LOGIN孤独を抱える作曲科の学生・篠原響は、高校時代のトラウマから「同性しか愛せない自分は気持ち悪い」と思い込み、ひとり静かに作曲だけを続けていた。 そんな響の前に現れたのが、声楽科に通う明るく情熱的なシンガー・藤堂晴真。 晴真は偶然耳にした響の曲に心を奪われ、「この歌を、俺に歌わせてくれ」と迫る。 人懐っこく、真っ直ぐにぶつかってくる晴真に、響は戸惑いと恐怖を覚える。 けれど同時に、誰にも触れさせなかった心を揺さぶられていく。 やがて二人は共に音楽を作り始めるが、周囲の目は厳しかった。 「普通じゃない」と陰口を叩かれ、プロデューサー・鷲尾誠司からは「売れる歌を作れ」と圧力をかけられる。
View More四月の夕暮れは、いつも灰色の帳に包まれていた。
篠原響は小さなワンルームマンションの一室で、鍵盤に指を這わせていた。窓の外では桜の花びらが舞い落ち、新入生たちの歓声が遠く聞こえてくる。春の訪れを祝う声、友人たちと肩を組んで歩く足音、恋人同士の笑い声――それらはすべて、響の部屋には届かない。厚いカーテンは閉ざされ、室内を照らすのは電子ピアノとパソコンのモニターが放つ冷たい光だけだった。
指が鍵盤を叩くたび、旋律が生まれる。それは誰にも聴かせるつもりのない、響だけの言葉だった。高音から低音へと滑り落ちるアルペジオは、心の底に沈んだ孤独を掬い上げるように鳴り響く。和音が重なり、不協和音もやがて切なく解決していく。ハ短調からヘ短調へと転調し、まるで迷い込んだ魂が出口を探すように旋律は彷徨う。この瞬間だけは、響は自分が存在していいのだと思えた。音楽だけが、響の心を受け入れてくれる。
「……これで、いいんだ」
言を呟いて、響は保存ボタンを押す。パソコンの画面には、無数の音符が並んでいた。DAWソフトに打ち込まれた音楽は、完璧に整えられているはずなのに、どこか欠けているような気がする。まるで、響自身のように。
響は細い指で黒髪を掻き上げ、深い溜息をついた。猫背気味に椅子に座る響の影が、壁に大きく映っている。その影さえも、孤独を象徴しているようだった。部屋にはコーヒーの冷めた匂いと、埃っぽい空気が漂っている。エアコンの音だけが、単調なリズムを刻んでいた。
携帯電話が震えた。画面には母からのメッセージが表示されている。
『今日は帰ってくる? ご飯を作って待っているわよ。響の好きなハンバーグにしようかしら』
響は既読をつけたまま、返信しなかった。実家に帰れば、母は優しく微笑み、温かい食事を用意してくれる。けれどその優しさの奥に、いつも同じ言葉が潜んでいることを響は知っていた。
「普通に、幸せになってほしいの」
普通――その言葉が、響の胸を締め付ける。
母にとっての「普通」とはなにか。それは、異性を愛し、家庭を持ち、社会に溶け込んで生きること。母は悪気なくそう信じている。けれど響は、その「普通」から外れた存在だ。同性にしか恋愛感情を抱けない自分は、母の望む「普通」にはなれない。そしてそして響自身も、自分が『普通じゃない』ことから、異常で気持ち悪い存在だと思い込んでいた。
響は椅子から立ち上がり、小さな冷蔵庫を開けた。中にはコンビニ弁当とペットボトルの水が数本。賞味期限が迫ったサラダと、半分だけ残ったおにぎり。食欲はなかったが、なにか口にしなければ倒れてしまいそうだった。
響は冷たいおにぎりを頬張りながら、響はふと、高校時代の記憶に引きずり込まれた。
あれは三年前の春だった。
響は音楽室で、いつものようにピアノを弾いていた。放課後の静かな時間。部活動の声が遠くから聞こえてくるが、音楽室には誰もいない。響は心のままに旋律を紡いでいた。ショパンの夜想曲を弾いたあと、自分で作った曲を即興で演奏する。それは誰にも明かしたことのない、響だけの秘密の時間だった。
