辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~

辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~

last updateLast Updated : 2025-09-18
By:  霜月イヅミUpdated just now
Language: Japanese
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聡明で心優しいアルトマイヤー公爵令嬢セレスティナは、幸福の絶頂にいた。しかし、宰相ヴァインベルク公爵の陰謀により、一家は反逆罪の濡れ衣を着せられ、すべてを奪われてしまう。婚約者にも裏切られ、絶望の淵に突き落とされた彼女は、奴隷同然の身分で最果ての辺境へ追放されることに。 過酷な運命に翻弄され、生きる気力さえ失いかけたセレスティナを救ったのは、「辺境の狼」と恐れられる新辺境伯ライナス。無骨ながらも誠実な彼と出会ったセレスティナは、やがて家族の無念を晴らすため、復讐を決意する。 これは理不尽な権力に立ち向かう不器用な英雄と没落令嬢の、愛と復讐の物語。

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Chapter 1

第1話 すみれ色の幸福

 春の陽光がさんさんと降り注ぐ。

 アルトマイヤー公爵家の庭園は、色とりどりの花々が咲き誇り、甘い香りに満ちていた。中でもひときわ目を引くのは、アーチ状の東屋に絡みつくように咲く純白の薔薇だ。その一つ一つの花弁は、まるで磨き上げられた絹のようになめらかな光沢を放っている。

 その東屋の白い椅子に、一人の少女が腰掛けていた。

 セレスティナ・アルトマイヤー。

 この国の四大公爵家の一つ、アルトマイヤー家の令嬢である。陽光を弾いてきらめく銀糸の髪は柔らかく波打ち、背中まで豊かに流れていた。伏せられた睫毛が白い頬に影を落とし、手にした書物から顔を上げた瞬間に現れる瞳は、希少なスミレの花を溶かし込んだような美しい色をしていた。

「セレスティナ。また難しい本を読んでいるのかい」

 穏やかで深みのある声に顔を上げると、父であるアルトマイヤー公爵が優しい笑みを浮かべて立っていた。威厳のある顔立ちだが、娘に向ける眼差しはどこまでも温かい。

「お父様。これは薬草学の古い文献ですの。昔の人は、このリリア草を解熱だけでなく、痛みを和らげるためにも使っていたようですわ」

「ほう。君の知識欲にはいつも感心させられるよ。だが、たまには本を置いて、庭の景色を楽しむのもいいものだぞ。ごらん、今年も見事に咲いた」

 父が指し示した先には、青々とした葉の間に可憐な花を咲かせた薬草園が広がっていた。セレスティナが幼い頃から父と共に手入れをしてきた、彼女にとって特別な場所だ。貴族の令嬢が土いじりなどと眉をひそめる者もいたが、父は決してそれを止めなかった。むしろ、歴史や紋章学、そして薬草学に至るまで、彼女が興味を持つあらゆる知識を惜しみなく与えてくれた。

「ええ、本当に。今年のカモミールは、例年よりずっと香りが強い気がいたします」

「君が愛情を込めて育てているからだろうな」

 父は娘の隣に腰を下ろし、その銀髪を優しく撫でた。セレスティナは心地よさに目を細め、父の肩にそっと頭を預ける。この穏やかで満ち足りた時間が、彼女の世界のすべてだった。家族に愛され、婚約者にも恵まれ、未来は輝かしい光に満ちている。何の疑いもなく、そう信じていた。

「そういえば、もうすぐアランが来る頃ではないか?」

「ええ。今日は新しくできたカフェにお連れくださると」

 アランとは、セレスティナの婚約者である子爵令息の名前だ。優しく快活な青年で、セレスティナの聡明さを誰よりも理解し、尊重してくれていた。彼の名を口にするだけで、彼女の白い頬がほんのりと上気する。

「そうか。あいつも誠実な男だ。君を必ず幸せにしてくれるだろう」

「お父様…」

「君の幸せが、私の何よりの望みだよ、セレスティナ」

 父の言葉は、春の陽だまりのように温かく、セレスティナの心を幸福感で満たした。この腕の中にいる限り、自分は守られている。この先もずっと、この幸せな日々が続いていくのだと、何の疑いも抱いていなかった。

