LOGIN千年を生きる『深緑の魔女』エリアーリア。 悠久の時を過ごす森にある日、血まみれの美しい青年が倒れていた。 アレクと名乗る彼は、兄王に裏切られ呪いに蝕まれた、国を追われた王子だった。 彼を救う唯一の方法は、魂と体を重ねる禁忌の儀式。 一夜を捧げたエリアーリアは彼の未来を汚さぬよう、姿を消した――。 だが彼女の身には彼との間の子が宿っていた。 同胞から追放され魔女の証を奪われ、ただの母親として人間社会の片隅へと追いやられる。 一方、愛する人を失った王子は、王位を取り戻す戦いに身を投じる。 これは禁忌を犯した悠久の魔女と、彼女を想って陽炎の王となる青年が、幾多の困難の果てに再び愛を取り戻すまでの物語。
View More木漏れ日が、幾重にも重なる葉の隙間から降り注ぎ、苔むした地面に光のまだら模様を描いている。
深緑の魔女エリアーリアの住む森は、今日も静寂に満ちていた。百年の時を生きる彼女にとって、この変わり映えのしない平穏こそが日常だった。
蔦の絡まる小さな小屋の前、年季の入った木製の椅子に腰掛けて、手元のカップに口をつける。 鼻腔をくすぐるのは、カモミールの柔らかな甘さと、数種類のハーブが織りなす爽やかな香り。遠くで聞こえる山鳩の鳴き声と、頬を撫でる風の涼やかさが心地よい。春の森を吹き渡る風が、彼女の長い金の髪を揺らした。森に降る木漏れ日そのもののような、淡い金の髪。
肌は白磁のように白く美しく、汚れ一つない。伏せがちな長い金の睫毛に彩られたのは、森の深緑そのものの色。ここは魔女の森。人の手の届かない、神秘の領域。
(今日も変わりない。それでいい。それがいいの……)
いずれ自らの魂と魔力がこの森の一部となり、世界を支える力となる「大いなる還元」。それこそが魔女の宿命であり、存在意義でもある。
その時が来るまでこの穏やかな時間は続く。エリアーリアは、運命を静かに受け入れていた。ふと。視界の隅にある若木の葉先が、力なく萎れていることに気がついた。
エリアーリアはカップを切り株のテーブルに置いて、音もなく立ち上がる。彼女の素足が触れる苔は、しっとりと柔らかい。 若木のそばに屈み込み、そっと指先を伸ばした。白い指が葉に触れた瞬間、淡い緑の光が走る。萎れていた葉先は見る間に瑞々しさを取り戻した。「大丈夫。もう喉は渇かないでしょう」
幼子に語りかけるような、穏やかな声。
生命と植物を司る「深緑の魔女」。この森は彼女の庭であり、彼女自身そのものだった。 ◇ いつも通り穏やかな午後の静寂は、唐突に破られた。 若木から手を離した瞬間、不快な魔力の揺らぎが森全体を走ったのだ。 くらりと軽い目眩を覚える。森に施している結界が、無理にこじ開けられたとエリアーリアは察した。(……何かしら)
静かに凪いでいたはずの心に、小さなさざ波が経つ。魔女として生きたこの百年、このような乱暴な侵入者は存在しなかった。
ただの迷い人であれば、このようなことにはならない。誰かが明確な意志で、森の護りを突破したのだ。思い悩んだ末、エリアーリアは妥協案を示した。「分かったわ。でも、母さんはお店を空けられないから、二人だけで行くのよ。町までは少し遠いけど、歩いていける?」「行ける! 今までだって、おつかいで行ったことあるじゃん。平気だよ」「アルトが迷子にならないよう、わたしがちゃんと見てるから」 しっかり者のシルフィが言うと、アルトは口を尖らせた。「えー! なにそれ。おれ、迷子になんかならないもん!」 双子のやり取りに、エリアーリアは微笑する。「町に行くのなら、約束してほしいことがあるの。一つは、騒いだり迷惑をかけたりしないこと。もう一つは、王様やお付きの人に、かあさまの話をしないこと」「騒がないよ。でもなんで、かあさまの話をしちゃ駄目なの?」 シルフィが首を傾げた。「理由は後で話すわ。