思い当たる場面がいくつもある。台詞のリズムや間の設計を
蔑ろにされた現場で、表情や身体の細かい変化がどれだけ埋もれてしまうかを身をもって見てきたからだ。演技は言葉と非言語が綱渡りのように絡み合って成り立っている。台詞がただ情報伝達の手段としてだけ扱われると、俳優は感情の細かい“差分”を届ける余地を失う。言い換えれば、台詞が粗雑だと、その裏で働く思考や動機が消えてしまい、表情は平坦になりやすい。観客に届くのは台詞の内容だけで、そこに込められた微かな葛藤や躊躇が抜け落ちることが多い。
演出の関わり方は幅が広い。台本を読み込んで台詞の一語一語の重みや呼吸を俳優と一緒に探る監督もいれば、俳優の解釈にほとんど触れずに進める監督もいる。後者の場合、俳優が示す細部の選択肢は発揮されにくい。例えば会話の“拍”が合っていなければ、目線の交換や顔の微かなゆらぎといった非言語的サインが食われてしまう。逆に台詞の扱いを丁寧にする現場では、俳優が小さな呼吸の変化や一瞬の視線外しで人物像を積み重ねる余裕が生まれる。古典劇の一節や、密度の高い脚本に接するときは特にそれが顕著だと感じる。
結局のところ、台詞への手厚さは俳優の表現の幅を決める重要な要素だ。台詞を単なる台詞として扱うか、その奥にある葛藤や意図を掘るかで画面の深みは大きく変わる。演出が台詞に関心を持ち、俳優と細部を詰めるプロセスを大切にすれば、表情は自然に豊かになるし、その逆もまた然りだ。だからこそ、言葉の扱い方に手を抜かない現場が増えてほしいといつも思っている。