ふと振り返ると、書評家たちが
鼻白む描写としてまず名指しすることが多い作品として、'フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ'が挙げられる。初出の小説から映画化まで一貫して批評の的になったのは、性描写の扱い方がしばしば問題視されたからだ。力関係や同意の描写が曖昧で、ロマンスとして描きたいはずの場面が多くの評論家には不快感や違和感を生む“鼻白む瞬間”に映った。文章表現の稚拙さも指摘され、読者の想像力を刺激する代わりに、ぎこちない描写がそのまま露骨さとして立ち現れることが批判の的になった。
私自身は、こうした反応に一定の理解を示している。というのも、物語の肝であるはずの感情のやり取りや心理描写が不十分だと、描写される行為そのものが独り歩きしてしまいがちだからだ。映画版では視覚化されることでさらに賛否が拡大し、作家や映像化チームの意図と受け手の倫理観や感受性のズレが表面化した格好になっている。評論家たちは単に「過激だ」と評したわけではなく、物語としての説得力や登場人物同士の信頼関係が構築されないまま行為を描く点を問題視してきた。
それでも、作品を巡る議論は一面的ではない。支持者はあくまでファンタジーや個人的嗜好の表現として擁護し、社会的議論を促す契機にもなった。私は批評家の指摘を踏まえつつも、作品を単純に
断罪するのではなく、何がどう受け手を不快にさせるのかを読み解くことの方が有益だと感じている。結局のところ、どの線引きを社会が共有するかが議論の本質で、そこから見えるものが多いと思う。