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彼は初恋と曖昧な関係、私は静かに去った

彼は初恋と曖昧な関係、私は静かに去った

By:  ディプティックCompleted
Language: Japanese
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バレンタインデーの夜、私は食卓いっぱいの料理を用意して、矢野純一の帰りを待っていた。 彼は私のことなど一瞥もせず、黙々と荷物をまとめていた。 そして冷たい声で言った。「今年のバレンタインデーは、一緒に過ごせない」 私は何も言わず、黙って蟹を食べ続けた。 深夜、彼の初恋の人がInstagramに投稿した。 写真には、笑顔で純一の背中に寄りかかる彼女と、窓の外に輝く満月が写っていた。 キャプションにはこう書かれていた。【そばにいてくれてありがとう】 私はもう取り乱して問い詰めたりしなかった。淡々といいねを押しただけ。 純一から電話がかかってきた。彼は動揺を隠しきれない声で言った。「変なふうに考えるなよ。次は、絶対に一緒に過ごすから……」 私は数秒間黙ったあと、静かに笑って返事をしなかった。 次? 純一、もう、次なんてないよ。

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Chapter 1

第1話

バレンタインデーの夜、私は食卓いっぱいの料理を用意して、矢野純一(やの じゅんいち)の帰りを待っていた。

彼は私のことなど一瞥もせず、黙々と荷物をまとめていた。

そして冷たい声で言った。「今年のバレンタインデーは、一緒に過ごせない」

私は何も言わず、黙って蟹を食べ続けた。

深夜、彼の初恋の人、吉岡一花(よしおか いちか)がInstagramに投稿した。

写真には、笑顔で純一の背中に寄りかかる彼女と、窓の外に輝く満月が写っていた。

キャプションにはこう書かれていた。【そばにいてくれてありがとう】

私はもう取り乱して問い詰めたりしなかった。淡々といいねを押しただけ。

純一から電話がかかってきた。彼は動揺を隠しきれない声で言った。「変なふうに考えるなよ。次は、絶対に一緒に過ごすから……」

私は数秒間黙ったあと、静かに笑って返事をしなかった。

次?

