「白石。今夜、少し付き合ってくれ」午後八時四十分。社長室に残っている社員は、私ひとりだった。東條怜司は、手元の資料から顔を上げずに言った。「……まだ、お仕事が残っているんですか」「いや。今日の分は終わった」「そうでしたか。では、何か確認事項でしょうか」そこでようやく、怜司が顔を上げた。「食事だ。こんな時間まで付き合わせたんだから、夕飯くらいご馳走させてくれ」「……そんな、お気遣いなく。私の仕事ですから」動揺し、一瞬返事をするのが遅れる。「君はいつもそう言うな」怜司は資料を閉じ、椅子の背にもたれた。「俺が食事に誘うのは、そんなに珍しいか?」「……正直申し上げますと、少し、驚きました」怜司は小さく笑った。「そうか。もう少し誘い方を考えるべきだったな」「いえ、そんなつもりでは……」「では、改めて。白石、今夜は食事に付き合ってくれないか」いつもは部下に指示を出す側の人が、わざわざ言い直してくれた事実に、かえって戸惑ってしまう。「……私でよろしければ」「よかった。時間外労働だと断られるかと思ったよ」「そんなことはありません!」慌てて答えてから、少し早口になってしまったことに気づいた。もっと上手い言葉が見つかれば良いのにと、もどかしい気持ちになる。怜司は気にした様子もなく、立ち上がった。「じゃあ、行こう」「はい。すぐに支度します」デスクの上を片づけ、鞄を手に取る。その間に怜司は自分のコートを羽織り、私のほうへ視線を向けた。「白石、仕事はもう終わりだ。そんなに急がなくていい」「申し訳ありません。お待たせしてしまって」「謝らなくていい。君を誘ったのは俺なんだから」そう言って、彼は私の椅子にかかったカーディガンを取る。「どうぞ」「ありがとうございます」差し出されたそれを受け取りながら、私はそっと彼を見上げた。誰にでも厳しく、簡単には隙を見せない人なのに、ふとした瞬間に、どうしようもなく優しい。「何が食べたい?」「えっと、いえ、特には」「そうか。近所になかなか評判の良いイタリアンがあるんだ、そこに行こう」イタリアンは大好物だった。しかし果たして、緊張の中で味は楽しめるだろうか。九月も終わりに近づき、夜風には少しずつ秋の気配が混じり始めていた。昼間の熱気がまだ残る街を、カーディガンの前を合わせながら歩く。
ปรับปรุงล่าสุด : 2026-10-11 อ่านเพิ่มเติม