五月に入ったばかりという今日、まだ梅雨ではないけれど、外はあいにくの雨模様だった。
「ごめんなさい、孝夫さん。今日は月に一度の委員会活動の日で残業なの」 私の勤め先の青葉小学校では、毎月大体第四月曜日の五時間目が、各委員会の定例集会になっている。 校内にいくつもある様々な委員会所属の五・六年生たちが、各々定められた場所へ集まってイベントの取り決めをしたり、日々の反省会をしたり……。月によってやることはまちまちだ。 私が担当する図書委員会の児童らは、図書室に集まって定例会をする。 基本的には教員免許を所持している司書教諭の白石先生が主体になって議事進行をなされるのだけれど、図書委員会では学校図書館司書の私も白石先生の補佐として委員会活動に参加するのがずっと続いてきた習わし。 今年度初の委員会活動は年度はじめでバタバタしていた絡みで、四月が飛んだから、第一月曜日の今日が委員会活動に割り当てられていた。 年間行事予定表へ視線を落としながら夫の孝夫さんに声を掛けたら「はぁ? 何で今日。いつも月末辺りだっただろ」と、あからさまに溜め息を落とされる。 さすがに頭のいい人だ。委員会活動が大体第四月曜日に開かれていたことを覚えているみたい。 「今回は年度初めでごたついていて、四月の第四月曜日に出来なかったから今日になったの」 ごめんなさい、と付け加えながら答えたら、「ふーん。……で、俺の夕飯はちゃんと支度して出るんだろうな?」と返ってきた。それはある意味想定の範囲内の質問だったから、私は電子レンジの中へワンプレーと料理が用意してある旨を告げる。 「申し訳ないけど電子レンジで温めてもらえますか?」 炊飯器は孝夫さんのいつもの帰宅時刻に合わせて仕掛けておいたから、炊き立てのご飯も食べられるはず。 「はぁ? わざわざ疲れて帰ってきた亭主に飯、温めて食えって言うのかよ? すっげぇ面倒くせぇんだけど!? あー、もういいや! それお前が食えよ。俺、外で食って帰るから」 チッと舌打ちして「ホント使えねぇ女」とわざと聞こえるように私を罵ってから、「あー、あと。お前がいなくてもクソ犬が騒がねぇようにしっかり躾けとけ。ホントあいつ、お前がいないってだけでうるさくて仕方ねぇ」と付け加えてくる。 「はい……。ごめんなさい」 ケージの中、良い子にお座りをしてこちらをじっと見つめているうなちゃんを忌々しそうに睨み付ける孝夫さんの視線に、私は胸がギュッと締め付けられた。 (もしかして……私がいない間にうなちゃん、孝夫さんに虐待されたりしてないよ……ね?) そんなことはないと信じたいけれど、ちょっぴり不安になった。このところ、休日でも家にいることなんて滅多になかったのに。 私がいなかったからかな。玄関を開けると、 孝夫さんがいつも仕事履きにしている黒い革のストレートチップシューズが乱雑に脱ぎ捨てられていた。 昨日はこの横へ、まるで恋人みたいに寄り添って脱がれていた艶のあるローズベージュのエナメルパンプスは、今はもうない。 でも……嗅ぎ慣れない余ったるい香水の香りはまだ室内を満たしていて、私は思わず吐きそうになる。 咄嗟に鼻先を覆って気持ち悪さを逃す私のそばで、うなちゃんが心配そうにこちらを見上げている。 『ごめんね、うなちゃん、大丈夫だよ』 囁くようなか細い声音とともに、うなぎに微笑み掛ける。 リビングの方からは、テレビの音が漏れてきていたから、少々声を出したところで問題なんてなかったかもしれない。 私は孝夫さんの靴から極力離した位置にスニーカーを脱ぐと、うなちゃんのリードの持ち手部分の輪っかを玄関のドアハンドルに引っかける。 もし万が一、今から私が切り出す話で、孝夫さんの機嫌が悪くなって……その怒りの矛先がうなちゃんに向いたりしたら大変だと思ったからだ。 「ただいま……」 ここへ戻る気なんてさらさらないけれど、癖というのは抜けないもの。 私はリビングの扉を開けると同時に、そう言ってしまっていた。 扉を開けるとすぐ、テーブルに空き缶や菓子袋が散らかったままになっていて、ソファに寝そべった孝夫さんが、映し出される番組なんて微塵も興味なさげにリモコンを弄っている。 