純一、もう、次なんてないよ。

純一が家に戻ったのは、翌日だった。

いつもなら私は庭先で彼を迎えていたけれど、今回はしなかった。

彼からメッセージが来た。【どこにいるの?】

私は昼ごはんを食べながら、気軽に返した。【家でご飯食べてる】

しばらくすると、純一がスーツケースを引きながら帰ってきた。

彼は靴を脱ぎながら、当たり前のように言った。「腹減った。ラーメン作ってくれない?あと半熟卵も焼いて」

普段なら、私は何も言わずに台所へ向かっていただろう。でも今日は、静かに言った。

「もう食べたよ。自分でデリバリー頼んで」

純一は不満そうに私を睨んだが、怒りを抑えて言った。「まだバレンタインデーのこと怒ってるのは分かってるけどさ、今はちょっとやめようよ。マジで腹減ってるんだ」

私は笑顔で振り返った。「怒ってないよ」

彼は信じていないようだった。「一花が一人で京市にいるよ。ちょうどバレンタインデーだったから、一緒に過ごしてただけ。地元民のよしみってやつ」

私はあくまで穏やかに返した。「うん、知ってるよ」

彼はじっと私の目を見つめ、まるで何かを見抜こうとしていた。

そして目を伏せ、不機嫌を抑えながら言った。「そんな態度とって、楽しい?今日は疲れてるんだよ。頼むから、ちょっとは察してくれよ」

私は静かに彼を見つめたまま、ゆっくりと言った。「別にケンカなんてしてない。話は終わり?じゃあ、皿洗ってくるね」

彼はしばらく沈黙した後、ポケットからネックレスを取り出して私に差し出した。

上から目線で一言。「プレゼント」

包装もされていないそのネックレスは、一花がInstagramに載せていた豪華なラッピングとは対照的だった。

私は何の感情も見せず、礼儀正しく言った。「ありがとう」

それだけ言って、もう何も言わなかった。

純一の目に、一瞬不満の色がよぎる。彼は苛立ったように言った。「それだけ?」

私は淡々と答えた。「それだけ」

彼は顔を強張らせ、手のひらを私に向けて差し出した。「俺のは?」

私はその時ようやく気づき、申し訳なさそうに言った。「ごめん、忘れてた。じゃあ、Lineでお金送るね。自分で買って」

そう言って、スマホで彼に4000円の送金をした。

彼は目を見開き、まるで信じられないといった表情を浮かべた。

私はこれまで、イベントごとにプレゼントを贈り合うのを大切にしてきた。

彼が忘れても、私は毎回工夫して贈り物を用意していたのに。

重い空気が部屋に広がる中、私はクローゼットで服を着替え、玄関へ向かった。

純一が慌てて声をかけた。「どこ行くんだよ?」

私は静かに答えた。「友達と集まるの」

そう言ってドアを閉め、彼の声を無視して出かけた。

付き合い始めた頃、彼の「外で遊び歩く女は嫌い」という一言で、私はずっと誘いを断り続けた。

だから、友達からは「ノリが悪い」と思われ、誰も私を誘わなくなった。

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第1話
バレンタインデーの夜、私は食卓いっぱいの料理を用意して、矢野純一(やの じゅんいち)の帰りを待っていた。彼は私のことなど一瞥もせず、黙々と荷物をまとめていた。そして冷たい声で言った。「今年のバレンタインデーは、一緒に過ごせない」私は何も言わず、黙って蟹を食べ続けた。深夜、彼の初恋の人、吉岡一花(よしおか いちか)がInstagramに投稿した。写真には、笑顔で純一の背中に寄りかかる彼女と、窓の外に輝く満月が写っていた。キャプションにはこう書かれていた。【そばにいてくれてありがとう】私はもう取り乱して問い詰めたりしなかった。淡々といいねを押しただけ。純一から電話がかかってきた。彼は動揺を隠しきれない声で言った。「変なふうに考えるなよ。次は、絶対に一緒に過ごすから……」私は数秒間黙ったあと、静かに笑って返事をしなかった。次?純一、もう、次なんてないよ。純一が家に戻ったのは、翌日だった。いつもなら私は庭先で彼を迎えていたけれど、今回はしなかった。彼からメッセージが来た。【どこにいるの?】私は昼ごはんを食べながら、気軽に返した。【家でご飯食べてる】しばらくすると、純一がスーツケースを引きながら帰ってきた。彼は靴を脱ぎながら、当たり前のように言った。「腹減った。ラーメン作ってくれない?あと半熟卵も焼いて」普段なら、私は何も言わずに台所へ向かっていただろう。でも今日は、静かに言った。「もう食べたよ。