บททั้งหมดของ あなたの子ではありません: บทที่ 1 - บทที่ 10

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第1話 過誤

「白石。今夜、少し付き合ってくれ」午後八時四十分。社長室に残っている社員は、私ひとりだった。東條怜司は、手元の資料から顔を上げずに言った。「……まだ、お仕事が残っているんですか」「いや。今日の分は終わった」「そうでしたか。では、何か確認事項でしょうか」そこでようやく、怜司が顔を上げた。「食事だ。こんな時間まで付き合わせたんだから、夕飯くらいご馳走させてくれ」「……そんな、お気遣いなく。私の仕事ですから」動揺し、一瞬返事をするのが遅れる。「君はいつもそう言うな」怜司は資料を閉じ、椅子の背にもたれた。「俺が食事に誘うのは、そんなに珍しいか?」「……正直申し上げますと、少し、驚きました」怜司は小さく笑った。「そうか。もう少し誘い方を考えるべきだったな」「いえ、そんなつもりでは……」「では、改めて。白石、今夜は食事に付き合ってくれないか」いつもは部下に指示を出す側の人が、わざわざ言い直してくれた事実に、かえって戸惑ってしまう。「……私でよろしければ」「よかった。時間外労働だと断られるかと思ったよ」「そんなことはありません!」慌てて答えてから、少し早口になってしまったことに気づいた。もっと上手い言葉が見つかれば良いのにと、もどかしい気持ちになる。怜司は気にした様子もなく、立ち上がった。「じゃあ、行こう」「はい。すぐに支度します」デスクの上を片づけ、鞄を手に取る。その間に怜司は自分のコートを羽織り、私のほうへ視線を向けた。「白石、仕事はもう終わりだ。そんなに急がなくていい」「申し訳ありません。お待たせしてしまって」「謝らなくていい。君を誘ったのは俺なんだから」そう言って、彼は私の椅子にかかったカーディガンを取る。「どうぞ」「ありがとうございます」差し出されたそれを受け取りながら、私はそっと彼を見上げた。誰にでも厳しく、簡単には隙を見せない人なのに、ふとした瞬間に、どうしようもなく優しい。「何が食べたい?」「えっと、いえ、特には」「そうか。近所になかなか評判の良いイタリアンがあるんだ、そこに行こう」イタリアンは大好物だった。しかし果たして、緊張の中で味は楽しめるだろうか。九月も終わりに近づき、夜風には少しずつ秋の気配が混じり始めていた。昼間の熱気がまだ残る街を、カーディガンの前を合わせながら歩く。
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第2話 懐妊

あの雨の夜から、三週間が過ぎた。東條怜司は、何事もなかったかのように仕事をしていた。朝は誰よりも早く出社し、会議では一切の妥協を許さず、必要な指示だけを簡潔に出す。私に対しても、それは変わらない。「白石、午後の会議資料は」「はい。先ほどデスクに置いておきました。変更箇所には付箋をつけています」「分かった。ありがとう」それだけ聞けば、以前と何も変わらない。けれど、あの夜以来、怜司さんは何度か私を食事に誘ってくれていた。「白石、今夜は予定があるか」「……申し訳ありません。今日は少し予定がありまして」「そうか。残念だな」怜司さんは手元の書類を閉じ、少し考えるような視線をこちらに向けた。「では、明日は?」「明日も……すみません」「なるほど。最近の君は、俺よりよほど忙しいらしい」冗談めかした口調に、思わず顔を上げる。「そんなことは……」「いや、いいんだ。優秀な秘書を独占しすぎるのも考えものだからな」そう言って笑う彼に、胸が痛む。本当は、何の予定もなかった。ただ、曖昧な関係の中二人きりになってしまうのが怖かった。「……では、失礼いたします」書類を抱え直し、社長室を出ようとする。「紗奈」不意に名前を呼ばれ、足が止まった。「……はい」「ひとつだけ聞いてもいいか」怜司さんはいつもの穏やかな表情を浮かべていた。「最近、俺の誘い方が下手になった気がするんだが」「……え?」「以前はもう少し、君を食事に誘うのが上手かったはずなんだ」思わず笑ってしまった。「……社長でも、誘い方に悩まれることがあるんですね」「そうだな。好きな相手には、どうも格好がつかない」さらりと言われ、頬が熱くなる。怜司さんはそんな私を見て、わずかに目を細めた。「……それでも、難しいかな」先ほどまでの軽い調子とは違う、静かな声だった。私は書類を抱える手に力を込めた。「……申し訳ありません。今は、少し忙しくて」「そうか」彼は小さくうなずいた。「なら、落ち着いたら教えてくれ。店選びだけは得意なんだ」「……はい」「そう言っておいて君の好みを外したら、社長としての評価まで下がりそうだが」「そんなことで評価は下げません」「それを聞いて安心した」彼が笑うので、私もつられて笑った。社長室を出る直前、もう一度だけ振り返ると、怜司さんはまだこち
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第3話 決意

