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【続編】3-4

Auteur: 海野雫
last update Dernière mise à jour: 2025-11-25 19:00:33

 翌朝早く、まだ夜明け前の暗いうちから、響は荷物をまとめ始めた。

 カーテンの隙間から、街灯の光がかすかに差し込む。ロサンゼルスの街は、夜でも完全に暗くなることはない。どこかで車の音がして、遠くでサイレンが鳴っている。

 身の回りの物だけをスーツケースに詰める。服、洗面用具、パスポート。楽譜や作曲ノートは、すべてスタジオに残すことにした。もし晴真が必要になったら、それを使ってほしいと思った。

 三年間の思い出が、次々と頭に浮かんでくる。

 初めて一緒に作った曲。大学の音楽室で、夜遅くまで二人でピアノを囲んでいた。晴真が即興で歌詞をつけ、響がそれに合わせてコードを変えていく。完成した時、二人で顔を見合わせて笑った。

 初めてのライブ。緊張で手が震えていた響の手を、晴真がそっと握ってくれた。『大丈夫、響の曲は最高だから』その言葉に、どれだけ救われたか。

 初夏の夜、大学のキャンパスでの初めてのキス。発表会が終わった後、興奮冷めやらぬ二人は中庭を歩いていた。噴水の水音が静かに響き、月明かりが石畳を照らしていた。晴真が立ち止まり、響の手を取った時、世界が止まったように感じた。

 東京ドームで五万人を前に演奏した時の興奮。ステージから見える無数のペンライトは、まるで星空のようだった。演奏が終わった後、晴真が響を抱きしめて『やったな、響』と囁いた。

 すべてが、かけがえのない宝物だった。

 でも、もうそれも終わりだ。

 震える手で、手紙を書いた。何度も書き直し、涙で文字が滲む。ホテルの便箋に、万年筆で一文字ずつ丁寧に書いていく。

『晴真へ

 突然いなくなって、ごめん。

 でも、これが一番いい方法だと思った。

 晴真の才能は、世界レベルだ。

 もっと優秀なプロデューサーや作曲家と組めば、

 きっとスーパースターになれる。

 自分のような中途半端な人間は、晴真の隣にいる資格なんてない。

 三年間、本当に幸せだった。

 晴真と出会えて、一緒に音楽を作れて、

 愛し合えて、それは俺の人生の宝物だ。

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     その週末、響は美咲にメールを送った。日本との時差を考慮し、向こうの昼間に届くように送った。『美咲、相談がある。晴真のことなんだけど……』 すぐに返事が来た。美咲は昔から、レスポンスが早い。『篠原くん、どうしたの? 何かあった?』 響は、マイケルの言葉や、自分の不安を正直に打ち明けた。画面に向かって指を動かしながら、涙が零れそうになる。長文のメールになってしまったが、美咲はすぐに返信をくれた。『篠原くん、それは違うと思う。私、大学時代から二人を見てきたけど、藤堂くんが一番輝いてるのは、篠原くんと一緒にいる時だよ』 美咲のメールは続いた。『覚えてる? 大学の時の発表会。藤堂くんが篠原くんの曲を歌った時、会場中が涙してた。あれは技術じゃない。二人の心が通じ合ってたからこそ、生まれた感動だった』『確かに、技術的にもっと優秀な作曲家はいるかもしれない。でも、藤堂くんが求めてるのは、技術じゃなくて、心が通じ合える音楽なんじゃないかな。篠原くんの曲には、藤堂くんへのまっすぐな気持ちが込められている。それが一番大事なんだと思う』 美咲の言葉に、響は涙が出そうになった。画面が滲んで、文字が読めなくなる。『でも、俺のせいで晴真のチャンスを潰してるかも』『それは藤堂くんが決めることでしょう? 篠原くんが勝手に決めつけちゃダメだよ。ちゃんと話し合った?』 美咲の指摘は的確だった。響は、晴真と向き合うことから逃げていた。自分の不安を、晴真にぶつけることが怖かったのだ。『それに、篠原くん。愛って、相手の幸せだけを考えることじゃないと思う。一緒にいることで、お互いが幸せになれる。それが本当の愛なんじゃない?』 美咲の最後の言葉が、響の心に深く刺さった。 けれど月曜日になっても、響の態度は変わらなかった。 朝のスタジオは、カリフォルニアの強い日差しで明るく照らされていた。機材の金属部分が光を反射し、きらきらと輝いている。しかし、響の心は晴れることがなかった。 スタジオでは晴真を避け続け、休憩時間