約束が守れるなら、町へ行っても良いわよ」「分かった! 騒がない。かあさまの話もヒミツ!」 アルトが元気よく頷く。シルフィはまだ不思議そうにしていたが、王様を見に行く好奇心には勝てなかったようだ。「わたしも、約束する」「よろしい。困ったことがあったら、マルタおばさんを頼りなさい。いいわね?」 双子は揃って手を上げた。「はーい!」 ◇ 朝のうちに小屋を出て行った双子の背中を、エリアーリアは長いこと見送った。(アレクは子どもたちの存在を知らない。だから、人混みからそっと見るくらいなら気づかないはず。そもそも彼は、私のことなどもう忘れているかもしれないわ。ううん、きっとそうに決まっている) 一人になると、彼女は店の奥の薄暗い調合室にこもった。窓の外から遠く聞こえてくる、次第に大きくなる歓迎の喧騒と、彼女自身の息遣いだけが、静かな室内に響いている。 気を紛らわせようと薬草を乳鉢で砕き始めるが、不安で手が思うように動かない。 やがてひときわ大きな歓声と角笛の音が、小屋まで届いた。国王の一行が町の広場に到着したのだ。 エリアーリア
「エリア、小麦の配達に来たよ」 薬草店に馴染みの女性、マルタがやって来た。彼女はパン屋のおかみで、小麦粉とパンをいつも届けてくれるのだ。「ありがとう、マルタ」「町はもうお祭り騒ぎだよ。誰も彼もが王様のおいでを楽しみにしていてね。エリア、あんたも見に来るだろう?」「いえ、私は……」 答える言葉が見つからず、エリアーリアは曖昧に相槌を打つことしかできない。「見なきゃ損だよ! こんな辺境の町じゃ、今を逃せば王様を見る機会なんてないんだから。当日は双子ちゃんを連れて、早めにおいで」 エリアーリアの内心に気づかず、マルタは笑って去っていった。(逃げなければ。彼に見つかってしまう。この穏やかな日々が消えてしまう。それに、もし子どもたちが拒絶されたら。あの子たちはどれほど傷つくことだろう) アレクとの再会は、心のどこかで願っていたことだった。 それなのに実現しそうになると、ここまで恐ろしいとは。 エリアーリアは一瞬、本気で双子を連れて町を出ることを考えて、すぐに首を横に振った。(いいえ、何を馬鹿なことを。王様が、こんな辺境の町の薬草師一人に気づくはずがないわ。今ここで夜逃げ同然に姿を消せば、かえって怪しまれる) 彼女の心は、出口のない迷路にはまり込んでしまった。 ◇ 王の視察当日になった。 小屋の外からは、早朝のうちから音楽隊の音が聞こえてくる。町と小屋とは少し距離があるが、風に乗って音が響いているのだ。 アルトとシルフィは、この日のためにとっておいた一番いい服を着て、目を輝かせていた。「かあさま、おれたちも王様を見に行きたい! 一生のお願い! 『夏空の王』なんでしょ? きっとすごく格好いいよ!」 アルトはぴょんぴょんと飛び跳ねながら母に頼んだ。「おねがい、かあさま。わたしも、王様を見てみたい。一度でいいから……」 いつもは大人しいシルフィも、今日ばかりは食い下がっている。 子どもたちを傷つけたくない、危険にさ
エリアーリアは子どもたちの頭を撫でながら、空を見上げた。夏の空、遠い王都の方向を。「……そうね。きっと、とても優しくて誰よりも強い方よ。瞳はこの空と同じくらい、澄んだ青色をしているわ」「アルトの目とおんなじ色だね、王様」「え? そうなの?」 アルトはきょとんとしている。普段あまり鏡を見ないので、自分の目の色がよく分からないのだ。 エリアーリアはそんな双子たちを優しく見つめた。その横顔は誇らしげで、少しだけ寂しそうだった。 ◇ また別の日の夕暮れ、町の広場に王都からの触れ役が到着した。人々が集まる前で彼が読み上げるのは、国王アレクによる大規模な民情視察の知らせだった。 買い物の帰りにその知らせを耳にしたエリアーリアは、その場で凍り付く。