そこへ、クラスメイトの男子が入ってきた。名前は思い出したくなかった。彼は穏やかな笑顔で響に話しかけ、響の演奏を「綺麗だね」と褒めてくれた。響は嬉しくて、もっと彼に聴いてほしくて、何度も音楽室で二人きりになった。彼は真面目で優しく、響の話をいつも聞いてくれた。音楽のこと、将来の夢のこと、好きな作曲家のこと――響は初めて、誰かと心を通わせている気がした。
やがて響は、自分の中にある感情が「友情」ではないことに気づいた。胸が高鳴り、視線が追いかけ、触れたいと思う――それは、恋だった。
響は怖かった。同性に恋をするなんて、おかしいことなのではないか。けれど、この気持ちを抑えることはできなかった。彼と一緒にいると、響の心は音楽を奏でているように躍動した。だから響は、勇気を出して告白することにした。
告白したのは、卒業式の前日。
音楽室で二人きりになったとき、響は震える声で言った。
「俺、お前のことが好きだ」
彼は一瞬、驚いたような顔をして、それから――笑った。
「え、冗談だろ? 男が男を好きとか、気持ち悪いって」
その言葉が、響の心に深い傷を残した。
「ごめん、俺そういうの無理だから。マジで気持ち悪い。ホモとか、ありえないし」
彼はそう言い残して、足早に音楽室を出ていった。響は膝から崩れ落ち、鍵盤に額を押し付けて泣いた。ピアノの冷たい感触だけが、響を支えてくれた。涙が鍵盤の上に落ち、白と黒の境目を滲ませた。響は声を殺して泣いた。誰にも聞かれたくなかった。この痛みさえも、響だけのものだった。
翌日の卒業式には、噂は学校中に広がっていた。
「篠原って、ホモなんだって」
「マジで? キモ……」
「近寄んないほうがいいよ。俺らも狙われるかもしれないし」
「音楽室で告白したらしいよ。マジで引くわ」
誰も響に話しかけなくなった。廊下ですれ違えば、クラスメイトは露骨に距離を取った。机の中には「気持ち悪い」と書かれたメモが入れられていた。響は耐えた。ただ耐えた。音楽だけが、響を救ってくれた。
卒業式の日、響は誰にも見送られることなく、ひとり校門を出た。桜の花びらが舞い落ちる中、響は振り返らなかった。もう二度と、誰にも心を開かないと決めた。同性を愛する自分は、異常で、気持ち悪くて、誰にも受け入れられない――そう思い込むことで、響は自分を守ろうとした。
おにぎりの味がしなかった。
響は無理やり飲み込み、水で流し込んだ。喉が痛い。心も痛い。響はパソコンの前に戻り、ヘッドホンを装着した。自分の作った曲を再生する。旋律が耳を満たすが、どこか虚ろだ。響は目を閉じた。
あの日から、響は決めたのだ。もう誰にも心を開かない。音楽だけが、響の居場所だ。
大学に入ってからも、響はひとりだった。作曲科の学生として、課題の楽曲を提出し、教授からは「才能がある」と評価された。けれど響は、自分の音楽を誰かに聴かせたいとは思わなかった。この音楽は、響の孤独そのものだ。響の痛みであり、叫びであり、誰にも見せたくない、心の一番奥だ。誰かに触れられたら、また傷つけられるだけだ。
響は同級生との交流も最低限にした。挨拶はするが、それ以上は踏み込まない。昼食はひとりで食べ、講義が終わればすぐに帰宅する。友人を作ろうとも思わなかった。友人ができたら、また自分の秘密を隠さなければならない。恋愛の話になったら、嘘をつかなければならない。それが耐えられなかった。
夜が更けていく。響は再び鍵盤に向かい、新しい旋律を紡ぎ始めた。短調のメロディが、静かに部屋を満たしていく。それは誰にも届かない、響だけの叫びだった。
