表現の裏側を解読するのが楽しい。僕は文章の“空白”に注目することが多くて、
韜晦という技法はまさにその空白を巧みに操るための道具だと考えている。具体的には、作者が登場人物の過去や動機をあえて明示しない、断片的な描写で人間性を匂わせる、あるいは複数の視点をぶつけてどの語りも完全には信用できないようにする──これらの手法が重ねられることで、読者は自分で人物像を組み立てることを余儀なくされる。そうした欠落が、むしろ人物を立体的にする不思議さがあるんだ。
例えば、芥川龍之介の短編群でよく見るように、語り手の信用を揺るがすことで人物の輪郭が揺らぐ場面がある。'羅生門'では出来事そのものの真偽と語り手の道徳観が交錯して、登場人物が単純な善悪の枠に収まらない。行動の動機が完全に示されないことが、読者に判断の余地を与え、登場人物をより現実的かつ謎めいた存在にしている。
一方で、川端康成の描き方は別の味わいを持っている。'雪国'では内面が断片的な情景や所作を通じてほのめかされ、明確な説明がほとんどない。言葉よりも間(ま)や風景、しぐさが人物を語るため、読者はそこから微妙な感情の揺れを読み取らざるを得ない。僕にとって韜晦は、作者が登場人物を“未完の絵”として提示し、読者の感性を補助線に変える演出だ。そうして生まれる曖昧さこそが、しばしば長く心に残る人物描写になっていると思う。