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月はかつて、君を想う

月はかつて、君を想う

By:  アカリCompleted
Language: Japanese
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会社の海外重要プロジェクトを勝ち取ったその日、社長である夫・橘慎也(たちばな しんや)は私に盛大な結婚式をプレゼントすると言う。 私は嬉しさのあまり涙があふれる。恋愛五年、極秘結婚三年を経て、ようやく私の存在を公にしてくれるのだと思う。 その夜のうちに飛行機で帰国するが、目に飛び込んできたのは、豪華な式場で彼が女性秘書に甘くプロポーズし、成功している光景。 夜空を埋め尽くす花火の下で、二人は指輪を交換し、幸せそうに抱き合っている。 長旅のまま立ち尽くす私を見て、行き交う招待客たちの目には面白がる色が浮かぶ。 誰もが私が騒ぎ出すと思っている中、私は冷ややかに笑い、先に拍手する。 「お似合いの二人ね。入籍はいつにするの?お祝いを用意しなきゃ」 私の口調に棘を感じ取ったのか、須藤遥香(すどう はるか)は一瞬で目を真っ赤にして涙ぐむ。 慎也は彼女を庇うように背後へ引き寄せ、低い声で私を叱る。 「遥香はろくでもない伯父に、知的障害のある男との結婚を強要されている。俺たちは何年も支援して、やっとここまで育てたんだ。本当に田舎に戻してそんな相手に嫁がせるつもりか? それにこれはただの式だ。本当に結婚するわけじゃない。お前とはもう入籍しているんだ、これでも不安なのか?」 騒ぎになるのを恐れているのか、彼は私の手首を掴み、声をやわらげる。 「安心しろ。半年後には破局を発表する。その時に俺たちの関係も公にする。いいだろ?」 これまで何年も待ってきた。けれど今回は、もう待つ気になれない。 彼の手を振り払い、背を向ける。「結構よ」

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松坂 美枝
松坂 美枝
恩知らず共が凄絶すぎる報いを受けて、読んでて戦慄する 主人公がいなくなっただけで重婚野郎が築き上げた城が崩壊していって廃墟になった 不幸の後にはでっかい幸せが来て主人公良かったね
2026-04-23 09:49:28
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28 Chapters
第1話
会社の海外重要プロジェクトを勝ち取ったその日、社長である夫・橘慎也(たちばな しんや)は私に盛大な結婚式をプレゼントすると言う。私は嬉しさのあまり涙があふれる。恋愛五年、極秘結婚三年を経て、ようやく私の存在を公にしてくれるのだと思う。その夜のうちに飛行機で帰国するが、目に飛び込んできたのは、豪華な式場で彼が女性秘書に甘くプロポーズし、成功している光景。夜空を埋め尽くす花火の下で、二人は指輪を交換し、幸せそうに抱き合っている。長旅のまま立ち尽くす私を見て、行き交う招待客たちの目には面白がる色が浮かぶ。誰もが私が騒ぎ出すと思っている中、私は冷ややかに笑い、先に拍手する。「お似合いの二人ね。入籍はいつにするの?お祝いを用意しなきゃ」私の口調に棘を感じ取ったのか、須藤遥香(すどう はるか)は一瞬で目を真っ赤にして涙ぐむ。慎也は彼女を庇うように背後へ引き寄せ、低い声で私を叱る。「遥香はろくでもない伯父に、知的障害のある男との結婚を強要されている。俺たちは何年も支援して、やっとここまで育てたんだ。本当に田舎に戻してそんな相手に嫁がせるつもりか?それにこれはただの式だ。本当に結婚するわけじゃない。お前とはもう入籍しているんだ、これでも不安なのか?」騒ぎになるのを恐れているのか、彼は私の手首を掴み、声をやわらげる。「安心しろ。半年後には破局を発表する。その時に俺たちの関係も公にする。いいだろ?」これまで何年も待ってきた。けれど今回は、もう待つ気になれない。彼の手を振り払い、背を向ける。「結構よ」いつもと違って従わない私を見て、慎也の表情が一瞬曇った。大股で追いつき、私の前に立ちはだかり、苛立ちを隠さず言う。「瀬戸(せと)、こんな大勢の前で俺と遥香の顔を潰すつもりか?それに遥香は長年お前を姉として尊敬してただろ。それくらいの思いやりも持てないのか?忘れるな。あの時、彼女が可哀想だから積極的に助けてやれと言ったのはお前だろう。俺がその通りにしたら、今度はその態度か?」冷たい視線に問い詰める色が混じる中、彼は再び私の手を強く掴む。「瀬戸、俺たちは夫婦だ。これくらいの信頼もないのか?」責任転嫁にもほどがあるその言葉に、私の目の奥がじわりと熱くなる。「よくも信頼なんて言えるわね」鼻の奥がつんとしな
