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霜月イヅミ
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Novels by 霜月イヅミ

辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~

辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~

聡明で心優しいアルトマイヤー公爵令嬢セレスティナは、幸福の絶頂にいた。しかし、宰相ヴァインベルク公爵の陰謀により、一家は反逆罪の濡れ衣を着せられ、すべてを奪われてしまう。婚約者にも裏切られ、絶望の淵に突き落とされた彼女は、奴隷同然の身分で最果ての辺境へ追放されることに。 過酷な運命に翻弄され、生きる気力さえ失いかけたセレスティナを救ったのは、「辺境の狼」と恐れられる新辺境伯ライナス。無骨ながらも誠実な彼と出会ったセレスティナは、やがて家族の無念を晴らすため、復讐を決意する。 これは理不尽な権力に立ち向かう不器用な英雄と没落令嬢の、愛と復讐の物語。
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Chapter: 第84話 隘路の罠-1
 辺境の空は、王都のそれよりも低く、重く垂れ込めているように感じられた。 鬱蒼と生い茂る木々は昼なお暗い影を落とし、岩がちな土壌は屈強な軍馬の蹄さえもてこずらせる。グスタフ・フォン・ベルガー元帥が率いる討伐軍の進軍速度は、王都を出立した頃の勢いが嘘のように、目に見えて落ちていた。「忌々しい土地だ。まるで獣の巣だな」 副官であるモーリス准将が、鞍の上で顔をしかめて吐き捨てた。彼の白銀の甲冑も、数日間の野営と悪路のせいで、もはや輝きを失い泥に汚れている。そのいら立ちは、彼だけのものではなかった。兵士たちの間にも、疲労と、そして姿を見せぬ敵への苛立ちがじわじわと広がっている。「斥候からの報告はまだか」 ベルガーは、険しい表情を崩さぬまま、低く問うた。彼の百戦錬磨の経験が、この不気味な静けさの中に潜む危険を警告していた。だが、その警告は、辺境の狼とやらに対する侮りによって、わずかに鈍らされていた。「はっ。先ほど戻った者の報告によれば、この先の谷筋に、敵が防御陣地を築いた痕跡があったとのこと。ですが、すでに放棄されており、もぬけの殻だったと」 モーリスの報告に、ベルガーは眉をひそめる。「またか。これで三度目だぞ」 ここ数日、討伐軍は何度も同じような状況に遭遇していた。敵が潜んでいそうな隘路や森に差し掛かるたび、斥候が簡素なバリケードや焚き火の跡といった、敵の存在を示す痕跡を発見する。だが、いざ軍を進めてみると、そこに敵の姿はなく、まるで幻を追いかけているかのような感覚に陥るのだ。「奴ら、我らの進軍に恐れをなして、後退を繰り返しているのでしょう。さすがの蛮族も、一万の軍勢を前にしては、戦う前から腰が引けているのです」 モーリスは、自信満々に言い切った。彼の目には、ライナス軍が恐怖のあまり逃げ惑っている姿が、ありありと映っているようだった。「だと良いがな」 ベルガーは短く応じたが、その心には一抹の疑念が渦巻いていた。 ライナス。戦場で功を立てただけの、平民上がりの男。その戦い方は、奇襲やゲリラ戦を得意とする、いわば野盗のそれに近いものだと聞いている。そのような男が、正面からの決戦を避けて逃げ回るのは、ある意味
Last Updated: 2025-10-24
Chapter: # 第83話 傲慢なる進軍
 王都を発った討伐軍の進軍は、壮麗な絵巻物のようであった。 先頭を行くのは、王国最強と謳われるベルガー元帥麾下の重装騎士団。磨き上げられた白銀の甲冑は春の陽光を浴びてまばゆい光を放ち、馬蹄の響きは大地を規則正しく揺るがした。兵士たちの顔には一点の曇りもない。彼らにとってこの戦は、王家に弓引く不届きな成り上がり者を討つだけの、単なる武勲稼ぎの遠足に過ぎなかった。「元帥閣下。実に壮観ですな」 副官であるモーリス准将が、馬を寄せて得意げに言った。彼の若々しい顔には、貴族特有の傲慢さと、これから始まる戦への期待が浮かんでいる。「これほどの軍勢を前にして、辺境の狼とやらも震え上がって城に籠もることしかできますまい」「フン、城に籠もるだけの知恵があれば、の話だがな」 総指揮官であるグスタフ・フォン・ベルガー元帥は、鼻を鳴らした。彼は、歴戦の武人らしい厳格な貌を少しも崩さない。その瞳は、眼前に広がる平坦な街道の、さらにその先にある辺境の山々を侮蔑の色を込めて見据えていた。「所詮は戦場で運を拾っただけの平民だ。正式な軍学も知らぬまま、己の力を過信しているにすぎん。あるいは我らの威容に恐れをなして、尻尾を巻いて逃げ出すやもしれんぞ」「ははは、それはあり得ますな。そうなれば追撃も一苦労でございます」 モーリスは楽しそうに笑った。周囲の騎士たちからも、同調するような笑い声が漏れる。彼らの頭の中には、ライナスという男が率いる軍勢の姿など、もはや存在していなかった。あるのは、手柄を立てて王都に凱旋する、輝かしい自分たちの姿だけだ。 ベルガーは、内心でこの楽観的な空気を苦々しく思いつつも、それをあえて咎めはしなかった。兵の士気が高いのは良いことだ。それに、彼自身もまた、この戦が短期決戦で終わると確信していた。 ライナスという男の経歴は調べさせてある。平民の出で、傭兵として各地を転々とし、先の戦争で偶然にも大きな戦功を挙げた。その手腕は確かに認めよう。だが、それはあくまで小競り合いや奇襲といった、ゲリラ戦の範疇を出ないものだ。 正規の軍隊同士がぶつかり合う、本当の戦争というものを、あの男は知らない。 兵法、陣形、兵站。それら全てが複
