——俺は誰にでもペコペコするわけじゃないからな。「つまり、岩段若社長は、私の前では自分をペコペコするやつだと思ってるってこと?」「これがペコペコじゃなきゃ、何だっていうんだ?」「岩段若社長、まだまだ甘いわね」これぐらいでペコペコなんて、早すぎる。玲奈はため息をつき、「本気で誰かを想うってことが、どうしてペコペコって言葉にされなきゃいけないんだろうね?」と呟いた。秋年は、この問いに答えられず、黙り込んだ。玲奈は窓の外を見つめながら、瞳を潤ませ、長いまつ毛がかすかに震えていた。「本気で誰かを好きになることって、そんなに難しいことなのかな。恋愛って、本来はお互いを思いやるもので、1たす1が2以上になるものじゃないの?いつから、恋愛が駆け引きになっちゃったんだろう。私が損するのが怖い、あなたが損するのが怖い……」玲奈は眉をひそめ、そう言いながらも、ふっと笑った。秋年はまたしても呆然とした。——恋愛って、本来はお互いを思いやるもので、1たす1が2以上になるものじゃないの?いつから駆け引きになったの?「でもね」玲奈は急に秋年を見た。秋年はぱちぱちと瞬きをした。まだ続きがあるのか。玲奈は微笑んだ。「確かに、好きでもないのに相手を引きずって、結果的に相手をペコペコさせる女もいる。だから、ペコペコって言葉が存在する理由もわかる。でも、少なくとも私たちには当てはまらない」彼女はペコペコという言葉があまり好きではなかった。自分は秋年に無駄な時間を使わせていないし、秋年も何か大きな犠牲を払ったわけではない。ただ、彼が追いかけているだけ。それだけのことで、どうしてペコペコなんて言わなきゃいけないのか。秋年もそのことに気付いていた。玲奈という人間は、やはりまっすぐだった。軽薄なやりとりなんて、彼女には似合わない。彼女はあまりにも、冷静だ。きっと、芸能界という世界で生きてきたからこそ、自然とそうなったのだろう。「俺、ちゃんと本気で君を口説いてるよ」秋年は彼女を見つめながら、柔らかい声で言った。玲奈は肯定も否定もしなかった。ただ、どちらかと言えば、受け入れたのかもしれない。正直、秋年は悪くなかった。二人の立場も、悪くない組み合わせだった。しばらく車内は静寂に包まれた。やがて、玲奈はふと口を開
秋年はこの言葉を聞いた瞬間、なぜかクラクションを軽く鳴らしてしまった。その音に、玲奈も秋年も一気に目が覚めた。秋年はぷっと笑い、「マジで?」と玲奈に尋ねた。「何ニコニコしてんの。あの子、あなたが私を囲ってるって言ったんだよ?私たちにとって、全然いい話じゃないでしょ」玲奈は不機嫌そうな顔をした。秋年は眉をひそめたが、あまり気にしていない様子で言った。「はは、俺が玲奈を囲えるなんて、もう先祖様が墓の中で踊り出すレベルだわ」玲奈のように、冷たく高貴な存在を——誰が囲えるというのか。そもそも、彼女にはお金が必要ない。玲奈を囲えるなんて、どれほどの実力が必要か、想像もつかない。むしろ、陰口どころか、称賛だと思っていいくらいだった。玲奈は秋年をじっと見つめ、呆然としてしまった。——いや、ちょっと。そんなに嬉しそうにしないでよ。「ご先祖様が感謝してるって」玲奈は何を言っていいか分からず、ついそんな一言を口にした。秋年は朗らかに二度笑った。「ご先祖様に『どういたしまして』って伝えておくよ」玲奈はため息をつき、「先祖をネタにするのやめて、縁起でもない」と呟いた。秋年は「うん」とだけ答え、それ以上は何も言わなかった。玲奈は窓の外を見ながら、腕をさすり、小声でつぶやいた。「冗談だよ。本当はそんなこと言ってなかった。ただ、ちょっとからかいたかっただけ」「知ってるよ」秋年は穏やかに微笑み、優しく、真剣な声でそう返した。玲奈はふと彼を見やり、「うん」と一言だけ返して、それ以上は何も言わなかった。車は静かに走り続け、ほどなくして、玲奈は眠りについていた。秋年にとって、こんなに静かに玲奈と二人きりでいられる時間は、実はとても貴重だった。彼は承応という場所にも馴染みがあった。ホテルには戻らず、車を沿岸のビーチへと走らせた。夜の帳が降り、ビーチには小さな花火が灯され、いくつかのフードトラックが並び、温かみのある黄色いライトが輝いていた。秋年は窓を少し開け、海風を車内に招き入れた。温かい風が吹き込んできた。彼はふと玲奈を見た。玲奈は鼻をすすり、顔をしかめた。海風が当たったせいかもしれない。秋年は後部座席から毛布を取り出し、そっと彼女にかけた。玲奈は眠りが浅かった。毛布をかけられると