自分でデリバリー頼んで」純一は不満そうに私を睨んだが、怒りを抑えて言った。「まだバレンタインデーのこと怒ってるのは分かってるけどさ、今はちょっとやめようよ。マジで腹減ってるんだ」私は笑顔で振り返った。「怒ってないよ」彼は信じていないようだった。「一花が一人で京市にいるよ。ちょうどバレンタインデーだったから、一緒に過ごしてただけ。地元民のよしみってやつ」私はあくまで穏やかに返した。「うん、知ってるよ」彼はじっと私の目を見つめ、まるで何かを見抜こうとしていた。そして目を伏せ、不機嫌を抑えながら言った。「そんな態度とって、楽しい?今日は疲れてるんだよ。頼むから、ちょっとは察してくれよ」私は静かに彼を見つめたまま、ゆっくりと言った。「別にケンカなんてしてない。話は終わり?じゃあ、皿洗ってく
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第2話
今やっと、久しぶりに友達と楽しく過ごせた。お開きのとき、友達が口々に文句を言った。「彼氏できたら、私たちなんかどうでもよくなるのかと思ったよ。もう二度とそんなことしないでよね。どんなイケメンでも、友達の方が大事だから!」私は大きくうなずいて答えた。「今度から、時間さえ合えば絶対行く。もう安心して」純一と付き合ってから、私は何もかも彼中心で動いていた。仕事も生活も、すべて彼を中心に回して、自分の世界も、友達も、全部手放していた。今思うと、本当に愚かな選択だったと思う。スマホをちらっと見ると、純一から返金通知が届いていた。送ったお金がそのまま返ってきたのだ。私が家に着いたのは、もう深夜三時を回ったころ。電気をつけると、ソファに座る純一の姿が目に入った。一瞬、幻でも見ているのかと思ってしまった。酔っぱらった私を見て、彼は立ち上がりもせず、呆れたような目を向けてきた。「葵、嫉妬ならそう言えばいいのに。彼氏がいる女のくせに、こんな時間まで飲んで帰るなんて、みっともないと思わないのか?」私はふらふらと壁に手をつきながら、ようやくソファにたどり着いた。純一は私の酒臭さに顔をしかめた。「お前の友達とは付き合うなって言ったよな?またあいつらとバカ騒ぎか?一花とはそんな関係じゃないって、何度も言ってるだろ。今はただの友達だ。お前もいい加減、あんなことでこんなに飲む必要はない」私は頭を押さえて、うんざりしたように返した。「勘違いしないで。ただ久しぶりにみんなで集まって、楽しくて飲みすぎただけ」その言葉を聞いた瞬間、純一の声は一気に荒くなった。「いい加減にしろ。こっちはもう譲歩してるんだ。いつまでその態度でいるつもりだ?限界ってもんがあるんだよ。俺だって忍耐強い人じゃないんだからな」頭がガンガンして、彼の怒鳴り声が余計に響く。こめかみを揉みながら、私はつぶやいた。「言いたいこと終わった?じゃ、寝るわ」純一は息を吸い込み、怒りを飲み込んで、手を差し伸べてきた。だが私は最後の理性でそれをかわした。そして、ふらつきながらも別の部屋へ向かい、ドアに鍵をかけた。その夜、ノックする音も気にせず、私はぐっすり眠った。今までにないほど、静かで穏やかな眠りだった。朝、目を覚ますと、純一はリビングのソファに無言で座って
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第3話
スーツに身を包み、深緑のネクタイをした彼は、いつも以上に威厳があった。彼が手に持っている誕生日ケーキを見て、私はすぐに悟った。今日は一花の誕生日だ。純一は彼女の誕生日を祝いに行くところなのだ。電話で、彼はうれしそうに言っていた。「もう、当てっこしても無駄だよ。サプライズだから意味あるんでしょ?とにかく、楽しみにしてて!」何を言われたのか知らないけど、純一は犬歯を見せて大笑いした。その笑顔は、私にはもう見せてくれないものだった。私の姿に気づいた瞬間、彼の笑顔は消えた。純一は一花には何でも聞き入れながら、私には笑顔一つ惜しむのだ。彼の顔は一気に曇り、最後まで何も言わず、ただ嫌そうに顔を背けた。そしてさっさと靴を履き替え、ドアをバタンと閉めて出て行った。私は知っていた。彼はまた、冷戦状態になる。これまでも何度も冷戦を経験してきた。その理由は、いつだって一花だった。そして毎回、私が必死に謝って、媚びて、どうにか修復しようとしてきた。メッセージを無視されても、厚かましく近づいていった。でも今は、私はただ静かにネットで海外のレシピを検索し、家で練習していた。