窓の外では、街の灯りが煌めいている。どこかで誰かが笑い、どこかで誰かが愛を語らっている。けれど響には、その光は届かない。響はただ、暗闇の中で音楽を奏で続ける。それが、響の生きる意味だった。
翌日、響は大学の音楽棟へ向かった。
平日の午後、講義の合間に響が使える練習室は限られている。作曲科の学生は基本的にパソコンで作業することが多いが、響はやはりピアノの前に座りたかった。鍵盤に触れると、音が自分の体を通って生まれるような感覚がある。それは、生きている証のようなものだった。電子ピアノでは得られない、生のピアノの響き。弦が震え、木が共鳴し、音が空気を伝わっていく――その感覚が、響には必要だった。
音楽棟は五階建ての古い建物で、各階に小さな練習室がいくつも並んでいる。廊下にはワックスの匂いと、どこからか聞こえてくるヴァイオリンの音色が漂っていた。響は三階の奥にある小さな練習室に入った。ここは人気が少なく、めったに誰も使わない。防音扉を閉め、鍵をかける。誰にも邪魔されない空間。ここだけが、響の聖域だった。
部屋の中には、アップライトピアノが一台だけ置かれている。古いピアノで、鍵盤には傷があり、調律も完璧ではない。けれど響はこのピアノが好きだった。誰にも愛されず、ただそこにあるだけのピアノは、まるで響自身のように思えた。
響は椅子に座り、鍵盤に指を置く。深呼吸をして、目を閉じる。心を静め、音楽だけに集中する。埃っぽい空気と、古い木材の匂い。窓の外からは、かすかに鳥の囀りが聞こえてくる。
響の指が動き始めた。
最初は静かなアルペジオ。それが次第に高揚し、和音が重なっていく。旋律は波のように揺れ、時に激しく、時に囁くように優しい。響の心の中にある、言葉にできない感情のすべてが、音となって溢れ出していく。
孤独、痛み、恐怖――そして、誰かに愛されたいという切ない願い。
響は夢中で弾き続けた。時間の感覚が消え、ただ音楽だけが存在する。響の指は鍵盤を這い、旋律は部屋中に響き渡る。それは誰にも聴かせるためのものではなく、響だけの祈りだった。
どれくらい弾いていただろう。
ふと、響は背後に気配を感じた。
心臓が跳ねる。響は演奏を止め、ゆっくりと振り返った。
そこには、見知らぬ男が立っていた。
響は息を呑んだ。いつの間に入ってきたのか――いや、鍵をかけ忘れたのか。男は扉の前に立ち、じっと響を見つめていた。その目は、なにかに打たれたように見開かれていた。
「……誰?」
響の声は震えていた。喉が渇き、言葉がうまく出てこない。
男は、ゆっくりと微笑んだ。
「ごめん、扉が開いてたから。でも……すごかった」
男は長身で、茶色の髪を無造作に撫でつけていた。爽やかな笑顔が印象的で、目が少し細められている。カジュアルなシャツとジーンズ姿で、どこか華やかな雰囲気を纏っていた。日焼けした肌、自信に満ちた佇まい――響とはまるで正反対の存在だった。まるで、別世界から迷い込んできた太陽のような人間だった。
「今の曲、お前が作ったの?」
響は答えられなかった。喉が渇き、心臓が早鐘を打つ。見知らぬ誰かに自分の音楽を聴かれた――それが、怖かった。自分の心の奥底を覗かれたような気がして、響は体を強張らせた。
「出てって」
響は立ち上がり、男に背を向けた。荷物をまとめなければ。この場を離れなければ。指先が震えて、楽譜をうまく掴めない。
「待って。名前、教えてくれないか? 俺、藤堂晴真っていうんだけど」
「……知らない。帰って」
響は鍵盤の蓋を閉め、荷物をまとめ始めた。けれど男――藤堂晴真は、諦める様子がなかった。
「なあ、お前の曲、もっと聴きたい。すごく良かった。心が震えた」
心が震えた――その言葉が、響の胸を刺す。
