Lahat ng Kabanata ng 夫の浮気相手が捨てた兄妹を救ったら、冷徹辺境伯に家族ごと愛されました: Kabanata 1 - Kabanata 10

12 Kabanata

第1話 「夫の幼馴染は、今日も子どもを置いていく」

「奥様にお客様です」 執事の言葉に、アリシアは溜息を呑み込んだ。今日も来た。夫の幼馴染が。 応接間へ向かう廊下を急ぎ足で歩きながら、アリシアは今日これまでに終わらせた仕事の山を頭の中で反芻した。 夜明け前、凍えるような石造りの階段を降りて厨房へ向かい、領兵のための冬季保存食の出来を確認した。塩漬け肉の樽を開け、自ら指で表面の硬さを確かめ、塩の配合比率を料理長に細かく指示し直す。さらに、納品された小麦がわずかに湿気を帯びていることを見抜き、出入りの商人へ三割の値下げ交渉を行うよう、確固たる筆致で発注のメモを書き殴った。 朝食後は休む間もなく、執事と当日の取引先対応の打ち合わせをこなし、次々と持ち込まれる家政の相談を裁いた。体調不良で休んだメイドの穴を埋めるため、使用人たちの配置をパズルピースのように組み直し、不満が出ないよう労いの言葉と共に指示を出す。 そして先ほど、夫レオハルトの書斎へ赴き、彼が目を通すべき決裁書類を分野ごとに綺麗に揃え、目印の栞を挟んで机の中央に置いてきたばかりだった。 五年でこの家を立て直したのは彼女だ。だが、家中の誰もそれを口に出さない。 夫の書斎に整えた書類の横、毎朝彼のために淹れておく熱いお茶は、いつだって二杯目を求められることはない。冷めていくばかりの茶器の姿が、この家におけるアリシアの本当の立ち位置を静かに物語っていた。 応接間の重いオーク材の扉を開けると、鼻を突くほど甘い香水が漂ってきた。 「ごめんなさいね、アリシア様」 アリシア自身が商会と粘り強く交渉して買い付けた最高級の絨毯の上で、上質な絹のドレスを揺らし、ソファから立ち上がったのはセレスティアだった。美しく、どこか頼りなげで、男が思わず庇護したくなるような空気を纏った女性。 
last updateHuling Na-update : 2026-10-20
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第2話 跡継ぎを産めない妻はいらないそうです

「跡継ぎのことなんだ」深夜の書斎に響いた夫の声は、微かに震えていた。アリシアは机の上に置かれた決裁書類からゆっくりと視線を上げ、デスクの向こう側に立つレオハルトの顔を見つめた。彼の視線は宙を泳ぎ、決してアリシアの目を見ようとはしない。長年連れ添った妻に決定的な一言を放つだけの覚悟が、彼には欠けていた。「君を責めているわけじゃない。だが、グレイフェルト家には跡継ぎが必要だ」レオハルトは自分に言い聞かせるように、早口で言葉を紡ぐ。「五年だ。五年待った。これ以上は、家のためにも当主代行としての私の立場のためにも、限界なんだ」すべては家のためであり、自分は悪くないのだと主張する、典型的な責任転嫁の話法だった。アリシアの胸の奥で、微かな落胆が冷えていく。レオハルトは一度言葉を切り、ぎゅっと拳を握りしめてから、決定的な一撃を放った。「セレスティアが、私の子を身ごもった」エミルとリリィは、セレスティアと亡夫ジェラルドの子であり、グレイフェルトの血は引いていない。レオハルトが言うのは、自分の実子となるはずの新たな命だった。その瞬間、アリシアの頭の中で何かが弾けることはなかった。代わりに、まるで乱雑に積まれた帳簿が、熟練の計算手の手によって一瞬にして整理されていくような、研ぎ澄まされた冷静さが脳内を支配した。先月の十五日。セレスティアが「少し休ませて」と客室に長く籠もっていた日。その前の月の二十三日。レオハルトが「急な付き合いだ」と言って帰りを深夜まで遅らせた日。さらに前の月の、十日。六日。記憶のページが風に煽られるように捲られ、彼らが二人きりで会うことができたであろう空白の時間が、赤インクで線を引かれたように次々と浮かび上がってくる。「……そうですか」アリシアの口から出たのは、自分でも驚くほど平坦な声だった。レオハルトは妻が泣き叫ばないことに安堵したのか、それとも予想外の反応に戸惑ったのか、泳いでいた視線をわずかにアリシアに向けた。だが、彼は休むことなく次の刃を振り下ろした。「それから、もう一つある。これを見てくれ」レオハルトが引き出しから取り出し、机の上に滑らせたのは、数枚の羊皮紙だった。「君が家計から個人的に流用していた記録だ」アリシアは無言でその羊皮紙を手に取った。自分の名が記された横領の記録。一番下には、確かに彼女のものに
last updateHuling Na-update : 2026-10-20
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第3話 雨の宿場に捨てられた兄妹