慣れない異国で、まずは食事から慣れていかないと。ベッドに横になっていたとき、一花が投稿したSNSが目に入った。【今年の誕生日プレゼントも君だった。いつもそばにいてくれてありがとう】コメント欄には純一の仲間たちのコメントが並んでいた。【感動したよ。一花ちゃんが幸せそうで何よりだ】その投稿には、純一の友人たち全員が「いいね」を押していた。彼らは昔から私を見下してきた。私が一花と純一の間に入り込んだ邪魔者だとでも思っているのだろう。私がいなければ、純一はもっと幸せになれたって、そう思っているのだ。そしてその下に、純一のコメントがあった。【誕生日おめでとう、俺のお姫様】彼の友人の言う通りだな、と私は冷めた思いで眺めた。私は無表情のまま、その甘ったるいやり取りを見つめていた。さらに、別の友人がコメントしていた。【こんなのアップするなよ。早川(はやかわ)が見たら、また大騒ぎになるぞ】昔、私は何度も純一に伝えたことがある。「吉岡さんとは、少し距離を置いて。異性だし、誤解されないように」でも、純一の友達は私を「嫉妬深い女」だと笑いものにした。
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第4話
でもすぐに、彼の中で何かが納得したような顔になり、言い訳のように続けた。「あの投稿はただの記念だよ、他意はない。本当に。変なふうに考えないでくれ」私は首を振って、何か言おうとしたけれど、彼はかぶせるように話し始めた。「まさか……俺が一花の誕生日に行ったことを責めてるのか?彼女とは十年の付き合いだ。確かに昔はそういう関係だったけど、今はただの友達だ。大事な友達の誕生日に顔出すのは、普通のことだろ?」私は理解を示すように微笑み、彼に向かって言った。「わかってるよ。もう遅いし、部屋に戻って休んで」純一は黙り込んだ。彼は私の顔をじっと見つめる。本当に怒っていないのか、それを確認しようとしているみたいだった。でも、彼は何も読み取れなかったらしい。手を伸ばして、私の腰に触れようとしたその瞬間、私はそっと身を引いた。そして、私は静かに問いかけた。「主寝室で寝る?それとも、別の部屋にする?」純一の目に、驚きの色が浮かんだ。彼のスキンシップを拒むなんて、以前の私なら考えられなかったからだ。恥ずかしさと怒りで、彼は客室のドアを勢いよく閉め、結局主寝室へと向かった。彼が部屋を出ていったのを見届けた私は、すぐに眠りについた。何も考えなくなってから、眠るのがずいぶんと簡単になった。翌朝、舞踊団の団長から電話がかかってきた。どうやら私の海外行きを知ったらしい。「送別会を開きたい」と言われたが、私はすぐに断った。仕方なく彼は諦めたが、その代わり「みんなで集まろう」と、舞踊団の仲間を呼んで食事会を企画してくれた。ここまで言われて、私に断る理由はなかった。ただ、夜になって会場に着いた時、そこに純一がいたのは予想外だった。考えてみれば当然で、彼は団長の甥なのだから。そして、その隣には一花の姿もあった。まさか、こんな身内のような集まりにまで彼女を連れてくるとは思わなかった。純一は私に気づき、視線でそちらに来るよう促した。でも私は、無視した。お似合いの二人の邪魔はしない方がいいだろう。一花は私に気づくと、挑発的な笑みを浮かべた。しかし彼女はすぐにその笑みを引っ込め、わざとらしく申し訳なさそうな顔で言った。「ごめんなさいね、同窓会みたいな集まりにお邪魔しちゃって。あんまりにも暇だったから、純一が連れてきてくれたの」純一は何度
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第5話
「おじさん、今の言葉ってどういう意味?海外って……」純一の声は、一語一語に力がこもっていた。団長は少しも気にする様子もなく答えた。「知らなかったのか?早川は海外に行くんだよ。たぶん、これが俺たちが一緒に食事する最後の機会になるんじゃないかな。もう会うのも難しくなるだろうなあ」彼は私と純一の関係を知らないから、純一が驚いた様子でも不思議には思わなかった。けれど純一は、その言葉を聞いた瞬間、目が真っ赤になった。彼は私の手を取って無理やり店の外へ連れ出した。私は壁際に立ち、無言で彼と向き合った。先に口を開いたのは、純一だった。「海外って……どういうこと?なんで俺に相談してくれなかった?なんで一言も言わなかったんだよ?」彼の声は震えていた。その瞳には、信じられないという気持ちと、どこか怯えのような色があった。