INICIAR SESIÓN夫の浮気が発覚した夜、私は家も財産も奪われた。 五年間、傾いた伯爵家を支えてきたアリシアは、夫とその幼馴染に横領の濡れ衣を着せられ、身一つで追放される。 だが、冷たい雨の宿場で見つけたのは、浮気相手が捨てた八歳の兄と四歳の妹だった。 「お願い、もう置いていかないで……」 二人を守ると決めたアリシアは、辺境伯家で住み込み家政婦として再出発。帳簿と交渉の腕で屋敷を立て直すうち、冷徹と噂される辺境伯が彼女たちに心を開き始める。 一方、アリシアを追い出した元夫の家は崩壊の危機に。 今さら戻れと言われても、もう遅い。 私には、守りたい家族がいる。
Ver más「奥様にお客様です」
執事の言葉に、アリシアは溜息を呑み込んだ。
今日も来た。夫の幼馴染が。
応接間へ向かう廊下を急ぎ足で歩きながら、アリシアは今日これまでに終わらせた仕事の山を頭の中で反芻した。
夜明け前、凍えるような石造りの階段を降りて厨房へ向かい、領兵のための冬季保存食の出来を確認した。
塩漬け肉の樽を開け、自ら指で表面の硬さを確かめ、塩の配合比率を料理長に細かく指示し直す。さらに、納品された小麦がわずかに湿気を帯びていることを見抜き、出入りの商人へ三割の値下げ交渉を行うよう、確固たる筆致で発注のメモを書き殴った。
朝食後は休む間もなく、執事と当日の取引先対応の打ち合わせをこなし、次々と持ち込まれる家政の相談を裁いた。体調不良で休んだメイドの穴を埋めるため、使用人たちの配置をパズルピースのように組み直し、不満が出ないよう労いの言葉と共に指示を出す。
そして先ほど、夫レオハルトの書斎へ赴き、彼が目を通すべき決裁書類を分野ごとに綺麗に揃え、目印の栞を挟んで机の中央に置いてきたばかりだった。
五年でこの家を立て直したのは彼女だ。だが、家中の誰もそれを口に出さない。
夫の書斎に整えた書類の横、毎朝彼のために淹れておく熱いお茶は、いつだって二杯目を求められることはない。冷めていくばかりの茶器の姿が、この家におけるアリシアの本当の立ち位置を静かに物語っていた。
応接間の重いオーク材の扉を開けると、鼻を突くほど甘い香水が漂ってきた。
「ごめんなさいね、アリシア様」
アリシア自身が商会と粘り強く交渉して買い付けた最高級の絨毯の上で、上質な絹のドレスを揺らし、ソファから立ち上がったのはセレスティアだった。
美しく、どこか頼りなげで、男が思わず庇護したくなるような空気を纏った女性。
彼女の足元には、二人の小さな影が立っていた。
「ちょっとだけ預かってくださる? 王都で大事な集まりがあって。どうしても外せないの」
セレスティアは困ったように首を傾げて微笑む。母親としての責任感も、家主の妻に丸投げすることへの悪びれる様子もそこにはない。
八歳になる長男のエミルが、母親の影から一歩前に出て、礼儀正しく深く頭を下げた。
「アリシア様、おはようございます。今日も、よろしくお願いします」
その隣から、四歳になる長女のリリィがとてとてと駆け寄ってくる。
「アリシア、だっこ」
小さな両腕を伸ばすリリィの背中には、実の母親の視線は微塵も向けられていない。アリシアはインクの染みが抜けきらない指先をエプロンで隠し、そっとしゃがみ込んで温かい小さな体を抱き上げた。
数十分後。
玄関の車寄せでセレスティアの馬車を見送る際、いつの間にかレオハルトもそこへ姿を見せていた。
「ありがとう、レオハルト様。いつも頼ってしまってごめんなさい。あなたがいてくれて、本当に心強いわ」
別れ際、セレスティアの白く細い指先が、レオハルトの上着の袖に軽く触れた。
少し離れた場所でリリィを抱いたままそれを見ていたアリシアの胸に浮かんだのは、嫉妬や怒りのような熱い感情ではなかった。
ただ「またか」という、鉛のように重く、どこまでも冷たい疲労感だけだった。
妻である自分が一日中屋敷の裏方を駆け回り、数字と埃に塗れて泥臭く働いている間、夫は美しい幼馴染のために時間を割き、その甘えを心地よさそうに受け入れる。
馬車が動き出した後、レオハルトの視線がふとアリシアの方を向いた。リリィを抱くアリシアの腕の、たくし上がったブラウスの袖口にインクの染みが滲んでいる。レオハルトはそれを見てから、気まずそうにさっと目を逸らして屋敷の奥へと戻っていった。
* * *
日が傾き始めた図書室。
「……そこで、勇敢な猟犬は深い森の奥へと進み、迷子の子羊を見つけ出しました」
