研究書を漁るたびに見えてくるのは、
藤吉郎(後の豊臣秀吉)が偶然の幸運だけで天下を取ったのではなく、極めて計算された統治術を用いていたということだ。僕はまず彼の制度設計能力に注目する。太閤検地や刀狩といった政策は、単なる土地台帳や武装解除を超えて、社会階層の固定化と財政基盤の確立を同時に狙ったもので、農業生産を把握して年貢徴収を安定させることで大名支配を中央集権化した。これによって軍事力の再配分や領地支配の正当化が可能になり、短期間で国内の秩序を整えた点は高く評価される。
次に、柔軟な人事と文化政策だと感じる。身分の流動性を利用して有能な人材を登用した一方で、
公家や寺社に対する保護や座組織への介入を通じて権威を演出した。都市と城下町の整備、検地で得た情報を基にした年貢制度の整備は、経済面での近代化的側面を持つと見る研究者も多い。一方で外交と軍事の面では評価が分かれる。例えば大軍を朝鮮半島へ派遣した'文禄・慶長の役'は、国内統治の延長線上に外交冒険が紛れ込んだ結果とも解釈でき、人的・物的コストが大きく、最終的に国家基盤にひずみを残した。
最後に、歴史家たちが繰り返し指摘するのは、秀吉の統治が短期的成功に対して長期的持続性を欠いていた点だ。家督の継承構造や統治機構の脆弱さは、秀吉の死後に表面化した。僕は彼を『実務に長けた革命家』でありながら、『制度的安定を後世に残すことが不得手だった支配者』だと理解している。功績と限界が同居する人物像——それが藤吉郎に対する多くの歴史学者の評価ではないだろうか。