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飾られた表現を訳す際、意味だけでなく声まで運ぼうとすることが肝心だ。翻訳対象の文章が人物の誇張された自己呈示なのか、詩的な陶酔なのかで扱い方を変える必要がある。たとえば『プライドと偏見』の上流階級の会話を訳す場合、言葉遣いの格式を日本語でどう表現するかを考える。格式をそのまま古風な語彙で固めると堅苦しくなるが、適度に現代語を混ぜると人間味が薄れる。
そこで私は複数案を作って音読し、口に馴染むかを確かめる。詩的表現ならば、語の連なりが耳に残るか、反復や響きが原文の美を持っているかを重視する。対話文なら話者ごとの語彙差を意識し、同じ美辞麗句でも誰が言うかで強さを微妙に変えることで、人物造形を損なわないよう調整する。読者に違和感を与えずに華やかさを伝えるには、響きと意味の両立が鍵だ。
修辞の美しさをそのまま渡したいとき、真似事ではない“機能の翻案”を目指すと落ち着く。アメリカ文学の一例で『ライ麦畑でつかまえて』の語り口にある独特の比喩や皮肉を日本語で再現する際は、単語レベルでの訳語よりも口語リズムと鋭さを重視した。語感を保つために短文と長文を組み合わせ、適度に砕けた語を織り交ぜることで原文の生々しさを引き出す。
また、過剰な説明は避け、読者の想像力に余地を残す選択をすることが多い。装飾は見せ場で効かせ、普段は抑え気味にすることで全体のバランスを取る。このやり方を何度も試し、声に出して確かめると、自然に読める華やかさが生まれてくると感じている。
技巧的な文飾を訳す際に私がまず行うのは、原文の表層的な華やかさよりも、その表現が担っている機能を見つけることだ。たとえば登場人物の虚栄を示すための大げさな形容があれば、同じ効果を日本語で再現するために語彙選びと語調をコントロールする。ロシア文学の例として『カラマーゾフの兄弟』の説教調の長台詞を和訳するなら、力技で重厚な言葉を並べるのではなく、文の構造や反復を利用して説得力を生む。
訳語を豪華にすることだけを目的にせず、読者が感情の流れを追えるかを常に優先する。場合によっては、直訳に近い語を脚注で補うか、段落の間で別の表現を反復させることで原文の余韻を保つこともある。最終的には、読後に残る印象が原作の狙いに近いかどうかで判断している。
異なる国の修辞や比喩を日本語でどう生かすかは、いつもパズルのような楽しさがある。外国語の長い修辞句をそのまま直訳すると冗長になりがちなので、言語構造の違いを踏まえて情報の優先順位を決める。重要なイメージや感情を第一に残し、副次的な飾りは省略や要約で処理することが多い。
文学的な装飾が物語全体のトーンに寄与している場合は、単発の豪華な表現をいくつか別の箇所で鏡に映すように日本語で再現するテクニックを使う。こうすることで原文の“煌めき”が翻訳全体に一貫して感じられるからだ。詩的あるいは叙情的な例としては『ハリー・ポッターと賢者の石』の魔法描写を和訳する場面を想定し、神秘性を損なわない語選びと節回しを工夫した。語彙は豊かにしつつも、過度な装飾でテンポを崩さないことを重視している。
さらに、語感や音の繋がりを確認するために声に出して読む工程は欠かせない。文章の呼吸を整えると、読者の中で自然に光る表現を残しつつ余計な飾りを削ぎ落とせるのが分かるからだ。
翻訳で
美辞麗句を再現しようとすると、まずはその華やかさと同時に潜む意図を見極めることに集中する。飾られた表現が単に響きを良くするだけなのか、登場人物の性格や時代背景を示すのか、あるいは物語のテーマに直結しているのかを分けて考えるようにしている。
私は文章のリズムや音感を可能な限り保つために、語順や句読点の使い方を調整する。例えば古典的な高雅さを帯びた一句なら、現代語に置き換えすぎず、適度な格調のある語彙を選ぶことで原文の気配を残す。逆に読者にとって意味が取りにくい慣用句や文化固有の比喩は、注釈で補うか、自然な類義表現で置き換えることが多い。
具体的には『源氏物語』のような古語の翻案を想定すると、言葉の照りを直訳的に写すのではなく、日本語受け手が感じる雅さを引き出す語彙と文体を再構築する。原文の持つ余白や曖昧さをあえて残すと、読み手が原作と同じように想像する余地が生まれることが多いと感じている。