王都を追放されてから、二日が経っていた。 東へ向かう街道を、執拗な冷たい雨が叩きつけている。アリシアは泥水を跳ね上げる馬車の轍を避けながら、重い足取りで歩を進めていた。手持ちの金は、渡された僅かな馬車代の残りと、鞄の底に隠し持っていた数枚の銀貨と銅貨だけだ。これでは一週間も持たない。 何より彼女を不安にさせているのは、実家であるヴェルディーニ子爵家からの音沙汰がないことだった。屋敷を出る直前、年老いた執事に託した手紙。あれが手渡されていれば、実家の兄はすぐにでも早馬を寄越すはずだった。どんなに遅くとも、丸二日も放置されることはあり得ない。 (手紙が、握り潰された……?) だが、身一つの彼女には、実家の紋章入り封蝋も、信用できる使者を雇う金もない。ヴェルディーニの名で町の安い便を頼めば、横領犯として王都へ連れ戻される恐れもあった。 その違和感は、アリシアの胸の中で不吉な冷たさとなって渦巻いていた。 空腹と疲労、そして濡れた衣服から奪われる体温。限界に近い身体を引きずりながら、アリシアはようやく前方に立ち並ぶ建物の屋根を見つけた。王都から東へ向かう街道で、最初に必ず通る大きな宿場町だ。王都から十分に距離がありつつも、王都へと引き返すための乗り合い馬車が頻繁に発着する、行き交う人の多い交通の要衝である。 雨上がり直後の湿った空気が漂う中、アリシアは軒を連ねる宿屋の一つに目を向けた。 その薄暗い軒下に、小さな影が二つ、うずくまるようにして立っていた。 最初は、疲労が見せた幻覚かと思った。だが、近づくにつれて、その影の輪郭が鮮明になっていく。 「……嘘」 アリシアの口から、掠れた声が漏れた。エミルとリリィだ
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第4話 緊急保護の署名

薄暗い夜が明ける頃、アリシアは宿屋の硬い木椅子の上で目を覚ました。 窓の外からは、前日の豪雨が嘘のような、静かな朝の光が差し込んでいる。部屋の隅に置かれた古びたベッドでは、二人の子どもが寄り添うようにして眠っていた。 エミルの幼い頬には、昨夜流した乾いた涙の跡が白く残っている。その腕の中にすっぽりと収まったリリィは、アリシアの古い上着を毛布代わりに羽織り、小さな寝息を立てていた。その無防備な寝顔を見つめながら、アリシアは宿の主人から借り受けた数枚の粗末な紙と、使い古された羽根ペンへと視線を戻した。 彼女は夜明け前から机に向かい、これから取るべき行動を紙に書き出していた。五年間の婚姻生活のなかで、傾きかけた伯爵家を立て直すために叩き込まれた習慣だ。感情に流されて動けば、必ずどこかに綻びが生まれる。行動を起こす前には、必ず手順を整理し、頭の中の帳簿を狂いなく整えなければならない。 アリシアの指先が、羽根ペンを滑らせる。 一、宿場役人の詰め所への通報二、神殿への一時保護の依頼三、宿屋主人の証言の書面化四、子どもたちの身体状態の公的記録五、緊急保護者としての自らの署名六、王都の権力が及びにくい、東への移動手段の確保 書き終えた項目をじっと見つめ、アリシアは静かに息を吐いた。まだ、実家からの助けが届かない理由は分からない。王都に戻れば、身に覚えのない横領罪で即座に捕縛される危険がある。ならば、選ぶべき道は一つしかない。子どもたちを連れて、この街道をさらに東へ、王都の悪意が届かない安全な場所へ進むことだ。 「……ん」 小さなベッドが軋み、エミルがゆっくりと目を開けた。まだ眠気の残る大きな目が、室内の見慣れない景色を彷徨い、やがて机の前に座
last updateHuling Na-update : 2026-10-20
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第5話 靴と、銀貨と、握り飯