Last Updated: 2025-10-23
Chapter: 第82話 揺るがぬ忠誠
 その報せは、冬の終わりの冷たい風に乗って、辺境の地に吹き付けた。 王都の地下に潜伏していた密使ザイファルトの部下の一人が、瀕死の状態で城に帰還したのは、凍てつくような風が吹く日の夕刻だった。男は馬の鞍の上で意識を失う寸前だった。その背中には、ヴァインベルクのスパイであることを示す蛇の紋章が刻まれた矢が深々と突き刺さっている。 男がもたらした、たった一枚の羊皮紙。そこに記された短い言葉が、城の作戦司令室の空気を絶対零度まで凍てつかせた。『辺境伯ライナス、反逆者に認定さる。討伐軍、総兵力一万、王都を出立せり』 絶望的な内容だった。 部屋にはライナスとセレスティナ、そして側近のギデオンをはじめとする鉄狼団の主要な幹部たちが集まっている。彼らは、いつかこの日が来ることを覚悟してはいた。だが、敵の動きは、そしてその規模は、彼らの想像を遥かに超えていた。「一万…ですと…?」 ギデオンの声が、怒りと信じられないという響きで震えていた。「我が鉄狼団の総兵力は、民兵を合わせても二千がやっと。五倍の兵力差…これでは、もはや…」 それはまともに戦えば勝ち目のない数字だった。 辺境の民がどれだけ団結しようと、地の利を活かそうと、正規の訓練を受けた中央軍の大軍勢の前では、風の前の塵に同じ。 重い、絶望的な沈黙が部屋を支配した。 だが、その沈黙を破ったのは、当のライナス自身の、楽しげでさえある声だった。「面白い。実に、面白いではないか」 彼は玉座に深く腰掛けたまま、不敵な笑みを浮かべていた。その金色の瞳には絶望の色は微塵もない。むしろ、絶体絶命の窮地を前にして、初めて己の全力を振るえることに歓喜する、本物の戦士の目がそこにあった。「あの老獪な狐めが、ようやくその重い腰を上げ、自ら戦場に出てくるというのだ。ならばこちらも、それに相応しい歓迎をしてやらねば、礼を失するというものだろう」「か、閣下…!正気ですか!」 ギデオンが、信じられないという顔で叫んだ。「ああ、正気だとも」 ライナスはゆっくりと立ち上がった
Last Updated: 2025-10-22
Chapter: 第81話 愚かなる勅命
 王城の奥深く、国王の私室は、昼間だというのに薄暗い沈黙に支配されていた。 壁にかけられた壮麗なタペストリーも、磨き上げられた黒檀の調度品も、その主の心に宿る深い絶望の前では、色褪せたガラクタに過ぎなかった。老王は、窓辺の椅子に深く身を沈め、自らの手の甲に浮かんだ、枯れ木のような染みをただ見つめていた。 昨日の、あの玉座の間での出来事が、悪夢のように脳裏に蘇る。 宰相ヴァインベルクの、巧みで、そして毒に満ちた讒言。それに同調する貴族たちの、媚びを含んだ視線。そして、目の前に突きつけられた、辺境伯ライナスが反逆者であるという「動かぬ証拠」。 国王は、それが偽りであると、心のどこかで分かっていた。 あの密書は、あまりに都合が良すぎる。あのライナスという男が、これほど稚拙で、分かりやすい証拠を残すとは思えなかった。彼は、戦場で功を立てただけの蛮族ではない。その報告書から窺える統治の手腕は、むしろ王都のどの貴族よりも、怜悧で、理性的ですらあった。 だが、老王には、それに異を唱えるだけの力が、もはや残されていなかった。 ヴァインベルクは、この国の政治、軍事、そして経済の全てを、その蜘蛛の巣のような権力網で、完全に掌握している。彼に逆らうことは、この王国そのものを、内側から崩壊させる危険を孕んでいた。 そして何より、老王自身の心は、過去の過ちによって、深く蝕まれていたのだ。 アルトマイヤー公爵。 あの、誰よりも誠実だった忠臣を、自分は、この同じ男の讒言を信じて、見殺しにした。あの時の、公爵の最後の絶望に満ちた瞳を、忘れた日は一日たりともない。 今また、同じ過ちを繰り返すのか。 自問する声が、胸の内で虚しく響く。だが、答えはすでに出ていた。彼は、もう一度、己の魂を裏切るしかないのだ。王として、この国の安寧という大義名分のために。「陛下」 背後から、侍従長の、感情を殺した声がした。「宰相閣下が、勅命の署名を、お待ちでございます」 国王は、何も答えなかった。ただ、ゆっくりと立ち上がると、震える足で、部屋の中央に置かれた執務机へと向かった。 机の上には、一枚の上質な羊皮紙が広げら
Last Updated: 2025-10-21
Chapter: 第80話 王都の讒言