 しばらくして、庭園の小径の向こうから、軽やかな足音が聞こえてきた。

「セレスティナ! すまない、待たせたかな」

 快活な声と共に現れたのは、婚約者のアラン・ベルクシュタイン子爵令息だった。金色の髪を風に輝かせ、貴族らしい洗練された出で立ちの中にも、親しみやすさを感じさせる青年だ。彼は公爵に一礼すると、セレスティナの前に片膝をつき、その手を取った。

「いいえ、アラン様。私も今しがた参ったところですわ」

「今日も君は、まるで咲き誇る白百合のように美しい」

 アランは芝居がかった仕草で、彼女の指先に口づけを落とす。セレスティナは頬を染めながらも、そのすみれ色の瞳に嬉しそうな光を宿した。

 彼の甘い言葉は、いつだって彼女を心地よく酔わせる。

「さあ、行こうか。街一番の菓子職人が開いた店だ。君もきっと気に入るはずだよ」

「まあ、楽しみですわ」

 アランにエスコートされ、二人は庭園を歩き始める。父は東屋から、その微笑ましい光景を満足げに見送っていた。

 小径を歩きながら、アランは楽しげに語りかける。

「昨夜の夜会でも、君の噂で持ちきりだったよ。アルトマイヤーの姫君は、その美しさだけでなく、比類なき知性をもお持ちだとね」

「お上手ばかり。わたくしなど、まだまだ学ばなければならないことばかりですのに」

「その謙虚さが、また君の魅力を引き立てるんだ。僕の目に狂いはなかった」

 アランはそう言って、悪戯っぽく笑う。セレスティナは彼の飾らない人柄が好きだった。家柄や財産ではなく、セレスティナという一人の人間を見てくれている。そう感じさせてくれる唯一の男性だった。