アリシアが古い童話を読み上げると、隣の長椅子に座るエミルは真剣な目でページを見つめ、静かに頷いた。八歳という年齢にしては大人びたその横顔は、年下の妹を気にかけながら、静かに本の文字を追っていた。
一方、彼女の膝の上では、リリィがすっかり安心しきって丸くなっていた。
アリシアは左腕でリリィの背中を一定のリズムでトントンと叩きながら、右手では商会から届いたばかりの分厚い帳簿を捲っている。凝り固まった肩の痛みと戦いながら、視線を行ったり来たりさせて細かい数字の不備を追った。
血の繋がらない他人の子どもをあやしながら、巨大な伯爵家の財政を一人で管理する。
いつの間にか、この歪で過酷な光景が、アリシアの日常に完全に組み込まれていた。
夜になり、客室のベッドで二人を寝かしつけた。
規則正しい寝息を立てる小さな顔を見下ろしていると、ふと、限界まで疲弊した胸の奥底に、黒く冷たい感情がよぎった。
(この子たちは、私の子じゃないのに)
なぜ、私がこれほど身を粉にして世話を焼いているのか。本来なら、実の母親が抱きしめ、亡き実父に代わって子どもたちを支えるべきではないのか。私には、そのどちらの権利も義務もないはずなのに。
だが、寝返りを打ったリリィが、アリシアの服の裾を小さな手でぎゅっと掴んで離さないのを見て、アリシアは即座にその考えを打ち消した。
この小さな命たちに、何の罪もない。大人の事情で振り回されている彼らこそが、一番の被害者なのだ。
「……おやすみ」
アリシアはそっと毛布を掛け直すと、子どもたちの温かい寝顔から離れるように、自らの冷たい仕事場へと足を向けた。
* * *
深夜の書斎。
静寂の中、暖炉の火が小さく爆ぜる音と、ペンが羊皮紙を擦る音だけが響いていた。
アリシアが明日の薪の調達予算を計算し終えた時、不意に背後の重い扉が開いた。
振り返ると、そこに立っていたのはレオハルトだった。
「アリシア」
「はい」
「……大事な話がある」
彼の声は不自然なほど硬かった。視線はアリシアを真っ直ぐに見ず、空を泳ぐように部屋の隅を彷徨っている。
アリシアは静かにペンを置いた。
何か面倒な交渉事でも持ち込まれたのだろうか。それとも、またどこかの商会と支払いで揉めたのか。
彼女は冷めきった紅茶のカップを脇へ退け、帳簿を閉じて夫に向き直った。
「跡継ぎのことなんだ」
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初雪の気配が、辺境の鋭い風に混じり始めた朝。本邸の家政管理室で、アリシアはハインツと向かい合い、本格的な冬に向けた計画を練っていた。冬の辺境は、王都のそれとは比べ物にならないほど厳しい寒さに包まれるという。薪のまとめ買いは先週のうちに無事契約を終え、今は屋敷の中庭に新設した保管所で乾燥を進めている最中だ。残る課題は、食料の備蓄と、屋敷全体の暖房効率の見直しだった。「特に、子どもたちが暮らす使用人棟の二階ですが、窓の隙間からの風が強くなっています」アリシアが懸念を口にすると、ハインツは手元の書類に目を落としながら頷いた。「来週、大工を呼びましょう。隙間を埋める修繕を急がせます」「それまでの間は、簡易の防寒策を取らせていただきます。分厚いカーテンの代わりに古い毛布を吊るし、窓枠の隙間には布をきつく詰めておきます。暖炉の位置も、少しベッドから離した方が安全です」実務的で素早い対応。ハインツは「助かります」と短く答え、次の議題へと移った。* * *その日の午前、ハインツが手配した最初の先生役が屋敷を訪れた。辺境の小さな村で元神官をしており、現在は隠居しているという老人、ヨアヒムだった。痩せて小柄な体つきだが、白髪の下にある目はひどく優しく、穏やかだった。「ハインツ殿に頼まれて、お引き受けいたしました。村の子どもたちには、昔よく文字を教えていたものでしてな」家政管理室の隣にある小部屋で、エミルは緊張した面持ちでヨアヒムに向かい合っていた。「よろしくお願いします、ヨアヒム先生」エミルが深く頭を下げると、ヨアヒ