 王都は、偽りの平穏を謳歌していた。 大理石で舗装された中央広場を、着飾った貴族たちの豪奢な馬車がひっきりなしに行き交う。その窓から漏れ聞こえるのは、芸術や詩について語らう洗練された笑い声。辺境で起きた血生臭い事件や、その背後で蠢く巨大な陰謀など、この都の華やかさの前では、まるで存在しないかのようだった。 だが、その輝かしい光の裏側には、深く、そして濃い影が落ちている。 宰相ゲルハルト・ヴァインベルク公爵の執務室。そこは、王国の政治の中枢であり、同時に、あらゆる陰謀が渦巻く巨大な蜘蛛の巣の中心でもあった。 その巣の主は今、珍しくその完璧な平静を失っていた。「…と、いう次第でございます。シラー伯爵は、我々の再三の出兵要請にも、『領内の治安維持を優先する』との一点張りで、応じる気配を見せませぬ。それどころか、先日より、辺境との国境警備を名目に、兵を増強しているとの報せも…」 腹心の部下からの報告を聞きながら、ヴァインベルクは窓の外に広がる王都の景色に背を向け、黙って立っていた。その手には、高価な水晶の杯が握られている。「さらに、王都の商人ギルドの一部が、辺境との独自交易を模索する動きを見せております。『辺境伯ライナスは、公正な取引相手である』などという、馬鹿げた噂を信じ込んでいるようでして…」 シラー伯爵の離反。そして、経済界の動揺。 セレスティナという小娘が放った、見えざる矢。それは、ヴァインベルクが数十年かけて築き上げてきた、盤石のはずだった支配体制の、まさに心臓部へと、静かに、しかし確実に突き刺さっていた。 彼は、自分が放った刺客たちが、ことごとく失敗に終わったことよりも、この静かなる内部崩壊の方に、より大きな屈辱と、そして得体の知れない恐怖を感じていた。 あの女は、戦い方を知っている。 自分たち貴族が、何を最も恐れ、何を最も重んじるかを、骨の髄まで知り尽くしている。そして、その知識を武器に、最も痛い場所を、最も効果的なやり方で攻撃してくる。「…下がれ」 ヴァインベルクは、低い声で命じた。部下が、安堵とも恐怖ともつかない表情で一礼し、
Last Updated: 2025-10-20
Chapter: 第79話 覚悟の口づけ
 作戦司令室の空気は、燃え尽きる寸前のロウソクの炎だけが揺れる、深い静寂に包まれていた。 壁に掲げられた巨大な地図も、山と積まれた防衛計画の図面も、今はその意味を失っている。この部屋の全世界は、今、セレスティナの小さな両手の中にあった。 ずしり、とした重み。 黒曜石を削り出して作られた辺境伯の印章。そのひんやりとした感触が、彼女の熱を帯びた掌に、絶対的な現実として食い込んでくるようだった。 それは、ただの石ではなかった。 この辺境に生きる、数万の民の命。鉄狼団の兵士たちの、揺るぎない忠誠。そして、何よりも、目の前に立つ、不器用で、愛おしい男の、魂そのものの重み。 ライナスは、彼女の返事を待っていた。 彼は、自分という存在の全てを、差し出したのだ。その金色の瞳は、戦場で敵の大軍を前にしても決して揺らぐことのない、絶対的な王の瞳。だが、その奥の奥に、ほんのかすかな、答えを待つ男の不安が揺らめいているのを、セレスティナは見逃さなかった。 その、あまりに人間的な弱さの現れが、彼女の胸を、愛しさで締め付けた。 涙が、再び瞳の縁に熱く込み上げてくる。だが、彼女はそれを、決してこぼしはしなかった。 今、この男が自分に求めているのは、涙ではない。共に戦う、パートナーとしての覚悟だ。 彼女は、その重い印章を、まるで大切な宝物を抱きしめるように、そっと胸に当てた。どくん、と、自分の心臓の鼓動が、硬い石を通して指先に伝わってくる。「…確かに、お預かり、いたします」 彼女の声は、涙で濡れていた。だが、その響きには、どんな困難にも揺るがない、鋼のような強さが宿っていた。「あなたの、その魂。この私が、この命に代えましても、必ずやお守りいたします」 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。そして、彼の金色の瞳を、真っ直ぐに見つめ返す。「ですから、あなたも。必ずや、ご無事で、私の元へお帰りください」 その、あまりに真っ直ぐな言葉と、すみれ色の瞳に宿る絶対的な信頼。 ライナスは、彼女のその気高い魂の輝きに、完全に心を奪われていた。 ああ、俺は、とんでもない女を見つけ
Last Updated: 2025-10-19
「この誓いは、秘密のままで」と告げた騎士様が、なぜか私を離してくれません

「この誓いは、秘密のままで」と告げた騎士様が、なぜか私を離してくれません

王都の片隅で、日々の糧を得るために懸命に働く貧しい侍女、アメリア。 ある夜、彼女は屋敷の裏庭で深手を負い倒れていた騎士を発見してしまう。 彼の正体は、名門貴族の嫡男レイモンド。 身分違いの彼を匿うことになったアメリアに、彼はある秘密の契約を持ちかける。 互いの素性を隠しながら協力するうちに、アメリアは彼の内に秘めた優しさや、彼が背負う孤独を知り、次第に惹かれていく。 そしてレイモンドもまた、どんな逆境にもめげないアメリアの強さと明るさに、閉ざしていた心を開いていくのだが――。 これは、許されない身分差と、いつか終わりを告げる契約の狭間で揺れる二人の、切なくも甘い恋の物語。
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Chapter: 番外編:名もなき花に捧ぐ愛の詩