「わたくし、アラン様の隣にいられるだけで、とても幸せです」

「僕もだよ、セレスティナ。君を生涯、大切にすると誓う」

 アランは立ち止まり、彼女の肩を優しく抱いた。彼の腕の中はいつも安心できて、心地よい温もりに満ちている。セレスティナはそっと目を閉じ、彼の胸に顔をうずめた。

 この腕が、この温もりが、自分を永遠に守ってくれる。

 この幸福が、失われることなどありえない。

 すみれ色の瞳に映るのは、どこまでも続く青い空と、愛する人の優しい笑顔だけ。

 やがて訪れる絶望の影も、裏切りの刃も、まだ彼女は何も知らない。ただ、与えられた幸福の光を一身に浴びて、無垢な白百合のように微笑んでいた。

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第1話 すみれ色の幸福
 春の陽光がさんさんと降り注ぐ。 アルトマイヤー公爵家の庭園は、色とりどりの花々が咲き誇り、甘い香りに満ちていた。中でもひときわ目を引くのは、アーチ状の東屋に絡みつくように咲く純白の薔薇だ。その一つ一つの花弁は、まるで磨き上げられた絹のようになめらかな光沢を放っている。 その東屋の白い椅子に、一人の少女が腰掛けていた。 セレスティナ・アルトマイヤー。 この国の四大公爵家の一つ、アルトマイヤー家の令嬢である。陽光を弾いてきらめく銀糸の髪は柔らかく波打ち、背中まで豊かに流れていた。伏せられた睫毛が白い頬に影を落とし、手にした書物から顔を上げた瞬間に現れる瞳は、希少なスミレの花を溶かし込んだような美しい色をしていた。「セレスティナ。また難しい本を読んでいるのかい」 穏やかで深みのある声に顔を上げると、父であるアルトマイヤー公爵が優しい笑みを浮かべて立っていた。威厳のある顔立ちだが、娘に向ける眼差しはどこまでも温かい。「お父様。これは薬草学の古い文献ですの。昔の人は、このリリア草を解熱だけでなく、痛みを和らげるためにも使っていたようですわ」「ほう。君の知識欲にはいつも感心させられるよ。だが、たまには本を置いて、庭の景色を楽しむのもいいものだぞ。ごらん、今年も見事に咲いた」 父が指し示した先には、青々とした葉の間に可憐な花を咲かせた薬草園が広がっていた。セレスティナが幼い頃から父と共に手入れをしてきた、彼女にとって特別な場所だ。貴族の令嬢が土いじりなどと眉をひそめる者もいたが、父は決してそれを止めなかった。むしろ、歴史や紋章学、そして薬草学に至るまで、彼女が興味を持つあらゆる知識を惜しみなく与えてくれた。「ええ、本当に。今年のカモミールは、例年よりずっと香りが強い気がいたします」「君が愛情を込めて育てているからだろうな」 父は娘の隣に腰を下ろし、その銀髪を優しく撫でた。セレスティナは心地よさに目を細め、父の肩にそっと頭を預ける。この穏やかで満ち足りた時間が、彼女の世界のすべてだった。家族に愛され、婚約者にも恵まれ、未来は輝かしい光に満ちている。何の疑いもなく、そう信じていた。「そういえば、もうすぐアランが来る頃ではないか?」「ええ。今日は新しくできたカフェにお連れくださると」 アランとは、セレスティナの婚約者である子爵令息の名前だ。優しく快活な
last updateLast Updated : 2025-08-04
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第2話 偽りの断罪
 王城の回廊を満たすのは、磨き上げられた大理石の冷たい感触と、行き交う貴族たちが立てる衣擦れの音だった。セレスティナは父であるアルトマイヤー公爵の半歩後ろを歩きながら、胸に広がるかすかな不安を感じていた。数日前に届いた国王陛下からの召喚状。その文面は儀礼的であったが、父の表情にはいつになく硬質な光が宿っていた。「心配いらないよ、セレスティナ」 父は娘の不安を察したように、振り返って穏やかに微笑んだ。その声はいつもと変わらず落ち着いていたが、セレスティナのすみれ色の瞳は、父の眉間に刻まれたわずかな皺を見逃さなかった。 やがて、壮麗な彫刻が施された巨大な扉が開かれる。玉座の間。天井からはいくつもの水晶のシャンデリアが下がり、床には王国の歴史を描いた巨大な絨毯が敷き詰められている。