バレンタインデーの夜、私は食卓いっぱいの料理を用意して、矢野純一(やの じゅんいち)の帰りを待っていた。
彼は私のことなど一瞥もせず、黙々と荷物をまとめていた。
そして冷たい声で言った。「今年のバレンタインデーは、一緒に過ごせない」
私は何も言わず、黙って蟹を食べ続けた。
深夜、彼の初恋の人、吉岡一花(よしおか いちか)がInstagramに投稿した。
写真には、笑顔で純一の背中に寄りかかる彼女と、窓の外に輝く満月が写っていた。
キャプションにはこう書かれていた。【そばにいてくれてありがとう】
私はもう取り乱して問い詰めたりしなかった。淡々といいねを押しただけ。
純一から電話がかかってきた。彼は動揺を隠しきれない声で言った。「変なふうに考えるなよ。次は、絶対に一緒に過ごすから……」
私は数秒間黙ったあと、静かに笑って返事をしなかった。
次?
純一、もう、次なんてないよ。
純一が家に戻ったのは、翌日だった。
いつもなら私は庭先で彼を迎えていたけれど、今回はしなかった。
彼からメッセージが来た。【どこにいるの?】
私は昼ごはんを食べながら、気軽に返した。【家でご飯食べてる】
しばらくすると、純一がスーツケースを引きながら帰ってきた。
彼は靴を脱ぎながら、当たり前のように言った。「腹減った。ラーメン作ってくれない?あと半熟卵も焼いて」
普段なら、私は何も言わずに台所へ向かっていただろう。でも今日は、静かに言った。
「もう食べたよ。自分でデリバリー頼んで」
純一は不満そうに私を睨んだが、怒りを抑えて言った。「まだバレンタインデーのこと怒ってるのは分かってるけどさ、今はちょっとやめようよ。マジで腹減ってるんだ」
私は笑顔で振り返った。「怒ってないよ」
彼は信じていないようだった。「一花が一人で京市にいるよ。ちょうどバレンタインデーだったから、一緒に過ごしてただけ。地元民のよしみってやつ」
私はあくまで穏やかに返した。「うん、知ってるよ」
彼はじっと私の目を見つめ、まるで何かを見抜こうとしていた。
そして目を伏せ、不機嫌を抑えながら言った。「そんな態度とって、楽しい?今日は疲れてるんだよ。頼むから、ちょっとは察してくれよ」
私は静かに彼を見つめたまま、ゆっくりと言った。「別にケンカなんてしてない。話は終わり?じゃあ、皿洗ってくるね」
彼はしばらく沈黙した後、ポケットからネックレスを取り出して私に差し出した。
上から目線で一言。「プレゼント」
包装もされていないそのネックレスは、一花がInstagramに載せていた豪華なラッピングとは対照的だった。
私は何の感情も見せず、礼儀正しく言った。「ありがとう」
それだけ言って、もう何も言わなかった。
純一の目に、一瞬不満の色がよぎる。彼は苛立ったように言った。「それだけ?」
私は淡々と答えた。「それだけ」
彼は顔を強張らせ、手のひらを私に向けて差し出した。「俺のは?」
私はその時ようやく気づき、申し訳なさそうに言った。「ごめん、忘れてた。じゃあ、Lineでお金送るね。自分で買って」
そう言って、スマホで彼に4000円の送金をした。
彼は目を見開き、まるで信じられないといった表情を浮かべた。
私はこれまで、イベントごとにプレゼントを贈り合うのを大切にしてきた。
彼が忘れても、私は毎回工夫して贈り物を用意していたのに。
重い空気が部屋に広がる中、私はクローゼットで服を着替え、玄関へ向かった。
純一が慌てて声をかけた。「どこ行くんだよ?」
私は静かに答えた。「友達と集まるの」
そう言ってドアを閉め、彼の声を無視して出かけた。
付き合い始めた頃、彼の「外で遊び歩く女は嫌い」という一言で、私はずっと誘いを断り続けた。
だから、友達からは「ノリが悪い」と思われ、誰も私を誘わなくなった。