「……」
「俺、声楽科なんだ。歌ってるんだけど、お前の曲みたいな音楽を探してた。ずっと探してた」
藤堂の声は真剣だった。冗談を言っているようには聞こえない。けれど響は、信じることができなかった。きっとまた裏切られ、気持ち悪いと言われてしまうだけだと思った。過去の傷が、鮮明に蘇ってくる。
響は荷物を抱え、藤堂の横を通り過ぎようとした。けれど藤堂は響の腕を掴んだ。その温もりに、響の体は固まった。
「待ってよ。お願いだから、もう一度聴かせてくれ」
「触らないで!」
響は振りほどき、扉を開けて飛び出した。廊下を走り、階段を駆け下りる。心臓が張り裂けそうだった。背後から藤堂の声が聞こえたが、響は振り返らなかった。ただ逃げた。音楽棟を出て、キャンパスの隅にあるベンチに座り込む。
息が荒い。手が震えている。春の風が頬を撫でるが、響には冷たく感じられた。
「……どうして」
響は顔を覆った。
なんで、聴かれてしまったんだ。あの音楽は、響だけのものだったのに。誰かに聴かれたら、また傷つけられる。また、気持ち悪いと言われる。響の音楽は、響の孤独そのものだ。それを誰かに見せることは、響の傷をさらけ出すことだ。
「お前の曲、すごかった」
藤堂晴真の言葉が、頭の中で反響する。
響は首を振った。信じてはいけない。また裏切られるだけだ。響は、ひとりでいるべきなのだ。音楽だけが、響を裏切らない。
響はベンチに座ったまま、空を見上げた。桜の花びらが舞い落ちている。春の風が、響の頬を撫でる。けれど響には、その温もりが感じられなかった。遠くで笑い声が聞こえる。キャンパスのどこかで、誰かが楽しそうに話している。けれどその声は、響には届かない。
その後数日間、響は練習室に足を運ぶことはなかった。
部屋に閉じこもり、パソコンの前で作曲を続ける。けれど、どうしても集中できなかった。藤堂晴真の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。あの真剣な目、あの笑顔、あの声――すべてが、響の心を揺さぶる。
「心が震えた」
そんな言葉を、誰かに言われたのは初めてだった。
響は頭を振り、ヘッドホンを装着した。自分の作った曲を再生し、目を閉じる。旋律が耳を満たすが、どこか物足りない。なにかが足りない。
いや、違う。
足りないのは――誰かに聴いてもらうことなのかもしれない。
響は、その考えを振り払った。そんなことを考えてはいけない。また傷つけられるだけだ。
けれど、心の奥底で、小さな声が囁く。
「もう一度、あの人に聴かせてみたい」
響は顔を覆った。駄目だ。そんなことを考えてはいけない。鍵盤に指を置くが、音は鳴らなかった。なにも弾けなかった。
日本への帰国便の中、響たちは信じられない知らせを受けた。 キャビンアテンダントが慌ただしく近づいてきて、「皆様がニュースになっています」と告げた。機内WiFiで確認すると、世界中のメディアが一斉に報じていた。『Resonating Hearts』がビルボード総合アルバムチャートで一位を獲得したという、日本のアーティストとして史上初めての快挙だった。 さらに、同時に世界十数か国のチャートでも一位を記録した。これは、ビートルズ以来の偉業だといわれている。 成田空港に降り立つと、想像を超える光景が待っていた。 到着ロビーは報道陣とファンで埋め尽くされ、凄まじい熱気に包まれている。警備員が必死に通路を確保しているが、人々の興奮は抑えきれないようだった。フラッシュの光が絶え間なく瞬き、歓声が空港中に響き渡る。 急遽設けられた記者会見場も、立ち見が出るほどの盛況だった。世界的な成功を収めたRESONANCEへの注目度の高さがうかがえた。