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第2話
ステージの上では、二人が上質なスーツとドレスに身を包んでいる。フラッシュと優雅なピアノの旋律に包まれ、その姿はまるでドラマの主役カップルのようにお似合いだ。それに引き換え、私は長旅の疲れがにじみ出て、顔には倦みが残る。壇下に立てば、まるで幸せな式をぶち壊しに来た悪役のように見える。その場での押し問答が、さらに招待客たちの視線を集める。やがて、ひそひそ声が耳に入ってくる。「瀬戸汐里(せと しおり)ってどういうつもり?普段から実績がいいのをいいことに、社長に距離近すぎるのもどうかと思ってたけど、ついにプロポーズの場まで来るなんて……」「ほんとよ。須藤さんが優しすぎるんだよね、あんなに長く張り付かれても我慢してるなんて」「どうせまた辞めるとか言って社長に何か迫ってるんでしょ……」嘲り混じりの言葉が、曲の合間に私の耳へ流れ込む。社員たちが裏でこんなふうに私を見ていたなんて、初めて知る。思えば当然かもしれない。遥香は入社以来ずっと慎也の秘書。私はプロジェクトのため全国を飛び回り、会社に戻るのはせいぜい数日。普段の彼の生活も私が管理しているが、私が不在の間は心配で、身の回りのことを遥香に任せてきた。だからこそ、二人が付き合っていると思われているのだろう。けれど胸がえぐられるのは、以前社員の一人が私と慎也の関係を疑った時のこと。彼は激怒し、その社員を降格処分にし、給与停止まで行い、全社に通達して厳しく叱責した。再び同じことがあれば解雇だとまで言い渡した。今耳にする噂からは、皆がすでに二人を恋人同士と見なしているのが分かる。オフィスに常にいる慎也が、それに気づかないはずがない。目を閉じると、先ほど遥香に指輪をはめた時の、あの幸せそうな笑顔が浮かぶ。その瞬間、すべてが腑に落ちる。彼は社員たちの誤解を知っている。むしろ、それを楽しんでいる。そしてあの笑顔と、遥香を守ろうとする必死さは、私が一度も向けられたことのないもの。入籍した日でさえ、彼は私の隣で無表情のまま、喜びの色など欠片も見せなかった。ぼんやりしている私を見て、慎也は腕を引き、不機嫌そうに言う。「……遥香に経営を学ばせたのは、会社で役に立ってもらうためだろ。連れ戻されたら、これまでの投資が無駄になる。汐里、俺だって損失を抑え
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第3話
私の言葉が落ちた直後、宇佐美陸斗(うさみ りくと)の気だるい声がスマホ越しに響く。「今日は西から太陽が昇ったのか?瀬戸さんという衛星が、ついに軌道離脱?」相変わらず軽口ばかり。私は遠慮せず、単刀直入に言う。「足りるかどうかだけ答えて。足りないなら他に当たる」「十分どころか、こっちが条件を上乗せしたいくらいだ」軽薄な調子は聞き流し、私は腕時計に目を落とす。「じゃあ三十分後、森ホテルのロビーで」私の誘いに、珍しく彼は少し慌てる。「瀬戸、今のは冗談だぞ。仕事だけじゃなくて、俺まで巻き込む気か?」私はこめかみを押さえながら答える。「あなたに興味はない。ただ中村社長と会うのに同行してほしいだけ」「分かった。ホテルじゃなくて、今から迎えに行く」目の前の三つのスーツケースを見つめ、私は住所を送る。十分ほどで、陸斗が玄関先に現れる。三つのスーツケースを運び出す私を見ても、彼は何も聞かない。私も何も言わない。車に乗ると、彼は成林建設の予算資料の束を差し出してくる。私は静かにページをめくり、道中は一言も交わさない。ホテルに着くと、慎也から送られてきた情報を頼りに、最上階のスイートへ向かう。ドアをノックし名乗ると、中村社長が不機嫌そうに扉を開け、私を睨む。「橘は須藤を寄こすって言ってたはずだ。なんでお前なんだ?」慎也が嘘をついていることは分かっていた。それでも、その嘘が目の前で暴かれると、胸に鋭い痛みが走る。