 王都の街角は今日も行き交う人々で賑わいを見せている。石畳の道を軽快に駆ける辻馬車の蹄の音、市場の商人たちの威勢のいい呼び声、そして人々の笑い声が混じり合い、活気に満ちた旋律を奏でていた。 そんな喧騒から少しだけ離れた路地裏に、リリアの花屋はひっそりと佇んでいた。店先に並べられた色とりどりの花々が、灰色の石壁の街並みに柔らかな彩りを添えている。リリアはこの場所で、朝露に濡れた花びらを一枚一枚丁寧に拭き、訪れる客のために小さな花束を作るのが日課だった。 彼女のささやかな日常の中で、心の支えとなっている物語がある。 それは、今や王都で知らぬ者のない「公正なる侯爵とその妻の物語」。かつて一介の侍女だったアメリア様が、名門ヴァルター侯爵家の嫡男レイモンド様に見初められ、多くの困難を乗り越えて結ばれたという、まるでおとぎ話のような実話だ。 身分違いの恋。それは、この国では決して許されることのない禁忌。しかし、彼らは真実の愛の力で、その分厚い壁を打ち破った。レイモンド様はアメリア様ただ一人を愛し抜き、その誠実さで周囲を動かし、ついには国王陛下からの祝福さえも勝ち取ったのだ。 リリアは仕事の合間に、客から聞くその物語の断片を胸の中で何度も反芻した。侯爵様が、いかにアメリア様を慈しみ、守り抜いたか。アメリア様が、いかに健気に、そして強く侯爵様を支え続けたか。その一つ一つの逸話が、リリアの心に温かい光を灯す。「いつか私にも、あんな素敵な出会いが訪れるだろうか……」 そんな淡い夢を抱いてしまうのは、仕方のないことだった。もちろん、自分が高貴な殿方と結ばれるなどという大それた望みを抱いているわけではない。ただ、レイモンド様のように、一人の女性を心の底から大切にしてくれる人が、この世界のどこかにいるのなら。そう思うだけで、平凡な毎日が少しだけきらめいて見えるのだ。 その日も、リリアはいつもと同じように店先で花の世話をしていた。春の柔らかな日差しが、店先に並んだゼラニウムの赤い花びらを鮮やかに照らし出している。その時だった。 からん、と店のドアベルが軽やかな音を立てた。「いらっしゃいませ」
Last Updated: 2025-08-28
Chapter: 第30話:エピローグ・二人の愛が紡ぐ未来
 あの日、王宮から発せられた布告は、王都に大きな衝撃を与えた。平民の侍女が、名門侯爵家の嫡男と婚姻を結ぶ。それは、厳格な身分制度の中で生きる人々にとって、前代未聞の出来事だった。しかし、レイモンド・ヴァルター侯爵の類稀なる功績と、国王陛下の強い意志が、その不可能を可能にしたのだ。 そして、その布告から数週間後、王都の教会で、レイモンドとアメリアの結婚式が執り行われた。質素ながらも温かい式には、王室関係者や有力貴族、そして、アメリアがかつて仕えた屋敷の侍女たちも招待された。レイモンドは、白い軍服を纏い、誇らしげにアメリアの手を取った。アメリアは、手作りのシンプルな白いドレスを身に纏い、幸福に満ちた笑顔で、レイモンドの隣に立っていた。二人の瞳には、互いへの揺るぎない愛と、共に困難を乗り越えた者だけが持つ、強い絆が宿っていた。 それから、数年の月日が流れた。 王都の一角にある、小さな、しかし温かい侯爵邸には、アメリアとレイモンド、そして彼らの間に生まれた二人の子供たちの賑やかな声が響いていた。長男はレイモンド譲りの琥珀色の瞳と、アメリアの情熱的な赤毛を受け継ぎ、好奇心旺盛な男の子に育った。そして、末の娘は、アメリアに似た優しい眼差しと、レイモンドを彷彿とさせる凛とした佇まいを持つ、愛らしい女の子だった。 アメリアは、侯爵夫人となった今も、かつての侍女時代と変わらず、質素で勤勉な日々を送っていた。高価なドレスを身につけることはあるが、彼女はそれを飾るものとは考えておらず、日々の家事や子育てにも積極的に関わった。彼女は、自ら庭の手入れをし、子供たちのために手料理を作り、そして、夫であるレイモンドの帰りを温かく迎えることを何よりも大切にした。 レイモンドは、ヴァルター侯爵として、以前にも増して多忙な日々を送っていた。彼は、国の行政改革に尽力し、民の生活を向上させるための政策を次々と打ち出した。彼の公正な判断力と、民を思う心は、王宮内外で高く評価され、彼は「公正なる侯爵」として、多くの人々に慕われる存在となっていた。 どんなに忙しい日でも、レイモンドは必ず、夕食の時間には家に帰った。彼の帰りを待つのは、温かい食事と、愛する妻と子供たちの笑顔だ。書斎で疲れた一日を終え、リビングに戻
Last Updated: 2025-08-28
Chapter: 第29話:新たな誓い
 レイモンドが自身の家族と貴族社会の重鎮たちにアメリアへの真実の愛を打ち明け、猛烈な反対に遭いながらも、彼の揺るぎない決意は、少しずつ周囲の心を動かし始めていた。旧友や元部下といった協力者の存在、そして、失われた古文書から見つかった「功績による身分の向上」という歴史的先例。それらの光が、レイモンドとアメリアが共に歩むための、新たな道筋を照らし始めたのだ。 レイモンドは、父親であるヴァルター侯爵との連日の話し合いを続けた。侯爵は、息子の頑なな態度と、彼が示す揺るぎない決意に、徐々に根負けしていく様子を見せ始めた。特に、古文書に記された先例と、レイモンドの類稀なる功績を前にしては、侯爵も反論の余地がなくなっていったのだ。「レイモンド…そこまで言うのなら、もう好きにするがいい。だが、この選択が、お前自身の首を絞めることにならぬよう、肝に銘じておけ」 侯爵は、まだ完全に納得したわけではなかったが、息子の強い意志を認めざるを得ない状況だった。それは、侯爵にとって、息子への信頼と、ヴァルター家の未来への懸念が入り混じった、複雑な決断だった。 レイモンドは、父親の言葉に深く頭を下げた。「ありがとうございます、父上。必ず、父上の期待を裏切りません」 侯爵家からの理解を得る見通しが立ったことで、レイモンドは次の段階へと進んだ。彼は、王宮に正式な謁見を求め、国王陛下に直接、アメリアとの婚姻を願い出たのだ。 謁見の間で、レイモンドは、国王陛下と、その場に居合わせた有力貴族たちの前で、アメリアへの真実の愛を、そして、彼女が自らの命を顧みずに彼を支え、国家の危機を救う手助けをしてくれた功績を、全て語った。そして、古文書に記された「功績による身分の向上」という先例を提示し、アメリアに貴族としての身分を与えることを懇願した。「陛下。彼女は、王宮の侍女という身でありながら、私と共に国家の危機を救うため、命の危険を顧みずに行動してくれました。彼女の献身と勇気がなければ、国家の秩序は揺らぎ、多くの民が苦しむことになったでしょう。この功績は、如何なる貴族にも劣らぬものと信じております」 レイモンドの声は、謁見の間に響き渡った。彼の言葉には、アメリ
