LOGIN31歳の冷徹な御曹司・東條怜司と、26歳の秘書・白石紗奈。ある夜、一度きりの過ちから彼の子を身ごもった紗奈は、妊娠を告げずに会社を辞め、姿を消した。 二年後、出張先で偶然再会した二人。紗奈の隣には、怜司によく似た幼い男の子がいた。 「……まさか、俺の子なのか?」 音信不通となった秘書と、存在を知らなかった息子。真実を知った怜司は、今度こそ紗奈を手放さないと決める。 もう二度と逃がさない。愛していると、何度でも伝えるために。
View More「……紗奈」
耳元で名前を呼ばれ、私は思わず彼のシャツを握りしめた。 いつもは「白石」と呼ぶ人が、今夜は私の名前を呼んでいる。 書類をめくる長い指がネクタイを緩め、頬をなぞり、耳にかかった髪を払った。 「そんなに緊張されると、俺まで緊張するな」 「……すみません」 思わず口からでた謝罪の言葉は、怜司を苦笑いさせる。 「謝ってほしいわけじゃない。」 「社長は、全く緊張されていないんですね」 「いいや。残念ながら、好きな女性を前にして平然としていられるほど器用じゃない」 好きな女性。 その言葉に、心臓が大きく跳ねた。 「顔に出ないだけさ。ほら」 服を着ていてもわかる張り詰めたそれを押し付けられ、あまりに露骨なその動きに恥ずかしすぎて声が出なくなる。 「……あ、」 「すまない、君相手に下品すぎたな。気をつける」 言葉とは裏腹に、思わず引けてしまった腰は、再度彼に触れる距離までしっかりと引き寄せられた。 火照りきった顔の私に、怜司さんは困ったように言った。 「もっとも、今さら紳士ぶっても手遅れかもしれないが」 思わず笑ってしまうと、彼は満足そうに目を細めた。 「その顔が見たかった」 頬に添えられた手が、私の顎をわずかに持ち上げる。 「触れてもいいか」 私は小さくうなずいた。 唇が触れた。一度離れたあと、もう一度。 彼の腕が腰を這うように撫で、身体がぴたりと重なる。背中に回された手のひらが流れるようにホックを外し、私はその腕につかまり溺れないようにすることしかできない。 唇が離れると、彼の呼吸も乱れていた。 「……紗奈」 「はい……」 「君は、俺の理性を試しているのか?」 「そんなつもりじゃ……」 「だったら、ずいぶん無自覚だ」 彼は笑いながら、私の額に自分の額を寄せた。 「俺ばかり余裕がないのは、不公平だな」 私だって、余裕なんてありません。 でもそれすら言葉にすらならないんです。 なんだか悔しくて、勇気を振り絞って彼のシャツに手を伸ばす。 第一ボタンを開けた拍子に、喉元が覗いた。彼が息を呑むたび、そこが小さく動く。 「……何かついてるか?」 思わず目を奪われていると、見つめていたことに気づかれ、慌てて首を振る。 「いえ……」 「そんなに見られると、さすがに照れる」 「怜司さんでも、照れるんですか?」 「君は俺を人間だと思っていないらしい」 思わず笑うと、彼も笑った。 けれど、次の瞬間には真剣な表情で私を見つめていた。 「隣の部屋に帰るなら今のうちだ。……これ以上君に触れたら、簡単には離してやれそうにない」 「……帰りません」 自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。 怜司さんは一瞬目を見開く、それから嬉しそうに笑った。 「……そうか。なら、覚悟してくれ」 怜司さんの表情が変わった。 次の瞬間、強く抱き寄せられる。 彼の胸に頬が触れ、速い鼓動が聞こえた。 「……紗奈」 その声は、いつもの落ち着いた声とは違っていた。 腕時計を性急に外した手が、ホックが外れた心許ない下着の下をゆっくりと這う。 「……っあ、や、ちょっとまって、」 確実に与えられる刺激に息は乱れ、性急な動きに思わず言葉が漏れる。 思わず彼の腕をつかむと、少し意地悪そうに笑った。 