Chapter: 第120話 辺境の狼は、愛する白百合を永遠に 春。 辺境の地に、生命が芽吹く季節が訪れた。 長く厳しい冬を乗り越えた大地は、雪解け水で潤い、柔らかな陽光を浴びて一斉に緑の衣をまとう。城壁の向こうに連なる山々の頂にはまだ残雪の白が見えるが、麓の森では鳥たちが愛の歌を競い合い、麓の村々では新しい命の誕生を祝う声が響いていた。 十数年前、この地が中央から見捨てられた絶望の流刑地だったことなど、もはや若い世代の者たちは知らない。彼らにとって辺境とは、王国で最も豊かで、平和で、そして希望に満ちた故郷だった。 その春たけなわのある日、ライナス・アルトマイヤーの一家は、城の南に広がる広大な植物園を散策していた。 ここは、かつてセレスティナが、生きるために、そして人々を救うために、たった一人で始めた小さな薬草園だった場所だ。今では、彼女の知識と領民たちの愛情によって、王都の王立庭園さえも凌ぐほどの、見事な植物の楽園へと姿を変えていた。薬効のあるハーブの区画、色とりどりの花が咲き乱れる花壇、そして遠い国から取り寄せた珍しい果樹が並ぶ果樹園。その全てが完璧に手入れされ、領民たちの憩いの場として、広く開放されている。「お母様、見て! このお花、すみれ色だわ!」 小さな手が、足元に健気に咲く一輪のパンジーを指さした。 その声の主は、エレナ・アルトマイヤー。今年で三つになる、ライナスとセレスティナの長女だ。父親譲りの黒髪は、光に当たると母親の銀髪のようにきらきらと輝き、大きな瞳の色は、父親の金色と母親のすみれ色が混じり合ったような、不思議なヘーゼル色をしていた。 セレスティナは、娘の前に優しく屈み込むと、その柔らかな髪を撫でた。「本当ね、エレナ。とても綺麗。あなたのお兄様が生まれた年に、お母様が初めて植えたお花よ」「へええ」 エレナは、感心したようにその小さな花をじっと見つめている。 少し先では、ライナスと長男のリアムが、何やら真剣な顔で話し込んでいた。 リアムは、今年で八つになった。背はぐんと伸び、顔つきも幼さが抜けて、少年らしい精悍さが備わり始めている。その姿は、若い頃のライナスを彷彿とさせたが、時折見せる思慮深い表情は、母親から受け継いだものだった。
Last Updated: 2025-11-29
Chapter: 第119話 私たちの協奏曲 辺境の地に、収穫を祝う季節が巡ってきた。 黄金色に実った麦は刈り取られ、ずっしりと重い果実は籠に満ち、人々の一年の労苦が豊かな恵みとなって結実する。この時期、辺境全土は一年で最も陽気な祝祭の空気に包まれた。 城下町の広場には、巨大な焚き火がいくつも焚かれ、その周りでは老いも若きも関係なく、手を取り合ってダンスの輪が広がっている。楽師たちが奏でる笛や太鼓の軽快なリズム、香ばしい肉の焼ける匂い、そして何よりも、人々の屈託のない笑い声。その全てが混じり合い、生命力に満ちた一つの大きな音楽となって、秋空へと響き渡っていた。 ライナスとセレスティナ、そして息子のリアムもまた、その祝祭の輪の中にいた。 辺境伯夫妻は、もはや民衆にとって遠い存在ではない。ライナスは、鉄狼団の古参兵たちと豪快にエールを酌み交わし、セレスティナは、村の女たちが持ち寄った焼き菓子を「美味しい」と微笑みながら頬張る。「奥方様! このパイは、うちの畑で採れたカボチャなんですよ!」「まあ、素晴らしい。甘くて、太陽の味がしますわね」 そんな気さくなやり取りが、ごく自然に交わされる。 リアムは今年で五つになった。父親譲りの運動神経で、同じ年頃の子供たちと広場を駆け回り、頰をリンゴのように赤く染めている。時折、母親の元へ駆け寄っては、得意げに戦利品の木の実を見せに来た。 その光景は、数年前には誰も想像できなかった、平和そのものの縮図だった。この豊かさと笑顔こそが、ライナスとセレスティナが長い戦いの果てに手に入れた、何よりも尊い宝物だった。 やがて、太陽が西の山脈へと傾き始め、空が燃えるような茜色に染まる頃、祭りの喧騒も少しずつ穏やかになっていった。 ライナスは、人々の輪から少し離れた場所で、妻と息子の姿を静かに見つめていた。その金色の瞳は、いつになく穏やかで、深い思索の色を湛えている。 彼は、セレスティナの元へ歩み寄ると、その耳元で静かに囁いた。「セレスティナ。少し、付き合ってくれないか」「あなた? どこかへ?」「ああ。リアムも一緒に。とっておきの場所がある」 その悪戯っぽい笑みに、セレスティナはすぐに察しがつ
Last Updated: 2025-11-28