その空間は、威厳と権力の象徴そのものだった。 上座には国王陛下が座し、その傍らには宰相であるゲルハルト・ヴァインベルク公爵が氷のような笑みを浮かべて控えている。すでに集まっていた貴族たちの視線が、アルトマイヤー公爵親子に突き刺さった。好奇、憐憫、そして悪意。様々な感情が渦巻く視線の奔流に、セレスティナは息を詰める。 父は動じることなく、国王の前に進み出て恭しく膝をついた。セレスティナもそれに倣う。「面を上げよ、アルトマイヤー公爵」 国王の声は弱々しく、玉座の間の広さに吸い込まれて消えてしまいそうだった。実質的な権力は、その隣に立つ宰相が握っていることを、ここにいる誰もが知っていた。「此度の召喚、まことに急であったな。だが、それ相応の理由がある」 言葉を発したのは、ヴァインベルク公爵だった。彼の声は蜜のように甘く滑らかでありながら、聞く者の肌を粟立たせるような冷ややかさを帯びていた。「アルトマイヤー公爵。貴殿に、隣国との内通、ひいては国家に対する反逆の疑いがかかっている」 その一言が、静まり返った玉座の間に重く響いた。 セレスティナの思考が、一瞬にして凍りつく。反逆。父が?この国で誰よりも王家への忠誠を誓い、民を愛し、正義を重んじてきた父が、そんなことをするはずがない。「…宰相閣下。何かの間違いではございませんか」 父は静かに、しかし凛とした声で応じた。その背筋は真っ直ぐに伸び、いかなる讒言にも屈しないという強い意志を示している。「間違い、かね」 ヴァインベルクは
last updateLast Updated : 2025-08-04
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第3話 裏切りの口づけ
 時間の感覚はとうに失われていた。 冷たい石壁に囲まれた小さな一室。窓はなく、重い鉄の扉の上部にある小さな格子の隙間から、かろうじて蝋燭の明かりが差し込むだけだった。あの玉座の間からどうやってここに連れてこられたのか、セレスティナの記憶は曖昧だった。父の絶叫、貴族たちの冷たい視線、そして宰相の歪んだ笑み。断片的な光景が、悪夢のように頭の中を巡っては消えていく。(お父様…) 無事なのだろうか。いや、無事であるはずがない。反逆者として断罪されたのだ。それでも、セレスティナは祈ることしかできなかった。これは何かの間違いだと、きっと誰かが気づいてくれるはずだと。 その時、静寂を破って重い足音が近づいてきた。かん、と閂が外される金属音が響き、扉が軋みながら開かれる。逆光の中に立つ人影に、セレスティナは息を呑んだ。「アラン様…!」 そこにいたのは、彼女の婚約者、アラン・ベルクシュタインだった。金色の髪は薄暗がりの中でも輝きを失わず、その姿はまるで、絶望の闇に差し込んだ一筋の光のように見えた。セレスティナは思わず立ち上がろうとして、足にもつれてよろめく。「来てくださったのですね! やはり、これは間違いだったのでしょう? お父様は…」 希望に震える声で訴えかけるセレスティナに、アランは静かに首を横に振った。彼の表情は、以前の快活な光を失い、どこかよそよそしい影を帯びている。「落ち着いて聞いてほしい、セレスティナ。もう、どうにもならないんだ」「そんな…」「公爵閣下は、ヴァインベルク宰相閣下への反逆を企てていた。証拠は動かしようがない」 アランの口から紡がれたのは、信じがたい言葉だった。まるでヴァインベルク公爵の言葉を、そのままなぞるかのように。セレスティナは混乱し、彼の顔を見つめた。「あなたまで、そんなことをおっしゃるのですか。あれが偽りであることは、あなたが一番よくご存知のはずですわ。お父様がどれほどこの国を想っていたか…」「僕も信じたくはなかった」 アランは苦しげに顔を歪め、一歩彼女に近づいた。「だが、僕にはベルクシュタイン家を守る責任がある。今回の件で、ヴァインベルク宰相閣下は僕に理解を示してくださった。君との婚約を破棄し、アルトマイヤー家を糾弾する側に回るなら、と」 彼の言葉一つ一つが、鋭い氷の礫となってセレスティナの心を打ちつけた。保身。
last updateLast Updated : 2025-08-04