「世界一位の感想は?」 記者の質問に、響が答える。マイクを持つ手が、かすかに震えていた。「正直、まだ実感がありません。でも、音楽に国境はないということを証明できて、本当に嬉しい。応援してくださったすべての方に、心から感謝しています」「今後の活動予定は?」 晴真が答える。その声には揺るぎない自信が感じられた。「まずは感謝の気持ちを込めて、国内ツアーを行います。そして世界で得た経験を生かし、さらに進化した音楽を作っていきたい」 その後、久しぶりに自分たちのスタジオに戻った四人は、改めて今回の成功を噛みしめていた。 見慣れたスタジオが、なぜか新鮮に感じられる。ここから世界に飛び立ち、そして戻ってきた。同じ場所なのに、違って見えるのは、自分たち自身が変わったからかもしれない。「信じられねぇな」 北川がギターを抱えながらいう。「俺たちが世界一だなんて」「でも、まだこれがゴールじゃない」 田中がスティックを回しながらいう。「むしろスタートラインに立った
デビュー後に行われたワールドツアーは大成功を収めていた。 ロンドンのO2アリーナ、ベルリンのメルセデス・ベンツ・アリーナ、ローマのパラロットマティカ、マドリードのウィズィンク・センター……どの都市でも、会場は熱狂の渦に包まれた。観客は英語の歌詞は一緒に口ずさみ、日本語の曲でもリズムに合わせて体を揺らしながら楽しんでいた。 音楽に国境はない――その言葉を、響は身をもって実感していた。 パリ公演を終えた夜、響と晴真は二人でセーヌ川沿いを歩いていた。 ライブの興奮がまだ体に残っている。アンコールで演奏した新曲に、パリの観客が総立ちになった光景が、まぶたの裏に焼き付いている。 石畳の道は、街灯のオレンジ色の光に照らされて温かく輝いている。古い石の表面に刻まれた無数の傷が、何世紀もの歴史を物語っていた。川面にはライトアップされたエッフェル塔が映り込み、その光が水の流れと共に揺らめいて、まるで生きた絵画のようだった。ノートルダム大聖堂の鐘が、遠くで厳かに時を告げている。 晴真が突然立ち止まった。 ポン・ヌフ橋のたもと、セーヌ川が最も美しく見える場所だった。その横顔は、街灯の光を受けて神秘的に見える。瞳には、今まで見たことがないような決意と、そして緊張が宿っていた。「響」 名前を呼ぶ声が、夜の静寂に染み込んでいく。川面を渡る風が、二人の髪を優しく撫でた。「どうしたの? 急に立ち止まって」 響が心配そうに晴真の顔を覗き込むと、晴真は深く息を吸った。その胸が大きく上下するのが見える。まるで、これから人生で最も重要な瞬間を迎えるかのような緊張感が、全身から放たれていた。「ここまで来られたのは、お前のおかげなんだ」 晴真は響の両手を取った。その手のひらは汗ばんでいて、微かに震えている。響は晴真がこんなに緊張しているのを見たことがなかった。ステージで何万人の前で歌う時でさえ、こんな表情は見せたことがない。「あの日、音楽棟の練習室で初めてお前の曲を聴いた瞬間、俺の世界は完全に変わった」 晴真の声が、感情を押し殺すように震えている。「
マイケルの件が片付いてから、レコーディングは驚くほど順調に進んだ。 まるで重い鎖から解放されたように、晴真の声は本来の輝きを取り戻していた。スタジオに響く歌声は、以前よりもさらに深みを増し、聴く者の魂を震わせるような力を持っていた。 ジェシカのプロデュースは的確で、RESONANCEの持つ可能性を最大限に引き出していた。彼女は音楽の技術的な側面だけでなく、メンバーの心理状態にも細やかに配慮していた。「あなたたちの音楽の強みは、その感情の純粋さよ」 ミキシングルームで、ジェシカは完成間近のマスター音源を聴きながら語った。