Chapter: 第118話 陽だまりの家族 王都での激務を終え、辺境に戻ってから、さらに三年という歳月が流れた。 ライナス・アルトマイヤーの名は、今や王国全土に轟いている。若き国王の最も信頼篤い臣下として国政の中枢に関わりながら、彼は決して辺境の主であることを忘れなかった。王都での改革が軌道に乗ると、その後の実務は信頼できる者たちに任せ、自身は愛する妻と民が待つこの土地へと帰還した。 彼の不在中も、辺境はセレスティナとギデオンによって見事に治められ、その豊かさは留まるところを知らなかった。王国に新しい秩序が生まれ、辺境がその礎として確固たる地位を築いた今、かつてのような戦乱の日は遠い昔の物語のように感じられた。 そして、その穏やかな日々の中に、新しい光が一つ、灯っていた。 その日の午後、城の書庫は静かな陽光で満たされていた。 セレスティナは、大きな机に領内の村から届いた陳情書の束を広げ、一本一本丁寧に目を通していた。その横顔は、母親となったことで、かつての凛とした美しさに、さらに深い慈愛と柔和さが加わっている。 ふと、ペンを置いた彼女は、窓の外へと視線を向けた。書庫の窓からは、手入れの行き届いた中庭が一望できる。初夏の風が木々の葉を揺らし、色とりどりの花が陽光を浴びて咲き誇っていた。 その、絵画のように美しい庭の一角に、彼女の愛する二人の姿があった。 夫であるライナスと、彼らの息子。 セレスティナは、思わず笑みを浮かべた。その光景は、彼女がこの世で最も尊いと感じる、陽だまりのような時間の結晶だった。 中庭の芝生の上で、ライナスは屈強な体を小さくかがめ、目の前に立つ小さな男の子と向き合っていた。 男の子の名は、リアム・アルトマイヤー。 今年で四つになる、辺境伯夫妻の待望の長子だ。父親譲りの癖のない黒髪と、母親から受け継いだ澄んだすみれ色の瞳を持っている。その小さな手には、彼のために作られた短い木剣が、少し頼りなげに握られていた。「リアム。剣はそうやって振り回すものではない」 ライナスの声は、軍を指揮する時と同じように低く、厳しい。だが、その声色には、隠しようもない愛情が滲んでいた。「足を開け。腰を落とす。そうだ、もっと
Last Updated: 2025-11-27
Chapter: 第117話 王国の礎 辺境の朝は、いつも変わらぬ静けさと共に訪れる。 城壁の向こうに広がる山脈の稜線が、暁の淡い光を浴びて紫水晶のように輝き始める頃、ライナス・アルトマイヤーはすでに馬上の人となっていた。彼の愛馬である漆黒の軍馬は、主の意を汲んでか、土を踏む蹄の音も静かだ。 冷たく澄んだ空気が肺を満たす。この感覚こそが、彼に生きていることを実感させた。 セレスティナと結ばれて五年。辺境は劇的な変化を遂げた。かつて絶望の色に染まっていた大地は、今や王国で最も豊かな土地の一つとして知られている。その変革の中心にいたのは、間違いなくこの二人だった。ライナスの揺るぎない統率力と、セレスティナの深い知識と慈愛。二つの力が完璧に融合した時、奇跡は必然としてこの地に起きたのだ。 日の出前の薄闇の中、ライナスは馬を駆り、広大な麦畑を見下ろす丘の上で足を止めた。眼下に広がるのは、収穫を間近に控えた黄金色の海。風が渡るたびに、さざ波のように穂が揺れる。五年前には、痩せた土地と荒れ果てた村々が広がっていた場所だ。「…見事なものだ」 誰に言うともなく、ライナスは呟いた。その金色の瞳には、戦場で敵を射抜く鋭さとは違う、穏やかで深い満足の色が浮かんでいる。 背後から、もう一頭の馬が静かに近づいてきた。鉄狼団の副長であり、今や辺境の内政を実質的に取り仕切るギデオンだ。「旦那様。そろそろお戻りになりませんと、奥方様がご心配なさいます」「ああ、分かっている」 ライナスは頷き、手綱を返した。彼が辺境の狼と呼ばれた男から、一人の夫、そして父へと変わったことを、ギデオンは誰よりも強く感じていた。 城へ戻ると、セレスティナが玄関ホールで彼を迎えた。彼女はもう、華奢なだけの令嬢ではない。辺境の女主としての気品と落ち着きが、その全身から滲み出ている。「おかえりなさい、あなた。今朝も早かったのですね」「ああ。畑の様子を見てきた。今年の収穫は期待できそうだ」 ライナスは馬から降りると、ごく自然に彼女の腰を抱き寄せ、その額に口づけを落とした。彼らの間では、もう日常となった光景だ。「それより、王都からの急使が参着しております。旦那
Last Updated: 2025-11-26
Chapter: 第116話 豊穣の大地 湖畔の樫の木の下で永遠の愛を誓い合ってから、五年という歳月が流れた。 辺境の地は、まるで長い眠りから覚めたかのように、その姿を劇的に変えていた。 かつて、中央から見捨てられた罪人たちの流刑地であり、灰色の絶望が支配していた町は、もうどこにもない。街道は整備され、石畳の道には活気ある人々の声と、荷馬車の車輪の音が陽気に響いている。家々の壁は白く塗り直され、窓辺には色とりどりの花が飾られていた。町の中心を流れる川には、頑丈で美しい石橋が架けられ、子供たちの笑い声が水面に弾ける。 それは、ただ町並みが綺麗になったというだけの変化ではなかった。人々の顔つきそのものが、変わったのだ。誰もがその背筋を伸ばし、自分の仕事に誇りを持ち、明日という日を信じて生きている。その瞳には、かつての諦観の色はなく、自分たちの手で未来を築くのだという、力強い光が宿っていた。 