王都を出てから、三日が過ぎていた。 ガタガタと車輪を鳴らして進む乗合馬車の中は、農夫や行商人たちで混み合っていた。アリシアの膝の上で、リリィが規則正しい寝息を立てている。その小さな足には、宿屋の女将から譲り受けた古い麻布が、簀子状に何重にも巻かれていた。片方しかなかった靴の代わりとなる、臨時の足覆いだ。 隣に座るエミルは、乗車した直後は怯えたようにアリシアの袖を強く握りしめていた。だが、単調な馬車の揺れと妹の穏やかな寝息に少しずつ警戒を解き、今は窓の外を流れる田園風景や、遠くの山並みを興味深そうに眺めている。 アリシアは正面を見据えたまま、乗客たちが交わす他愛のない世間話に静かに耳を澄ませていた。 「グランベル辺境伯領は、最近また一段と王都との関係が冷え込んでいるらしいぜ」「ああ、辺境伯様はひどく嘘嫌いで有名だからな。王都の貴族どもの腹の探り合いに嫌気が差したんだろ」「おかげで向こうは人手不足らしい。流れ者でも、まともに働けるなら仕事があるって噂だ」 断片的な情報が、アリシアの頭の中で帳簿の項目のように整理されていく。辺境伯領。まだ見ぬその土地の領主について、彼女が持つ情報は「偏屈」と「嘘嫌い」ということくらいだ。だが、王都の権力が及びにくく、仕事があるという事実は、今の彼女たちにとって何よりの希望だった。  * * *  昼下がり、馬車は中継地点である大きめの宿場町で長時間の休憩に入った。 アリシアは子どもたちを連れて馬車を降り、活気のある市場の通りをゆっくりと歩く。鞄の奥で鳴る硬貨の音は軽い。手持ちの金は銀貨が数枚と、わずかな銅貨のみ。ここから先の馬車代と、数日分の食費で消えてしまう額だ。 市場の端にある古着屋の前で、アリシアは足を止めた。
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第6話 偏屈な辺境伯と、面接代わりの帳簿

朝の冷たい空気が残る中、野宿の跡を片付けたアリシアたちは、最後の道のりを歩き終えようとしていた。 街道の脇に、長い風雨に晒されて角の取れた粗末な石碑が立っている。そこには古い文字で、「グランベル領」と深く刻み込まれていた。 アリシアは石碑の冷たい表面にそっと手を触れ、これまでの長い緊張を吐き出すように、深く息を吐いた。 「ここから先は、きっと安全な場所よ」 振り返ると、エミルとリリィが新しい土地の空気に少し戸惑うように立ち尽くしていた。王都周辺の柔らかく豊かな田園風景とはまるで違う。足元は岩がちで、吹き抜ける風には荒々しい土の匂いが混じっている。だが、その広大な大地には村や畑、放牧地が力強く広がり、遠くの丘の上には、古いが堅牢な石造りの屋敷が城郭のようにそびえ立っていた。  * * *  太陽が頭上に昇る頃、アリシアたちは辺境伯邸の正門へと辿り着いた。 堅く閉ざされた鉄格子の前には、武装した無口で警戒心の強い門番が二人立っている。アリシアは汚れた服の埃を手で払い、身なりを真っ直ぐに整え直すと、子どもたちを背中に庇うようにして進み出た。 「申し訳ありません。私は、グレイフェルト伯爵家を離れた者で、アリシア・ヴェルディーニと申します。こちらでお仕事を探しております。もし、ご当主様にお取次ぎいただけるなら、私の能力をご覧いただきたく存じます」 子連れで職を乞う女。当然のように、門番の一人が冷たい視線を向けてきた。 「子連れの女が、何の用だ。ここは辺境伯様の屋敷だぞ。物乞いなら別の場所へ行け」 だが、アリシアは怯まなかった。背筋を伸ばし、子どもたちを庇いながらも、その声は揺るぎなく落ち着いていた。同情
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第7話 旧姓ローヴェル、その名で空気が凍る