Last Updated: 2025-08-27
Chapter: 第28話:未来への光
 レイモンドが自身の家族と貴族社会の重鎮たちに、アメリアへの真剣な想いを打ち明けて以来、彼が直面する反対と抵抗は、日を追うごとに激しさを増していた。侯爵家は、ドール公爵家との縁談を強引に進めようとし、王宮内の貴族たちも、レイモンドの行動を「身分違いの恋に現を抜かす愚行」として非難した。しかし、レイモンドの、アメリアを守り抜くという強い意志は、何者にも揺るがなかった。 レイモンドは、日中は貴族としての職務をこなしながら、夜はアメリアの件で父親や縁談相手の使者との議論に明け暮れていた。彼の疲労はピークに達していたが、その瞳の奥の決意は、少しも曇ることがなかった。「父上、何度申し上げればお分かりいただけますか。私が結婚するのはアメリアだけです。他の女性と婚姻を結ぶなど、ありえません」 侯爵邸の書斎で、連日繰り返される父親との押し問答。侯爵は、息子がここまで頑なであることに、苛立ちを隠せない。「レイモンド!貴様はヴァルター家の嫡男だぞ!私情で家名を貶めるような真似は許さん!」「家名を貶めるのは、私情に流されることではございません。愛のない婚姻を結び、心を偽ることこそ、家名を汚す行為です!」 レイモンドの声は、侯爵に負けないほどの強い意志に満ちていた。彼の言葉は、貴族社会の常識とはかけ離れていたが、そこには真実の愛を貫こうとする、騎士としての揺るぎない魂が宿っていた。 その頃、アメリアは、レイモンドが激しい戦いの渦中にあることを肌で感じ取っていた。屋敷の侍女たちの噂話は、日を追うごとにレイモンドの縁談話と、その進捗に関するものへと変化していった。どうやら、レイモンドがその縁談を頑なに拒否しているらしい、という情報も、アメリアの耳に届くようになった。(レイモンド様…) アメリアは、彼の苦悩を思うと、胸が締め付けられた。自分が、彼にどれほどの重荷を背負わせているのか。それでも、彼女は彼を信じ、遠くから彼の無事と成功を祈り続けていた。彼女にできることは、直接彼を助けることではない。しかし、彼が自分を愛してくれているという事実を胸に、強く、そして健気に日々を過ごすことが、彼への最大の支えだと信じていた。 そんなレイモンドの努力と、アメリアの献身的な支えが、少しずつ周囲の理解を得始める兆候が現れ始めた。 ある日、レイモンドの旧友であり、彼がかつて命を救った騎士の
Last Updated: 2025-08-27
Chapter: 第27話:障壁への挑戦
 互いの真実の愛を確かめ合い、身分差という大きな障壁を共に乗り越える覚悟を決めたレイモンドとアメリア。レイモンドは、アメリアとの未来のために、貴族としての地位を捨てることも辞さないとまで言い切った。その彼の決意は、アメリアにとって何よりも心強く、彼女もまた、どんな困難な道であっても彼と共に歩むことを誓った。しかし、彼らの愛が直面する現実の壁は、想像以上に高く、そして冷酷だった。 レイモンドは、アメリアと未来を誓い合った翌日、すぐに行動に移した。彼は、自邸に戻ると、多忙な公務の合間を縫って、父親であるヴァルター侯爵に面会を求めた。書斎に足を踏み入れたレイモンドの表情は、いつも以上に真剣で、彼の決意が滲み出ていた。「父上。申し上げたいことがございます」 ヴァルター侯爵は、息子が何か重要な報告に来たのかと思い、資料から目を上げた。彼にとって、レイモンドはヴァルター家の再興を成し遂げた誇り高き息子だった。「何だ、レイモンド。改まって」 レイモンドは、深呼吸をした。 「私には、結婚を望む女性がおります」 侯爵の表情が、一瞬にして凍りついた。彼は、ドール公爵家との縁談が順調に進んでいることを知っていたからだ。「何を言うか。お前には、ドール公爵家のご令嬢との婚約話が進んでいるはずだ。この期に及んで、何を戯言を…」「戯言ではございません、父上。私は、ドール公爵家のご令嬢とは結婚できません。私が愛しているのは、別の女性です」 レイモンドの言葉に、侯爵は激怒した。彼の顔は、みるみるうちに赤くなった。 「馬鹿なことを言うな!どこの出の女だ!?まさか、あの侍女の娘ではあるまいな!?」 侯爵の言葉に、レイモンドは身構えた。やはり、アメリアの存在は、既に嗅ぎつけられていたのだ。「…はい。彼女の名はアメリアと申します。彼女こそが、私が愛し、生涯を共にしたいと願う女性です」 レイモンドの言葉に、侯爵は、持っていた書類を音を立てて机に叩きつけた。「ふざけるな、レイモンド!お前は、ヴァルター家の嫡男だぞ!この家が、どれほどの苦境を乗り越えてきたか、忘れたとでも言うのか!?