この奇跡のような変化をもたらしたのが、彼らが心から敬愛する辺境伯夫妻、ライナス・アルトマイヤーとセレスティナ・アルトマイヤーであることは、この地に住まう者ならば誰もが知っていた。 その日の午後、セレスティナは簡素な作りの馬車に揺られ、領内の視察に出かけていた。 五年という月日は、彼女にも穏やかな変化をもたらしていた。かつての儚げな少女の面影は薄れ、今は辺境の女主人としての落ち着きと、慈愛に満ちた柔らかな風格が備わっている。銀糸の髪は、今は実務的な三つ編みにまとめられていることが多かったが、その気高さは少しも損なわれてはいない。 最初に訪れたのは、町の東地区に建てられた、領内最大規模の診療所だった。 「奥方様、ようこそお越しくださいました」 白衣をまとった初老の医師が、深々と頭を下げて彼女を迎えた。彼は、セレスティナの呼びかけに応じて、王都からこの辺境の地へやってきた、数少ない良心的な知識人の一人だった。 「変わりはありませんか、先生」 「はい。おかげさまで、皆、健やかに過ごしております。これもひとえに、奥方様がこの地に衛生という概念と、薬草学の知識を広めてくださったおかげです」 診療所の中は、清潔な木の匂いと、薬草を煎じる穏やかな香りで満ちていた。かつて、
Last Updated: 2025-11-25
Chapter: 第115話 初夜 夜空を彩っていた祝祭の篝火が、一つ、また一つと静かに消えていく。 あれほど賑やかだった城の広場も、今はもう祭りの後の心地よい静けさに包まれていた。名残惜しそうに帰っていく最後の民を見送り、ライナスとセレスティナは、あの夜誓いを交わした見張り台を後にした。 宴の熱気と喧騒が嘘のように静まり返った城の中を、二人は侍女頭のマルタに導かれて歩いていく。磨き上げられた石の床に、三人の足音だけが規則正しく響いていた。壁に灯された松明の炎が、影を長く揺らめかせる。 セレスティナは、隣を歩くライナスの大きな手を、知らず識らずのうちに強く握りしめていた。ライナスもまた、その小さな震えに気づいているのか、黙って力強く握り返してくれる。その温もりが、高鳴る心臓を少しだけ落ち着かせてくれた。 今日一日は、まるで疾風怒濤のようだった。 湖畔での誓いの儀、民衆からの万雷の祝福、そして身分の隔てなく酌み交わした祝宴の酒。その一つ一つが、セレスティナの胸に温かい光となって降り積もっている。かつて王都で経験した、虚飾と政略に満ちた夜会とは全く違う、魂が震えるような本物の喜びに満ちた一日だった。 だが、この長い一日の終わりには、まだ最後の、そして最も大切な儀式が残されている。 復讐でもなく、政略でもない。ただ、愛し合う男と女として、心も体も、完全に一つになる夜。 そう思うだけで、顔に熱が集まるのを感じた。嬉しい。心の底から、この日を迎えられたことが嬉しいのだ。けれど同時に、未知への不安と恥じらいが、彼女の足をほんの少しだけ重くしていた。 やがてマルタは、城の最上階に近い、最も静かな一室の前で足を止めた。重厚な樫の木で作られた扉は、この日のために新しく誂えられたものだろう。「旦那様、奥方様。こちらがお部屋でございます」 マルタは、いつもと変わらぬ厳格な表情で言ったが、その声には隠しきれない温かみが滲んでいた。彼女は、扉の横に控えていた若い侍女たちに目配せすると、セレスティナに向き直り、深く、深く頭を下げた。「…奥方様。どうか、末永く、お幸せに。我ら一同、心よりお祈り申し上げております」 その言葉は、主従の関係を超えた、ま
Last Updated: 2025-11-24
Chapter: 番外編:名もなき花に捧ぐ愛の詩 王都の街角は今日も行き交う人々で賑わいを見せている。石畳の道を軽快に駆ける辻馬車の蹄の音、市場の商人たちの威勢のいい呼び声、そして人々の笑い声が混じり合い、活気に満ちた旋律を奏でていた。 そんな喧騒から少しだけ離れた路地裏に、リリアの花屋はひっそりと佇んでいた。店先に並べられた色とりどりの花々が、灰色の石壁の街並みに柔らかな彩りを添えている。リリアはこの場所で、朝露に濡れた花びらを一枚一枚丁寧に拭き、訪れる客のために小さな花束を作るのが日課だった。 彼女のささやかな日常の中で、心の支えとなっている物語がある。 それは、今や王都で知らぬ者のない「公正なる侯爵とその妻の物語」。かつて一介の侍女だったアメリア様が、名門ヴァルター侯爵家の嫡男レイモンド様に見初められ、多くの困難を乗り越えて結ばれたという、まるでおとぎ話のような実話だ。 身分違いの恋。それは、この国では決して許されることのない禁忌。しかし、彼らは真実の愛の力で、その分厚い壁を打ち破った。レイモンド様はアメリア様ただ一人を愛し抜き、その誠実さで周囲を動かし、ついには国王陛下からの祝福さえも勝ち取ったのだ。 リリアは仕事の合間に、客から聞くその物語の断片を胸の中で何度も反芻した。侯爵様が、いかにアメリア様を慈しみ、守り抜いたか。アメリア様が、いかに健気に、そして強く侯爵様を支え続けたか。その一つ一つの逸話が、リリアの心に温かい光を灯す。「いつか私にも、あんな素敵な出会いが訪れるだろうか……」 そんな淡い夢を抱いてしまうのは、仕方のないことだった。もちろん、自分が高貴な殿方と結ばれるなどという大それた望みを抱いているわけではない。ただ、レイモンド様のように、一人の女性を心の底から大切にしてくれる人が、この世界のどこかにいるのなら。そう思うだけで、平凡な毎日が少しだけきらめいて見えるのだ。 その日も、リリアはいつもと同じように店先で花の世話をしていた。春の柔らかな日差しが、店先に並んだゼラニウムの赤い花びらを鮮やかに照らし出している。その時だった。 からん、と店のドアベルが軽やかな音を立てた。「いらっしゃいませ」