この言葉が出ると、二人は揃って固まった。なに?監督が聞いた。「玲奈、午後は体調が悪かったのか?」「ええ」秋年は穏やかに微笑んだ。その口調は落ち着いていて、責めるでもなく、恩着せがましくもなかった。ただ、玲奈が今日、無報酬で撮影を手伝ったという事実を、監督とプロデューサーにきちんと印象付けるためのものだった。玲奈は、この瞬間、秋年という男が想像以上に心の機微に通じていることを知った。「でも、もう大丈夫だよね?」秋年は玲奈に尋ねた。玲奈は「うん」と答えた。本当にもう問題なかった。さっきたっぷり食べて、お腹も満たされていた。監督とプロデューサーの顔に、一瞬、申し訳なさそうな表情がよぎった。「ああ、なるほど、玲奈の顔色が悪かったのは体調が悪かったからだったんですね!まるで役にぴったりだったから、全然気付かなかった……いやあ、我々の不注意でした!」プロデューサーは慌ててドアを開け、玲奈に「どうぞ」と促した。その態度はやたらと丁寧だった。玲奈はにっこり笑ったが、さりげなく秋年に目をやった。早く秋年にプロデューサーとの応対を任せたい、という無言の合図だった。彼女はあまり口がうまいほうじゃなかった。秋年は軽く咳払いをし、わざと何も言わず、まるで「頼んでみろよ」とでも言いたげな仕草を見せた。玲奈はすぐに目を細めた。秋年は舌打ちをした。彼女の鋭い視線に負けたのだ。結局、秋年が後処理を引き受けることになった。玲奈は先に外へ出た。すぐに、車のそばで秋年を待っていた。秋年は車のドアを開け、「大スター様、どうぞご乗車を!」と言った。「ご苦労さま、社長さん」玲奈はにっこり笑い、目を細めた。その笑顔は柔らかく、美しかった。秋年はため息をついた。「恐れ多いですよ」玲奈は助手席に座った。秋年も運転席に乗り込んだ。「君の許可も得ずに体調のことを話してしまった。ごめん」と秋年が言った。「気にしないで、岩段若社長、ありがとう」玲奈は微笑んだ。「どうせ私も帰ったら監督に伝えるつもりだったの。今日のコンディションがよくなかったから、もし演技に問題があったら、このシーンをカットしてもらおうって」玲奈はにこやかに答えた。だが秋年にはわかっていた。玲奈は礼儀でそう言っているのだと。お互い
幸い、玲奈は後半もなんとか持ち堪えた。撮影が終わると、監督とプロデューサーはぜひ玲奈と秋年を連れて食事に行きたいと言い、すでに店も予約済みだと告げた。玲奈は断ることができず、仕方なく秋年の方を見やった。秋年は時計を見て、そろそろ玲奈にも何か食べさせたほうがいいと思い、承諾した。監督は藍子と主演男優も誘おうとしたが、プロデューサーに止められた。「人数は少ない方がいいさ、気軽な友人の集まりってことで」監督は少し考えた末、それに同意した。レストランは近くにあり、監督が事前に料理を注文していたため、到着するとすぐに食事ができた。秋年は玲奈のそばを片時も離れず、まずは食事を始める前に、彼女にスープをよそい、喉を潤し体を温めるよう促した。監督と秋年が話している間も、彼の視線はずっと玲奈に向けられ、話題も玲奈を中心に進められた。「監督、俺は今日はただのお供ですから、気にしないでください」玲奈は黙ってスープを飲んでいた。あまり話す気分ではなかった。秋年はそれを察したのか、自ら話題を振った。「今日の玲奈の芝居、どうでした?俺は素人ですが、それでも彼女の演技力には感心しました。特に最後のシーン、感情の揺れがすごかった。狂気から悲しみへの切り替え、あんなに自然にできるものなんですか?」「はは、岩段社長、玲奈のドラマをあまり見たことないですな。彼女の演技は一級品ですよ!」監督はそう言って、プロデューサーと共に玲奈を褒めたたえた。おかげで玲奈は黙ったままでいられた。秋年は彼女に料理を取り分け、もっと食べるようにと促したり、うなずきながら言った。「そうなんですね、あまり見たことがないもので。これは反省しないと、帰ったらしっかり勉強します!」「いやー、玲奈の作品は多すぎてね。代表作を一つ選べと言われても、どれが彼女を一番よく表しているか迷うくらいですよ」秋年も笑いながら相槌を打った。玲奈の体調はだいぶ回復していた。宴の後半には、彼女も少しずつ会話に加われるようになった。秋年はさすが、場慣れした男だった。こういう席では、完全に主導権を握っていた。彼が話題を振ると、自然とその方向に話が進む。それでいて、押し付けがましさも不快感もなく、彼と話していると自然とその魅力に惹かれてしまうのだった。玲奈は気づいた。人を見る目は