「それじゃ動けない」 行きどころのない手は、代わりに彼の背中に回された。広く筋肉質な背中に意識が取られていると、集中しろと言わんばかりに節の目立つ長い指が乳首を弾く。 「っあ、しゃ、社長、まってくださ、」 こうなることはわかっていたのに。 口からはどうしたって制止の言葉がもれるものの、快楽を与えることを目的にした動きは止まってはくれない。 自分から鳴る情事特有の苦しそうな声が恥ずかしく、声を抑えようと唇を噛み、指先に力をいれた。 「……んっ、ふぁ、っあ、」 見計らったようなタイミングで、キスは深くなり、声を抑えるのが難しくなる。責め立てる濁流のような愛撫に、流されることしかできない。 気づけば指先に触れる彼のシャツの布地が、驚くほどしわだらけになっていた。 「そんなに握ったら、明日のシャツが大変なことになるな」 「……あ、っやだ、すみません」 「冗談だ。明日は別のを着るとしよう」 彼は笑い、私の額に口づけた。 「だから、遠慮しなくていい」 上がった息が漏れる下唇を、つんと弾かれた。明らかに女慣れした気遣いに、勝手に胸が痛む。 「……はい、」 「それと、こんなときくらい名前を呼んでくれ」 面と向かって呼ぶのは気が引けて、私は彼の肩に顔を埋めた。 「……怜司さん」 たったそれだけなのに、どうしてこんなに嬉しそうなのだろう。 彼は私の髪に口づける。 「ずっと、そう呼んでほしかった。これからもそう呼んでくれ」 「……呼べるときは」 「いつでも呼べるだろう。君には口があるんだから」 「……ほかの人に、変に思われます」 「思わせておけばいい。俺は構わない」 冗談なのか、本気なのか分からなかった。 私は答えられず、彼の胸元に視線を落とした。すると、合図と受け取ったのか再開された動きに、また意図せず声が漏れ腰が動く。 「紗奈。顔を見せて」 おずおずと顔を上げると、まっすぐに目が合った。普段、会議室で見る冷静な瞳とは違う。 「……綺麗だ」 「そんな……」 「褒められたら、ありがとうと言えばいい」 「……ありがとうございます」 「どういたしまして」 満足そうに笑う彼の手のひらが、スカートの下へと潜り込む。布一枚を隔てた場所へ、熱を確かめるように指先を這わせた。喉の奥でせき止めようとした熱いものが、切ない吐息となって漏れ出す。 そこからはもう、互いに言葉にならなかった。 今夜だけでいい。 ずっと憧れていた人。 明日になれば、また社長と秘書に戻る。 こんな夜は、二度と来ないかもしれない。 だったら、今夜くらい。「まま!」 背後から元気な声が聞こえた。 振り返ると、湊が小さな靴を片方だけ持って立っていた。 「湊、お靴履きたいの?」 「ん!」 「じゃあ、もう片方はどこかな?」 湊は手元の靴を見つめ、それから部屋の中をきょろきょろと見回した。 「あれ? なくなっちゃった?」 「ない!」 「困ったねえ」 私が笑うと、湊も嬉しそうに笑った。 最近の湊は、何でも自分でやりたがる。 靴を履くのも、スプーンを持つのも、私が手伝おうとすると首を振る。 もっとも、靴は左右逆になるし、スプーンで食べるより手で食べた方が早い。 それでも、できることが少しずつ増えていく姿を見るのは楽しかった。 「紗奈、湊の靴ならソファの下にあったわよ」 母がもう片方の靴を持ってきてくれた。 「ありがとう、お母さん」 「はい、湊くん。これでお出かけできるわね」 「ばあば!」 湊は母から靴を受け取ると、私の膝にちょこんと座った。 「ふふ。自分で履くんじゃなかったの?」 「まま」 「はいはい。お手伝いします」 小さな足に靴を履かせる。 ほんの少し前まで、抱っこしていなければどこにも行けなかったのに。 今では自分の足で玄関まで歩いていく。 子どもの成長は、本当に早い。 *** 今日は湊と二人で、商店街まで買い物に行く予定だった。 