เข้าสู่ระบบ王都を追放されてから、二日が経っていた。
東へ向かう街道を、執拗な冷たい雨が叩きつけている。
アリシアは泥水を跳ね上げる馬車の轍を避けながら、重い足取りで歩を進めていた。
手持ちの金は、渡された僅かな馬車代の残りと、鞄の底に隠し持っていた数枚の銀貨と銅貨だけだ。これでは一週間も持たない。
何より彼女を不安にさせているのは、実家であるヴェルディーニ子爵家からの音沙汰がないことだった。
屋敷を出る直前、年老いた執事に託した手紙。あれが手渡されていれば、実家の兄はすぐにでも早馬を寄越すはずだった。どんなに遅くとも、丸二日も放置されることはあり得ない。
(手紙が、握り潰された……?)
だが、身一つの彼女には、実家の紋章入り封蝋も、信用できる使者を雇う金もない。ヴェルディーニの名で町の安い便を頼めば、横領犯として王都へ連れ戻される恐れもあった。
その違和感は、アリシアの胸の中で不吉な冷たさとなって渦巻いていた。
空腹と疲労、そして濡れた衣服から奪われる体温。
限界に近い身体を引きずりながら、アリシアはようやく前方に立ち並ぶ建物の屋根を見つけた。
王都から東へ向かう街道で、最初に必ず通る大きな宿場町だ。王都から十分に距離がありつつも、王都へと引き返すための乗り合い馬車が頻繁に発着する、行き交う人の多い交通の要衝である。
雨上がり直後の湿った空気が漂う中、アリシアは軒を連ねる宿屋の一つに目を向けた。
その薄暗い軒下に、小さな影が二つ、うずくまるようにして立っていた。
最初は、疲労が見せた幻覚かと思った。
だが、近づくにつれて、その影の輪郭が鮮明になっていく。
「……嘘」
アリシアの口から、掠れた声が漏れた。
エミルとリリィだった。
エミルは、雨風から妹を守るように、小さな背中を庇って前に立っている。上等だったはずのよそ行き着は泥にまみれ、すっかり濡れそぼっていた。
その後ろに隠れるように立つリリィの足元を見て、アリシアは息を呑んだ。
彼女の小さな靴は片方しかなく、泥水に浸かった白い靴下は無残な土色に染まっている。二人とも、小刻みに震えていた。
* * *
なぜ、彼らがこんなところにいるのか。
あの夜、「私が連れていく」と宣言し、リリィの腕を強引に引き剥がしたはずの母親が、なぜ一緒にいないのか。
駆け寄ろうとしたアリシアの前に、宿屋の中から渋い顔をした中年の主人が出てきた。
「あんた、あの子たちの知り合いかい?」
警戒と、わずかな安堵が入り混じった主人の声に、アリシアは立ち止まって頷いた。
「……はい。あの、この子たちは、どうしてここに」
宿屋主人は大きな溜息をつき、首に巻いた手ぬぐいで頭を掻いた。
「あの女の人、迎えを寄こすって言って、もう二日来ねえんだ」
「え……」
「馬車から降りてきて、『王都に大事な忘れ物をしたから、すぐに迎えの者を寄こす』って言ってな。そのまま馬車に乗り直して、王都の方へ引き返しちまったんだよ。宿代も、この子たちの食費も置いてかなかった」
主人は気の毒そうに、しかし現実的な困惑を顔に浮かべてエミルたちを見た。
「最初は何かの事情かと思ったが、もう、戻ってこねえ気がする。俺も商売だ、慈善事業じゃねえ。けど、こんな雨の中に放り出すわけにもいかねえから、軒下だけ貸してやってたんだが……。あんた、知り合いなら、どうにかしてくれや。俺はちゃんと見てた。なんなら、後で誰に聞かれても同じことを言える」
この宿場町は、王都から東へ下る者が必ず通る場所。同時に、王都へ戻るのも容易い場所。
セレスティアにとってここは、「王都から十分に離れた、しかし王都に戻る馬車もすぐ拾える」絶妙な捨て場所だったのだ。
屋敷の玄関先で「私が育てる」と見栄を張り、子どもたちを連れ出したものの、馬車の中で泣き叫ぶ子どもたちが邪魔になったのだろう。
怒り、悲しみ、そして再会できたことへの安堵。
相反する巨大な感情が一瞬にしてアリシアの胸で爆発しかけ、激しい目眩を起こした。
だが、彼女は決して泣き叫んだりしなかった。
アリシアは泥だらけの地面に躊躇いなく膝を折り、子どもたちと目線を合わせた。
* * *