妊娠が分かってから十日ほどが過ぎた。私は相変わらず東條怜司の秘書として働いていた。朝は誰よりも早く出社し、その日の予定を確認する。会議資料を整え、取引先からの連絡を取り次ぎ、必要な手配を済ませる。仕事をしている間は余計なことを考えずにいられた。けれど、ひとりになるとどうしてもお腹の子のことを考えてしまう。この子を産む。そう決めたはずなのに現実を考えると不安は尽きなかった。出産にかかる費用。仕事を辞めたあとの生活。子どもを育てるために必要なもの。ひとつずつ考えていくと何もかもが簡単ではないと分かる。それでも後悔はしていなかった。この子を守ると決めたのは私自身だ。誰かに頼るのではなく自分の力で育てていかなければならない。そう思っていた。「白石。今日の午後の予定を確認してくれ」デスクの向こうから怜司の声がした。「はい。本日は十四時から取引先との打ち合わせ、十五時半から役員会議が入っております」「役員会議の資料は」「先ほど各役員のデスクに配布しました。社長用の資料はこちらにございます」私は資料を差し出した。怜司は受け取り目を通してからうなずいた。「ありがとう。いつも助かる」「恐れ入ります」短い会話。たったそれだけのことなのに彼の声を聞くと胸が苦しくなった。本当は伝えたい。怜司さん。私、妊娠しました。あなたの子どもです。けれど、その言葉を口にすることはできなかった。あの夜の言葉を信じたい気持ちと、翌朝に聞いた電話の内容が、今も心の中でぶつかり合っていた。もし妊娠を伝えれば彼は責任を取ろうとするだろう。けれど、私は責任から始まる結婚を望んでいるわけではない。唐突に、社長室の電話が鳴った。社長へ直通の内線を繋げる人は限られている。「……父さん?」怜司の声が聞こえた。「今から?分かった。こちらに来るなら十四時までにしてくれ。会議がある」電話を切った怜司は手元の資料に視線を戻した。私は予定表を確認しながら尋ねた。会議まではあと一時間。「会長がお越しになるのでしょうか」「ああ。少し話があるらしい」「承知しました。お茶をご用意いたします」「頼む」それから三十分ほどして会長が社長室を訪れた。東條グループの会長であり怜司の父親でもある人。何度か顔を合わせたことはあるがいつも緊張してしまう相手だった。「失
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第4話 退職

退職願を提出してから数日が過ぎた。人事との話し合いの結果、私の退職日は今月末に決まった。引き継ぎに必要な時間を考えれば妥当な日程だった。怜司は最後まで退職を引き止めてくれたが、私の意志が変わらないと分かると、それ以上は強く言わなかった。「白石。引き継ぎは順調か」「はい。主要な業務から順番に進めています。後任の方が決まり次第、細かな部分も説明する予定です」「そうか」怜司は書類に目を落とした。「何か困ったことがあれば言ってくれ」「ありがとうございます」いつもと変わらない会話。けれど、私の退職が決まってからは、怜司と話すたびに胸が苦しくなった。この人のそばで働ける時間は、あとわずかしかない。そう考えると、何気ないやり取りさえ大切なものに思えた。***退職日が近づくにつれ、仕事の引き継ぎは本格的になった。怜司の予定管理に始まり、取引先への連絡方法や会議資料の準備。担当している業務は多く、すべてを伝えるには時間がかかった。幸い後任の秘書も決まり、私は一つずつ丁寧に説明していった。「この取引先は確認事項が多いので、打ち合わせの前日にもう一度連絡すると確実です」「分かりました。ありがとうございます」「それから社長は資料の数字を細かく確認されます。提出前に必ず見直してください」「厳しい方なんですね」後任の女性が苦笑した。私はつられて笑いそうになり、慌てて口元を引き締めた。「はい。でも、仕事についてはとても明確に指示してくださるので、慣れれば大丈夫だと思います」「白石さんがそう言うなら安心です」彼女の言葉に、胸の奥が痛んだ。私はこの仕事が好きだった。怜司の役に立てることが嬉しかった。忙しい彼が少しでも仕事に集中できるようにと考え、先回りして準備することにもやりがいを感じていた。それなのに、自分から手放そうとしている。今更どうにもならないことだった。自分にとって大事なものは何か考え、優先順位をつけた結果だ。できることをやろう。***ある日の午後。社長室で資料を整理していると、怜司が声をかけてきた。「白石。最近ちゃんと食べているか」突然の質問に、私は手を止めた。「え……はい。食べています」「そうか? 顔色がよくない日がある」「ご心配をおかけして申し訳ありません。大丈夫です」つわりが酷く、調子が悪い日は職場
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第5話 帰省