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第4話 泥中の白百合
 どれほどの時間が過ぎたのか、セレスティナには分からなかった。 アランが去った後、彼女は冷たい石の床に崩れ落ちたまま、身じろぎ一つしなかった。思考は麻痺し、感情は凍てつき、ただ虚無だけが心を支配していた。かつてすみれ色に輝いていた瞳は、今は光を失ったガラス玉のように虚空を彷徨うばかりだ。 不意に、牢の扉が乱暴に開け放たれた。「おい、いつまでそうしている。出ろ」 無遠慮な声と共に、二人の衛兵が入ってくる。その目には、かつて公爵令嬢に向けられた敬意など微塵もなく、汚物でも見るかのような侮蔑が浮かんでいた。 セレスティナは反応しない。いや、できなかった。衛兵の一人が苛立たしげに舌打ちをすると、彼女の腕を掴んで無理やり立たせる。抵抗する力は、もはや残っていなかった。人形のように引きずられ、薄暗い地下牢の廊下を歩かされる。 壁の松明が、彼女のやつれた顔を不気味に照らし出した。銀糸のようだった髪は埃にまみれて艶を失い、上質な絹のドレスは見るも無惨に汚れ、ところどころが裂けている。その姿は、数日前まで王都の華と謳われた令嬢の面影をどこにも留めていなかった。 連れていかれた先は、さらに奥まった場所にある雑居牢だった。鉄格子の扉が開けられると、衛兵は彼女を乱暴に中へ突き飛ばす。「ありがたく思えよ。本来なら反逆者の娘など、即刻処刑されてもおかしくないんだからな」 嘲るような声が背後で響き、重い音を立てて扉が閉ざされた。 牢の中には、すでに数人の女囚たちがいた。じめじめとした空気は淀み、黴と汚物の臭いが鼻をつく。彼女たちは一斉に、新入りであるセレスティナに視線を向けた。好奇、嫉妬、そして底意地の悪い愉悦。その視線は粘り気をもって、彼女の全身に絡みついてくるようだった。「まあ、噂の公爵令嬢様じゃないか」 顔に大きな傷跡のある女が、嫌らしい笑みを浮かべて立ち上がった。「ずいぶんと落ちぶれたものだねえ。私たちと同じ、泥水の中へようこそ」 甲高い笑い声が、牢獄に響き渡る。他の女たちも、それに倣って下卑た笑いを漏らした。 セレスティナは何も答えず、ただ壁際にうずくまった。かつて彼女が暮らしていた
last updateLast Updated : 2025-08-05
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第5話 最果ての地へ
 牢獄の時間は、意味もなく流れていった。 朝が来て、夜が来る。その繰り返しが何日続いたのか、セレスティナはもう数えるのをやめていた。彼女はただ壁に寄りかかり、虚ろな目で一点を見つめて日々を過ごす。他の囚人たちも、もはやこの生ける屍のような元令嬢に興味を失い、関わろうとはしなかった。 その日は、いつもと少し違っていた。 昼食の時間が過ぎても、牢内は異様な静けさに包まれていた。やがて、複数の足音が響き、セレスティナのいる牢の前で止まる。看守長らしき恰幅のいい男が、羊皮紙を手に威圧的な視線を投げかけた。「囚人番号三百十二番、セレスティナ・アルトマイヤー。貴様に判決が下った」 男は芝居がかった口調で、高らかに告げる。「本来であれば、国家反逆罪に連座し死罪は免れぬところ、ヴァインベルク宰相閣下の寛大なる御心により、一等の減刑が認められた。よって貴様を、王国で最も過酷な土地、北の辺境への永久追放とする」 辺境。その言葉に、他の囚人たちが息を呑むのが分かった。そこは、先の戦争で最も大きな被害を受け、いまだ復興もままならない無法地帯。冬は極寒の雪に閉ざされ、夏は疫病が蔓延する。罪人や浮浪者が流れ着くその場所は、死ぬよりも辛い生き地獄だと噂されていた。 しかし、セレスティナの表情は変わらない。死も追放も、今の彼女にとっては同じことだった。どこで朽ち果てるかの違いでしかない。「おい、聞いているのか」 看守長が苛立ちを滲ませる。セレスティナはゆっくりと顔を上げ、ただ無言で彼を見返した。その瞳には何の感情も浮かんでいない。男は気味悪そうに顔を歪めると、部下たちに顎をしゃくった。「連れて行け。護送の馬車はもう来ている」 二人の看守が牢に入り、セレスティナの両腕を掴む。彼女はされるがままに立ち上がり、引きずられるようにして牢を出た。 連れていかれた先で、ぼろぼろの囚人服に着替えさせられ、手には冷たい鉄の手枷がはめられた。その重みが、自分が罪人であるという事実を改めて突きつけてくる。 地上へ続く階段を上り、眩しい日の光にセレスティナは思わず目を細めた。久しぶりに吸う外の空気は、しかし自由の香りなどしなかった。