晩秋の冷たい風が、王都の空を鉛色に染め上げていた。グレイフェルト伯爵邸の主、レオハルト・グレイフェルトは、書斎の重厚な椅子に深く身を沈め、目の前の光景に微かな苛立ちを覚えていた。広いマホガニーの机の上には、領地や商会から届けられた決裁書類が、分類されることもなく雑然と積み上がっている。以前であれば、これらの書類は重要度ごとに綺麗に仕分けられ、彼が目を通すべき箇所には一目でわかるように目印の栞が挟まれていた。今は、どこから手をつければいいのかすら分からない。「旦那様、お茶をお持ちいたしました……」新しく雇われた若いメイドが、おずおずとティーカップを運んできた。その手は微かに震えており、ソーサーにカップを置く際、カチャリと不快な音を立てて琥珀色の液体が数滴こぼれた。「……下がれ」レオハルトが短く告げると、メイドは怯えたように頭を下げて逃げるように退室していった。あの女がいた頃は、こんなことはなかった。朝の書斎には常に適温の茶が用意され、使用人たちは音を立てることもなく滑らかに動いていた。一瞬だけ脳裏をよぎった前妻の姿を、レオハルトは即座に打ち消した。セレスティアがいる。彼女は美しく、自分に相応しい華やかさを持っている。それで十分だ。あれほど冷たく、可愛げのない女など、この家に必要ないのだ。* * *「旦那様、お忙しいところ申し訳ありません」午前半ば、書斎の扉を叩いて入ってきたのは、この家に長年仕える年老いた執事だった。その顔には、隠しきれない疲労と深刻な色が浮かんでいる。「商人たちから、支払いの催促が立て続けに参っております。特に、兵士用の保存食を納める商会と、冬の薪を請け負う調達商から、強い問い合わせが……」
薄暗い夜明け前、アリシアはいつものように正確な時間へ目を覚ました。まだ冷え切った空気のなか、身支度を整えようとベッドから足を下ろした時、部屋の小さな机に一つの影があることに気づいた。八歳のエミルがすでに起きており、ランプの小さな灯りを頼りに、熱心に羽根ペンを動かしている。ハインツから借り受けた歴史書の文字を、粗末な紙へ一字一字、丁寧に書き写しているようだった。気配を察したエミルが、静かに振り返ってアリシアを見た。「おはようございます、アリシアさん」その一言が耳に届いた瞬間、アリシアの手の動きが一瞬だけ止まった。頭の中で、今響いた言葉が静かに反芻される。昨日まで少年の口から放たれていた、張り詰めた敬意の響きを持つ肩書きではない。ほんの少しだけ敬語の壁が低くなった、新しい響き。八歳の少年が、この一週間の時間のなかで、自分との距離を自らの意思で測り直し、選び取った呼び方だった。アリシアの胸の奥に、名前のない小さな温かさが波紋のように広がっていく。だが、彼女はその喜びをあからさまに表情へ出すことはしなかった。それが、少年が自然に選んだ変化に対する、彼女なりの誠実な尊重だった。「おはよう、エミル。早起きね」「アリシアさんを、見送ろうと思って。これ、ハインツ様から借りた本の文字なんです」「……上手に書けているわ。線の引き方がとても綺麗ね」アリシアが机の上の紙をそっと指先でなぞると、エミルの顔に誇らしげな笑みが浮かんだ。まだベッドで丸くなって寝ているリリィを起こさないよう、二人は顔を見合わせて小さく微笑み合った。* * *
夜明け前、まだ屋敷全体が薄暗い静寂に包まれている時間。アリシアは音を立てずに寝床を抜け出し、冷たい水で顔を洗ってから、小さな二つの寝床に近づいた。「エミル、リリィ、朝よ」エミルはすぐに目を擦りながら起き上がったが、リリィは毛布にくるまったまま「うぅん」と寝言をこぼしている。身支度を整えた三人で、使用人棟の共有食堂へと向かった。粗末だが温かい麦粥と硬いパンの朝食。アリシアは分相応の質素な食事を心がけていたが、若いメイドのカトリーナが、リリィの木皿にこっそりと蜂蜜を塗ったパンの切れ端を滑り込ませた。「内緒ですよ」と片目をつぶるカトリーナに、アリシアは小さく頭を下げた。試用期間が始まって一週間。使用人たちも、少しずつこの幼い兄妹に優しさを向け始めている。「リリィ、おねえちゃんと、おはなしする」蜂蜜パンを大事そうに頬張りながら、リリィが嬉しそうに足を揺らす。朝食が終われば、彼女はまたベルナルトのいる厨房の隅へと向かうのだろう。一方、エミルは最近、アリシアの仕事に興味を持ち始めていた。「アリシア様、僕も帳簿を見てみたいです」食後の片付けをしながら、エミルが上目遣いで尋ねてくる。「もう少し大きくなったらね。数字は逃げないから、焦らなくても大丈夫よ」穏やかに答えると、エミルは少し残念そうにしながらも、素直に頷いた。* * *朝食後、アリシアは本邸の家政管理室に向かい、執事のハインツと小さな机を挟んで向かい合っていた。「ハインツ様、先日申し上げた薪の件で、調達計画書を作成いたしました」