作中の復讐譚を追いかけていくと、エドモンドの人物像が単純な“正義の執行者”では収まらないことに気づく。『The Count of Monte Cristo』を読み直すと、彼が取った行動は復讐か救済か、あるいはその両方を狙った計算された劇場だったのか、という根本的な問いが次々に出てくる。ひとつ有力だと感じる理論は、「人格の分裂」説だ。若きエドモンド(無垢な恋人・裏切られた被害者としての彼)と、数年の獄中生活・知識・資産で変貌したモンテ・クリスト――この二重性は単に時間の経過の証ではなく、精神の分断を表している、という見方だ。アッベ・ファリアの影響で知識と復讐の設計図を手に入れたエドモンドは、復讐を実行するために意図的に別人格を演じ切ることで、自己の情の部分を守ろうとした、という具合に解釈できる。
別の強力な読みは、彼の行動が社会批評の装置だというものだ。単なる個人的な恨みの晴らし方ではなく、官僚、司法、貴族社会の腐敗を暴き出すために“モンテ・クリスト”という仮面で演劇的に裁きを下した、という理屈だ。ここから派生する理論として、エドモンドは復讐の過程で加害者と変わり果て、被害者の立場から非道な復讐者へと堕ちていく――つまり物語自体が復讐の倫理学を試験するための道具になっている、という読解も成り立つ。また、ハイデーとの関係やメルセデスへの未練は、表面上の勝利の空虚さと償いの可能性を同時に示す象徴だと見ると、結末の余韻がより深くなる。
最後に個人的な感想をひとつ。エドモンドを“完全に善”でも“完全に悪”でもない存在として読むと、物語が与える痛切な問いが浮かび上がる。復讐は正当化され得るか、人は傷ついた自分を取り戻せるか、そしてどこで贖罪は完了するのか。こうした問いを胸に読了すると、エドモンドという人物がただのカタルシス装置ではなく、読者に倫理の鏡を突き付けるキャラクターであることがよく分かる。