Last Updated: 2025-08-26
Chapter: 第26話:身分を越えるための決意
 互いの真実の愛を確かめ合ったレイモンドとアメリア。危険な裏路地の倉庫で交わした告白とキスは、彼らの心を深く結びつけた。レイモンドの「溺愛」が契約とは関係のない真実の愛であることを知り、アメリアもまた、彼への揺るぎない想いを伝えたことで、二人の間に横たわっていた壁は、一度は取り払われたかのように思えた。しかし、彼らの愛を阻む、もう一つの大きな障壁が、依然として存在していた。それは、彼らの間に厳然と存在する「身分差」だった。 夜が明け、王都に朝の光が差し込む頃、レイモンドはアメリアを連れ、再び人目を忍んで隠れ家へと戻った。倉庫での夜明けは、彼らにとって、新たな未来の始まりを告げるかのようだったが、同時に、現実の厳しさを突きつけるものでもあった。 隠れ家に戻った二人の間には、昨日までの切なさとは異なる、静かで、しかし確かな温もりが満ちていた。レイモンドは、アメリアを腕の中に抱き寄せ、その髪を優しく撫でた。「アメリア…」 彼の声は、昨夜の激しい感情とは打って変わり、落ち着いていたが、その中には、アメリアへの深い愛情が溢れていた。 「昨夜は…混乱させてしまってすまなかった」 アメリアは、彼の言葉に顔を上げた。 「いいえ…レイモンド様のお気持ちを知ることができて、私は…本当に嬉しかったです」 アメリアの瞳は、まだかすかに赤く、だが、その奥には、彼への真実の愛が輝いていた。 レイモンドは、アメリアの頬にそっと触れると、深呼吸をした。 「愛している。それは、決して嘘偽りのない、俺の本心だ」 彼の真剣な眼差しに、アメリアの心臓は大きく鳴った。 「はい…私もです」 二人の間に、再び静かな時間が流れる。互いの存在を確かめ合うように、強く抱きしめ合った。しかし、この幸福な瞬間にも、レイモンドの頭の中では、現実の問題が巡っていた。 レイモンドは、アメリアを抱きしめたまま、静かに語り始めた。 「お前を愛している。だからこそ、俺は、お前との未来を諦めるわけにはいかない」 アメリアは、彼の言葉に、胸が高鳴るのを感じた。「だが、お前も知っている
Last Updated: 2025-08-25
愛がないなら結婚する意味ないじゃないですか?と契約破棄したら、冷徹公爵が私に執着し始めました

愛がないなら結婚する意味ないじゃないですか?と契約破棄したら、冷徹公爵が私に執着し始めました

公爵令嬢セリーナは、冷徹なアシュトン・ヴァルター公爵との政略結婚を受け入れていた。「愛は与えない」と言い放つ彼に、愛を求めるつもりはないと答えたセリーナ。しかし、公爵は彼女に干渉せず、まるで邪魔者扱い。愛のない関係に次第に心が摩耗したセリーナは、ある日「愛がないなら結婚する意味ないじゃないですか?」と、自ら婚約破棄を決意。これで自由になれるはずが、冷徹だった公爵はなぜかセリーナに異常な執着を見せ始め……? 契約をあっさり手放した令嬢が、逆に溺愛されることに困惑する逆転ラブストーリー。
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Chapter: 14.エピローグ:愛しい日々
 あれから半年。 アシュトン様との婚約は無事に継続され、公爵邸での私の生活は、以前では考えられないほど穏やかで、そして温かいものに満ちていた。 冷徹公爵と呼ばれたアシュトン様は、今ではすっかり「愛妻家公爵」などと揶揄される始末だ。もちろん、本人に直接言う者はいないけれど。「セリーナ。また、そんなところで居眠りを」 暖炉のそばの大きなソファで、日当たりの良さに誘われてうとうとしていた私に、低い声がかけられた。 ゆっくりと目を開けると、アシュトン様が、いつの間にか私の隣に座っていた。彼は執務の合間に、こうして私を覗きに来るのが常になっていた。「あら、アシュトン様。お仕事はもうよろしいのですか?」 私がにこやかに問いかけると、彼の眉間に薄く皺が寄った。「貴様の顔を見に来ただけだ」 相変わらず素っ気ない言い方だが、その瞳の奥には、確かな優しさが宿っている。「ふふ、ありがとうございます」 私が身を起こすと、アシュトン様は私の髪に触れた。「髪が乱れているぞ」 そう言って、不器用な手つきで私の髪を直そうとする。以前の彼からは想像もできない行動に、私は小さく笑った。「あら、アシュトン様の手ほどきなんて、贅沢ですね」 私が揶揄うと、彼は少しだけ顔を赤らめた。「それより、セリーナ」 彼は、真顔に戻ると、私の手を握った。「今日の午後、王都の菓子店へ出かけると聞いたが、一人で行くつもりか?」 彼の言葉に、私は思わず目を瞬かせた。私が侍女に話しただけのことを、彼はなぜ知っているのだろう。「ええ。新しい菓子の材料を探しに」 私が答えると、アシュトン様はすぐに言った。「俺も同行する」「あら、お忙しいのではありませんか?」 私が尋ねると、彼はふいと顔をそらした。「……貴様を一人で行かせるのは、心配だ」 その言葉に、私はぷっと吹き出した。相変わらずの、隠しきれない執着ぶりだ。「もう、アシュトン様ったら。私が一人で何ができるというので
Last Updated: 2025-07-08
Chapter: 13.二人の未来