私は静かに応じた。「ああ、そのことね。そういえば、その話を聞いたとき、あなたは吉岡さんとディズニーで遊んでたから。わざわざ邪魔するのも悪いかなって思って」私の声は冷たく礼儀正しく、一気に二人の距離を遠ざける。純一は気まずそうな表情を浮かべながらも、私の手を握りしめた。「どんな状況でも、俺は君の恋人なんだ。君の大事なことは、俺にも共有すべきだろ?」私は驚いたように頷いた。昔の私は、何もかも彼に話していた。だけど、あの頃の彼はこう言ったのだ。「そんなこと興味ない。くだらない内容でスマホの容量を使うな」純一はかすかにため息をついた。しばらく沈黙した後、彼が口を開いた。「どのくらい行くつもりなんだ?」私は少し迷ったが、嘘をついた。「二、三年くらいかな」元々彼に知らせるつもりはなかった。ただの偶然にすぎない。「そんなに長く?」純一が驚いた声をあげた。私はうつむいたまま、無言で頷いた。その場に流れる空気が、ぴりっと張り詰める。純一は深いため息をつき、私を見つめて言った。「後で一緒に帰ろう?」何かを期待するように、彼の目がかすかに輝いた。私はそれを断ろうとしたその時、一花が部屋から出てきた。酔った彼女はとろんとした目で純一を見つめ、体をふらつかせながら、彼に寄りかかった。純一は私の反応をうかがいながら、一花を押しのけようとしたが、どうしても離れられない。焦ったように純一が口を開いた。「一花は酔
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第6話
涙が、気づかぬうちに頬を伝っていた。笑っちゃう話だけど、純一が一花のために私を置き去りにするのは、これで何度目だろう。もう、いちいち数えてなんていられない。気づけば、そういうのにも慣れてしまっていた。通りすがりのカップルが手をつないで歩いている。ふと、昔の私と純一を思い出す。あの頃も、あんなふうだった。車が進むにつれ、その手をつなぐ姿も、私たちの思い出も、次第に霞んでいった。家に着くと、純一からメッセージが届いた。【一花を無事に送り届けたよ。彼女、ずっと吐いてて……今夜は帰れそうにない】スマホの画面を見つめながら、ぼんやりしていた。思えば、純一が私に報告してきたのは、これが初めてかもしれない。以前は、私がたった一言「飲み会は何人くらい来るの?」と聞いただけで、彼は「そんなことまで気にするなんて、めんどくさい」と不機嫌になった。「何でもかんでも報告しないといけない恋愛って、疲れない?」あのとき私は、純一の機嫌を直すのにずいぶんと時間をかけた。彼は何度も「俺のことに口出ししないでくれ」と念を押していた。私はあっさりと返信した。【わかった】すると、純一はさらに説明を重ねてきた。【本当に、あいつがずっと吐いてて……それに、もう遅い時間だったから泊まっただけだ。勘違いしないでくれ】私は淡々と答えた。【わかったよ】そのあとは、彼からのメッセージはなかった。夜、私は何度もトイレで吐いた。酔っていたのは、一花だけじゃなかった。私は普段、ビールばかり飲んでいたせいで、日本酒に慣れていなかった。少ししか飲んでいないのに、すっかり酔いが回ってしまった。深夜まで吐き続け、ようやくベッドに戻った。そのせいで、翌朝には目の下にクマができていた。純一が帰ってきたのは、昼過ぎだった。私はちょうど注文していたお粥を食べていた。以前なら、彼はきっと「そんなジャンクフードやめろよ」と説教されていた。でも今日は、珍しくお粥に興味を示した。「それ、美味しい?」私は驚いたように彼を見つめ、頷いた。彼はテーブルに座り、私の目をじっと見つめてきた。「酔っぱらいの面倒見るのって、本当に大変だよ。あいつがようやく落ち着いてから、すぐに帰ってきたんだ」その言い方に、どこか言い訳じみたものを感じたけれど、私はそれを突っ込まなかった。
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第7話