手のひらに爪を食い込ませ、無理やり営業用の笑みを作り、隣の陸斗を引き寄せる。「須藤は今夜来られません。このまま時間を無駄にするより、プロジェクトの話をしませんか」陸斗を見て、中村社長は眉をひそめるが、何も言わず私たちを部屋へ通す。そして再び外に出た時、陸斗の手には正式に押印された契約書がある。その頃、慎也のもとにも、中村社長から協力打ち切りのメッセージが届く。今後一切取引しないと書かれたその一文に、彼は怒りで顔を歪める。手に入りかけた案件を逃しただけでなく、すべてを台無しにされたのだから無理もない。傍らの遥香は、目を赤くしながら口を開く。「慎也さん、ごめんなさい。私が体調を崩して行けなかったせいで、汐里さんが意地になって契約を壊してしまって……」そう言いながら咳き込
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第4話
投稿の本文はこうだ。【ちょっと咳が出るだけなのに、社長様が仕事を全部キャンセルして付き添ってくれて、しかも自らキッチンに立ってスープまで作ってくれたの。もう大好き、一生ついていく!これからも社長様の手料理が食べられますように】添えられているのは自撮りと、慎也が袖をまくって野菜を洗っている写真。その写真を見つめた瞬間、胸の奥から苦いものがこみ上げる。慎也が料理をするなんて、私は一度も知らなかった。卒業後に同棲を始めた時、彼は料理も家事もできないから全部任せると言い切る。私はそれを当然のように受け入れ、彼の世話を焼けることを誇りに思っていた。今思えば、ただの馬鹿だ。長年騙され続けて、それでも幸せだと思い込んでいた。「こんな大失敗をしておいて、そのまま逃げる気か。瀬戸、俺は認めない」慎也の怒声が車内に響き、私の思考が断ち切られる。我に返り、画面を見つめながら、これまでにない口調で言い返す。「今あなたが気にするべきなのは、須藤のために作ってるそのスープじゃないの」苛立ちのまま通話を切り、そのままLineもブロックする。あまりにも迷いのない動きに、陸斗は呆れたように口を開く。「本気で離婚する気か?」私と慎也の関係を知る人は少ないが、陸斗はその一人。大学の同級生で、私が慎也に夢中だった頃も見てきた。だから会うたびに、私は慎也の周りを回る衛星だとからかわれていた。その問いに、私は目を伏せたまま答えない。それが答えだと受け取ったのか、彼はどこか機嫌が良さそうに車を走らせ、軽快な音楽を流す。「行く当てはないだろ。うちのホテルでしばらく過ごすか?」私は不動産を持っていない。あのマンションを出ると決めた時から、当面はホテル暮らしのつもりだった。だから小さくうなずく。「お願いする」陸斗は上質なスイートを用意し、さらにキッチンにも食事の準備を指示する。部屋まで送り届け、ドアの前で言う。「料金は俺で支払う。気にせずゆっくり休め。何かあれば連絡しろ」そう言ってポケットに手を入れたまま立ち去る。その夜、私はスマホの電源を切り、久しぶりに深く眠る。翌朝、まだ目を開ける前から、ドアを叩く音が激しく響く。起きて扉を開けると、慎也と遥香が立っている。言葉を発する前に、彼は勢いよく部屋へ入
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第5話
まだ説明する間もなく、慎也は焦った様子で私の肩をつかむ。「マルセイユのプロジェクトはそれほど重要なんだ。現場でしっかり監督してくれ!それに会社は今まさに成長期だし、俺と遥香も発表したばかりで、子どもなんて考える時期じゃない!」存在しないはずの子どもの一人で、彼の薄っぺらで冷酷な本性がここまで露わになるなんて思いもしなかった。かつて彼は、月明かりの下で私を抱き寄せ、三人家族の未来がどれほど幸せか語り合っていたことを、もう忘れているらしい。あの約束はつい最近のことのように、今も耳の奥で響いている。胸が刺されるように痛み、涙が止まらないのに、慎也は私が同情を引こうとしているとしか思わない。「そんな芝居はやめろ。こっちは時間がないんだ。今日は遥香とウェディングフォトの撮影がある。さっさと準備しろ、今から病院に連れて行く」苛立ちは隠しようもなく、彼は私を乱暴に押しのける。額からまだ血がにじんでいることなど、まるで気にも留めない。「汐里さん、誤解しないでください。撮影は家族を納得させるためだけで、外には絶対に出しませんから」遥香は弁解めいた言葉を口にするが、その目の奥に浮かぶ優越感は、明らかに私への挑発だ。