 王妃の座を辞退するという、前代未聞の決断を下した後、私は王宮の廊下を、心穏やかに歩いていた。  私の胸には、国王陛下の言葉が響いていた。「真実の愛を選んだ貴殿の人生が、幸福に満ちたものとなることを願う」。  名誉や権力ではなく、私が本当に望むものを手に入れたのだという確かな充足感が、私の全身を包み込んでいた。 王宮を出て、待たせていた馬車に乗り込んだ。  馬車が公爵邸へと向かう間、私の心は、早くアシュトン様の元へと帰りたいという思いでいっぱいだった。  彼が、私の決断を知ったら、どんな顔をするだろう。  驚くだろうか、それとも、安堵してくれるだろうか。  彼の表情を思い浮かべると、自然と頬が緩んだ。 公爵邸の門が見えてきた。  門の前には、アシュトン様が、私を待っていたかのように、そこに立っていた。  彼の顔には、微かな不安の色が浮かんでいるように見えた。  私が馬車から降りると、アシュトン様は私に駆け寄ってきた。 「セリーナ……」  彼の声は、不安と、そして、私への強い想いが入り混じったような響きだった。 私は、彼の顔を見上げ、満面の笑みを浮かべた。 「アシュトン様。私、王妃の座を辞退してまいりました」  私の言葉に、アシュトン様の表情が、一瞬にして凍りついた。  そして、彼の瞳の奥に、深い絶望の色が浮かんだように見えた。 「だが……貴様は、最終合格者だったのだろう……?」  彼が何かを言おうとすると、私は彼の言葉を遮った。「はい。ですが、お伝えいたしました通り、私には王妃の務めを全うすることはできません。私の心は、すでにアシュトン様だけを愛しておりますから」  私の言葉に、アシュトン様の瞳が、驚きに見開かれた。  信じられないものを見るように、私を見つめている。 「どういうことだ……セリーナ……」  彼の声は、戸惑いと、そして、微かな希望が混じり合っているように聞こえた。 私は、彼の両手を握りしめ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。 「愛のない結婚に意味はないと、私がお伝えし
Last Updated: 2025-07-08
Chapter: 12.陛下への謁見
 王妃選定試験の最終結果が発表される日。 私は、公爵邸でアシュトン様と共にその知らせを待っていた。アシュトン様は、落ち着かない様子で執務室の窓辺に立ち、遠くの空を眺めていた。その横顔には、珍しく微かな緊張の色が浮かんでいるように見えた。 私は、彼の隣にそっと歩み寄った。「アシュトン様。もし、私が王妃に選ばれたら……」 私が言葉を切ると、アシュトン様は私を真っ直ぐに見つめた。「その時は、貴様の意思を尊重しよう。だが、貴様が望むのならば、俺は……」 彼の言葉は、そこで途切れた。彼の瞳の奥には、私への強い執着と、そして、失うことへの微かな恐怖が揺らめいているように見えた。 その時、公爵邸の執事が慌ただしく執務室に飛び込んできた。「アシュトン様!セリーナ様!王宮から、伝令でございます!」 執事の手には、厳重な封がされた書状が握られていた。 アシュトン様は、その書状を受け取ると、ゆっくりと封を破り、中身に目を通した。 彼の表情が、見る見るうちに硬直していくのが見えた。「……そうか」 彼は、低い声で呟いた。「アシュトン様、何と書かれていましたの?」 私が尋ねると、アシュトン様は書状を私に手渡した。 私は、震える手で書状を受け取り、その内容に目を通した。 『セリーナ・フェルティア嬢を、次期王妃候補の最終合格者と定める。よって、改めて王妃の座への意向を問う』 私は、その言葉に、息を飲んだ。 私が、王妃に選ばれる可能性が最も高かったのだ。つまり、王妃になるか否かは、私の最終的な意思にかかっている。「セリーナ……」 アシュトン様が、私の名を呼んだ。 私は、彼に視線を向けた。彼の瞳は、私を深く見つめていたが、その奥には、複雑な感情が渦巻いているように見えた。「貴様が、望んだ結果か?」 彼の問いかけに、私は、迷いなく答えた。「いいえ、アシュトン様。これは、私の
Last Updated: 2025-07-07
Chapter: 11.選択と迫る決断
 王妃選定試験は佳境に入り、最終候補の三人への注目は日々高まっていった。私、セリーナ・フェルティア。そして、最後まで残ったのは、私と、もう一人、侯爵令嬢のリアーナ・クレメンス嬢だった。エルメリア嬢は、アシュトン様の介入により早々に辞退を余儀なくされ、王妃の座を巡る争いは、私とリアーナ嬢の一騎打ちとなっていた。 アシュトン様の執着は、王宮でも知れ渡るようになり、私がどこへ行っても彼の護衛が影のように付き従った。周囲の令嬢たちからは好奇の目で見られたが、私にとって彼の存在は、重圧であると同時に、漠然とした不安を打ち消してくれる唯一のよりどころになりつつあった。彼の歪んだ執着の中に、私への確かな「特別」があることを、私の心は感じ取っていたのだ。 ある日の夕食後、私はアシュトン様の執務室に呼び出された。 「セリーナ。王妃選定試験の進捗は?」  彼の声は、いつも通り感情の起伏が少なかったが、その瞳は私を深く見つめていた。 「滞りなく進んでおります。最終選考に残ったのは、私とリアーナ嬢の二人でございます」  私がそう答えると、彼は静かに頷いた。 「国王陛下は、貴様を高く評価していると聞く。貴様は、本当に王妃になるつもりか?」  彼の問いかけに、私は言葉に詰まった。