彼は信じられないという顔をした。こんなにあっさり断られるなんて、思っていなかったのだろう。しかも「他の人を誘って」なんて、昔の私なら絶対に言わなかった。でも、それは本当のことだった。出国の手続きでまだ済ませていないことがいくつかある。彼の目から、期待の光がすっかり消えていく。口元に浮かべていた笑みも、完全に消えていた。彼は焦ったように聞いてきた。「明日、何の予定があるの?俺も一緒に行こうか?」私は淡々と説明した。「ああ、明日は出国の手続きで、どうしても外せないから。友達の婚約式なんだし、あなたは出席するべきよ。私は一人でも平気だから」純一は私の顔をうかがうようにして、「じゃあ、一花を連れてってもいい?」と聞いてきた。以前なら、私は一花という名前を聞いただけで、怒りがこみ上げてきたものだった。でも今はただ笑って答えた。「いいよ」彼は私の表情から嫉妬の色を探そうとしたけど、何も見つけられなかったようだった。「葵、なんで全然嫉妬しないんだ?」と、彼が思わず聞いた。私は彼のことを不思議に思った。前はあんなに私の嫉妬を嫌がっていたのに。それでも私は言った。「嫉妬なんてする必要ある?彼女はあなたの友達だし、ほかの友達とも親しいでしょ。連れて行くのが自然じゃない?」純一は何度か口を開いたが、結局何も言わなかった。そして、ぽつりと一言。「じゃあ、明日の朝、俺が手続きに付き添うよ」私は少し考えてから、拒まなかった。ちょうど頭がぼんやりしていて運転したくなかったし、送ってもらえるなら悪くないと思った。私が同意すると、純一は手を伸ばして私の手を取ろうとしたが、私はすっとかわした。彼は不満げな顔をして、訝しんでいた。私は説明した。「昨日よく眠れなかったから、少し寝直すね。あなたも休んで」そう言って、彼の驚いた顔を尻目に、私はドアを開けて寝室に入った。翌朝早く、純一は朝食を用意してくれていた。私たちは一緒に朝ごはんを食べたあと、彼は車の鍵を手に取り、私を送る準備をした。私は助手席に座った途端、妙な違和感を覚えた。純一の車に乗るなんて、本当に久しぶりだった。以前、雨の日に傘を忘れて迎えに来てほしいと頼んだ時、純一は眉をひそめてこう言った。「自立した女性なんでしょ?男に頼るなよ。ちょっと濡れるくらい、どうって
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第8話
私はその迷いに気づいて、気を利かせて言った。「彼女を迎えに行きなよ。私はここらへんで降ろしてくれれば大丈夫」純一は慌てたように、「でも、君はどうするの?いや、やっぱり君を先に送ってく」と言った。私はあっさり笑って答えた。「タクシーで行くから平気よ。ほら、ここでいい。車止めて」前方の道路を指差すと、純一は一瞬迷ったが、結局車を止めた。降りる時、彼は「今日、早めに帰るから」と私に言った。私はうなずき、彼はさらに心配そうに言った。「ここ、タクシー捕まる?本当に無理なら、彼女のところには行かない」私は顔を上げてそう促した。「大丈夫よ。もう行って。遅れたら失礼でしょ」純一の車が走り去り、排気ガスだけが残った。私は手続きを済ませ、スマホの日付を見て指折り数えた。出国まであと5日。家に戻って、動画アプリを見ていたら、浩二とその彼女が熱烈に抱き合う動画が流れてきた。周囲は盛り上がり、純一と一花をからかっていた。浩二が笑いながら純一に言った。「お前もそろそろ本気出せよ。いい女はすぐそばにいるんだから、大事にしなきゃな!」そう言って、彼は一花の方をちらりと見た。一花は顔を赤らめて、はにかんでいた。その動画の中で、純一はどこか落ち着かない様子だった。その時、私のスマホに純一からメッセージが届いた。【葵、あの動画見た?あれ、みんなが勝手に盛り上がってただけだから。怒らないで】私は返信した。【見たよ。ただの冗談でしょ。怒るわけないじゃない】その後、純一からの返信はなかった。結局、彼は早く帰ることもなかった。私は彼を待たずに、夕飯を食べてそのままベッドに入った。翌日、昼近くになって純一が帰ってきた。私は何も聞かず、ソファに座ったまま、「ご飯作ってないよ。食べてないなら出前でも頼んで」とだけ言った。純一は玄関で靴を脱ぎながら、こう言い訳した。「昨日さ、みんな盛り上がっちゃってさ。帰ろうとしても引き留められて……結局、ホテルに泊まったんだ」昔から純一はよく朝帰りしていたけど、私にいちいち説明することなんてなかった。私はただ「うん」と返し、テレビを見続けた。純一は靴を脱ぎ終え、ソファに座ると、眉間を押さえて聞いた。「で、君の出国予定はいつ?」私は口を開いた。「来週の月曜日。チケットはもう取ってあるの」そう言う
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第9話
