人。誤って紛れ込んだ書類かもしれないという期待が、一つ消えた。ブルー・パブを検索した。確認書の電話番号は、店の番号と一致した。地図には、車で行ける距離が表示された。運転手を連れていけば、修吾にも伝わる。先に里香へ電話すれば、彼女が修吾に知らせるかもしれない。地図を閉じた。財布の中の蓮司の名刺にも触れなかった。修吾と同じ食卓についていた男に任せるには、知っていることが少なすぎた。先に、母の療養先の病院へ電話した。翌日午後2時の面会を確認し、診療の説明を自分が直接聞けるか尋ねる。「最近、直接伺ったことがあまりなくて」職員は、どうして知らなかったのかとは聞かなかった。少し早く来れば、担当の看護師に取り次いでみると言ってくれた。紗月は明日持っていく服を取り出した。引き出しの奥から、古い楽譜集が一緒に出てきた。最後に練習した日の印が残っていた。弓が二度、床に落ちた。三度目に拾おうとしたとき、修吾がケースへしまった。――もう、自分を苦しめるのはやめなよ。あの言葉に感謝した。やめてもいいという許可が欲しかったから。紗月は丸をつけた小節を親指で隠し、楽譜集を戻した。午後3時、篠原が来た。彼は封筒を受け取るなり、書類の枚数を数えた。紗月は向かいに、空
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4話. あの日の声
――手を使えなくしろ。病院には俺が行くから。再生が止まった。紗月はスマートフォンから目を離さなかった。まだ誰かが話す気がした。冗談だとか、聞き間違いだとか。この声を知っている誰かが割って入り、訂正してくれるはずだった。食事の席で、魚の骨を取ってやると言った声だ。紗月が傷つく前から、修吾は病院へ来ることになっていた。手を使えなくしろ。その手を、この人が10年間揉んできた。薬指が伸びなくなれば、先に手を差し出してくれた。紗月は、痛いと言うことさえ控えた。放さずに、もう少しだけ触れていてほしかった。「もう一度」病院には俺が行くから。そこまで、もう一度聞かなければ。自分が泣きながら待った人は、いつから来ることになっていたのか。「紗月」「もう一度、流して」里香が再生を押した。今度は、声が終わる前に紗月が画面を覆った。右手ではなく、左手で。画面を押さえるのにどれだけ力が要るのかさえ、わからなかった。修吾が病室で言った言葉が浮かぶ。――遅くなって、ごめん。あの言葉を聞いて泣いた。本当に、知るのが遅れたから来られなかったのだと信じた。傷ついた手をどこへ置けばいいかわからず、修吾のシャツをつかんだ。あのとき、彼のシャツに血がつくことを心配した。紗月はうつむいた。胃の中がひっくり返った。里香が水を寄せたが、受け取れなかった。「私だって、あのときは家が潰れそうだったの。父親の会社の資金繰りをどうにかしてやるって言われたら……」「あなたは」紗月はようやく、言葉をつないだ。「電話を切って、何を考えたの?」里香が黙った。「私、ずっとお願いしたよね。手だけは放してって」「その話はやめて」「あなたは、聞いてたでしょう」里香が紙コップを潰した。「折れる音まで、すぐ隣で聞いてたでしょう」涙がテーブルに落ちた。紗月は拭かなかった。あのとき見て見ぬふりをした女の前で、今日まで顔を整えてやりたくなかった。「ごめん」あまりに小さな声で、再び動きだしたコーヒーマシンの音に埋もれた。紗月は水を一口飲んだ。飲み込めないと思ったのに、喉を通った。こんな声を聞いたあとでも、水が飲める。それが不思議だった。「ファイルを送って」「全部は渡せない」「今、聞いたところ」里香は長いためらいの末に、ファイルを送った。紗月は届いた音声を確かめた。再生時間は短い。あ
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5話. 約束できないこと
修吾が、手を出すように言った。紗月は夕食のあいだじゅう、その瞬間を待っていた。食卓を片づけ、外出着を着替え、母の写真を見せると、次は手を揉んでもらう時間だった。そのたびに彼はテレビの音を下げ、紗月はソファの同じ場所に座った。「今日は、このまま寝ます」言ってから初めて、断ったのだと気づいた。修吾が彼女を見た。「どうしたの。そんなに痛い?」「少し」「そういうときこそ、ほぐさないと」彼が手を伸ばす。逃げないように、紗月は膝に力を込めた。修吾の指が触れる直前、先に肩がすくんだ。修吾が止まった。短い沈黙のあと、彼が聞いた。「外で、何かあった?」「お母さんを見たら……」母を言い訳にしたくなかった。それでも今日は、本当に母を見て泣きたくなった。嘘を作る代わりに、その感情だけをつかんだ。「すごく、年を取ったみたいで」修吾が彼女を引き寄せた。紗月は彼の肩に額をつけた。