「私も昔は、あなたたちと同じように、少しずつ這い上がってきたの」玲奈は柔らかく言った。自分も、雨に打たれたことがあるから……だから、誰かに傘を差し出してあげたいと思う。もちろん、それを受け取るかどうかは、相手次第だ。とにかく、玲奈はこの場で、自分なりの「オファー」を差し出した。「何それ……」藍子はつい、吐き捨てるように言った。玲奈の耳には、その言葉がはっきりと届いていた。マネージャーは頭を抱え、藍子を睨みつけた。まるで、「何してんの、せっかくチャンスもらったのに」とでも言いたげに。「悪気はないわ」玲奈は微笑んだ。だが、藍子は玲奈を鋭く睨みつけると、そのまま背を向けて立ち去った。誰があんたなんかの好意を受けるものか。今この場で記者でも呼んで、写真でも撮らせればよかったのに。——藍子は、心の中で毒づいていた。彼女は、芸能界にそんなお人好しがいるとは信じていなかった。マネージャーは藍子の背中を見送りながら、心底疲れた様子だった。彼女は丁寧に玲奈に頭を下げ、感謝と謝罪の言葉を繰り返した。玲奈は特に気にする様子もなく、軽く頷くだけだった。正直なところ、彼女はもうかなり疲れていた。藍子とマネージャーが去った後、周囲は静かになった。玲奈は深く息をつき、やっと目を閉じた。気づけば、額からは汗がにじんでいた。「辛いだろ?」耳元で、秋年の声が聞こえた。玲奈はぱっと目を開いた。男は彼女の隣に立っていた。スラリとした指先で、巧みにチョコレートの包みを剥がしていた。玲奈が顔を上げると、彼はちょうど目を伏せ、静かに彼女にチョコを差し出していた。その仕草に、彼女の心臓が一瞬跳ねた。躊躇いながら、彼女は口を開いた。秋年は少し驚いたように手を止めたが、すぐに微笑み、チョコレートを彼女の唇へと運んだ。彼は、彼女に一粒のチョコを食べさせた。玲奈は視線を落とし、後になって自分の行動の意味に気づき、頬が熱くなった。秋年はそのまましゃがみこみ、玲奈の手を取り、そっと包み込んだ。「冷たいな」彼はそう呟き、「本当にまだ撮れるのか?無理しなくていいんだぞ」と、優しく尋ねた。玲奈はすぐに首を振った。彼の掌は温かく、その温もりを彼女に分け与えるかのようだった。「
どうやら、ここに誰かいるとは思っていなかったらしい。藍子とアシスタントは、ばつの悪そうな顔で立ち止まり、それからこちらに歩み寄ってきた。まあ、誰かがいたって別にいいだろう、とでも思ったのだろう。ちょっとした愚痴だし、彼女は主演女優だ。周囲も持ち上げてくれるし、どうということはない——そうタカをくくっていた。だが、近づくとすぐに、藍子は凍りついた。彼女の視線の先にいたのは、揺れるロッキングチェアに腰掛け、冷ややかな眼差しでこちらを見ている玲奈だった。玲奈はさすがのトップスターだった。薄手の白いワンピースに、背中に流れる黒髪。顔にはごく自然なメイクが施されている。今は少し体調が悪そうだったが、それでも彼女の放つ存在感はまったく衰えていなかった。その圧倒的な雰囲気の前に、藍子は何も言えなくなった。アシスタントも同様に、しどろもどろになっていた。やっとの思いで口にしたのは、「も、森川さん……ここにいらっしゃったんですね!」玲奈は彼女たちを静かに見下ろし、冷たく目を細めた。「聞くつもりはなかったけど、ちょうど聞こえてしまった」「そ、そうですよね、私たちがここで勝手に喋ってたんです!」アシスタントはすぐに機転を利かせ、素直に非を認めた。玲奈は目を細め、ふっと笑った。このアシスタントは、なかなか世渡り上手だ。だが……藍子。彼女の表情には、明らかに不服そうな色が浮かんでいた。まるで、「なんで私が謝らなきゃいけないの?」とでも言いたげに。まあ、芸能界なんてそんなものだ。子供みたいな女優と、世慣れたマネージャーの組み合わせ。この手のコンビのほうが、どちらも未熟なペアよりはよほど長く持つ。玲奈は、自分がこの世界に飛び込んだばかりの頃を思い出した。あの頃、自分のマネージャーも無能で、たくさんの面倒事を自分で片付けなければならなかった。藍子のような態度も、今となっては腹も立たない。ただ、少し可笑しく感じるだけだった。「別に謝る必要なんかないわ。勝手に聞かれてただけだし」藍子は小声で不満を漏らし、アシスタントの腕をぐいっと引いた。まるで「なんであんたまでペコペコしてるのよ」と言いたげに。玲奈は、そんな藍子の一挙手一投足を、静かに見届けた。藍子は、無意識に玲奈に白い目を向けた。玲奈はそれすらも理解することにした。主演