巨大なミキサー卓の無数のフェーダーとノブが、まるで宇宙船のコックピットのように複雑に並んでいる。モニターから流れる音は、これまでのRESONANCEを超えた、新しい次元に達していた。 低音の深み、高音の透明感、そして何より、聴く者の心に直接語りかけるような感情の波。それは音楽を超えた、何か神聖なものさえ感じさせた。「技巧に走らず、心の叫びをストレートに表現する。それが言語の壁を越えて、世界中の人々の心に響く理由」 ジェシカの言葉に、響は深く頷いた。音楽の本質とは、結局のところ、人と人の心を繋ぐことなのだ。 アルバム『Resonating Hearts』には全十二曲が収録されている。日本語版と英語版の両方が収められた意欲作だ。曲順も丁寧に計算されており、聴く人を一つの物語へと引き込む構成となっている。特に英語版の歌詞は、晴真の発音の良さが引き立ち、ネイティブスピーカーでも違和感なく聴くことができるクオリティに仕上がった。 最終マスタリングの日、メンバー全員がコントロールルームに集まった。エンジニアが最後の調整を終え、「これで完成です」と告げた瞬間、自然と全員から拍手が沸き起こった。 リリース前夜、響はホテルの自室で眠れずにいた。 ベッドに横たわっても、興奮と不安で目が冴えている。窓の外には、ロサンゼルスの夜景が宝石をちりばめたように広がっている。無数の光が瞬く街を見下ろしながら、これから起こることへの期待と不安が入り混じった感情に襲われていた。 自分たちの音楽が、世界中の
朝のロサンゼルスは、薄い霧に包まれていた。 スタジオへ向かう道すがら、響は昨夜の晴真の言葉を噛みしめていた。「マイケルがまた現れて、執拗に付きまとってくる」――晴真の疲れ切った声が、胸の奥で重く響いている。 スタジオの入り口に着くと、いつもと違う雰囲気が漂っていた。黒塗りの高級車が数台停まり、スーツ姿の人々が行き交っている。朝の柔らかい光の中で、その光景はどこか現実味がなく、非日常的に映った。 入り口でジェシカが深刻な表情で誰かと話し込んでいる。相手は見慣れない初老の男性――グレーのスーツを着た、威厳のある人物だった。その肩幅の広さと真っすぐな背筋は、長年権力の中枢にいる人間特有の存在感を放っている。隣には、レーベルの上層部と思われる数人が控えていた。「響、おはよう」 男性が響に気づいて声をかけてきた。落ち着いた、しかし有無をいわせぬ重みのある声。それは優しさと厳格さを同時に含んでいて、響は思わず背筋を正した。「はじめまして。私はデイビッド・ハリスです。このレーベルで西海岸の統括責任者を務めています」 差し出された手は、大きくて温かかった。握手をしながら、響はこの人物が只者ではないことを直感的に理解した。デイビッドはジェシカやマイケルの上司にあたる人物だ。普段はニューヨーク本社にいるため、ロサンゼルスに来ることはほとんどない。その彼がわざわざ現れたということは、よほど深刻な事態なのだろう。 朝の空気が、急に重くなったように感じられた。「何かあったんですか?」 響の問いに、ジェシカが疲れた表情で答えた。その瞳の下には、薄くくまができている。昨夜遅くまで、この件で動いていたのだろう。「マイケル・ジョンソンのことよ」 響の胸がざわつく。昨夜、晴真から聞いた話が頭をよぎった――またマイケルがスタジオに現れて、「上層部から意見を求められている」と言い訳をして晴真に付きまとっていたという。晴真の震えていた声、疲れ切った表情が、鮮明に蘇る。「実は、私から正式に苦情を申し立てたの」 ジェシカの声には、普段の穏やかさはなく、プロフェッショナルと