ベビーカーに乗せようとすると、湊は嫌がって両手を伸ばしてきた。 「歩きたいの?」 「ん!」 「じゃあ、少しだけね」 手をつないで歩き始めると、湊は一歩ごとに足元を確かめるように進んだ。 道端の花。 電柱の影。 風に揺れる木の葉。 大人なら気にも留めないものが、湊にはどれも新鮮らしい。 「まま、あ!」 湊が指さした先には、小さな犬がいた。 「わんわんだね」 「わんわ!」 「そうそう、わんわん」 飼い主の女性が微笑み、犬も尻尾を振った。 湊は嬉しそうに笑ったけれど、犬が近づいてくると、慌てて私の足にしがみついた。 「怖かった?」 「……わん」 「大丈夫だよ」 しゃがんで抱き上げると、湊は私の肩に頬を寄せた。 商店街に着く頃には、湊はすっかり疲れてベビーカーの中で眠っていた。 「お疲れさま」 小さな寝顔
「紗奈、そろそろ携帯を買い替えたらどうだ?」休日の朝、父が新聞を読みながら言った。「え、どうして?」「昨日も充電が切れたって言ってただろう。もう何年使ってるんだ」「四年くらいかな。最近、急に電源が落ちることがあって」「それなら買い替えた方がいい。湊を連れて出かけたときに使えなくなったら困るだろう」確かに、その通りだった。先日もスーパーで買い物をしている最中に電源が落ち、母からの電話に気づかなかったことがある。「そうだね。今日、見に行ってこようかな」「湊は私たちが見てるから、ゆっくり行ってきなさい」母が台所から顔を出した。「え、いいの?」「もちろん。たまには一人で出かけてきたら?」紗奈は少し迷ったものの、ありがたく甘えることにした。湊が生まれてから、一人で外出する機会はほとんどなかった。久しぶりに身軽な格好で家を出ると、秋の風が頬を撫でた。もう夏も終わりに近づいている。***携帯ショップは、休日ということもあって混雑していた。受付を済ませてから三十分ほど待ち、ようやく名前を呼ばれる。「本日は機種変更ですね」「はい。最近、電池の持ちが悪くて」「かしこまりました。ちなみに、電話番号はそのままお使いになりますか?」店員の何気ない質問に、紗奈は顔を上げた。「……番号って、変えられるんですか?」「はい。新しい番号でご契約いただくこともできますよ。ただし、その場合はご家族やご友人に新しい番号をお知らせいただく必要があります」「そうなんですね」紗奈は膝の上に置いたバッグに目を落とした。電話番号を変える。今まで、そんなことは考えてもいなかった。けれど、その言葉を聞いた瞬間、ある人の顔が浮かんだ。東條怜司。昨夜も、彼からメッセージが届いていた。『白石。来月、少し時間を作れないか。君に会って話したいことがある』その文章を、何度読み返しただろう。会いたいとしっかり言葉にされたのは初めてだった。私にだって伝えたいことはたくさんある。それでも、一度返事をしてしまえば、きっと彼は会いに来る。仕事でも、一度決めたことは必ず実行する。曖昧な態度で引き下がるような人ではない。「お客様?」店員に声をかけられ、紗奈は我に返った。「あ、すみません」「いえ。お電話番号はいかがなさいますか?」紗奈は少し考えてから、口を開いた。
時が流れるのは早い。育児に奮闘しながら必死に過ごしているうちに、湊はあっという間に一歳の誕生日を迎えた。去年の今頃は、まだ腕の中で眠ることしかできなかった小さな命が、今では家具につかまって立ち、得意そうに笑っている。「湊、お誕生日おめでとう!」母が拍手をすると、湊も真似をして小さな手をぱちぱちと叩いた。「まあ、上手!もう一回やってみて」「ばば、ばあば!」「はいはい、ばあばですよ」嬉しそうに孫を抱き上げる母を見て、私は思わず笑顔になった。リビングには色とりどりの風船が飾られ、テーブルには母が作った料理が並んでいた。私が朝から格闘して作った小さな誕生日ケーキも、冷蔵庫で出番を待っている。「お父さん、写真撮ってくれる?」