私がずっと求めてきたものが、彼女にとっては手を伸ばせば届くものだと言わんばかりに。確かに私は何度も夢見ている。美しいウェディングドレスをまとい、慎也の隣に立つ自分を。仕事がうまくいかない日々の中で、もう無理だと思うたびに、私は通販サイトを開いてドレスを検索し、カートに入れては自分を奮い立たせる。いつかそれを着て、彼と神聖な結婚の舞台へと歩み出す日が来ると信じて。入籍した後、たとえ公表しなくても、彼の実家で結婚式くらいは開いてくれると思っていた。でも現実は違った。彼は何度も言い訳を重ね、私の結婚式の話を避け、先延ばしにし続けた。後になってようやく知った。入籍したことすら、彼は家族に伝えていないことを。あのとき、彼の母親からの電話をたまたま取っていなければ、どれだけ騙され続けていたかわからない。あれが、私が初めて慎也に怒りをぶつけた時だった。けれど彼は、私の感情を受け止める気などまったくなかった。ただソファに座り、冷たい目で私の取り乱しを眺めるだけ。最後には、その冷えきった視線の中で私は崩れ落ち、
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第6話
その瞬間、心臓をぎゅっと握り潰されたような痛みが走る。付き合い始めた頃、私は一度、壁紙を自分の写真にしてほしいと慎也に頼んだことがある。けれど彼は即座に断る。理由は、指導教員が厳格で、恋人の写真を壁紙にすることを禁止しているから、気が散るのを恐れているというものだった。当時は少し不思議に思いながらも、私は彼の考えを尊重し、それ以上は求めなかった。卒業すれば、ようやく普通のカップルのように、お互いの写真を壁紙にして、手をつないで街を歩き、仲のいい写真を撮れる。そう思っていたのに、今度は社内恋愛禁止を理由に、またしても私の願いは封じられる。そして今、壁紙に映る遥香の花のような笑顔を見て、私はようやく思い知る。人は本気で好きになった相手のためなら、どんなルールでも簡単に破るものだということを。彼は遥香のためなら、自分で決めた制約さえも平然と踏み越え、生き生きとした姿を見せる。それなのに、私の前ではどうだろう。私の行動が彼の「許せないライン」から遥かに遠くても、彼は時折、無言の圧力で私を抑え込む。これが、愛しているかどうかの違いなのだろう。思い出に沈みかけたところで、スマホの振動が現実へと引き戻す。通知を見た瞬間、私はすぐベッドへ駆け寄り、自分のスマホを取り出して退職申請を送る。この二年で私はいくつもの大型案件をまとめ上げ、星和グループを絶好調に押し上げてきた。マルセイユのプロジェクトが動き出せば、慎也が新興の有力者になるのも時間の問題だ。でも、そのために尽くす気はもうない。申請を送った後、私は彼のスマホをロック解除して、自分の申請を承認しようとする。だが、パスコードが違うと表示される。入力ミスかと思い、もう一度試すが、やはり違う。変更されている。残り三回と表示される中、私は静かに二秒考え、遥香の誕生日を入力する。ロックが解除される。私は思わず冷笑が漏れ、すぐに業務アプリを開き、承認待ちの一覧を確認する。いくらスクロールしても、自分の退職申請が見つからない。不審に思い、更新しようとしたその時、通知がポップアップする。【須藤遥香があなたの退職申請を承認しました】同時に、LINEにも彼女からメッセージが届く。【汐里さん、気分が落ちていると思うので、しばらくお休みを取ってください。落ち
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第7話
「30分やる。今すぐドレスショップに来て、遥香に謝れ!でなければ、公表も副社長昇進も諦めろ。今回は簡単には許さない!」まるで私が、公表と副社長の座のために折れるとでも思っているかのようだ。彼は一方的に怒鳴りつけると、そのまま電話を切り、住所を送りつけてくる。その場所は、何度も見たことがある。A市でも有名なドレスショップで、ドレスの購入や撮影には、最低でも半年前からの予約が必要だ。しかも価格は桁違いに高い。シンプルなデザインのドレス一着でも600万円以上、最も安い撮影プランでも200万円以上はする。あの頃、会社はすでに黒字で、年間純利益は数千万に達しており、この程度の出費は十分に賄えるはずだった。