last updateLast Updated : 2025-08-06
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第6話 灰色の町
 どれほどの間、揺られていただろうか。 護送馬車の硬い床の上で、セレスティナの意識は浅い眠りと悪夢の淵を往復していた。夢に見るのは、決まって失われた幸福の日々だった。庭園の東屋で父と交わした薬草学の話、陽光にきらめく純白の薔薇、そして「君を生涯、大切にする」と誓ったアランの優しい笑顔。しかし、その甘い記憶は必ず、玉座の間で響いた父の絶叫と、宰相ヴァインベルクの歪んだ笑みによって引き裂かれる。はっと目を覚ますと、そこは変わらず薄暗く揺れる馬車の中。手枷の冷たさと、全身を打つ鈍い痛みが、あれは夢ではなく現実なのだと彼女に告げていた。 時折、馬車の外から護送役の看守たちの無遠慮な声が聞こえてくる。「しかし、あのお嬢様も哀れなもんだな。数週間前までは王都の華だったってのによ」「自業自得だろ。親が国を売ろうとしたんだからな」「それにしても、わざわざ辺境送りとはな。宰相閣下も人が悪い。いっそ楽にしてやった方が慈悲ってもんだろうに」「馬鹿言え。見せしめだよ。辺境で泥水をすすって惨めに野垂れ死にする方が、よっぽど他の貴族どもへの脅しになるって寸法さ」 下卑た笑い声が、容赦なくセレスティナの耳に届く。だが、彼女の心はもはや何の波も立てなかった。彼らの言葉は、ただ意味を持たない音の羅列として、彼女の意識の表面を滑っていくだけだった。 旅は幾日も続いた。 豊かだった王都周辺の景色は次第に姿を消し、街道は荒れ、沿道の村々は目に見えて活気を失っていった。痩せた土地、傾いた家々、そして道端で見かける人々の目は、一様に暗く淀んでいる。王国が抱える疲弊と貧困が、旅を進めるごとに濃くなっていくようだった。セレスティナは、鉄格子の嵌まった小さな窓から、変わりゆく景色をただ無感動に眺めていた。自分は今、この国の光の中から、最も暗く深い影の底へと運ばれているのだと、ぼんやりと思った。 そして、旅が始まってから十日ほどが過ぎた日の午後だった。 馬車の速度が落ち、これまで以上にひどい揺れと共に停止した。「着いたぞ。降りろ、罪人」 乱暴に扉が開けられ、セレスティナは外へと引きずり出された。 そこが、彼女の終着点である辺境の町だっ
last updateLast Updated : 2025-08-07
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第7話 失われた言葉
 夜明けは、冷気と共やってきた。  廃屋の壁の隙間から吹き込む風が、セレスティナの痩せた体を容赦なく刺す。ぼろぼろの囚人服一枚では、辺境の朝の寒さは骨身に染みた。彼女はゆっくりと身を起こし、手枷の嵌められた手首に走る鈍い痛みで、自分がまだ生きていることを確認する。空腹で胃がひりつき、全身の筋肉が過酷な旅の疲労を訴えていた。しかし、彼女の心は静かな湖面のように、何の感情も映し出さなかった。ただ、今日もまた一日が始まるのだと、事実として認識するだけだった。 しばらくすると、外から怒鳴り声と、扉を乱暴に蹴る音が聞こえてきた。 「起きろ、蛆虫ども! 作業の時間だ! さっさと広場へ出てこい!」  昨日彼女をこの廃屋へ放り込んだ役人とは別の、痩せて神経質そうな男の声だった。セレスティナは言われるがままに立ち上がり、おぼつかない足取りで外へ出る。  灰色の町の朝は、昨日と同じく埃っぽく、そして絶望的なほどに静かだった。彼女と同じように、あちこちのあばら家から、生気のない人々がぞろぞろと引きずり出されてくる。皆、一様に痩せこけ、その目は地面の泥以外、何も見ていないようだった。  彼らは町の中心にある、だだっ広いだけの広場に集められた。そこに立っていたのは、数人の兵士と、彼らを監督する役人たちだった。