「ああ。湊、こっち向いてみろ」父がスマートフォンを構えると、湊はなぜか反対方向を向いた。「おいおい、じいじはこっちだぞ」「湊、こっち!」私が呼ぶと、今度は満面の笑みで振り返った。「よし、撮れた!」父が得意げに画面を見せてくる。そこには、湊ではなく、必死に息子の気を引こうとしている父の顔が大きく写っていた。「お父さん、これインカメになってる。お父さんしか写ってないよ」「おかしいな」「貸して。私が撮るから」「いや、今度こそ撮れる」そんなやり取りを繰り返していると、玄関のチャイムが鳴った。「はーい」母が出迎えに行くと、聞き慣れた声がした。「こんにちは。これ、湊に」「まあ、悠真くん!ありがとう。上がっていって」高瀬悠真だった。「お邪魔します」悠真は小さな紙袋を手に、リビングに顔を出した。「湊、誕生日おめでとう」「ゆー!」湊は悠真を見つけると、嬉しそうに両手を伸ばした。「お、覚えててくれたか」悠真がしゃがむと、湊は迷わずその腕に飛び込んだ。「ちょっと湊、悠真が来るといつも大喜びなんだから」「俺のこと好きなんだよな?」「きゃっ!」湊が笑い声を上げると、悠真も楽しそうに笑った。悠真は仕事の合間や休日に、ときどき顔を出してくれるようになっていた。買い物を手伝ってくれたり、湊の遊び相手になってくれたり。気がつけば、湊にとってもすっかり馴染みのある存在になっていた。「これ、プレゼント。よかったら使って」紙袋から出てきたのは、木製の積み木だった。「わあ、可愛い!ありがとう」「角が丸く
庭の木々が色づき、やがて葉を落とす頃には、湊もずいぶん表情が豊かになっていた。成長とともにわがままも増え、日中は一緒に過ごすだけでへとへとだ。ようやく湊が眠った夜、紗奈のスマートフォンが震えた。画面には、懐かしい名前が表示されていた。『藤崎美咲』東條グループで働いていた頃の、仲が良かった同期だ。入社当時は同じ部署に配属され、昼休みにはいつも一緒に食事をしていた。お互い部署の異動があってからは、なかなか顔を合わせる機会もなくなっていた。最後に会ったのは、いつだっただろう。育児ばかりの毎日で少し疲れていた紗奈は、久しぶりに明るい彼女の声を聞きたくなり、電話を取った。「もしもし、美咲?電話ありがとう、久しぶり〜」『紗奈!よかった、元気?ちょっとあんた、どうしたの?仕事辞めたこともつい最近知ったのよ!全然連絡くれないんだから』「ごめんごめん。ちょっと色々大変で、毎日ばたばたしてて」『……そっか、お疲れ様。まあ、元気ならいいんだけどね』相手の態度から瞬時に事情を察し、深く追及してこないところも美咲の素敵なところだ。「久しぶりに美咲の声聞けて嬉しい〜」『なによ〜、退職の連絡もくれなかったくせに!』「本当にごめんってば。美咲はどう?仕事忙しい?」『忙しいわよ。先月なんて残業続きで、せっかく予約した美容院もキャンセルしたんだから』「あはは、美咲が美容院を諦めるなんて相当だね」『そうなのよ!でもね、最近ちょっと面白いことがあって』「えっ、なになに?彼氏できた?」『残念、そっちは相変わらず。でも、すごいんだから、聞いてよ』弾んだ声の美咲から出るのは、大抵社内の恋愛か不倫の話題だった。以前も、営業部の課長と経理部の女性社員が付き合っているという噂を聞きつけ、昼休みいっぱいを使って紗奈に報告してきたことがある。今回もその類いだろうと思っていた。『今日ね、なんと社長に呼び止められたの』「……社長に?」思いがけない名前に、紗奈は姿勢を正した。『そう。廊下でばったり会ったら、白石とは最近連絡を取っているかって』「それで、何て答えたの?」『最近は連絡してないって言ったら、そうか、って。それで終わりかと思ったんだけど』美咲は楽しそうに笑った。『そのあと、白石は元気にしていると思うか、って聞かれたのよ』「……そんなことを?」『びっくり