それでも慎也は言う。ドレスは一度しか着ないし、写真も家に置いても意味がなく、埃をかぶるだけだと。だからそんな高いものを買う必要はない、ネットで格安の撮影を予約して適当に撮って、安くプリントすれば十分だと。納得はできなかった。けれど彼の言い分にも一理あると思い、無駄遣いはしないという自分の価値観もあって、結局は受け入れてしまう。きっと、手に入らないものほど忘れられないのだ。それから私は何度もその店のアカウントを開き、投稿されている美しいドレスやタキシードを眺めながら、いつか彼と一緒にそれを身にまとう日を夢見ていた。今、彼は確かにそれを着ている。けれど隣にいるのは、遥香だ。もう終わった関係だと自分に言い聞かせても、胸の奥が鋭く痛む。胸を押さえた瞬間、顔色が一気に青ざめ、冷や汗が額を伝う。配達員は私の様子に驚き、どこが悪いのかと震える声で尋ねるが、痛みで言葉が出ない。車の中にいた陸斗は遠くからそれを見つけ、すぐにドアを開けて駆け寄ってくる。視界に彼の姿が入った次の瞬間、世界が暗転し、私はそのまま地面に崩れ落ち、意識を失う。目を覚ましたのは病院だった。まぶたを開けると、ベッドの横で乃愛が書類を手に読んでいる。気配に気づいた彼女は顔を上げ、私を見る。目が合うと、書類を置き、ナースコールを押してから温かい水を差し出してくる。「まずは少し飲んで。二日間、意識がなかったのよ」「二日?」こめかみを押さえながら、私は部屋を見回す。「陸斗を探してますか?一日一晩ずっと付き添ってたけど、今朝や
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第8話
慎也と遥香の証明書は、紙質からして私のものより上質で、その上にしっかりとした公印まで押されている。何より滑稽なのは、私の証明書には誤字まであったことだ。そういえば、入籍の日、現場責任者から執拗に電話がかかってきて、現場に来てほしいと急かされた。重要な用件だと思い、急いで向かう。だが現場に着くと、彼は私を引き留めては無駄話ばかりで、肝心の話を一向にしない。さすがに苛立って問い詰めると、ようやく取るに足らない報告を口にしただけ。せっかくの入籍の時間を邪魔されたことに、私は腹を立てた。けれど彼は慎也の高校時代の同級生で、当時の私は強く出ることができなかった。今思えば、すべて仕組まれていたのだろう。あらかじめ結託して私を現場に呼び出し、その隙に偽の証明書を用意するために。ここ数年の私は、本当に見る目がなかった。あれほど大事にしていた証明書が偽物だと気づきもしないし、慎也がどうしようもない男だということにも気づけなかった。真実を口にした私に、乃愛は少し驚いたように眉を上げる。椅子に座り直し、興味深そうに問いかけてくる。「それで、どうするつもり?」私は口元をわずかに歪める。「証拠をここまで揃えてくれているんです。徹底的に追い込まないと、もったいないでしょう」その答えに、乃愛は満足げに顎を上げる。「いいわ。いいパートナーになれそうですね」ちょうどその時、医師と看護師が入ってきて、私の診察を始める。幸い、大きな異常はない。医師は、今回はここしばらくの過労と、強い精神的ショックが重なったためだと説明する。「しばらくはしっかり休養を取ってください。気分転換も大切ですし、軽い運動も取り入れてください。二週間後に再検査に来ていただければ問題ありません」私は礼を言い、ベッド脇のスマホに手を伸ばす。二日間も意識を失っていたせいで、通知は山のように溜まっている。ロックを解除してLINEを開いた瞬間、通知音が立て続けに鳴り響く。それは二分ほど続いて、ようやく静まる。メッセージ一覧を確認すると、以前の取引先からの連絡がいくつも届いているほか、遥香からも数十件のメッセージが来ている。形だけの謝罪文に混じって、慎也が激昂している動画まで送られている。見る気にもならず、一覧へ戻ると、あの日の夜、共通の友人グ
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第9話