エミルは、何度も瞬きを繰り返した。雨に打たれて霞んだ視界の中で、目の前の人物が本当に実在するのかを確かめるように、震える指先をそっと伸ばす。
アリシアのスカートの裾に、その小さな指が触れた瞬間、エミルの大きな目から涙が一筋こぼれ落ちた。
「アリシア様……」
そのたった一言に、八歳の少年がこの二日間、どれほどの恐怖と絶望の中で妹を守り続けてきたかが凝縮されていた。
彼を抱きしめようと手を伸ばした時、エミルの背中からリリィがふらふらと顔を出した。
「おかあさま、もう、こない」
焦点の定まらない目で、リリィがぽつりと呟いた。
四歳児の拙い言葉が、最も残酷な事実を抉り出す。母親はもう戻ってこないということを、この小さな女の子は二日間の冷たい雨の中で、とっくに理解してしまっていたのだ。
その瞬間、アリシアの中で渦巻いていた熱い怒りが、スンと音を立てて冷たい場所へと降りていった。
(あの女は、子どもを外面のための小道具にし、不要になれば路傍に捨てた)
その事実が、氷の刃となってアリシアの胸に突き刺さる。
許さない。絶対に許さない。この冷たい怒りは、いつか必ずあの女を裁くための燃料になる。
だが、今は自分が怒りに身を任せて暴走している場合ではなかった。
アリシアは鞄を開け、自分用に残していた最後の硬いライ麦パンを取り出した。
それを手で二つに割り、エミルとリリィの小さな手に一つずつ握らせる。
「食べて。よく噛んでね」
「アリシア様は、食べないの?」
「私はお腹がいっぱいだから、大丈夫」
エミルは一瞬だけ躊躇ったが、すぐに妹の口元にパンを運び、自分も泥だらけの手でパンにかぶりついた。
その様子を見つめながら、アリシアは思考を研ぎ澄ませていく。
このまま感情に任せて子どもたちを連れ去れば、後になってセレスティアから「誘拐された」と主張される隙を与える。
彼女の武器は帳簿と記録だ。彼らを守るためには、情に流されるのではなく、法と記録という強固な盾を用意しなければならない。
「エミル、リリィ」
アリシアは穏やかに、しかし芯のある声で二人に語りかけた。
「今夜、一緒に泊まろう。それから、私と一緒に考えよう」
私が勝手に決めるのではない。あなたたちを二度と誰にも捨てさせないために、どうすればいいか。
明日の朝一番で役所に行き、宿屋の主人の証言と共に、彼らが遺棄されたという公的な記録を残す。すべてはそこからだ。
エミルが、パンを飲み込みながら小さく頷いた。
リリィが、安心したようにアリシアの膝へと倒れ込んでくる。その冷え切った小さな体を、アリシアは両腕でしっかりと抱きとめた。
雨上がりの空に、雲の隙間からわずかな光が差し込んでいた。
アリシアの胸の奥にある冷たい怒りの火種は、決して消えることはない。だが、そのすぐ隣で、この小さな命の重みが、確かな温かさとなって灯り始めていた。
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夜明け前、いつものように目を覚ましたアリシアは、窓から差し込む光がいつもよりぼんやりと白いことに気づいた。寝台から抜け出し、窓辺に寄って分厚いカーテンを少しだけ開ける。外の世界は、音もなく降り積もった純白に染まっていた。辺境の地に、初雪が訪れたのだ。王都でも雪は降るが、辺境の雪は全く質が違っていた。湿気がなく、乾いて軽い雪が、荒々しい大地を優しく覆い隠している。遠くの山々が、朝の光を浴びて白く神々しく輝いていた。「ゆき!」目を覚ましたリリィが、寝台から飛び降りて窓辺へと駆け寄ってきた。歓声を上げる妹の背中を追うように、エミルも目を擦りながらやってくる。「アリシアさん、雪、すごいですね」「ええ、本当に綺麗ね」三人で窓越しに雪景色を見つめる。辺境の冬は厳しいと聞いているが、その始まりを告げる朝は、息を呑むほど美しかった。* * *身支度を整え、三人で本邸の厨房へと向かった。扉を開けると、そこは屋敷の中で一番暖かい場所だった。かまどには勢いよく火が入り、ベルナルトが大きな鍋でスープを煮込んでいる。豊かな湯気と、食欲をそそる香ばしい匂いが厨房いっぱいに広がっていた。「初雪の朝には、辺境では『雪のスープ』を食べる習わしがあるんですよ」若いメイドのカトリーナが、忙しそうに立ち働きながら教えてくれた。鍋の中で煮込まれているのは、大きく切られた根菜と塩漬け肉、それにたっぷりの香草だ。「身体の芯まで温まる、おばあちゃんの味なんです」ベルナルトが、厨房の隅にやってきたリリィに気づいて顔をほころばせた。「お嬢ちゃん、今日は、お前さ