抱かれた瞬間、知らずに呼吸が緩んだ。そのことが、いちばん恐ろしかった。この人が何をしたか知っているのに、体は慣れた場所に寄りかかってしまう。「一人で抱え込ませたりしないよ。俺がいるだろう」彼のシャツから、いつもの洗剤の匂いがした。この匂いの中で眠り、痛い日には泣いた。今日は、肩に触れた額を、どこへ移せばいいのかわからなかった。修吾が背中をなでた。紗月は左手で右手を包んだ。彼の腕の中で、もう一度手を取られないように。「ありがとうございます」癖のように出た言葉は、のみ込めなかった。代わりに、その先は言わなかった。信じている、と。以前のようには言わなかった。* * *夜明け前、紗月は小さな部屋へ移って座った。修吾は書斎で仕事をしたまま眠り、彼女は母へ送る写真を整理すると言っておいた。鷹宮蓮司の名刺を、机に置いた。一行を書くのに、長くかかった。【支援に関する書類で、確認したいことが出てきました。ほかの方を介さず、お話しできますか。七瀬紗月です】送ったメールをもう一度開いた。ファイルは添付していない。里香の声も、名前も書かなかった。まだ、誰を信じていいのかわからない。朝には返事が届いていた。【本日午前中でしたら、直接お電話できます。ご都合のよい時間をお知らせください】紗月は10時と書いた。修吾が出勤して、ほかのスタッフが来る前の時間だった。蓮司は約束どおりの時刻に電話を
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-10-11
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6話. 自分で書いた連絡先
橘弁護士は、録音を二度は聞かなかった。最初の再生が終わると、スマートフォンを置き、紗月に尋ねた。「このファイルを受け取った経緯を、最初からお話しください。推測ではなく、ご自分で見聞きしたことだけを」紗月は受領確認書を見つけたところから説明した。言葉がもつれるたび、修吾が悪い人だという説明を付け加えたくなった。橘は、どうしてそんなに長く気づかなかったのかとは聞かなかった。代わりに、曖昧な日付だけを確かめた。「もとの録音全体は、相沢里香さんが持っていると、そう言っていたんですね」「はい。もらったのは一部です」「受け取ったファイルは、そのまま保管してください。全体の録音を入手する方法は、こちらで検討します」橘が受取日を書き留めた。「紗月さんが、もう一度一人で会って取りにいく必要はありません」「私を、信じてくださるんですか」弁護士のペンが止まった。「お話を伺い、検討するのが私の仕事です。信じてもらおうとして、覚えていないところまで埋める必要はありませんよ」紗月はペンを持った。時刻まで正確には思い出せない日付の横に、疑問符を書く。修吾の前だったら、彼の記憶している時刻に直していただろう。橘は疑問符を消さず、次の質問へ進んだ。紗月も初めて、背もたれに背をつけた。机には相談申込書が置かれていた。氏名と生年月日の下に、連絡の取れる番号を書く欄がある。緊急連絡先を書こうとした手が、癖で動きかけて止まった。一条修吾。名前の一文字目さえ、最後まで書けなかった。「その欄は、あとで決めていただいても構いません」橘が別の紙を差し出した。紗月は自分の携帯番号だけを書いた。「今日の話は、鷹宮社長に全部伝わるんですか」「誰に何を伝えるかは、まず紗月さんと決めます。鷹宮さんの紹介だからといって、自動的に報告するわけではありません」「それなら今日は、相談したことだけ、自分から伝えます」「ええ。そうなさってください」橘はまず、母の診療計画と支払いの記録を尋ねた。転院するなら何を準備すべきか。母自身は、どこで暮らしたいのか。「同じ病院に通い続けられるようにしたいです。急に知らないところへ移すのも、怖くて」「では、移ることだけを答えにしないでおきましょう。病院から誰へ連絡するかを変えるところから始めることもできます。実際の状況を確認したうえで、ですが」紗月
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-10-11
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7話. 私のための計画書
