中絶手術は思ったよりも早く終わったが、想像以上の痛みだった。
ぼんやりと、自分の平らになったお腹を撫でてみる。
そこには、かつて小さな命が宿っていたのだ。
私とあの子の、ほんの短い母子の縁は、まるで悪夢のようだった。
五ヶ月もの間、私は昼も夜も、子どもの父親である早川聖司(はやかわ さとし)の冷たい視線と不機嫌に耐えてきた。そして、茉白(ましろ)のあからさまな挑発に晒され、夢の中でも息苦しくて、冷や汗を流していた。
でも、もうすべて終わったのだ。
お腹の中の小さな命が、私の代わりにこの災難を引き受けてくれたのだろう。
病院で三日ほど過ごし、私は退院の手続きをした。
けれど病院の門を出たところで、待っていたのは聖司だった。手には、私の一番好きなシャンパン色のバラを持っている。
私が出てくるのを見つけると、聖司は私の肩にそっとコートをかけた。「寒いだろう?なんでそんなに薄着なんだ?」
そして、手に持っていたバラを差し出しながら微笑む。「ほら、気に入っただろ?」
私はすぐに分かった。これは、聖司なりの和解の合図だ。
私たちの間には、暗黙のルールがあった。どちらかが相手を怒らせた時は、相手の好きなものを買って謝ること。
昔の私は、そんな甘い仕草にすぐに心を許してしまった。聖司が指をちょっと曲げれば、私はまるで子犬のように駆け寄ったものだ。
でも今は、ただただ吐き気がした。
こんな男に、私の子の父親になる資格などない。
二週間前、聖司に会社の飲み会へ呼ばれた。
私が会場に着いた時には、男女入り乱れて酒に酔い、騒ぎは最高潮だった。
茉白はごく自然に聖司の膝の上に座り、色っぽい目で彼を見つめていた。二人の唇が触れ合い、場の空気は妙に艶めいていた。
私が入っていった瞬間、場の空気が一気に気まずくなる。まるで私が彼らの楽しみを邪魔したかのように。
茉白は慌てて聖司の膝から降り、怯えたように私を見上げた。
私は怒りに任せて、個室の中をめちゃくちゃに壊してしまった。その挙句、聖司に平手打ちされ、追い出されてしまった。
夜の街、人々が行き交う中、私はふらつき倒れ込んだ。最後は通りすがりの人に助けられ、病院へ運ばれたのだった。
再び目を覚ますと、医者は「赤ちゃんの状態がよくない」と告げた。
愛のない環境で育まれた命が、健やかに成長するはずもない。
それでも、私は聖司と話し合おうとした。九回彼に電話をかけたが、すべて無視された。
十回目でようやく繋がったと思えば、受けたのは茉白だった。
「仁美(ひとみ)さん、社長は今忙しいので、どなたもお取り次ぎできません」
「どなたも」の言い方が、わざとだと分かった。
夫に連絡を取るのに、なぜアシスタントを通さなければならないのか?
私は無表情で電話を切り、自分で中絶手術の予約をした。
茉白のあんな態度も、聖司が許しているからこそだ。
二人が、私から子どもを奪い、母になる未来まで奪ったのだ。
それなのに、こんな花束ひとつで、すべてをなかったことにしようというの?
私の子どもの命は、そんなに軽いものなの?
私はバラの花束を受け取り、そのまま迷いなくゴミ箱に投げ捨てた。
「汚れた花なんて、いらない」
Palawakin