東條グループを退職してから一週間が過ぎ、東京を離れる準備は着々と進んでいた。住み慣れた部屋を引き払い、必要な荷物だけを段ボールに詰める。家具や家電は処分することにした。実家には一通りのものが揃っているし、大きな荷物を持ち帰っても置き場所に困るだけだ。「……こんなに物があったんだ」クローゼットの奥から、いつ買ったのかも忘れたバッグが出てきた。引き出しには使いかけの文房具や、出張先で買った小さなお土産がいくつも残っている。仕事に追われる毎日で、部屋の整理など後回しにしていたのだ。「これも、もう使わないかな」取り出したのは、仕事用の名刺入れだった。秘書に配属されたとき、初めての給料で買ったものだ。表面には細かな傷がついている。これを持って、何度怜司の隣で取引先に挨拶しただろう。あの人はいつも堂々としていた。初めての会食で緊張していた私に、テーブルの下でそっとメニューを示してくれたこともあった。「君はもう少し肩の力を抜いた方がいい」そう言われて、ますます緊張してしまったのを覚えている。思い出して、少し笑った。名刺入れを処分する箱に入れかけて、やめた。「……これは持って帰ろう」小さな思い出くらい、残しておいてもいいだろう。***東京を離れる前夜。荷造りを終えた部屋は、驚くほど広く感じられた。カーテンを外した窓から、向かいのマンションの明かりが見える。床には最後の段ボールが二つ。明日の朝、配送業者が引き取りに来る予定だ。私はコンビニで買ってきたおにぎりを食べながら、部屋を見渡した。「……なんだか、引っ越しって実感が湧かないな」大学を卒業して東京で働き始めてから、ずっとこの街で暮らしてきた。慣れない仕事に落ち込んだ夜も、初めて大きな仕事を任されて嬉しかった日も、この部屋に帰ってきた。そして、怜司と過ごしたあの雨の夜も。あの日から、何もかもが変わってしまった。ふと、テーブルの上に置いたスマートフォンが震えた。怜司からだった。『退職後の生活は落ち着いたか。何か困っていることがあれば連絡してくれ』簡潔で、いかにも彼らしい文章だった。退職してからも、こうして気にかけてくれている。そのことが、どうしようもなく嬉しかった。私はメッセージの入力欄を開いた。『ありがとうございます。元気にしています』反射的にそこまで
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第6話 旧友

