ある種の偏りが画面に現れる瞬間が、ドラマ化の醍醐味でもあり厄介な点だ。
制作側が抱える
私怨は、まず素材の取捨選択に影響を与える。原作のどのエピソードを強調するか、どの登場人物に同情を向けるかといった判断は、冷徹な編集作業に見えて、実は感情の色が濃く反映されることがある。演出の小さなニュアンス──カメラの寄せ方、間の取り方、音楽の入り方──が人物評価を操作してしまうのを、僕は何度も目にしてきた。
例として、復讐と告白が中心テーマの作品では、脚色者の個人的怨念が物語に追い風を与え、被害者側の語りが極端に正当化されるケースがある。'告白'の映画化でも、視点の振り分けや語り手の扱い方で原作の微妙な余白が埋められ、観る者の受け止め方が大きく変わった。結局、私怨が入ることでドラマは強烈に心を掴む一方、事実の多面性は薄まる。感情的な説得力と客観的なバランスの間で、制作側がどの道を選ぶかがすべてだと感じる。