意外と複雑で面白いのが、日本の
爵位の成立過程です。長い歴史の中で称号や位階が何度も形を変え、最終的に明治期に西洋風の爵位制度へと一本化されていきました。最初期をたどると、古代の氏姓制度や律令制が基盤になっています。豪族の時代には氏(うじ)や姓(かばね)という身分表示があり、『大臣』や『臣』といった称号が力関係を反映していました。奈良・平安期の律令国家では官位(位階)と官職が整備され、正一位から従六位までのような位階が人物の序列を明確にしました。貴族階級である
公家(公卿)は、この官位制度を通じて政治的・社会的な名誉を保っていたのです。
中世になると、武家の台頭により称号のあり方が大きく変化します。征夷大将軍や将軍といった軍事的な称号は朝廷からの任命で正当性を得る一方で、実態としては封建的大名(大名)が領地と支配を基に独自の権威を築きました。室町〜江戸時代には、幕府による身分秩序(旗本、御家人、大名の家格など)が確立され、公式な「爵位」というよりは身分的・領地的な序列が社会を動かしていました。たとえば江戸期の大名は石高(こくだか)や譜代・外様の区別で扱われ、幕府からの扱いが変わることで名誉や実権が左右されました。こうした伝統的な序列は、近代化の過程で整理されていきます。
近代日本で現在私たちが想像しやすい「爵位」が制度として明確になるのは明治維新以降です。明治政府は旧来の公家と大名という支配層を再編成し、近代国家の枠組みに合わせて身分秩序を再構築しました。これが『華族』の創設で、旧公家・旧大名を中心に新しい貴族階級が形成されました。1884年に整備された爵位制度では、西洋の貴族制を模して五爵――
公爵、
侯爵、
伯爵、子爵、
男爵(それぞれ'公爵'、'侯爵'、'伯爵'、'子爵'、'男爵'と表記されることが多い)――が導入され、爵位は世襲や功績によって授けられました。明治憲法下では華族が貴族院(のちの貴族院に相当)を構成し、政治的にも一定の役割を担っていました。
第二次大戦後、1947年に新しい日本国憲法とともに旧来の華族制度は廃止され、爵位制度も法的には消滅しました。ただ、長年にわたって培われた家系の名誉や文化的な影響は消えず、多くの旧華族出身の家は教育・経済・文化の分野でその地位を生かし続けています。総じて言えば、日本の爵位は古代の氏姓や律令の位階、武家の支配秩序を経て、近代国家の必要に応じて西洋式に再編された産物であり、政治的正当化や社会統合の道具として常に変化してきたのです。