使用人棟に割り当てられた質素な部屋に、朝の冷たい空気が流れ込んでいた。アリシアは音を立てないように身支度を整え、まだ眠りに落ちている二人の子どもの顔を覗き込む。エミルとリリィの小さな肩まで毛布の端を掛け直すと、彼女は静かに部屋を出て、本邸へと向かった。 辺境伯邸で住み込みの家政婦として働き始めてから、数日が経過していた。 最初の数日間、アリシアは徹底して観察のフェーズに徹していた。本邸の厨房で執事のハインツと短い打ち合わせを交わしながら、屋敷の現状を頭の中の帳簿に書き込んでいく。王都の巨大な伯爵邸に比べれば、この辺境伯邸の規模は小さいが、石造りの壁は分厚く堅牢だった。使用人の数も最小限に抑えられている。執事のハインツ、料理長、三名のメイド、そして外回りを担当する馬丁や門番たち。無駄のない人員配置だが、その分、一人ひとりにのしかかる人手不足の歪みが随所に見え隠れしていた。  * * *  「領主様の奥様にでもなったつもりか。料理に手出ししないでくれ」 厨房で野菜の仕込みをしていた料理長ベルナルトは、大柄で無精髭を生やした中年の男だった。人手不足で慢性的に疲弊している彼の声には、新入りの女に対する明確な警戒心が混じっていた。 「ええ、料理は料理長の領分です。私は、調達と帳簿の方を担当します」 アリシアは不機嫌な態度に反論することなく、役割分担を明確に線引きした。そして、静かに言葉を継ぐ。 「それに、兵士用保存食の管理経験があります」 その一言で、ベルナルトが動かしていた包丁がぴたりと止まった。 「兵士の食料は、辺境では命に関わる。お前、それを知ってる女か」「塩漬け肉の樽の選定と、麦の湿気対策なら心得ております」
last updateHuling Na-update : 2026-10-21
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第8話 最初の改革は、薪と塩から

夜明け前、まだ屋敷全体が薄暗い静寂に包まれている時間。アリシアは音を立てずに寝床を抜け出し、冷たい水で顔を洗ってから、小さな二つの寝床に近づいた。 「エミル、リリィ、朝よ」 エミルはすぐに目を擦りながら起き上がったが、リリィは毛布にくるまったまま「うぅん」と寝言をこぼしている。身支度を整えた三人で、使用人棟の共有食堂へと向かった。 粗末だが温かい麦粥と硬いパンの朝食。アリシアは分相応の質素な食事を心がけていたが、若いメイドのカトリーナが、リリィの木皿にこっそりと蜂蜜を塗ったパンの切れ端を滑り込ませた。 「内緒ですよ」と片目をつぶるカトリーナに、アリシアは小さく頭を下げた。試用期間が始まって一週間。使用人たちも、少しずつこの幼い兄妹に優しさを向け始めている。 「リリィ、おねえちゃんと、おはなしする」 蜂蜜パンを大事そうに頬張りながら、リリィが嬉しそうに足を揺らす。朝食が終われば、彼女はまたベルナルトのいる厨房の隅へと向かうのだろう。一方、エミルは最近、アリシアの仕事に興味を持ち始めていた。 「アリシア様、僕も帳簿を見てみたいです」 食後の片付けをしながら、エミルが上目遣いで尋ねてくる。 「もう少し大きくなったらね。数字は逃げないから、焦らなくても大丈夫よ」 穏やかに答えると、エミルは少し残念そうにしながらも、素直に頷いた。  * * *  朝食後、アリシアは本邸の家政管理室に向かい、執事のハインツと小さな机を挟んで向かい合っていた。 「ハインツ様、先日申し上げた薪の件で、調達計画書を作成いたしました」 
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第9話 アリシアさん、と呼んだ朝