Last Updated: 2025-08-28
Chapter: 第30話:エピローグ・二人の愛が紡ぐ未来 あの日、王宮から発せられた布告は、王都に大きな衝撃を与えた。平民の侍女が、名門侯爵家の嫡男と婚姻を結ぶ。それは、厳格な身分制度の中で生きる人々にとって、前代未聞の出来事だった。しかし、レイモンド・ヴァルター侯爵の類稀なる功績と、国王陛下の強い意志が、その不可能を可能にしたのだ。 そして、その布告から数週間後、王都の教会で、レイモンドとアメリアの結婚式が執り行われた。質素ながらも温かい式には、王室関係者や有力貴族、そして、アメリアがかつて仕えた屋敷の侍女たちも招待された。レイモンドは、白い軍服を纏い、誇らしげにアメリアの手を取った。アメリアは、手作りのシンプルな白いドレスを身に纏い、幸福に満ちた笑顔で、レイモンドの隣に立っていた。二人の瞳には、互いへの揺るぎない愛と、共に困難を乗り越えた者だけが持つ、強い絆が宿っていた。 それから、数年の月日が流れた。 王都の一角にある、小さな、しかし温かい侯爵邸には、アメリアとレイモンド、そして彼らの間に生まれた二人の子供たちの賑やかな声が響いていた。長男はレイモンド譲りの琥珀色の瞳と、アメリアの情熱的な赤毛を受け継ぎ、好奇心旺盛な男の子に育った。そして、末の娘は、アメリアに似た優しい眼差しと、レイモンドを彷彿とさせる凛とした佇まいを持つ、愛らしい女の子だった。 アメリアは、侯爵夫人となった今も、かつての侍女時代と変わらず、質素で勤勉な日々を送っていた。高価なドレスを身につけることはあるが、彼女はそれを飾るものとは考えておらず、日々の家事や子育てにも積極的に関わった。彼女は、自ら庭の手入れをし、子供たちのために手料理を作り、そして、夫であるレイモンドの帰りを温かく迎えることを何よりも大切にした。 レイモンドは、ヴァルター侯爵として、以前にも増して多忙な日々を送っていた。彼は、国の行政改革に尽力し、民の生活を向上させるための政策を次々と打ち出した。彼の公正な判断力と、民を思う心は、王宮内外で高く評価され、彼は「公正なる侯爵」として、多くの人々に慕われる存在となっていた。 どんなに忙しい日でも、レイモンドは必ず、夕食の時間には家に帰った。彼の帰りを待つのは、温かい食事と、愛する妻と子供たちの笑顔だ。書斎で疲れた一日を終え、リビングに戻
Last Updated: 2025-08-28
Chapter: 第29話:新たな誓い レイモンドが自身の家族と貴族社会の重鎮たちにアメリアへの真実の愛を打ち明け、猛烈な反対に遭いながらも、彼の揺るぎない決意は、少しずつ周囲の心を動かし始めていた。旧友や元部下といった協力者の存在、そして、失われた古文書から見つかった「功績による身分の向上」という歴史的先例。それらの光が、レイモンドとアメリアが共に歩むための、新たな道筋を照らし始めたのだ。 レイモンドは、父親であるヴァルター侯爵との連日の話し合いを続けた。侯爵は、息子の頑なな態度と、彼が示す揺るぎない決意に、徐々に根負けしていく様子を見せ始めた。特に、古文書に記された先例と、レイモンドの類稀なる功績を前にしては、侯爵も反論の余地がなくなっていったのだ。「レイモンド…そこまで言うのなら、もう好きにするがいい。だが、この選択が、お前自身の首を絞めることにならぬよう、肝に銘じておけ」 侯爵は、まだ完全に納得したわけではなかったが、息子の強い意志を認めざるを得ない状況だった。それは、侯爵にとって、息子への信頼と、ヴァルター家の未来への懸念が入り混じった、複雑な決断だった。 レイモンドは、父親の言葉に深く頭を下げた。「ありがとうございます、父上。必ず、父上の期待を裏切りません」 侯爵家からの理解を得る見通しが立ったことで、レイモンドは次の段階へと進んだ。彼は、王宮に正式な謁見を求め、国王陛下に直接、アメリアとの婚姻を願い出たのだ。 謁見の間で、レイモンドは、国王陛下と、その場に居合わせた有力貴族たちの前で、アメリアへの真実の愛を、そして、彼女が自らの命を顧みずに彼を支え、国家の危機を救う手助けをしてくれた功績を、全て語った。そして、古文書に記された「功績による身分の向上」という先例を提示し、アメリアに貴族としての身分を与えることを懇願した。「陛下。彼女は、王宮の侍女という身でありながら、私と共に国家の危機を救うため、命の危険を顧みずに行動してくれました。彼女の献身と勇気がなければ、国家の秩序は揺らぎ、多くの民が苦しむことになったでしょう。この功績は、如何なる貴族にも劣らぬものと信じております」 レイモンドの声は、謁見の間に響き渡った。彼の言葉には、アメリ