そんな彼が、私の姿を認めた途端ゆっくりと目を細め、口の端を歪めた。 「……穂乃の癖に朝帰りとはずいぶんなご身分だな」 皮肉を含んだ声とともに、孝夫さんは立ち上がり、リビング入り口に立ち尽くしたままの私の腕を乱暴に掴んだ。 「きゃっ……!」 抵抗する間もなくソファへ引き倒され、上から重い体重がのしかかる。 「孝夫さんっ!?」 何が起こっているのか分からなくて彼のなを呼んだ私の襟ぐりを、彼は無造作にぐいっと引き下げた。首筋を食い入るように見つめ、指先が肌を荒々しく探る。 「や、っ……」 「……ふん。さすがに痕跡残すほどお前もバカじゃないか」 孝夫さんが何を言っているのかさっぱり分からない。 それより何より彼から色濃く漂う甘ったる
小さなメモを手に取る。 昨夜、梅本先生が「もしもの時に」と書き置いていってくれた電話番号。 しばらく考えたのち、私はその番号をスマートフォンに【梅本先生】として登録した。 そうしてショートメッセージの画面を開けて、梅本先生宛にメッセージを打ち込んでいく。 『色々と有難うございました。 ヨーグルトとお薬をいただきました。 今からマンションに戻って、夫と話し合いをしてきます。 桃瀬』 打ち終えた文面を見つめ、しばらく躊躇った。 けれど、通話ボタンに指を伸ばせない以上、メッセージくらいは送っておくべきだ。 声を聞いてしまえば――きっと、甘えてしまう。孝夫さんと向き合うのが怖くなってしまう。 だから、短い文字だけを送信した。 スマートフォンを片手に難しい顔をしていたからかな? うなぎが私の横へおすわりをして、不安そうにこちらを見つめてきた。 「うなちゃんのご飯もお家に戻らなきゃないもんね?」 眉根を寄せて頭を撫でる私に、うなちゃんが「くぅーん」と甘え鳴きを返してくれる。 温かいうなちゃんの手触りに、私はほんの少しの勇気を分けてもらった。 体調はまだ整っていない。きっと薬を飲んでいるからなんとか起き上がっていられるけれど、気を抜いて仕舞えば倒れてしまいそうな気がした。 うなぎにハーネスとリードを取り付けると、「お散歩ですか?」とうなちゃんがしっぽをパタパタと振って私を見上げてくる。私はそんなうなちゃんを見下ろして深呼吸をひとつ。 ドアへ向けてゆっくりと歩き出すと、扉へ手をかけた。 扉の外へ出て、 (あ、鍵……) ごく当たり前のことに今更のように気が付いてキョロキョロと辺りを見回したらドアと一体化になったドアポストが目に入る。 (もしかして) 思ってドアを再度開けて内側についた郵便受けを開けると鍵がポツンと入っていた。 昨日お借りしたものみたいにキーホルダーが付いていないところを見るとスペアキーかな? (ってことは梅本先生も鍵、ちゃんと持っていらっしゃるよね?) この鍵を使って再度ドアに鍵を掛けたとして、今みたいにキーをドアポストに落としても大丈夫かな? ふと不安になった私は、ドアを施錠したまま鍵を片手に固まってしまう。 「うなちゃん、コレ、どうするのが正解?」 裸の鍵を手
ほのかな光をまぶた越しに感じて、私はゆっくりと目を開けた。 熱のせいか頭はまだ重く、視界もかすんでいる。……というよりこの見えなさ具合は。 (め、がね……) 見慣れない天井を霞む視力のまま見上げて、細い糸を撚り合わせるように記憶を手繰り寄せる。 そうしてハッとした。 (あ、私、昨夜梅本先生の家にっ) 慌てて身体を起こして辺りをキョロキョロと見回してみたけれど、人の気配はない。 私が起き上がった音で目を覚ましたのか、ベッドサイドで丸くなっていた愛犬うなぎらしき黒い生き物が、私のそばまで来た。 (眼鏡……) 薄らぼんやりとそれがうなちゃんであることは理解できたけれど、レンズ越しでないと焦点がブレる。キョロキョロと周囲を見回しながら手探りでベッド脇のそば机に手を伸ばした私は、触れ慣れたフレームの感触を探り当てた。 多分、昨夜は梅本先生と話している間に寝落ちしてしまったんだろう。そのあたりの記憶が曖昧だ。