翻訳という営みを眺めると、まず語感の再現がいかに繊細な作業かが浮かび上がってくる。'
擾乱'の原作は語りの抑揚や語彙選択で独特の空気を作っているため、翻訳版を読むときはいつも「声の質」を探るような気分になる。語感とは単に単語の意味だけでなく、リズム、句読点の置き方、繰り返しの有無、さらには省略や間(ま)の取り方まで含んでいる。読んでいるときに胸襟を突くような言い回しがあるなら、それをどう別の言語で再現するかが翻訳者の腕の見せどころだと感じる。
原文の断片的な短いセンテンスや、内的独白の途切れが効果を生んでいる箇所では、翻訳版も同様に句を切ったり短い節を並べたりして原作の呼吸を保とうとすることが多い。一方で、原文に特有の擬音や擬態語、日本語独特の曖昧な主語省略といった要素は直輸入できない場面が出てくる。そういう場合、翻訳者は代替表現を工夫したり、語彙の選択で声の階調を作ったり、時には脚注や訳注で語感的な説明を補う。語感の差を埋めるために文体をわずかに古めに寄せたり、逆に口語に傾けてキャラクターの生々しさを保ったりと、訳ごとに戦略が分かれるのが面白い。
例を挙げれば、古典的な響きを持つ作品を別言語に移す際に見かけるのが、原語の韻律を意図的に再現する試みだ。'源氏物語'の翻訳で見られるように、リズムや繰り返しを重視して訳文の語順や句読点を調整するやり方は、'擾乱'の翻訳にも応用され得る。逆に、あえて自然なターゲット側の言い回しを優先して読みやすさを取る訳は、原作の「尖った」部分が丸くなる代償を払うことになる。総じて言えば、語感の再現はトレードオフの連続で、どの要素を残しどれを削るかの選択が翻訳版ごとの個性を生む。私が読む限り、良い翻訳は原作の声を完全にコピーするのではなく、その核となるリズムや響きを別言語で再構築しているものだと感じる。そういう訳に出会うと、原作の持つ微かな叫びや囁きが別の言葉でも息づいていると実感できる。