王妃の座は、名誉であり、フェルティア公爵家の繁栄にも繋がる。しかし、それは同時に、アシュトン様の隣から離れることを意味していた。「……王命に背くことはできません」  私は、そう答えるのが精一杯だった。  アシュトン様は、私の言葉を聞くと、ゆっくりと椅子から立ち上がった。  そして、私の前に立ち、私の頬にそっと手を触れた。  彼の指先は、ひんやりと冷たかったが、その温度とは裏腹に、私の心臓は熱く脈打った。「セリーナ。貴様は、本当に愛のない結婚に意味はないと、そう思っているのか?」  彼の問いかけは、まるで私の心を覗き込もうとするかのような響きだった。 「……はい」  私は、震える声で答えた。 「ならば、俺は……貴様を、愛せば良いのか?」  アシュトン様の言葉に、私は息を飲んだ。  愛する? 彼が? 感情を知らないと語っていた彼が、私を?  彼の瞳は、私を真剣に見つめていた。そこには、今まで見たことのないような、迷いや、戸惑いのような感情が揺らめいているように見えた。「アシュトン
Last Updated: 2025-07-05
Chapter: 10.私の決意
 王妃選定試験は、予想以上に熾烈なものだった。 私を含め、選ばれた令嬢たちは皆、それぞれの家柄と教養を背景に、王妃の座を巡って静かに火花を散らしていた。 私は、アシュトン様の視線を感じながらも、試験に集中しようと努めた。彼の執着は、私にとって重圧であると同時に、どこか奇妙な安心感を与えていることに、私自身が困惑していた。 試験の一環として、各令嬢は王族の前で自身の才覚を披露することになった。 私は、幼い頃から学んできたピアノを披露することにした。それは、私にとって、唯一の自己表現の場だった。 演奏の順番を待っている間、私は控え室で最後の練習をしていた。 その時、扉がノックされ、アシュトン様が姿を現した。「セリーナ。貴様は、ピアノを弾くのか」 彼の声には、僅かな驚きが混じっているように聞こえた。「はい。幼い頃から習っておりましたので」 私が答えると、アシュトン様は私の隣に立ち、私の手元にある楽譜に視線を落とした。「……貴様は、まだ私に何も明かしていないことがあったのだな」 彼の言葉には、どこか不満げな響きがあったが、その瞳の奥には、私への好奇心のような光が揺らめいているように見えた。「アシュトン様は、音楽がお好きではないと伺っておりましたが……」 私がそう言うと、彼は私に視線を向けた。「俺は、貴様の奏でる音ならば、聞いてやっても良い」 彼の言葉は、彼なりの精一杯の譲歩なのかもしれない。私は、彼の意外な言葉に、少しだけ心が温かくなった。 そして、私の番が来た。 私は、緊張しながら舞台へと向かった。客席には、国王陛下を始め、王族の方々、そして数多くの貴族たちが座っていた。 その中に、アシュトン様の姿もあった。彼の視線は、私を真っ直ぐに捉えていた。 私は、深呼吸をし、鍵盤に指を置いた。 私が演奏したのは、幼い頃から好きだった、故郷の風景を思い起こさせるような、穏やかな曲だった。 私の指が鍵盤の上を滑るたびに、澄んだ音色が広間に響き渡った。
Last Updated: 2025-07-05
Chapter: 9.王妃選定試験
 陛下の突然の来訪、そして私を次期王妃候補とする命令は、私の日常に大きな波紋を投げかけた。 アシュトン様は、私を王妃選定試験に参加させまいと、ますますその執着を強めた。公爵邸は、まるで私を閉じ込めるための厳重な檻と化したかのようだった。「セリーナ、今日は外出しないのか?」 朝食の席で、アシュトン様が私に尋ねた。彼の視線は、私の行動を常に探っているかのようだった。「はい。今日は、公爵邸の図書室で過ごそうかと」 私がそう答えると、彼は満足げに頷いた。「賢明な判断だ。外は騒がしい」 彼の言葉に、私は息苦しさを感じた。彼は、私が自主的に公爵邸に留まっていると思っているのだろうが、実際は彼の監視下から逃れることができないだけだ。 しかし、王妃選定試験への参加は、王命である。私が拒否すれば、フェルティア公爵家が危うくなる。 私は、アシュトン様の目を盗んで、父に手紙を送った。王命に背くことはできない、と。 数日後、父からの返信が届いた。そこには、王妃選定試験には必ず参加するように、という指示が書かれていた。そして、アシュトン様には、私が王妃選定試験に参加せざるを得ない状況であることを、それとなく伝えるように、とも。 私は、手紙を読み終えると、覚悟を決めた。 私は、王妃選定試験に参加する。それが、私の使命だ。 その夜、私はアシュトン様に、王妃選定試験に参加する旨を伝えようとした。 夕食の席で、彼がデザートに手を伸ばした時、私は意を決して口を開いた。「アシュトン様。私、王妃選定試験に参加させていただきます」 私の言葉に、アシュトン様の手がぴたりと止まった。 彼の顔から、一瞬にして血の気が引いていくのが見えた。 そして、ゆっくりと顔を上げ、私を射抜くような視線で睨みつけた。「……何を言っている?」 彼の声は、低く、そして怒りに満ちていた。「陛下からの命令でございます。フェルティア公爵家として、王命に背くことはできません」 私がそう言うと、アシュトン様は立ち上がり、テーブルを
Last Updated: 2025-07-04
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