Last Updated: 2025-08-27
Chapter: 第28話:未来への光 レイモンドが自身の家族と貴族社会の重鎮たちに、アメリアへの真剣な想いを打ち明けて以来、彼が直面する反対と抵抗は、日を追うごとに激しさを増していた。侯爵家は、ドール公爵家との縁談を強引に進めようとし、王宮内の貴族たちも、レイモンドの行動を「身分違いの恋に現を抜かす愚行」として非難した。しかし、レイモンドの、アメリアを守り抜くという強い意志は、何者にも揺るがなかった。 レイモンドは、日中は貴族としての職務をこなしながら、夜はアメリアの件で父親や縁談相手の使者との議論に明け暮れていた。彼の疲労はピークに達していたが、その瞳の奥の決意は、少しも曇ることがなかった。「父上、何度申し上げればお分かりいただけますか。私が結婚するのはアメリアだけです。他の女性と婚姻を結ぶなど、ありえません」 侯爵邸の書斎で、連日繰り返される父親との押し問答。侯爵は、息子がここまで頑なであることに、苛立ちを隠せない。「レイモンド!貴様はヴァルター家の嫡男だぞ!私情で家名を貶めるような真似は許さん!」「家名を貶めるのは、私情に流されることではございません。愛のない婚姻を結び、心を偽ることこそ、家名を汚す行為です!」 レイモンドの声は、侯爵に負けないほどの強い意志に満ちていた。彼の言葉は、貴族社会の常識とはかけ離れていたが、そこには真実の愛を貫こうとする、騎士としての揺るぎない魂が宿っていた。 その頃、アメリアは、レイモンドが激しい戦いの渦中にあることを肌で感じ取っていた。屋敷の侍女たちの噂話は、日を追うごとにレイモンドの縁談話と、その進捗に関するものへと変化していった。どうやら、レイモンドがその縁談を頑なに拒否しているらしい、という情報も、アメリアの耳に届くようになった。(レイモンド様…) アメリアは、彼の苦悩を思うと、胸が締め付けられた。自分が、彼にどれほどの重荷を背負わせているのか。それでも、彼女は彼を信じ、遠くから彼の無事と成功を祈り続けていた。彼女にできることは、直接彼を助けることではない。しかし、彼が自分を愛してくれているという事実を胸に、強く、そして健気に日々を過ごすことが、彼への最大の支えだと信じていた。 そんなレイモンドの努力と、アメリアの献身的な支えが、少しずつ周囲の理解を得始める兆候が現れ始めた。 ある日、レイモンドの旧友であり、彼がかつて命を救った騎士の
Last Updated: 2025-08-27
Chapter: 第27話:障壁への挑戦 互いの真実の愛を確かめ合い、身分差という大きな障壁を共に乗り越える覚悟を決めたレイモンドとアメリア。レイモンドは、アメリアとの未来のために、貴族としての地位を捨てることも辞さないとまで言い切った。その彼の決意は、アメリアにとって何よりも心強く、彼女もまた、どんな困難な道であっても彼と共に歩むことを誓った。しかし、彼らの愛が直面する現実の壁は、想像以上に高く、そして冷酷だった。 レイモンドは、アメリアと未来を誓い合った翌日、すぐに行動に移した。彼は、自邸に戻ると、多忙な公務の合間を縫って、父親であるヴァルター侯爵に面会を求めた。書斎に足を踏み入れたレイモンドの表情は、いつも以上に真剣で、彼の決意が滲み出ていた。「父上。申し上げたいことがございます」 ヴァルター侯爵は、息子が何か重要な報告に来たのかと思い、資料から目を上げた。彼にとって、レイモンドはヴァルター家の再興を成し遂げた誇り高き息子だった。「何だ、レイモンド。改まって」 レイモンドは、深呼吸をした。 「私には、結婚を望む女性がおります」 侯爵の表情が、一瞬にして凍りついた。彼は、ドール公爵家との縁談が順調に進んでいることを知っていたからだ。「何を言うか。お前には、ドール公爵家のご令嬢との婚約話が進んでいるはずだ。この期に及んで、何を戯言を…」「戯言ではございません、父上。私は、ドール公爵家のご令嬢とは結婚できません。私が愛しているのは、別の女性です」 レイモンドの言葉に、侯爵は激怒した。彼の顔は、みるみるうちに赤くなった。 「馬鹿なことを言うな!どこの出の女だ!?まさか、あの侍女の娘ではあるまいな!?」 侯爵の言葉に、レイモンドは身構えた。やはり、アメリアの存在は、既に嗅ぎつけられていたのだ。「…はい。彼女の名はアメリアと申します。彼女こそが、私が愛し、生涯を共にしたいと願う女性です」 レイモンドの言葉に、侯爵は、持っていた書類を音を立てて机に叩きつけた。「ふざけるな、レイモンド!お前は、ヴァルター家の嫡男だぞ!この家が、どれほどの苦境を乗り越えてきたか、忘れたとでも言うのか!?