写真の中の紗月は、弓を持って笑っていた。修吾がその写真を裏返した。「それより、こっちがいいかな」彼が選んだのは、病室の写真だった。右手に分厚い包帯を巻いた紗月と、そのそばに座って彼女を見る修吾。誰が撮ったのかも覚えていなかった。「私は、演奏している写真がいいです」「支援事例集だよ。どんな助けを受けたか、見えるものじゃないと」週末の朝、修吾は古い資料の箱をリビングへ持ってきた。広報に渡す前に、紗月が写真と経歴を確認すればいいと言った。黒田はすでに、コピーの束を横へ用意していた。いちばん上の透明ファイルには、英語交じりの表題がついていた。Project: 紗月。ファイルを取り出しても、すぐには開けなかった。「どうして、こんなふうに名前が書いてあるんですか」「当時の担当者が、そう整理したんだろう」修吾はソファに背を預け、コーヒーを飲んだ。「紗月には、してあげたことがたくさんあるから。治療に、進学の手助け。ここへ来てからは、生活の面倒も見てきたし」紗月は一枚目をめくった。母の病院の連絡先。学校、成績、奨学金の記録。次には、高校時代に届いた演奏会への招待状があった。演奏会の写真に写っているのは、紗月だけだった。病室の写真には、修吾もいた。彼が選んだ写真の角をそろえた。包帯を巻いた手の隣に、修吾の手が置かれている。紗月は膝の下まで布団をかけ、彼のシャツには皺一つなかった。誰が撮ったのだろう。シャッターが切られたとき、彼が自分を見ていたのは、偶然だったのだろうか。「この招待状は私のものですし、もらってもいいですか」「もちろん。全部、紗月のことなんだから」修吾は、何でもないことのように言った。「必要なものは写真を撮っておいて。広報で整理して、原本はまた保管するから」紗月は演奏会の写真を二枚選んだ。裏に、父の字があった。【紗月。終わってから冷麺を食べに行く】写真の端に、父の指が少し写り込んでいた。レンズを隠してしまったと、その場で文句を言った記憶がある。もう一枚撮ってやるという言葉に、お腹がすいたと先に歩いてしまった。紗月は赤くぼやけた隅まで、ファイルの外へ取り出した。切り取ってしまいたくなかった。あの日、もう一枚撮っていたら、父を撮ってあげられたのに。写真の縁の赤い指を、親指でなぞった。「お父さんのこと、思い出した?」修吾が聞
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8話. 写真の外の子供
「もう少し、手首を見せてくれる?」カメラマンが言った。ヴァイオリンを持った少女が袖に触れた。手首の内側に、薄いやけどの痕があった。少女がためらうと、進行担当者が笑って説明した。「美緒ちゃん。支援者の皆さんにも、どんな役に立っているのか知っていただかないと。こうして乗り越えて演奏しているなんて、本当に立派なんだから」月曜の午前。チャリティーオークション会場の隣の練習室に、五人の子供が集まっていた。紗月は出演順の確認と、備品を届けるために来ていた。麗華に言いつけられた仕事だった。カメラの前に立っているのは、13歳の水野美緒。名簿の専攻欄には、ヴァイオリンとある。紗月の目は、年齢よりも練習記録に止まった。難しい曲名がびっしり並び、最後の出演曲の横には、小さなチェックがついていた。美緒が少し袖を上げた。顔から笑みが消えた。「顔も上げて。そう、そのまま」シャッターが切られる前に、紗月が口を開いた。「少し待ってください。演奏姿勢の写真から撮っていただけませんか」カメラマンがカメラを下ろす。「企画書に、傷痕が見えるカットとあるので」「本人には、確認しましたか」進行担当者の笑顔が硬くなった。「保護者の同意はいただいています」紗月は美緒を見た。少女は何も言わず、袖を握りしめていた。「美緒ちゃん。この写真、撮っても大丈夫?」美緒の口が少し開き、また閉じた。「私……演奏しているところを、先に撮ってもらえませんか」カメラマンはすぐにうなずいた。「そうしようか。楽器を構えてみて」進行担当者が、紗月を脇へ呼んだ。「七瀬さん。写真には、こちらで決めた方針があります。背景になる物語がないと、支援は集まらないんですよ」「演奏を見せれば、いいじゃないですか」思ったより大きな声が出た。子供たちのほうを見る。美緒が、袖をつかんだまま彼女を見ていた。「傷痕のよく写った写真より、この子の得意なことを撮ってください」担当者が進行表を折った。「館長には、七瀬さんからのご要望とお伝えします」紗月は喉まで上がった謝罪をのみ込んだ。「はい。私がお願いしました」カメラが再び上がった。今度は、美緒から顎当てへ顔を寄せた。撮影を終えると、美緒は自分の場所に戻り、楽器を下ろした。空いた椅子の横に鞄を置き、弓の毛を緩める。素早く、正確な動きだった。「たくさん練習し
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9話. 同じ作品、二つの来歴
