翻訳という仕事に長く向き合ってきて見えてきたのは、
理路整然とした語り口が原作のニュアンスを伝えるための一つの道具にすぎないということだ。文脈を整理し、論理的な流れを意識することで読者が意味の網目を追いやすくなる場面は確かに多い。たとえば『罪と罰』のような長く複雑な内面独白が続く作品では、句読点の使い方や一文の分割を工夫するだけで、登場人物の心理の起伏を読み手に伝えやすくできる。自分はよく、どの箇所で原文の曖昧さを残すか、どこで明示的に整理するかを天秤にかける。論理性を高めれば読みやすくはなるが、原文のぶつかり合いや不安定さまで削ってしまっては本末転倒だ。
修辞や比喩、語の選び方がニュアンスのかなめになる場面があって、そこでの判断は技術と感覚の両方を要する。ある表現を直訳に近い形で残すと意味は伝わっても日本語として不自然になり、逆に意訳しすぎると原作者の声が消える。そこで自分は、段落構成や語彙レンジ、句の長短で“論理的な読みやすさ”を担保しつつ、重要な箇所には注や訳注、訳者あとがきで補足することが多い。ときには訳語の選択で読者の感情的反応を先回りし、原文が誘発する曖昧な感情を再現しようとする。
結局、理路整然とした語り口は有効で、翻訳者にとって強力なツールだが、それだけでニュアンスが完全に移植されるわけではない。機微を伝えるには文体、語彙、段落リズム、そして時には訳者の判断で残す曖昧さが同じくらい重要になる。だからこそ、翻訳は論理と感性の綱渡りであり、その両端を行き来しながら原作の匂いを失わないよう努めるしかない、と私は考えている。