薄暗い夜明け前、アリシアはいつものように正確な時間へ目を覚ました。 まだ冷え切った空気のなか、身支度を整えようとベッドから足を下ろした時、部屋の小さな机に一つの影があることに気づいた。八歳のエミルがすでに起きており、ランプの小さな灯りを頼りに、熱心に羽根ペンを動かしている。ハインツから借り受けた歴史書の文字を、粗末な紙へ一字一字、丁寧に書き写しているようだった。 気配を察したエミルが、静かに振り返ってアリシアを見た。 「おはようございます、アリシアさん」 その一言が耳に届いた瞬間、アリシアの手の動きが一瞬だけ止まった。頭の中で、今響いた言葉が静かに反芻される。昨日まで少年の口から放たれていた、張り詰めた敬意の響きを持つ肩書きではない。ほんの少しだけ敬語の壁が低くなった、新しい響き。 八歳の少年が、この一週間の時間のなかで、自分との距離を自らの意思で測り直し、選び取った呼び方だった。アリシアの胸の奥に、名前のない小さな温かさが波紋のように広がっていく。だが、彼女はその喜びをあからさまに表情へ出すことはしなかった。それが、少年が自然に選んだ変化に対する、彼女なりの誠実な尊重だった。 「おはよう、エミル。早起きね」 「アリシアさんを、見送ろうと思って。これ、ハインツ様から借りた本の文字なんです」 「……上手に書けているわ。線の引き方がとても綺麗ね」 アリシアが机の上の紙をそっと指先でなぞると、エミルの顔に誇らしげな笑みが浮かんだ。まだベッドで丸くなって寝ているリリィを起こさないよう、二人は顔を見合わせて小さく微笑み合った。  * * *  
last updateHuling Na-update : 2026-10-22
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第10話 アリシアのいない伯爵家 (元夫レオハルト視点)

晩秋の冷たい風が、王都の空を鉛色に染め上げていた。グレイフェルト伯爵邸の主、レオハルト・グレイフェルトは、書斎の重厚な椅子に深く身を沈め、目の前の光景に微かな苛立ちを覚えていた。 広いマホガニーの机の上には、領地や商会から届けられた決裁書類が、分類されることもなく雑然と積み上がっている。以前であれば、これらの書類は重要度ごとに綺麗に仕分けられ、彼が目を通すべき箇所には一目でわかるように目印の栞が挟まれていた。今は、どこから手をつければいいのかすら分からない。 「旦那様、お茶をお持ちいたしました……」 新しく雇われた若いメイドが、おずおずとティーカップを運んできた。その手は微かに震えており、ソーサーにカップを置く際、カチャリと不快な音を立てて琥珀色の液体が数滴こぼれた。 「……下がれ」 レオハルトが短く告げると、メイドは怯えたように頭を下げて逃げるように退室していった。あの女がいた頃は、こんなことはなかった。朝の書斎には常に適温の茶が用意され、使用人たちは音を立てることもなく滑らかに動いていた。 一瞬だけ脳裏をよぎった前妻の姿を、レオハルトは即座に打ち消した。セレスティアがいる。彼女は美しく、自分に相応しい華やかさを持っている。それで十分だ。あれほど冷たく、可愛げのない女など、この家に必要ないのだ。  * * *  「旦那様、お忙しいところ申し訳ありません」 午前半ば、書斎の扉を叩いて入ってきたのは、この家に長年仕える年老いた執事だった。その顔には、隠しきれない疲労と深刻な色が浮かんでいる。 「商人たちから、支払いの催促が立て続けに参っております。特に、兵士用の保存食を納める商会と、冬の薪を請け負う調達商から、強い問い合わせが……」
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