純一はスマホを取り出し、その場で一花に電話をかけた。スピーカーがオンにされ、彼女の声が部屋に響いた。「純一、私のこと恋しくなった?」一花の一言で、純一の顔に気まずさと動揺が浮かぶ。彼は慌てて言った。「やめろよ、一花。そんな冗談はよせ」彼女は予想外の反応に戸惑っているようだった。どうやら二人の間では、これが普通の会話だったらしい。純一は続けた。「一花、これからはあまり連絡を取らない方がいいと思う。俺には彼女がいるから」一花は信じられないといった声を上げた。「えっ……何て?もう一回言って?」純一は深く息を吸い、言い直した。「これからは、もうあまり連絡しないでほしい。わかった?」一花は突然悟ったように笑った。「ああ、そういうこと?あの嫉妬深い彼女がまた文句言ってるのね。気にしなくていいわ。彼女って友達いないから、私たちが仲いいのが羨ましいんでしょ」彼女の言葉ひとつひとつに、純一の表情はどんどん曇っていった。私は、彼らが裏でどれだけ私の悪口を言っていたのか、想像すらしたくなかった。純一は苛立ちを隠さずに言った。「もういい。自分の立場をわきまえろ。葵は俺の彼女だ。君が口を挟む権利はない。もう連絡してこないで。きれいに終わろう」そう言って、純一は一花の呼びかけも無視して、電話を切った。その後もスマホは鳴り続けたが、純一は一切出ようとせず、私に向き直った。「ほら、ちゃんと縁を切った。これからは二人でちゃんとやり直そう。俺、葵の帰りを家でおとなしく待ってる。ほんとに、絶対に」彼は手のひらを胸に当て、まるで誓いのように言った。私はその姿を呆然と見つめた。本当は、出国の日に別れを告げるつもりだったけど、どうやら、それを前倒しする必要がありそうだ。私は口を開きかけて、言った。「でもね、待ってもらう必要はない。私たち、別……」言い終わる前に、純一が私の口を手で塞いだ。見上げると、彼の目は真っ赤で、涙が今にもこぼれそうだった。床にポタポタと音が響いた。純一の涙だった。以前の私なら、きっと彼の涙をぬぐってあげていただろう。でも今回は何もしなかった。ただ静かに見つめているだけだった。純一のような人も、私のために涙を流すことがあるんだろうか?彼は喉を詰まらせながら、私の目をじっと見つめて言った。「葵、一緒に
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第10話
純一は私の肩をつかみ、懇願した。「約束する。これからは毎年のイベント、全部君と過ごす」私は彼の手を払いのけて、苦笑した。「残念だけど、私たちにはこれからはないの」純一は声も出せないほど泣きじゃくり、別れを認めず、私と一緒に海外に行くと言い張った。私は彼に押し切られ、結局了承した。彼は失ったものを取り戻したかのように、私を抱きしめた。私は苦い気持ちで、その最後の抱擁を受け入れた。ある朝、私は静かに荷物をまとめ、最後にドアを開けて純一を見ると、彼はまだ眠っていた。私は小さな声で「さよなら」と告げ、この家をしみじみと見渡した。おそらく、これが最後の一瞥になるだろう。今回の海外行きは、そこで生活を落ち着けるつもりだった。私は一人でタクシーに乗り、空港へ向かった。椅子に座り、搭乗を待っていた。携帯には次々と純一からのメッセージが届いた。【どこにいる?どこ行った?】【なんで返事しない?】最後のメッセージはこうだった。【空港に着いた。どこ?会いたい】私はメッセージを見て、目頭が熱くなった。返事はしなかった。携帯をしまい、彼に最後に会う勇気はなかった。だって彼は、かつて私が深く愛した人だったから。メッセージの通知音は鳴り続けたが、私は見て見ぬふりをした。そしてため息をつき、搭乗口へ歩いた。すると純一の声が私を呼び止めた。「葵、君がいなきゃ、俺はどうやって生きればいいんだ!」彼の声はヒステリックで、全身の力を振り絞った叫びだった。背筋が凍りついたが、私は振り返らなかった。搭乗口へ向かいながら、携帯のメッセージを見た。【葵、君は俺を騙した】苦笑いを浮かべて、私は最後の返信をした。【あなたは何度も私を騙した。だから今度は私の番よ】かつて、純一は「ただの友達の集まりだ」「一花はいない」と何度も嘘をついたが、全部私に見破られていた。騙された時の胸の痛みを思い出す。彼も今、私と同じ気持ちなのだろうか。私は海外に着き、舞踊団の人に迎えられた。割り当てられたアパートは広くはないが、必要なものは全て揃っていた。純一のメッセージは返信しなかった。彼をブロックした。これからの生活に彼は必要ない。残しておく意味もなかった。一年が経ち、私は異国生活に慣れ、多くの新しい友達もできた。
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