手がかりをつなぎ合わせる作業が妙に楽しくなる時がある。そういう気分で書くと、'
ドレッドノート'の謎は多層的で、まるでパズルのピースが時間差で噛み合っていくように感じられる。
まず、コミュニティ内でよく見かける解釈を三つに分けてみる。ひとつ目は文字どおりの「隠されたプロット要素」派で、作者が物語の鍵として意図的に散りばめた暗号や伏線が、後の展開やサイドストーリーにつながると考える人たちだ。証拠としては、反復する記号、地図の断片、台詞の微妙な言い回しが挙げられる。ふたつ目は「象徴的・テーマ的」派。ここではノートそのものが権力や記憶、喪失といった大きなテーマの象徴だと読み替えられ、事件や登場人物の行動は個人的・社会的な寓話として解釈される。三つ目はもっと遊び心のある見方で、制作者のメタ的な仕掛け、つまり読者を巻き込むための『謎としての謎』と捉えるものだ。
私が注目しているのは、こうした解釈が相互に影響し合っている点だ。誰かが「この数字は暗号だ」と突き止めれば、別の誰かがその暗号をテーマ読みの材料にして新しい説を作る。そのプロセスがまた新たな検証材料を生み出し、コミュニティ全体で意味が発酵していく。個人的には、'ドレッドノート'の謎は完全に解かれるためのものではなく、解かれることで作品の奥行きが増すタイプの仕掛けだと感じる。だから、どの解釈が“正しい”かを巡る論争自体が、この作品の楽しみ方の一部になっている。
過去作の類例を引けば、冒険譚に隠された象徴を巡る議論は決して目新しくない。けれども、ここでは現代的な情報共有と解析ツールが加わるぶん、解釈の速さも複雑さも格段に違う。だからこそ、私はある程度の混沌を肯定する。結論めいたことを言えば、謎は読者の参加を促す装置であり、その多様な読みが作品を長く生かしている――そう思っている。