眼鏡も外した覚えはないけれど、ちゃんと綺麗に折り畳まれた状態で置かれていたことに胸がじんわり熱くなる。きっと梅本先生が気を遣って、そうしてくださったに違いない。 眼鏡をかけて視界がはっきりすると、私の横にお座りをして尻尾を振っているうなちゃんのキラキラの瞳と目があった。 「うなちゃん、おはよう」 可愛いうなちゃんの顔を見て安心したのも束の間、部屋の静けさに違和感を覚える。そもそも、私が梅本先生のベッドを占拠してしまっていた。家主の彼はどこで寝ていらっしゃるんだろう? 「……梅本先生?」 呼びかけても返事はなく、熱で少しふわふわする身体を支えながらリビングへ足を運ぶと、テーブルの上に紙袋と一枚のメモが置かれていた。 震える指でそれを手にしてみれば、整った字で手紙が認められていた。書かれた文字は、あの強面の梅本先生がお書きになったと思うとどこかアンバランスにも感じられるとても繊細で几帳面な文字。おまけに文面がどこまでも丁寧な上に真面目で、見た目の怖さとの落差にちょっぴりギャップ萌えを覚えるほど。 『おはようございます。 テーブルの袋には塩バターロールと紅茶のティーバッグ、冷蔵庫にサンドイッチとヨーグルト、牛乳と麦茶を入れてあります。 何か口にしてから薬を飲んで、ゆっく
(寝ちまったな……) スースーと寝息を立てる桃瀬先生を見下ろしながら、俺はそっと彼女へ腕を伸ばした。 途端、桃瀬先生のすぐ横へ寄り添っていた犬がじっとこっちを見てくる。まるで「なにをするつもり?」とでも言いたげなその視線に、 「……ベッドに寝かせるだけだ。心配すんな」 言い訳するみたいにそう小声で言うと、うなぎは小さく尻尾を振った。 うなぎは案外俺のことを信頼できる相手と思ってくれているのかもしれない。 俺はそんなうなぎに小さく頷いてみせると、意識を手放した桃瀬先生の身体をゆっくりと抱き上げ、奥の寝室にあるベッドへと運ぶ。 (軽いな……) 小柄ではあるけれど、これほど軽いとは思っていなかった。 抱き上げた瞬間「ん……」と一言つぶやいて眉根を寄せた桃瀬先生を起こさないよう気を付けながら寝室へ運ぶと、足で掛け布団を器用にはぐってから彼女を横たえる。 なるべく刺激を与えないよう気を付けながら布団を掛け、ついでのように額へ軽く触れて熱の様子を確かめると、眼鏡が少しずれているのに気づいた。 (掛けっ放しは危ねぇか) そっと外して、ベッド脇の小さなテーブルに置いてやる。 (ここに置いときゃ、朝になっても困らねぇだろ) 俺は静かに部屋を出た。 リビングのテーブルを軽く片付けると、そこへ袋を置く。中にはさっきコンビニで買ってきた塩バターロールと紅茶のティーバッグが入っている。 俺はそこへ短いメモを添えた。 『おはようございます。 テーブルの袋には塩バターロールと紅茶のティーバッグ、冷蔵庫にサンドイッチとヨーグルト、牛乳と麦茶を入れてあります。 何か口にしてから薬を飲んで、ゆっくり休んでください。 今夜はシティホテル【プレイス】に泊まります。 必要なときは遠慮なく連絡してください。 090-****-×××× 梅本』 メモをしたためたら何となく丁寧口調になって、なんだかおかしくなってしまった。 (お願いします、とか……我ながら堅苦しいな。ま、けど……あんま、砕けたメモを残すのもな……) 旦那が浮気しているからと言って、彼女を同じ土俵には立たせたくない。 さすがに自分たちにその気はないと言っても、大人の男と女だ。人妻とひとつ屋根の下というのは、あらぬ誤解を与えても仕方