実家に戻ってから二週間ほどが過ぎた。その日は朝から母の体調が優れず、代わりに商店街へ買い物に出かけていた。買い物を終え、スーパーの袋を提げて商店街を歩いていると、背後から声をかけられる。「……紗奈?」聞き覚えのある低く清涼な声だった。振り返ると、少し離れたところに背の高い男性が立っていた。白い厚手のコートの袖を肘までまくり、片手に紙袋を持っている。一瞬、誰だか分からなかった。けれど、その人が目を細めて笑った瞬間、記憶がつながった。「……悠真?」「やっぱり紗奈だ」高瀬悠真。小学校から高校まで一緒だった、幼なじみだ。「えっ、久しぶり!」「久しぶりって……何年ぶりだよ」「五年くらい?」「六年。成人式以来だろ」「そんなに経つ?」「経つよ。相変わらずだな」悠真は呆れたように笑った。昔より背が伸びた気がする。もう少し細身だったのに、今は肩幅も広くなっていた。けれど、笑うと少し目尻が下がるところは昔のままだ。「悠真、こっちに住んでるの?」「ずっといるよ。大学出てから戻ってきて、就職先もこっち」「そうなんだ。全然知らなかった」「お前、東京行ってからほとんど帰ってこなかったもんな」「仕事が忙しくて」「知ってる。おばさんから聞いてた。東京の大きな会社で社長秘書やってるって」「……もう辞めちゃったけどね」私がそう言うと、悠真は少し驚いた顔をした。「辞めたの?」「うん。最近」「そっか」何か尋ねられるかと思ったけれど、悠真はそれ以上聞かなかった。代わりに、私の持っている買い物袋に視線を落とした。「それ、重くない?」「大丈夫だよ。そんなに買ってないし」「貸して」「えっ、いいよ」「いいから」そう言って、悠真は私の返事を待たずに袋を受け取った。「ちょっと、昔からそういうところ変わらないね」「何が?」「人の話を聞かないところ」「お前が遠慮しすぎなんだよ」当たり前のように言い返され、思わず笑ってしまう。高校生の頃も、悠真はこうだった。私が文化祭の準備で大量の荷物を運んでいると、何も言わずに半分持っていってしまう。テスト前に参考書を抱えて帰っていると、「重そう」と言いながら勝手に鞄を持つ。そのたびに私は「自分で持てるのに」と文句を言っていた。懐かしい。「そういえば悠真、今は何の仕事してるの?」「駅の
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第7話 誕生

春の終わりを見送った覚えもないのに、いつしか夏が来ていた。窓の外では、蝉が短い命を惜しむように鳴いている。七月の強い陽射しがカーテン越しに差し込み、私は大きくなったお腹をそっと撫でた。出産予定日が近づくにつれ、お腹はますます重くなっていった。寝返りを打つにも時間がかかり、少し歩くだけで息が上がる。母は家事を引き受け、父も休日には買い物や重い荷物を運ぶのを手伝ってくれた。「必要なものは揃っているか?」父がベビーベッドの横で尋ねた。「うん。あとは赤ちゃんが生まれてくるのを待つだけだよ」「そうか。何か足りなかったら言いなさい」父はベビーベッドの柵を確かめると、満足そうにうなずいた。母と一緒に選んだ小さな肌着も、きれいに畳んである。もうすぐこの服を着た赤ちゃんを抱けるのだと思うと、不安の中でも自然と顔がほころんだ。「もうすぐ会えるね」私はお腹を撫でながら話しかけた。そのとき、枕元のスマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見て、指が止まる。東條怜司。『無理に返事をしなくていい。ただ、元気でいてくれたらそれでいい』ずいぶん前に届いたメッセージが、画面に残っている。何度も読み返した言葉だった。返事をしなくてもいいと言ってくれた、その優しさに甘えたまま、私は結局一度も返信できずにいた。その下には、半年以上ぶりに新しいメッセージがあった。『返事はいらないと言ったのは俺だったな。前言撤回させてくれ。元気か?』彼らしい文章に、思わず口角が上がる。責める言葉は、どこにもなかった。それがかえって、胸に痛かった。怜司さんは、まだ私を心配してくれている。何も知らないまま。今、私のお腹の中にいる小さな命が、あなたの子供だということも。既読がついたのに気づいたのだろうか。画面を見つめていると、さらにメッセージが届いた。『今度こそ、ちゃんと時間を取ろう。食事でもどうだ』まるで、私が断ることをわかっていて、それでも誘ってくれているようだった。あの人は、こんなふうに何度も連絡をくれる人だっただろうか。お腹の子が、小さく動いた気がした。スマートフォンを伏せる。「……もうすぐ会えるね」今は、この子を迎えることに集中しよう。***陣痛が始まったのは、夜明け前だった。最初は下腹部に鈍い痛みを感じる程度だったが、次第に間隔が短くなり、痛みも
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第8話 日常