「――以上を以て、賢王、夏空の王アレク陛下は、来月、当方、南の辺境地域をご巡幸なされる!」 買い物に町を訪れていたエリアーリアは、その報せを聞いてぎくりと足を止めた。(彼が、この町に来る……?) 喜び、驚き、そして恐れ。様々な感情が、彼女の心の中で渦巻いた。会いたい。でも会ってはいけない。もし見つかれば、この穏やかな生活は終わってしまう。(アレクは子どもたちの存在を知らないわ。もし出会って、拒絶されたら) そんなことはないと思いながらも、エリアーリアは最悪の想像を止められなかった。 町中が王の来訪の知らせでお祭り騒ぎになる中、彼女だけが血の気の引いた顔で立ち尽くしている。(どうしよう……。この町を離れるべき……?) アレクの来訪という避けられない運命の足音が、エリアーリアの平和な日常の終わりを告げていた。◇ 国王来訪の知らせから数週間、辺境の町はお祭り騒ぎとなっていた。 季節は秋。木々が色づき、農村では収穫が行われる頃だ。 町でも普段であれば収穫祭が行われるが、今年は王の来訪ですっかり持ちきりになってしまった。「国王陛下がおい
「陛下。その方策は素晴らしいですが、問題も多いと思われます。一人で広い土地を受け取り、小作農を抱えて農場を経営する者が現れれば、貧富の差が拡大して民の不満が高まりましょう」 宰相ヨハンが言うが、アレクは頷いた。「分かっている。一人あたりの名義で分配を受ける土地の上限を設けたり、分配された土地の売買を禁じるなどで対策は取るが、定期的な見直しが必須となるだろう。これは草案だ。細部はこれから詰めた上で、運営上の問題を洗い出す。ただ、失った土地を取り戻せるとなれば、農民たちは意欲を見せるだろう。また、復興作業が終わった後の帰還兵も、農民として定着すれば職を得られる上に、食料増産に寄与できる」「なるほど……。一石二鳥、いや、一石多鳥ですな」 民の視点に立った賢明な判断に、大臣たちは感嘆の声を漏らす。賢王の治世の下、国が着実に良い方向へ向かっていることが示された瞬間だった。◇ 同じ頃、南の辺境の町。 エリアーリアの薬草店は、遠くの村からも患者が訪れるほど評判になっていた。 丁寧で病める者の心に寄り添った診察と処方が、多くの人の心を打ったのだ。 エリアーリアの薬草師としての腕は確かで、他の医師や薬師がさじを投げた病でも、彼女にかかれば希望が見えた。 ある日のお昼前、店の前のベンチで、アルトとシルフィが母親の仕事が終わるのを待っている。アルトは木の枝を振り回し、シルフィは道端の小さな花を眺めていた。 夏の空気は暑気をはらんで、子どもたちもすっかり薄着である。 仕事の手を休めて、エリアーリアが子どもたちの元へやってくる。「二人とも、そろそろお昼ごはんにしましょうか。今日のメニューは、いただきもののライ麦パンよ。山羊のチーズをスライスして、挟んでね。お天気がいいから、お外で食べましょう」「はーい!」 双子は元気に返事をして、エリアーリアからパンを受け取った。 パンにかぶりつきながら、アレクが言う。「かあさま、王様ってどんな人なの? 町のみんなが、すごく良い人だって言ってたよ。おれ、
アレクの戴冠から一年が過ぎた。 王宮の評議の間では、アレクが大臣たちと重要政策について議論をしている。 儀礼的な意味合いが強い玉座の間とは異なる、実務的な部屋だ。 机に広げられた大きな地図を前に、大臣たちが次々と報告を行った。 これまでに多くの議論が交わされて、今日の議題は、先の戦乱で荒廃した北の穀倉地帯の復興についてだった。「陛下、北の復興には莫大な資金が必要です。一時的にでも、商業都市から税を徴収するのが妥当でございましょう」 財務大臣が言う。他の臣下たちは頷いたが、アレクは首を横に振った。「ならぬ。一つの傷を癒すために、別の場所に新たな傷を作るのは愚策だ。