Last Updated: 2025-08-26
Chapter: 第26話:身分を越えるための決意 互いの真実の愛を確かめ合ったレイモンドとアメリア。危険な裏路地の倉庫で交わした告白とキスは、彼らの心を深く結びつけた。レイモンドの「溺愛」が契約とは関係のない真実の愛であることを知り、アメリアもまた、彼への揺るぎない想いを伝えたことで、二人の間に横たわっていた壁は、一度は取り払われたかのように思えた。しかし、彼らの愛を阻む、もう一つの大きな障壁が、依然として存在していた。それは、彼らの間に厳然と存在する「身分差」だった。 夜が明け、王都に朝の光が差し込む頃、レイモンドはアメリアを連れ、再び人目を忍んで隠れ家へと戻った。倉庫での夜明けは、彼らにとって、新たな未来の始まりを告げるかのようだったが、同時に、現実の厳しさを突きつけるものでもあった。 隠れ家に戻った二人の間には、昨日までの切なさとは異なる、静かで、しかし確かな温もりが満ちていた。レイモンドは、アメリアを腕の中に抱き寄せ、その髪を優しく撫でた。「アメリア…」 彼の声は、昨夜の激しい感情とは打って変わり、落ち着いていたが、その中には、アメリアへの深い愛情が溢れていた。 「昨夜は…混乱させてしまってすまなかった」 アメリアは、彼の言葉に顔を上げた。 「いいえ…レイモンド様のお気持ちを知ることができて、私は…本当に嬉しかったです」 アメリアの瞳は、まだかすかに赤く、だが、その奥には、彼への真実の愛が輝いていた。 レイモンドは、アメリアの頬にそっと触れると、深呼吸をした。 「愛している。それは、決して嘘偽りのない、俺の本心だ」 彼の真剣な眼差しに、アメリアの心臓は大きく鳴った。 「はい…私もです」 二人の間に、再び静かな時間が流れる。互いの存在を確かめ合うように、強く抱きしめ合った。しかし、この幸福な瞬間にも、レイモンドの頭の中では、現実の問題が巡っていた。 レイモンドは、アメリアを抱きしめたまま、静かに語り始めた。 「お前を愛している。だからこそ、俺は、お前との未来を諦めるわけにはいかない」 アメリアは、彼の言葉に、胸が高鳴るのを感じた。「だが、お前も知っている
Last Updated: 2025-08-25
Chapter: 14.エピローグ:愛しい日々 あれから半年。 アシュトン様との婚約は無事に継続され、公爵邸での私の生活は、以前では考えられないほど穏やかで、そして温かいものに満ちていた。 冷徹公爵と呼ばれたアシュトン様は、今ではすっかり「愛妻家公爵」などと揶揄される始末だ。もちろん、本人に直接言う者はいないけれど。「セリーナ。また、そんなところで居眠りを」 暖炉のそばの大きなソファで、日当たりの良さに誘われてうとうとしていた私に、低い声がかけられた。 ゆっくりと目を開けると、アシュトン様が、いつの間にか私の隣に座っていた。彼は執務の合間に、こうして私を覗きに来るのが常になっていた。「あら、アシュトン様。お仕事はもうよろしいのですか?」 私がにこやかに問いかけると、彼の眉間に薄く皺が寄った。「貴様の顔を見に来ただけだ」 相変わらず素っ気ない言い方だが、その瞳の奥には、確かな優しさが宿っている。「ふふ、ありがとうございます」 私が身を起こすと、アシュトン様は私の髪に触れた。「髪が乱れているぞ」 そう言って、不器用な手つきで私の髪を直そうとする。以前の彼からは想像もできない行動に、私は小さく笑った。「あら、アシュトン様の手ほどきなんて、贅沢ですね」 私が揶揄うと、彼は少しだけ顔を赤らめた。「それより、セリーナ」 彼は、真顔に戻ると、私の手を握った。「今日の午後、王都の菓子店へ出かけると聞いたが、一人で行くつもりか?」 彼の言葉に、私は思わず目を瞬かせた。私が侍女に話しただけのことを、彼はなぜ知っているのだろう。「ええ。新しい菓子の材料を探しに」 私が答えると、アシュトン様はすぐに言った。「俺も同行する」「あら、お忙しいのではありませんか?」 私が尋ねると、彼はふいと顔をそらした。「……貴様を一人で行かせるのは、心配だ」 その言葉に、私はぷっと吹き出した。相変わらずの、隠しきれない執着ぶりだ。「もう、アシュトン様ったら。私が一人で何ができるというので
Last Updated: 2025-07-08