蒼和から届いた返事は、二行だった。【生徒の写真使用の可否と、既存の楽器貸与を結びつけない旨の確認を求めました。ギャラリー保管楽器については、貸与元を確認中です】紗月はまず、美緒の担当教師へ連絡した。まだ結論が出たわけではないと添えると、教師はかえって礼を言ってくれた。そのことで美緒が、何日もよく眠れていなかったことも教えてくれた。電話を切り、仕事のメールを開いた。麗華のギャラリーから、オークション資料の補足版が届いていた。翌日に送るはずの資料が、一週間以上遅れて来たのだ。今回は輸送記録まで添付されている。紗月は送付一覧を作りながら、あるファイルを開き直した。暁の天使。取得履歴には、フランスの個人コレクターから買い取ったとあった。ところが添付された輸送書類の出発地は、バンコクだった。最初は、別の作品の書類が間違って添付されたのかと思った。写真の下の管理番号を見ると、同じ番号だった。M-17。担当者へ電話をかけた。「取得履歴と輸送経路が違っていますが、途中の貸出履歴はありますか」「書類にあるものが全部ですが」「鷹宮社長の側から、抜けている履歴の提出を求められていますので。説明を付けたほうがいいかと思って」担当者が少し待つよう言った。保留音が流れる。そのあいだに、紗月は番号に添えられた写真を拡大した。台座に、長く削れた溝があった。カタログの写真を隣に出すと、その場所だけが滑らかだった。カタログの向きを変え、光の方向を合わせてみた。溝は見えない。写真の下に撮影日を書き、台座の部分を別に囲んだ。誰に見せても同じ場所を見つけられるように。担当者が戻った。「館長は今、外出中ですので。秘書の篠原様から、ご説明があります」ギャラリーの作品の輸送経路を、どうして修吾の秘書が説明するのだろう。紗月は、その問いをのみ込んだ。「では、メールでご回答をお願いします」電話を終えるなり、スマートフォンが鳴った。篠原だった。「資料は、お送りいただくだけで結構です」挨拶もなく、本題に入った。「質問されたら、私が答えなければなりませんから」「蒼和から聞かれたら、天城総合へ連絡するよう伝えてください。その取引は、こちらで確認済みです」「経路が違う理由があるはずですから、一行だけでも書いていただければ……」「七瀬紗月さん」奥様ではなく、名前を呼ばれた。
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10話. 届かない原本
【ファイル消して。あれ、間違えて送ったの】里香からメッセージが来た。朝、その一文を読んだ紗月は、歯ブラシを洗面台に置いた。ほどなく、電話がかかってきた。「読んだ? 消してって言ってるの」「どんなファイルか、わかって送ったでしょう」「あんたに何がわかるの。昔、私が一部だけ切り出しておいたものなの。前後も聞かずに通報なんかしたら、私だって黙ってないから」紗月は洗面所の扉を開け、外を確かめた。修吾は出勤の支度をしながら、別の部屋で電話をしていた。「それなら、前後も送って」「嫌だって言ったでしょ」「急にどうしたの?」里香はしばらく答えず、低く悪態をついた。「一条修吾から連絡が来たの。支援金を全部見直すって。私が、誰にどんな確認書を渡したか聞いてきた」紗月は洗面台の縁をつかんだ。「私と会ったって言った?」「あんたが先に話したかどうか、わからなきゃ答えられないでしょ」「私から聞いたと言おうが言うまいが、受け取ったお金は、あなたが説明することよ」「偉そうね。あんたは、あの人のお金で暮らしてこなかったっていうの?」紗月は口を閉じた。里香は、その隙を逃さなかった。「私は少なくとも、何のお金か知ってた。あんたは何も知らないで、お姫様みたいに暮らしてたじゃない。今さら私だけ悪者にする気?」紗月は鏡を見た。中の女は、唇の片側に歯磨き粉の泡をつけていた。それを拭うことに集中した。先に泣けば、里香は話し続けるだろう。「私は、あなたの手を折ってない」言葉が出ると、鏡の中の唇はもう震えていなかった。「あなたがもらったお金と、私が騙されたことを、同じ話にしないで」「そういうことは、法廷で言いなさいよ。あんたの口座も、どこまできれいか見てもらいましょ」「何か知ってるなら、話して」「まず約束して。私には手を出さないって」「それはできない」里香が電話を切った。紗月はしばらく洗面所に立っていた。もとの録音はもらえなかった。里香が考えを変えなければ、あの短いファイルだけで戦わなければならないのかもしれない。* * *鑑定書の原本も、届かなかった。蒼和の担当者は、午前の審査で未確認の点を指摘した。ギャラリーは再搬入品なので履歴が違って見えるのだと説明したが、どの展示を経て戻ってきたのかを示す文書はなかった。鑑定の専門家は、切れた写しだけで贋作だ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-10-11
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