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     朝の光がスタジオの大きなガラス窓から差し込んでいた。ロサンゼルスの空は抜けるように青く、遠くにハリウッドサインがかすかに見える。響は楽譜を前に座りながら、どこか上の空だった。 新しいプロデューサー、ジェシカ・チャンとの初顔合わせの時間が近づいている。マイケルの一件以来、スタジオの空気は重苦しく、誰もが腫れ物に触るような態度だった。 会議室のドアが開き、アジア系の女性が入ってきた。三十代半ばほどで、黒いパンツスーツを端正に着こなしている。長い黒髪を後ろで一つに束ね、シルバーの細いフレームの眼鏡が知的な印象を与えていた。手にはレザーのポートフォリオと、スターバックスのコーヒー――ただし、一つだけ。「初めまして、ジェシカ・チャンです。これから皆さんのプロデュースを引き継がせていただきます」 ジェシカの英語は、マイケルよりもゆっくりで聞き取りやすかった。アジア系特有のイントネーションがかすかに残っているが、それがかえって親近感を与える。そして何より、その視線がプロフェッショナルだった。晴真を見る時も、他のメンバーを見る時も、同じように冷静で客観的だ。「まず、これまでの録音素材を聴かせてもらいました」 ジェシカがポートフォリオを開き、細かくメモが書き込まれた楽譜のコピーを取り出した。響は驚いた。マイケルは一度も楽譜に目を通したことがなかったのに、ジェシカはすでに詳細な分析をしている。「素晴らしいポテンシャルを持っています。特に響さんの作曲と晴真さんの歌声の相性は抜群ですね。第三楽章の転調部分、あそこは天才的です」 ジェシカは響の名前もきちんと呼んでくれた。しかも、具体的にどの部分が優れているのかを指摘している。マイケルのように、晴真だけを特別扱いすることはない。「ただ、方向性を少し修正したいと思います」 ジェシカがラップトップを開き、画面を全員に見せた。そこには、世界各国の音楽チャートと、アジア系アーティストの成功例が並んでいる。「もっと日本らしさを活かしながら、世界に通用する音楽を作りましょう。東洋と西洋、両方の良さを融合させてこそ、このプロジェクトの個性が生きてくると思います。実際、BTSや

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     翌日、スタジオに着くと、マイケルはいつも通りだった。昨夜のことなど、なかったかのように振る舞っている。完璧な笑顔、プロフェッショナルな態度。しかし、晴真への視線は昨日よりもさらに熱を帯びていた。まるで、昨夜の拒絶が、かえって執着心に火をつけたかのように。「おはよう、晴真。昨夜はごめんね。酔わせすぎてしまって」 マイケルの謝罪は、表面的なものだった。キスしようとしたことには一切触れない。その図々しさに、響は思わず寒気がした。 レコーディングが進む中、マイケルは相変わらず晴真への接触を続けた。肩に手を置き、腰に手を回し、耳元で囁く。その度に、晴真が身を固くするが、マイケルは気にしない様子だ。むしろ、晴真の反応を楽しんでいるようにさえ見える。獲物を追い詰める捕食者のような執拗さで、晴真を追い詰めていく。響は、その様子を見ているしかできない。プロデューサーに逆らえば、プロジェクトが頓挫する可能性がある。そのジレンマが、響を苦しめた。 その週の金曜日、マイケルがまた晴真を誘った。「週末、僕の別荘でパーティーがあるんだ。音楽業界の人たちが集まる。晴真も来ないか?」 晴真の顔が曇った。「君のような才能を、みんなに紹介したい。きっと、将来の役に立つはずだ。有名プロデューサーやレーベルの重役も来る」 マイケルの言葉は、断りにくいものだった。結局、メンバー全員で参加することになった。断れば、今後の仕事に影響が出るかもしれない。そんな計算も、マイケルは見透かしているのだろう。 土曜日の夕方、マイケルの別荘に到着した。マリブの海岸沿いにある豪華な邸宅は、白い壁と大きなガラス窓が印象的だった。プールサイドにはすでに大勢の人が集まっていた。音楽関係者、俳優、モデル。華やかな世界の住人たちが、シャンパンを片手に談笑している。響は、その光景に圧倒された。これが、世界の音楽業界なのか。きらびやかで、洗練されていて、そして恐ろしいほど遠い世界。自分がその中にいることが、まるで夢のようだった。いや、悪夢かもしれない。「ようこそ! 飲み物は自由に取って」 マイケルが晴真の肩を抱いて、ゲストたちに紹介していく。

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     一週間のプリプロダクションが終わり、いよいよ本格的なレコーディングが始まることになった。最初の週は、リズムセクションの録音から始まった。田中のドラムと山本のベースを録音していく間、響は引き続き作曲作業を続け、晴真はマイケルとのボーカルトレーニングを受けていた。スタジオの空気は、日を追うごとに重くなっていった。マイケルの晴真への執着が、誰の目にも明らかになってきたからだ。休憩時間には、マイケルは常に晴真の隣にいて、他のメンバーが近づくと、さりげなく晴真を独占しようとする。その様子は、まるで恋人のような振る舞いだった。 ある日の午後、マイケルが晴真に提案した。「今夜、時間がある? 僕の知り合いのボーカルトレーナーを紹介したいんだ」 晴真の顔が曇った。「今夜ですか?」 晴真の声には、明らかな戸惑いが滲んでいた。「ああ、彼女は元オペラ歌手で、今はポップスのトレーニングもしている。君の声域を広げるのに、きっと役立つはずだ」 マイケルは説明したが、その目は晴真から離れない。晴真が響を見た時、その目は助けを求めているようだった。「響も一緒に……」「いや、これはボーカリストのための特別なセッションだから」 マイケルが遮った。その口調は穏やかだが、有無をいわせない強さがあった。「響には、明日のレコーディングに向けて、アレンジを仕上げてもらいたい。それぞれが、自分の役割に集中すべきだ」 正論だった。響は何もいえない。プロデューサーの指示に従うのは当然のことだ。しかし、胸の奥で警鐘が鳴り響いていた。 その夜、響は一人でホテルの部屋にいた。ルームサービスで頼んだハンバーガーも、半分しか食べられなかった。冷えたフライドポテトが、皿の上で油を吸っている。その光景が、自分の心境を表しているようで、響は苦笑した。テレビをつけても、英語のニュースやドラマが理解できず、すぐに消してしまった。窓の外では、ロサンゼルスの夜景が煌めいている。無数の光が、まるで地上の星のようだ。でも、その美しさも響の心を慰めてはくれない。東京の夜景とは違う、異国の光。その一つひとつが、自分には関係のない他人の生活

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