Chapter: 13.二人の未来 王妃の座を辞退するという、前代未聞の決断を下した後、私は王宮の廊下を、心穏やかに歩いていた。 私の胸には、国王陛下の言葉が響いていた。「真実の愛を選んだ貴殿の人生が、幸福に満ちたものとなることを願う」。 名誉や権力ではなく、私が本当に望むものを手に入れたのだという確かな充足感が、私の全身を包み込んでいた。 王宮を出て、待たせていた馬車に乗り込んだ。 馬車が公爵邸へと向かう間、私の心は、早くアシュトン様の元へと帰りたいという思いでいっぱいだった。 彼が、私の決断を知ったら、どんな顔をするだろう。 驚くだろうか、それとも、安堵してくれるだろうか。 彼の表情を思い浮かべると、自然と頬が緩んだ。 公爵邸の門が見えてきた。 門の前には、アシュトン様が、私を待っていたかのように、そこに立っていた。 彼の顔には、微かな不安の色が浮かんでいるように見えた。 私が馬車から降りると、アシュトン様は私に駆け寄ってきた。 「セリーナ……」 彼の声は、不安と、そして、私への強い想いが入り混じったような響きだった。 私は、彼の顔を見上げ、満面の笑みを浮かべた。 「アシュトン様。私、王妃の座を辞退してまいりました」 私の言葉に、アシュトン様の表情が、一瞬にして凍りついた。 そして、彼の瞳の奥に、深い絶望の色が浮かんだように見えた。 「だが……貴様は、最終合格者だったのだろう……?」 彼が何かを言おうとすると、私は彼の言葉を遮った。「はい。ですが、お伝えいたしました通り、私には王妃の務めを全うすることはできません。私の心は、すでにアシュトン様だけを愛しておりますから」 私の言葉に、アシュトン様の瞳が、驚きに見開かれた。 信じられないものを見るように、私を見つめている。 「どういうことだ……セリーナ……」 彼の声は、戸惑いと、そして、微かな希望が混じり合っているように聞こえた。 私は、彼の両手を握りしめ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。 「愛のない結婚に意味はないと、私がお伝えし
Last Updated: 2025-07-08
Chapter: 12.陛下への謁見 王妃選定試験の最終結果が発表される日。 私は、公爵邸でアシュトン様と共にその知らせを待っていた。アシュトン様は、落ち着かない様子で執務室の窓辺に立ち、遠くの空を眺めていた。その横顔には、珍しく微かな緊張の色が浮かんでいるように見えた。 私は、彼の隣にそっと歩み寄った。「アシュトン様。もし、私が王妃に選ばれたら……」 私が言葉を切ると、アシュトン様は私を真っ直ぐに見つめた。「その時は、貴様の意思を尊重しよう。だが、貴様が望むのならば、俺は……」 彼の言葉は、そこで途切れた。彼の瞳の奥には、私への強い執着と、そして、失うことへの微かな恐怖が揺らめいているように見えた。 その時、公爵邸の執事が慌ただしく執務室に飛び込んできた。「アシュトン様!セリーナ様!王宮から、伝令でございます!」 執事の手には、厳重な封がされた書状が握られていた。 アシュトン様は、その書状を受け取ると、ゆっくりと封を破り、中身に目を通した。 彼の表情が、見る見るうちに硬直していくのが見えた。「……そうか」 彼は、低い声で呟いた。「アシュトン様、何と書かれていましたの?」 私が尋ねると、アシュトン様は書状を私に手渡した。 私は、震える手で書状を受け取り、その内容に目を通した。 『セリーナ・フェルティア嬢を、次期王妃候補の最終合格者と定める。よって、改めて王妃の座への意向を問う』 私は、その言葉に、息を飲んだ。 私が、王妃に選ばれる可能性が最も高かったのだ。つまり、王妃になるか否かは、私の最終的な意思にかかっている。「セリーナ……」 アシュトン様が、私の名を呼んだ。 私は、彼に視線を向けた。彼の瞳は、私を深く見つめていたが、その奥には、複雑な感情が渦巻いているように見えた。「貴様が、望んだ結果か?」 彼の問いかけに、私は、迷いなく答えた。「いいえ、アシュトン様。これは、私の
Last Updated: 2025-07-07
Chapter: 11.選択と迫る決断 王妃選定試験は佳境に入り、最終候補の三人への注目は日々高まっていった。私、セリーナ・フェルティア。そして、最後まで残ったのは、私と、もう一人、侯爵令嬢のリアーナ・クレメンス嬢だった。エルメリア嬢は、アシュトン様の介入により早々に辞退を余儀なくされ、王妃の座を巡る争いは、私とリアーナ嬢の一騎打ちとなっていた。 アシュトン様の執着は、王宮でも知れ渡るようになり、私がどこへ行っても彼の護衛が影のように付き従った。周囲の令嬢たちからは好奇の目で見られたが、私にとって彼の存在は、重圧であると同時に、漠然とした不安を打ち消してくれる唯一のよりどころになりつつあった。彼の歪んだ執着の中に、私への確かな「特別」があることを、私の心は感じ取っていたのだ。 ある日の夕食後、私はアシュトン様の執務室に呼び出された。 「セリーナ。王妃選定試験の進捗は?」 彼の声は、いつも通り感情の起伏が少なかったが、その瞳は私を深く見つめていた。 「滞りなく進んでおります。最終選考に残ったのは、私とリアーナ嬢の二人でございます」 私がそう答えると、彼は静かに頷いた。 「国王陛下は、貴様を高く評価していると聞く。貴様は、本当に王妃になるつもりか?」 彼の問いかけに、私は言葉に詰まった。王妃の座は、名誉であり、フェルティア公爵家の繁栄にも繋がる。しかし、それは同時に、アシュトン様の隣から離れることを意味していた。「……王命に背くことはできません」 私は、そう答えるのが精一杯だった。 