リビングに戻ると、うなぎが尻尾を振りながら迎えてくれた。私はその隣に腰を下ろし、梅本先生と二言三言、取り留めもない話をする。 「ほら、買ってきたの、食べて?」 おにぎりを差し出しながらそう勧められたけれど、食欲がなくてフルフルと首を横に振ったら「こっちなら食えそう?」とプリンを渡された。 私はそれもあまり食べたい気分ではなかったけれど、何から何まで固辞してしまうのは申し訳ないと思って小さく頷いた。 梅本先生に渡されたスプーンでちょっとずつプリンをすくっては口に運ぶ。 冷たくて甘い。つるんとしているからか、思ったよりスルリと喉を滑り落ちてくれてホッとする。 「ごめんな。ホントはあんま食欲ねぇんだろ?」 言いながら、梅本先生が解熱鎮痛剤を私の前へ置いてくれた。 「けど……なんか食ってからじゃねぇと薬も飲めねぇだろ?」 言われて、不意に額へ触れられた私はびっくりしてしまう。 「熱、かなり高そうだから」 うなちゃんがそんな私たちの様子をキョトンとした表情で眺めている。 「しんどくなけりゃー飲む必要ねぇけど……もし辛いようなら飲んで?」 悪びれた雰囲気なんて微塵もない様子の梅本先生に、彼は私をただ純粋に心配してくれているだけだと反省した。 (孝夫さんにもこんな風に心配されたことなかったからドキッとしちゃった) 別に下心があってのボディタッチではない。変に意識してしまった自分が何だか恥ずかしかった。 「頭も痛いので……飲みます」 「了解」 私の言葉に、梅本先生はスッと立ち上がるとウォーターサーバーから冷水をコップに注いで持って来てくれる。 「これで飲んで?」 錠剤とともにグラスを差し出された私は、お礼を言って薬を飲んだ。 「今日は……私が急に帰ったりしたから……いけなかったんだと思い、ます……」 いつも通り定時に帰っていればきっと……あんなシーンを見せつけられることはなかっただろう。 うつらうつらと意識が遠のきそうになるのを懸命にこらえながら話す私に、梅本先生が「桃瀬先生に落ち度なんてないだろ」と即座にフォローを入れてくれる。 「でも……」 「どんな状況だろーと浮気する奴が悪い」 その声にはやたらと実感がこもっているように思えて……もしかして梅本先生も被害者? と思ってしまう。 「うめ、もと……セ
「別に攻めてるわけじゃない。さっきから謝り過ぎ」 梅本先生に促されて、私は再度彼の部屋にお邪魔した。 それと同時、浴室から軽快なメロディとともに、『お湯張りが終了しました』というアナウンス。 「熱もあるし、本当は入らない方がいいんでしょうけど……サッと身体を温めてこれに着替えてきて?」 わざわざ食べ物と、そうでないものに分けて袋詰めしてもらったのかな? 大きい方のコンビニ袋を渡された私は、梅本先生に促されて脱衣所へ入った。 「扉、一応鍵も掛かるんで……」 言って、戸棚から洗い立てのタオルなどを準備して下さった梅本先生が、脱衣所の扉を閉めながらそう声を掛けてくる。 「あ、はい……、すみ……」 すみません、と言いそうになって、さっき〝謝り過ぎ〟と言われたことを思い出した私は「ありがとうございます」と付け加えて扉に施錠をさせていただいた。 梅本先生が扉の傍を離れていく足音に続いて、うなちゃんのカチャカチャいう爪音が遠ざかっていく。 孝夫さんと一緒の時には決して私の傍を離れようとしなかったうなちゃんが、梅本先生にはもう懐いているんだ。そう思うと、少しだけ肩の力が抜ける。 ほうっと吐息を落とした私は、思い出したように梅本先生にお借りしたトレーナーと、濡れたままの自分の服を脱いで、曇った眼鏡を外した。 眼鏡は雨粒で汚れていて、視界がぼんやりしていたのは熱のせいばかりじゃなかったのかも? と思う。 せっかくお湯を張って下さったけれど、お家にお邪魔している身で一番風呂に入るのはさすがに気が引けた。 体調不良で、梅本先生からもサッとシャワーだけでも……と勧められたのを思い出した私は、風呂ふたを閉ざしたまま熱めのシャワーを浴びる。 ひとりになったからかな。 シャワーに打たれながら、思い出さなくてもいいのに先ほど家であったことを思い出してしまう。 (孝夫さん……私以外の女性と……) 聞こえてきたのは紛れもない、情事の時の女性の嬌声だった。 ギュッと身体を掻き抱くと、私はポロポロと流れ落ちる涙を懸命にお湯で洗い流した。「大丈夫? 倒れたりしてない?」 余りに涙が止まらなくて長居をし過ぎてしまったのかな? 恐る恐るといった具合に梅本先生のくぐもった声が脱衣所の外から投げかけられて、私は慌ててシャワーのコックをひねっ