初雪の気配が、辺境の鋭い風に混じり始めた朝。本邸の家政管理室で、アリシアはハインツと向かい合い、本格的な冬に向けた計画を練っていた。冬の辺境は、王都のそれとは比べ物にならないほど厳しい寒さに包まれるという。薪のまとめ買いは先週のうちに無事契約を終え、今は屋敷の中庭に新設した保管所で乾燥を進めている最中だ。残る課題は、食料の備蓄と、屋敷全体の暖房効率の見直しだった。「特に、子どもたちが暮らす使用人棟の二階ですが、窓の隙間からの風が強くなっています」アリシアが懸念を口にすると、ハインツは手元の書類に目を落としながら頷いた。「来週、大工を呼びましょう。隙間を埋める修繕を急がせます」「それまでの間は、簡易の防寒策を取らせていただきます。分厚いカーテンの代わりに古い毛布を吊るし、窓枠の隙間には布をきつく詰めておきます。暖炉の位置も、少しベッドから離した方が安全です」実務的で素早い対応。ハインツは「助かります」と短く答え、次の議題へと移った。* * *その日の午前、ハインツが手配した最初の先生役が屋敷を訪れた。辺境の小さな村で元神官をしており、現在は隠居しているという老人、ヨアヒムだった。痩せて小柄な体つきだが、白髪の下にある目はひどく優しく、穏やかだった。「ハインツ殿に頼まれて、お引き受けいたしました。村の子どもたちには、昔よく文字を教えていたものでしてな」家政管理室の隣にある小部屋で、エミルは緊張した面持ちでヨアヒムに向かい合っていた。「よろしくお願いします、ヨアヒム先生」エミルが深く頭を下げると、ヨアヒ
晩秋の冷たい風が、王都の空を鉛色に染め上げていた。グレイフェルト伯爵邸の主、レオハルト・グレイフェルトは、書斎の重厚な椅子に深く身を沈め、目の前の光景に微かな苛立ちを覚えていた。広いマホガニーの机の上には、領地や商会から届けられた決裁書類が、分類されることもなく雑然と積み上がっている。以前であれば、これらの書類は重要度ごとに綺麗に仕分けられ、彼が目を通すべき箇所には一目でわかるように目印の栞が挟まれていた。今は、どこから手をつければいいのかすら分からない。「旦那様、お茶をお持ちいたしました……」新しく雇われた若いメイドが、おずおずとティーカップを運んできた。その手は微かに震えており、ソーサーにカップを置く際、カチャリと不快な音を立てて琥珀色の液体が数滴こぼれた。「……下がれ」レオハルトが短く告げると、メイドは怯えたように頭を下げて逃げるように退室していった。あの女がいた頃は、こんなことはなかった。朝の書斎には常に適温の茶が用意され、使用人たちは音を立てることもなく滑らかに動いていた。一瞬だけ脳裏をよぎった前妻の姿を、レオハルトは即座に打ち消した。セレスティアがいる。彼女は美しく、自分に相応しい華やかさを持っている。それで十分だ。あれほど冷たく、可愛げのない女など、この家に必要ないのだ。* * *「旦那様、お忙しいところ申し訳ありません」午前半ば、書斎の扉を叩いて入ってきたのは、この家に長年仕える年老いた執事だった。その顔には、隠しきれない疲労と深刻な色が浮かんでいる。「商人たちから、支払いの催促が立て続けに参っております。特に、兵士用の保存食を納める商会と、冬の薪を請け負う調達商から、強い問い合わせが……」