彼らの顔には、この町の住民を見下す侮蔑と、こんな辺境にいることへの不満が隠しきれずに浮かんでいる。「今日の作業は、西地区の瓦礫撤去だ。先の戦争で崩れたままになっている建物を片付ける。いいか、怠ける奴には鞭をくれてやるから、そのつもりで働け!」  監督役の一人が喚き散らす。人々はそれに何の反応も示さず、ただ言われるがままに列をなし、作業場所へと歩き始めた。セレスティナもその流れの中に身を任せる。  彼女の存在は、その陰鬱な行列の中にあって、ひどく異質だった。着ているものは他の者たちと同じように汚れ、顔や手足も泥と埃にまみれている。しかし、背筋を伸ばして歩くその姿には、どうしても育ちの良さが滲み出てしまう。だが、その美しい顔貌は能面のように無表情で、かつてすみれ色と讃えられた瞳は、今はただ虚空を映すばかり。そのアンバランスさが、周囲の好奇の目を集めていた。 作業現場は、
last updateLast Updated : 2025-08-08
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第8話 狼の噂
 夜明けは、この町では祝福ではなかった。それはただ、凍てつく闇が鉛色の絶望へと塗り替わるだけの、無慈悲な時間の区切りに過ぎない。壁の隙間から染み込んでくる冷気が、ぼろ布同然の囚人服を通して肌を刺す。セレスティナは身じろぎもせず、硬い床の上でその冷たさを受け入れていた。眠っているのか、醒めているのか、その境界さえ曖昧になって久しい。 やがて外から、鉄の扉を乱暴に蹴りつける音と、耳障りな怒声が響き渡る。「起きろ、蛆虫ども! いつまで寝ている気だ! さっさと広場へ出てこい!」 その声が、一日の始まりを告げる合図だった。セレスティナは、ぜんまいが巻かれた人形のように、ゆっくりと体を起こした。節々が軋むような痛みを訴えたが、彼女の顔には何の表情も浮かばない。痛みはもはや、自分がまだ生きていることを確認するための、鈍い信号でしかなかった。 彼女はふらつく足取りで廃屋の外へ出る。灰色の砂埃が舞う町の通りには、同じようにそれぞれのあばら家から、生気の欠けた人々が影のように這い出てきていた。誰もが痩せこけ、その目は地面の泥以外、何も映してはいない。希望も、怒りも、悲しみさえも、この町ではとうに枯れ果てた感情だった。 彼らは言葉を交わすこともなく、ただ一つの群れとなって、町の中心にある広場へと向かう。セレスティナもその流れの中に身を任せた。彼女の銀色の髪は埃にまみれて輝きを失い、かつてすみれ色と讃えられた瞳は、今は光を映さないガラス玉のように虚ろだった。 他の追放者たちは、もはや彼女に嘲笑や好奇の目を向けることはなかった。当初は元公爵令嬢という物珍しさに囁き合っていた者たちも、彼女の人間離れした無感動さに、次第に得体の知れないものを見るような気味の悪さを感じていた。彼女は「人形令嬢」。心をどこかに置き忘れてきた、美しいだけの空っぽな器。それが、この町での彼女の呼び名であり、誰もが認める彼女の姿だった。 その日も、作業は西地区の瓦礫撤去だった。先の戦争で破壊されたまま放置された建物の残骸が、巨大な墓標のように連なっている。セレスティナたちの仕事は、その瓦礫を一つ一つ手で運び出し、荷車に積むという、終わりが見えない単純作業の繰り返しだった。 彼女は監督役人に突き飛ばされるように
last updateLast Updated : 2025-08-09
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第9話 二つの規律