【前に離婚したいって言ったよな。いいだろう、受けてやる】【さっさと出てこい。これ以上ふざけるなら警察を呼ぶ】「警察」という言葉を見て、思わず笑みがこぼれる。私が偽の証明書の件に気づいていると知ったら、きっとそんな言葉は口にしないだろう。そう思いながら、私は顔を上げて乃愛に尋ねる。「宇佐美さん、私の荷物は、陸斗がまとめてくれていますか?」彼女はうなずき、向かいのクローゼットからバッグを取り出して私に手渡す。あの日は中身を確認する余裕もなかった。今なら、しっかり見られる。バッグを広げると、中にはラミネートされた映画の半券や電車の切符、飛行機の搭乗券がぎっしり詰まっている。それに加えて、遥香のデスクで見かけたことのある小物も混ざっている。付箋一枚、ミントキャンディ一粒に至るまで、すべて丁寧にラミネートされている。さらに、その一枚一枚の裏には、慎也の手書きの短いメッセージが添えられている。【『エリーゼのために』が好きだって言ってたな。結婚式はこの曲にしよう】【君はよく、俺とのことを『胸キュン』だって言うけど、俺だって同じだ】【君がくれたティッシュ、君の匂いがする気がして使えない】【……】ざっと見ただけでも、二、三十点はある。どれもすべて、彼の直筆の言葉付きだ。慎也の字は力強く、鋭い筆致で、まるで彼自身のようだ。大学時代、初めてその字を見たとき、私はすぐに心を奪われる。その後、本人を見て、さらにその整った顔に見惚れる。同じ実験グループになってからは、ノートを借りる口実を作っては、何度も彼に近づいた。こっそりと、彼の字を真似て書いたこともある。やがて恋人同士になり、私は彼に手紙を書いてほしいと頼んだことがある。記念に残しておきたかったからだ。けれど彼は頑なに拒む。書けないの一点張りだ。諦めきれず、テンプレートまで用意して書き写してほしいと頼んでも、今度は気持ち悪いから無理だと突き放される。今ならわかる。気持ち悪いわけではない。ただ、相手が違っただけだ。私はそれらのゴミをバッグに放り込み、底から彼の証明書を取り出す。記載されている日付は、ちょうど年初、マルセイユのプロジェクトで心身ともに追い詰められていた頃だ。あの数か月、私は一日一食がやっとで、まともに眠る
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第10話
私はその証明書を見つめたまま、ぼんやりしてしまう。そばにいる乃愛は、私が苦しみに沈んでいると思ったらしい。彼女はそっと手を伸ばし、私の手を軽く握って慰めてくる。その掌のぬくもりで、私の意識は引き戻される。「宇佐美さん、探偵って知り合いいますか?」慎也は、遥香のろくでもない伯父が彼女に結婚と出産を強要していると言っていたはずだ。もし本当にそうなら、二人はA市でそのまま婚姻届を出せば済む話じゃないか。どうしてわざわざ、何度も乗り継がないと辿り着けない遥香の田舎まで戻って手続きをする必要があるのか。筋が通る説明は一つしかない。慎也がまた嘘をついたということだ。乃愛は、まるで私の考えを見透かしたみたいに、連絡先をいくつかスクロールしてから、探偵のコンタクトを私に送ってくる。自分でやり取りしていいと言う。「体調が落ち着いたら、今後のことはまた話しましょう。陸斗はもうエレベーターに乗ったし、私も事務所に戻らないと」私はうなずき、彼女の後ろ姿を見送る。その姿が病室の外に消えた瞬間、すぐに探偵へ連絡を入れる。遥香の大学四年間は、ずっと私が支援していた。だから彼女の身元情報はほとんど把握している。必要事項をまとめて送り、できるだけ早く調べてほしいと依頼する。向こうは内容を一度復唱し、間違いがないことを確認してから、まずは着手金を振り込んでほしいと言ってくる。40万円の着手金なんて大した額じゃない。それなのに今日はどういうわけか、カードの残高不足と表示され続ける。気まずくなって少し待ってもらい、口座を確認する。見て初めて気づく。三つの口座にあった数百万円が、すべて消えている。取引履歴を確認して、ようやく分かる。私が意識を失っている間に、口座の金はすべて慎也のところへ送金されていた。慎也は私の暗証番号を全部知っている。全部、彼の誕生日にしていたからだ。たぶんあいつは、こんな卑劣なやり方で私を追い詰めて、頭を下げさせて、自分のもとへ戻らせようとしているんだろう。怒りが一気に込み上げる。今すぐ電話して罵りつけてやろうと思ったそのとき、陸斗が病室の外に現れる。私の顔が怒りでいっぱいなのを見て、何があったのかと尋ねてくる。事情を聞くなり、何も言わずに私の口座へ4000万円を振り込んだ。「一
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