『ヒカル』を評論する際、批評家たちはしばしば、本作が伝統的な「本格ミステリー」と一線を画していることを強調する。典型的な探偵小説では、観客は壮大な謎を期待する。犯人は誰なのか?その手口はどれほど巧妙なのか?真実の暴露は、衝撃的で天地を揺るがすような体験をもたらすはずだ。しかし、『ヒカル』における「謎」は、むしろ些細な日常的な疑問に近い。例えば、「なぜ誰かが本を返し忘れたのか?」「なぜ文化祭の映画は中止になったのか?」といった疑問だ。こうした一見些細な謎は、登場人物たちの議論や探求を通して、青春の深みを帯びている。
批評家たちは、『ヒカル』のジャンルは、若者の日常生活や知的好奇心を描き出すことに重きを置いており、ミステリーは脇役的な役割を担っていると指摘する。つまり、ハードボイルド探偵小説の領域に完全に逸脱するのではなく、登場人物の関係性を彩り、作品の雰囲気を高めるためにミステリーを用いているのだ。観客は真実に惹かれるのではなく、
平凡な生活の中に
非凡な何かを見出す感覚に惹かれる。
批評家たちの視点から見た両者の違いは、伝統的なミステリーが論理の限界を追求するのに対し、『氷菓』のようなジャンルは、演繹的な推理を用いて、青春の繊細で曖昧な部分を描き出す傾向があるということだ。真実も重要だが、その核となるのは、ムードや空気感、そして登場人物同士の繊細な化学反応なのだ。
一方で伝統的なミステリーは、プロットの整合性や手がかりの配置、読者への公正さ(フェアプレイ)を高く評価される。密室や連続殺人といったテンプレ要素、犯人当ての明確な構図が重視され、結末での論理的な回収が求められる。評論家はそこに技巧や構成力を見る。
だから僕は、両者を比べるときに「どこを評価するか」が最大の違いだと感じる。どちらが優れているかではなく、何を楽しみ、何を評価基準にするかで評価は変わる──そういう結論に落ち着くことが多い。