アシュトン様は、私の言葉を聞くと、ゆっくりと椅子から立ち上がった。 そして、私の前に立ち、私の頬にそっと手を触れた。 彼の指先は、ひんやりと冷たかったが、その温度とは裏腹に、私の心臓は熱く脈打った。「セリーナ。貴様は、本当に愛のない結婚に意味はないと、そう思っているのか?」 彼の問いかけは、まるで私の心を覗き込もうとするかのような響きだった。 「……はい」 私は、震える声で答えた。 「ならば、俺は……貴様を、愛せば良いのか?」 アシュトン様の言葉に、私は息を飲んだ。 愛する? 彼が? 感情を知らないと語っていた彼が、私を? 彼の瞳は、私を真剣に見つめていた。そこには、今まで見たことのないような、迷いや、戸惑いのような感情が揺らめいているように見えた。「アシュトン
Last Updated: 2025-07-05
Chapter: 10.私の決意 王妃選定試験は、予想以上に熾烈なものだった。 私を含め、選ばれた令嬢たちは皆、それぞれの家柄と教養を背景に、王妃の座を巡って静かに火花を散らしていた。 私は、アシュトン様の視線を感じながらも、試験に集中しようと努めた。彼の執着は、私にとって重圧であると同時に、どこか奇妙な安心感を与えていることに、私自身が困惑していた。 試験の一環として、各令嬢は王族の前で自身の才覚を披露することになった。 私は、幼い頃から学んできたピアノを披露することにした。それは、私にとって、唯一の自己表現の場だった。 演奏の順番を待っている間、私は控え室で最後の練習をしていた。 その時、扉がノックされ、アシュトン様が姿を現した。「セリーナ。貴様は、ピアノを弾くのか」 彼の声には、僅かな驚きが混じっているように聞こえた。「はい。幼い頃から習っておりましたので」 私が答えると、アシュトン様は私の隣に立ち、私の手元にある楽譜に視線を落とした。「……貴様は、まだ私に何も明かしていないことがあったのだな」 彼の言葉には、どこか不満げな響きがあったが、その瞳の奥には、私への好奇心のような光が揺らめいているように見えた。「アシュトン様は、音楽がお好きではないと伺っておりましたが……」 私がそう言うと、彼は私に視線を向けた。「俺は、貴様の奏でる音ならば、聞いてやっても良い」 彼の言葉は、彼なりの精一杯の譲歩なのかもしれない。私は、彼の意外な言葉に、少しだけ心が温かくなった。 そして、私の番が来た。 私は、緊張しながら舞台へと向かった。客席には、国王陛下を始め、王族の方々、そして数多くの貴族たちが座っていた。 その中に、アシュトン様の姿もあった。彼の視線は、私を真っ直ぐに捉えていた。 私は、深呼吸をし、鍵盤に指を置いた。 私が演奏したのは、幼い頃から好きだった、故郷の風景を思い起こさせるような、穏やかな曲だった。 私の指が鍵盤の上を滑るたびに、澄んだ音色が広間に響き渡った。
Last Updated: 2025-07-05
Chapter: 9.王妃選定試験 陛下の突然の来訪、そして私を次期王妃候補とする命令は、私の日常に大きな波紋を投げかけた。 アシュトン様は、私を王妃選定試験に参加させまいと、ますますその執着を強めた。公爵邸は、まるで私を閉じ込めるための厳重な檻と化したかのようだった。「セリーナ、今日は外出しないのか?」 朝食の席で、アシュトン様が私に尋ねた。彼の視線は、私の行動を常に探っているかのようだった。「はい。今日は、公爵邸の図書室で過ごそうかと」 私がそう答えると、彼は満足げに頷いた。「賢明な判断だ。外は騒がしい」 彼の言葉に、私は息苦しさを感じた。彼は、私が自主的に公爵邸に留まっていると思っているのだろうが、実際は彼の監視下から逃れることができないだけだ。 しかし、王妃選定試験への参加は、王命である。私が拒否すれば、フェルティア公爵家が危うくなる。 私は、アシュトン様の目を盗んで、父に手紙を送った。王命に背くことはできない、と。 数日後、父からの返信が届いた。そこには、王妃選定試験には必ず参加するように、という指示が書かれていた。そして、アシュトン様には、私が王妃選定試験に参加せざるを得ない状況であることを、それとなく伝えるように、とも。 私は、手紙を読み終えると、覚悟を決めた。 私は、王妃選定試験に参加する。それが、私の使命だ。 その夜、私はアシュトン様に、王妃選定試験に参加する旨を伝えようとした。 夕食の席で、彼がデザートに手を伸ばした時、私は意を決して口を開いた。「アシュトン様。私、王妃選定試験に参加させていただきます」 私の言葉に、アシュトン様の手がぴたりと止まった。 彼の顔から、一瞬にして血の気が引いていくのが見えた。 そして、ゆっくりと顔を上げ、私を射抜くような視線で睨みつけた。「……何を言っている?」 彼の声は、低く、そして怒りに満ちていた。「陛下からの命令でございます。フェルティア公爵家として、王命に背くことはできません」 私がそう言うと、アシュトン様は立ち上がり、テーブルを
Last Updated: 2025-07-04