庭の木々が色づき、やがて葉を落とす頃には、湊もずいぶん表情が豊かになっていた。成長とともにわがままも増え、日中は一緒に過ごすだけでへとへとだ。ようやく湊が眠った夜、紗奈のスマートフォンが震えた。画面には、懐かしい名前が表示されていた。『藤崎美咲』東條グループで働いていた頃の、仲が良かった同期だ。入社当時は同じ部署に配属され、昼休みにはいつも一緒に食事をしていた。お互い部署の異動があってからは、なかなか顔を合わせる機会もなくなっていた。最後に会ったのは、いつだっただろう。育児ばかりの毎日で少し疲れていた紗奈は、久しぶりに明るい彼女の声を聞きたくなり、電話を取った。「もしもし、美咲?電話ありがとう、久しぶり〜」『紗奈!よかった、元気?ちょっとあんた、どうしたの?仕事辞めたこともつい最近知ったのよ!全然連絡くれないんだから』「ごめんごめん。ちょっと色々大変で、毎日ばたばたしてて」『……そっか、お疲れ様。まあ、元気ならいいんだけどね』相手の態度から瞬時に事情を察し、深く追及してこないところも美咲の素敵なところだ。「久しぶりに美咲の声聞けて嬉しい〜」『なによ〜、退職の連絡もくれなかったくせに!』「本当にごめんってば。美咲はどう?仕事忙しい?」『忙しいわよ。先月なんて残業続きで、せっかく予約した美容院もキャンセルしたんだから』「あはは、美咲が美容院を諦めるなんて相当だね」『そうなのよ!でもね、最近ちょっと面白いことがあって』「えっ、なになに?彼氏できた?」『残念、そっちは相変わらず。でも、すごいんだから、聞いてよ』弾んだ声の美咲から出るのは、大抵社内の恋愛か不倫の話題だった。以前も、営業部の課長と経理部の女性社員が付き合っているという噂を聞きつけ、昼休みいっぱいを使って紗奈に報告してきたことがある。今回もその類いだろうと思っていた。『今日ね、なんと社長に呼び止められたの』「……社長に?」思いがけない名前に、紗奈は姿勢を正した。『そう。廊下でばったり会ったら、白石とは最近連絡を取っているかって』「それで、何て答えたの?」『最近は連絡してないって言ったら、そうか、って。それで終わりかと思ったんだけど』美咲は楽しそうに笑った。『そのあと、白石は元気にしていると思うか、って聞かれたのよ』「……そんなことを?」『びっくり
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第9話 空白

時が流れるのは早い。育児に奮闘しながら必死に過ごしているうちに、湊はあっという間に一歳の誕生日を迎えた。去年の今頃は、まだ腕の中で眠ることしかできなかった小さな命が、今では家具につかまって立ち、得意そうに笑っている。「湊、お誕生日おめでとう!」母が拍手をすると、湊も真似をして小さな手をぱちぱちと叩いた。「まあ、上手!もう一回やってみて」「ばば、ばあば!」「はいはい、ばあばですよ」嬉しそうに孫を抱き上げる母を見て、私は思わず笑顔になった。リビングには色とりどりの風船が飾られ、テーブルには母が作った料理が並んでいた。私が朝から格闘して作った小さな誕生日ケーキも、冷蔵庫で出番を待っている。「お父さん、写真撮ってくれる?」「ああ。湊、こっち向いてみろ」父がスマートフォンを構えると、湊はなぜか反対方向を向いた。「おいおい、じいじはこっちだぞ」「湊、こっち!」私が呼ぶと、今度は満面の笑みで振り返った。「よし、撮れた!」父が得意げに画面を見せてくる。そこには、湊ではなく、必死に息子の気を引こうとしている父の顔が大きく写っていた。「お父さん、これインカメになってる。お父さんしか写ってないよ」「おかしいな」「貸して。私が撮るから」「いや、今度こそ撮れる」そんなやり取りを繰り返していると、玄関のチャイムが鳴った。「はーい」母が出迎えに行くと、聞き慣れた声がした。「こんにちは。これ、湊に」「まあ、悠真くん!ありがとう。上がっていって」高瀬悠真だった。「お邪魔します」悠真は小さな紙袋を手に、リビングに顔を出した。「湊、誕生日おめでとう」「ゆー!」湊は悠真を見つけると、嬉しそうに両手を伸ばした。「お、覚えててくれたか」悠真がしゃがむと、湊は迷わずその腕に飛び込んだ。「ちょっと湊、悠真が来るといつも大喜びなんだから」「俺のこと好きなんだよな?」「きゃっ!」湊が笑い声を上げると、悠真も楽しそうに笑った。悠真は仕事の合間や休日に、ときどき顔を出してくれるようになっていた。買い物を手伝ってくれたり、湊の遊び相手になってくれたり。気がつけば、湊にとってもすっかり馴染みのある存在になっていた。「これ、プレゼント。よかったら使って」紙袋から出てきたのは、木製の積み木だった。「わあ、可愛い!ありがとう」「角が丸く
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