各地の商業都市は、前王ガーランドに不満を持つ者が多かった。それを俺が悪法を撤廃すると約束して、助力を取り付けたのだ。ここで必要以上の税を課せば、彼らの心が離れていくだろう」 彼は立ち上がり、地図の前に立った。脳裏には、森でエリアーリアから教わった言葉が響いている。『一つの木だけでなく、森全体を見よ。森の生命は皆、繋がっている』と。「民生大臣。お前の民からの情報網で、北の民が今一番必要としているものは何だ?」「食料と、次の種蒔きのための種籾(たねもみ)ですな。多くの農家が、食うために種籾まで手放している状況です」 元盗賊ギルドの長、今は民生大臣となった彼の言葉に、アレクは頷いた。「よし。王家の備蓄庫を開き、食料と種籾を無償で供与する。さらに帰還兵たちを一時的に雇用して、復興作業に当たらせよ。彼らに正当な賃金を払うことで、金が回り、町の経済も活性化するはずだ」 アレクはさらに続ける。「北の土地は、ガーランドの六年で側妃派の貴族や商人たちの農地の買い叩きが行われた。不当に得た土地、重税のために放棄された農地を一度国有地として没収する」「それは……」 かなりの強硬策である。大臣たちからざわめきの声が上がった。 アレクは改めて北の土地の地図を指し示した。「勘違いするな。私有財産の没収ではない。ガーランドと側妃派の貴族の所有していた土地、並びに放
新王の戴冠式が終わった、玉座の間。夕暮れの光が床に長い影を落としている。 貴族たちは思い思いに談笑したり、今後の方針を話し合ったりしていた。 彼らは新王側として戦った者たちだ。これからは政権の中核を担う。誰もがやる気に満ちて、玉座の間は明るい空気が漂っていた。 そのうちの一人、側近となった老貴族が、にこやかな笑顔でアレクに話しかけてきた。「賢王陛下、即位おめでとうございます。あとは王妃様を娶り、跡継ぎが誕生すれば、この国は安泰ですな」 老貴族に悪気はない。一般の感覚からすれば、ごく当たり前のことだ。「即位したばかりだ。結婚など、今は考えられない」 けれどアレクは冷たく答えた。その口調に、王の内心を知るはずもない貴族たちは顔を見合わせる。(俺が求めるのは、森の魔女ただ一人。彼女でなければ駄目なんだ) 側近が去った後、アレクはゆっくりと玉座に歩み寄った。石造りの肘掛けに触れると、冷たい感触がする。一つ息を吐いて、深く腰を下ろした。 そこは彼が想像していたよりもずっと大きく硬く、孤独な場所だった。(ここに座って父上は……兄上は、何を思っていたのだろう) もはや知るすべはない。父も兄も、ここを去ってしまった。 広い玉座の間に、ふと、初夏の夜風が吹き込んできた。宵闇の星明かりがステンドグラスを照らして、静かな光の模様を描き出している。それはまるで、いつか見た木漏れ日のようで。 ここは玉座の間。深緑の森ではなく、傍らに愛しい魔女はいない。(俺は王になった。だが、本当に取り戻したかったのは、玉座ではなかったんだ) 心から望むのは、あの初夏の日々。 彼がただの青年で、恋する人の隣で笑っていられた日々だった。 その日々はもう過ぎ去った。 アレクは王になり、エリアーリアの行方は知れない。王になった以上は国を背負う責任が生じる。 それでも……。(俺は君を諦める気はないよ、エリアーリア) ◇ 翌日、初めての朝議を開いたアレクは今後の方針を述べた。「まずは国を安定させる。ガーランドの治世、六年でアストレア王国は荒廃してしまった。農民を田畑に呼び戻し、安定した食料供給を目指す。悪法は撤廃し公正な正義の元に法律の運用を行う」 臣下たちは頷いている。「国が安定次第、私は王国全土を巡る、大規模な民情視察を行う予定だ。民草の事情を汲み
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