 狼の遠吠えが響いた夜から、セレスティナの世界は微かにその質を変えていた。 相変わらず朝は絶望的な冷気と共に訪れ、彼女は心を持たない人形のように瓦礫を運び続ける。だが、その無感動な日常の底に、一つの感情が澱のように溜まり始めていた。恐怖。それは、この辺境を支配するという「狼」、ライナスという名の男に向けられた、原始的で得体の知れない感情だった。 風の音に、あの遠吠えの幻聴を聞く。兵士たちの足音に、獣の忍び寄る気配を感じる。彼女はそれに怯えながらも、その感情を表に出す術を持たなかった。恐怖はただ、内へ内へと向かい、彼女の凍てついた心を内側から静かに蝕んでいく。 その日の作業中、彼女は監督役人たちの会話を、意図せず耳にした。彼らは中央から派遣された役人であり、この町の追放者や労働者を管理する立場にある。彼らは、新しい辺境伯であるライナスを明らかに快く思っていなかった。「ちっ、あの成り上がり者め。今日も朝から、城の周りで兵士どもに訳の分からん訓練をさせていやがった」 肥え太った役人が、地面に唾を吐きながら言う。彼の顔には、辺境での退屈な日々と、自分より上位の者がいることへの不満が滲み出ていた。「まあまあ、そういきりなさんな。どうせあんな平民上がりに、本物の統治なんざ出来やしませんよ。我々がしっかり手綱を握っていればいいだけの話です」 痩せて狐のような顔をした同僚が、彼をなだめるように言った。「手綱、だと? あいつは我々の忠告も聞かず、勝手なことばかりしているではないか。まるで、この町が自分の王国だとでも言いたげに。いずれ、ヴァインベルク宰相閣下にご注進せねばなるまい。辺境伯ライナスは、分を弁えぬ危険な男です、と」「それも良いでしょうな。ですが、それまでは上手くやりましょう。あちらはあちら、我々は我々。互いに干渉せぬのが、この辺境での賢い生き方というものです」 役人たちは、意味ありげに笑い合った。 セレスティナは、その会話からこの町の歪んだ力関係を漠然と悟った。この町には、二つの権力があるのだ。一つは、城にいるという「狼」、辺境伯ライナス。そしてもう一つが、中央から来たこれらの役人たち。そして、彼らは互いに牽制し合い、決して一枚岩では
last updateLast Updated : 2025-08-10
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第10話 鉄の狼たち
 広場で老人が私兵に虐げられていた光景は、セレスティナの心に深く、冷たい楔を打ち込んだ。それはもはや、漠然とした恐怖や悲しみではなかった。より明確で、輪郭のはっきりとした絶望。この国そのものが、根底から腐敗しているという、揺るぎない認識だった。 父が守ろうとした正義も、母が信じた慈愛も、そしてアランが囁いた愛さえも、すべてはこの巨大な腐敗の前では、儚い砂上の楼閣に過ぎなかったのだ。 その日を境に、セレスティナの纏う空気はさらに変わった。彼女の中から、最後の人間的な揺らぎさえも消え失せたように見えた。恐怖に震えることもなく、ただ静かに、冷徹な観察者のように、この灰色の町で繰り返される日常を見つめる。 彼女はもはや、ただの「人形令嬢」ではなかった。その人形の硝子の目には、この世界の醜悪な真実が、焼き付くように映り込んでいた。 相変わらず、追放者たちの朝は早い。 乱暴な怒声に叩き起こされ、広場へと引きずり出される。そして、その日の労働現場へと、家畜の群れのように追い立てられていく。セレスティナもその無言の行列の中にいた。埃にまみれた銀髪が、鉛色の空の下で鈍い光を放っている。 その日の作業場所は、町の北側、城壁に近い地区だった。ここは他の地区に比べて、瓦礫の撤去がいくらか進んでいるように見えた。崩れた建物の残骸が整然と積み上げられ、再利用可能な木材や石材が分別されている。 そして、その作業を指揮しているのは、これまでセレスティナが見てきた中央の役人やその私兵たちではなかった。 屈強な体つきに、統一された黒鉄の鎧をまとった兵士の一団。彼らこそが、噂に聞く辺境伯直属の兵団、「鉄狼団」だった。 セレスティナは、初めて彼らを間近で見た。 その姿は、中央の私兵たちとはあらゆる点で対照的だった。私兵たちがだらしなく着崩した、けばけばしい装飾の鎧とは違い、鉄狼団の鎧は実用性のみを追求した、無駄のないデザインをしている。磨き上げられてはいるが、そこかしこに歴戦の傷跡が刻まれており、彼らが本物の戦場を生き抜いてきた者たちであることを物語っていた。 彼らは作業中、ほとんど私語を交わさない。指揮官の簡潔な命令一下、まるで一つの生き物のように統率の取れた
last updateLast Updated : 2025-08-11
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