薄暗い夜明け前、アリシアはいつものように正確な時間へ目を覚ました。まだ冷え切った空気のなか、身支度を整えようとベッドから足を下ろした時、部屋の小さな机に一つの影があることに気づいた。八歳のエミルがすでに起きており、ランプの小さな灯りを頼りに、熱心に羽根ペンを動かしている。ハインツから借り受けた歴史書の文字を、粗末な紙へ一字一字、丁寧に書き写しているようだった。気配を察したエミルが、静かに振り返ってアリシアを見た。「おはようございます、アリシアさん」その一言が耳に届いた瞬間、アリシアの手の動きが一瞬だけ止まった。頭の中で、今響いた言葉が静かに反芻される。昨日まで少年の口から放たれていた、張り詰めた敬意の響きを持つ肩書きではない。ほんの少しだけ敬語の壁が低くなった、新しい響き。八歳の少年が、この一週間の時間のなかで、自分との距離を自らの意思で測り直し、選び取った呼び方だった。アリシアの胸の奥に、名前のない小さな温かさが波紋のように広がっていく。だが、彼女はその喜びをあからさまに表情へ出すことはしなかった。それが、少年が自然に選んだ変化に対する、彼女なりの誠実な尊重だった。「おはよう、エミル。早起きね」「アリシアさんを、見送ろうと思って。これ、ハインツ様から借りた本の文字なんです」「……上手に書けているわ。線の引き方がとても綺麗ね」アリシアが机の上の紙をそっと指先でなぞると、エミルの顔に誇らしげな笑みが浮かんだ。まだベッドで丸くなって寝ているリリィを起こさないよう、二人は顔を見合わせて小さく微笑み合った。* * *
夜明け前、まだ屋敷全体が薄暗い静寂に包まれている時間。アリシアは音を立てずに寝床を抜け出し、冷たい水で顔を洗ってから、小さな二つの寝床に近づいた。「エミル、リリィ、朝よ」エミルはすぐに目を擦りながら起き上がったが、リリィは毛布にくるまったまま「うぅん」と寝言をこぼしている。身支度を整えた三人で、使用人棟の共有食堂へと向かった。粗末だが温かい麦粥と硬いパンの朝食。アリシアは分相応の質素な食事を心がけていたが、若いメイドのカトリーナが、リリィの木皿にこっそりと蜂蜜を塗ったパンの切れ端を滑り込ませた。「内緒ですよ」と片目をつぶるカトリーナに、アリシアは小さく頭を下げた。試用期間が始まって一週間。使用人たちも、少しずつこの幼い兄妹に優しさを向け始めている。「リリィ、おねえちゃんと、おはなしする」蜂蜜パンを大事そうに頬張りながら、リリィが嬉しそうに足を揺らす。朝食が終われば、彼女はまたベルナルトのいる厨房の隅へと向かうのだろう。一方、エミルは最近、アリシアの仕事に興味を持ち始めていた。「アリシア様、僕も帳簿を見てみたいです」食後の片付けをしながら、エミルが上目遣いで尋ねてくる。「もう少し大きくなったらね。数字は逃げないから、焦らなくても大丈夫よ」穏やかに答えると、エミルは少し残念そうにしながらも、素直に頷いた。* * *朝食後、アリシアは本邸の家政管理室に向かい、執事のハインツと小さな机を挟んで向かい合っていた。「ハインツ様、先日申し上げた薪の件で、調達計画書を作成いたしました」
使用人棟に割り当てられた質素な部屋に、朝の冷たい空気が流れ込んでいた。アリシアは音を立てないように身支度を整え、まだ眠りに落ちている二人の子どもの顔を覗き込む。エミルとリリィの小さな肩まで毛布の端を掛け直すと、彼女は静かに部屋を出て、本邸へと向かった。辺境伯邸で住み込みの家政婦として働き始めてから、数日が経過していた。最初の数日間、アリシアは徹底して観察のフェーズに徹していた。本邸の厨房で執事のハインツと短い打ち合わせを交わしながら、屋敷の現状を頭の中の帳簿に書き込んでいく。王都の巨大な伯爵邸に比べれば、この辺境伯邸の規模は小さいが、石造りの壁は分厚く堅牢だった。使用人の数も最小限に抑えられている。執事のハインツ、料理長、三名のメイド、そして外回りを担当する馬丁や門番たち。無駄のない人員配置だが、その分、一人ひとりにのしかかる人手不足の歪みが随所に見え隠れしていた。* * *「領主様の奥様にでもなったつもりか。料理に手出ししないでくれ」厨房で野菜の仕込みをしていた料理長ベルナルトは、大柄で無精髭を生やした中年の男だった。人手不足で慢性的に疲弊している彼の声には、新入りの女に対する明確な警戒心が混じっていた。「ええ、料理は料理長の領分です。私は、調達と帳簿の方を担当します」アリシアは不機嫌な態度に反論することなく、役割分担を明確に線引きした。そして、静かに言葉を継ぐ。「それに、兵士用保存食の管理経験があります」その一言で、ベルナルトが動かしていた包丁がぴたりと止まった。「兵士の食料は、辺境では命に関わる。お前、それを知ってる女か」「塩漬け肉の樽の選定と、麦の湿気対策なら心得ております」







