Masuk聡明で心優しいアルトマイヤー公爵令嬢セレスティナは、幸福の絶頂にいた。しかし、宰相ヴァインベルク公爵の陰謀により、一家は反逆罪の濡れ衣を着せられ、すべてを奪われてしまう。婚約者にも裏切られ、絶望の淵に突き落とされた彼女は、奴隷同然の身分で最果ての辺境へ追放されることに。 過酷な運命に翻弄され、生きる気力さえ失いかけたセレスティナを救ったのは、「辺境の狼」と恐れられる新辺境伯ライナス。無骨ながらも誠実な彼と出会ったセレスティナは、やがて家族の無念を晴らすため、復讐を決意する。 これは理不尽な権力に立ち向かう不器用な英雄と没落令嬢の、愛と復讐の物語。
Lihat lebih banyak春の陽光がさんさんと降り注ぐ。
アルトマイヤー公爵家の庭園は、色とりどりの花々が咲き誇り、甘い香りに満ちていた。中でもひときわ目を引くのは、アーチ状の東屋に絡みつくように咲く純白の薔薇だ。その一つ一つの花弁は、まるで磨き上げられた絹のようになめらかな光沢を放っている。その東屋の白い椅子に、一人の少女が腰掛けていた。
セレスティナ・アルトマイヤー。 この国の四大公爵家の一つ、アルトマイヤー家の令嬢である。陽光を弾いてきらめく銀糸の髪は柔らかく波打ち、背中まで豊かに流れていた。伏せられた睫毛が白い頬に影を落とし、手にした書物から顔を上げた瞬間に現れる瞳は、希少なスミレの花を溶かし込んだような美しい色をしていた。「セレスティナ。また難しい本を読んでいるのかい」
穏やかで深みのある声に顔を上げると、父であるアルトマイヤー公爵が優しい笑みを浮かべて立っていた。威厳のある顔立ちだが、娘に向ける眼差しはどこまでも温かい。
「お父様。これは薬草学の古い文献ですの。昔の人は、このリリア草を解熱だけでなく、痛みを和らげるためにも使っていたようですわ」
「ほう。君の知識欲にはいつも感心させられるよ。だが、たまには本を置いて、庭の景色を楽しむのもいいものだぞ。ごらん、今年も見事に咲いた」父が指し示した先には、青々とした葉の間に可憐な花を咲かせた薬草園が広がっていた。セレスティナが幼い頃から父と共に手入れをしてきた、彼女にとって特別な場所だ。貴族の令嬢が土いじりなどと眉をひそめる者もいたが、父は決してそれを止めなかった。むしろ、歴史や紋章学、そして薬草学に至るまで、彼女が興味を持つあらゆる知識を惜しみなく与えてくれた。
「ええ、本当に。今年のカモミールは、例年よりずっと香りが強い気がいたします」
「君が愛情を込めて育てているからだろうな」父は娘の隣に腰を下ろし、その銀髪を優しく撫でた。セレスティナは心地よさに目を細め、父の肩にそっと頭を預ける。この穏やかで満ち足りた時間が、彼女の世界のすべてだった。家族に愛され、婚約者にも恵まれ、未来は輝かしい光に満ちている。何の疑いもなく、そう信じていた。
「そういえば、もうすぐアランが来る頃ではないか?」
「ええ。今日は新しくできたカフェにお連れくださると」アランとは、セレスティナの婚約者である子爵令息の名前だ。優しく快活な青年で、セレスティナの聡明さを誰よりも理解し、尊重してくれていた。彼の名を口にするだけで、彼女の白い頬がほんのりと上気する。
「そうか。あいつも誠実な男だ。君を必ず幸せにしてくれるだろう」
「お父様…」 「君の幸せが、私の何よりの望みだよ、セレスティナ」父の言葉は、春の陽だまりのように温かく、セレスティナの心を幸福感で満たした。この腕の中にいる限り、自分は守られている。この先もずっと、この幸せな日々が続いていくのだと、何の疑いも抱いていなかった。
しばらくして、庭園の小径の向こうから、軽やかな足音が聞こえてきた。
「セレスティナ! すまない、待たせたかな」 快活な声と共に現れたのは、婚約者のアラン・ベルクシュタイン子爵令息だった。金色の髪を風に輝かせ、貴族らしい洗練された出で立ちの中にも、親しみやすさを感じさせる青年だ。彼は公爵に一礼すると、セレスティナの前に片膝をつき、その手を取った。「いいえ、アラン様。私も今しがた参ったところですわ」
「今日も君は、まるで咲き誇る白百合のように美しい」アランは芝居がかった仕草で、彼女の指先に口づけを落とす。セレスティナは頬を染めながらも、そのすみれ色の瞳に嬉しそうな光を宿した。
彼の甘い言葉は、いつだって彼女を心地よく酔わせる。「さあ、行こうか。街一番の菓子職人が開いた店だ。君もきっと気に入るはずだよ」
「まあ、楽しみですわ」アランにエスコートされ、二人は庭園を歩き始める。父は東屋から、その微笑ましい光景を満足げに見送っていた。
小径を歩きながら、アランは楽しげに語りかける。「昨夜の夜会でも、君の噂で持ちきりだったよ。アルトマイヤーの姫君は、その美しさだけでなく、比類なき知性をもお持ちだとね」
「お上手ばかり。わたくしなど、まだまだ学ばなければならないことばかりですのに」 「その謙虚さが、また君の魅力を引き立てるんだ。僕の目に狂いはなかった」アランはそう言って、悪戯っぽく笑う。セレスティナは彼の飾らない人柄が好きだった。家柄や財産ではなく、セレスティナという一人の人間を見てくれている。そう感じさせてくれる唯一の男性だった。
「わたくし、アラン様の隣にいられるだけで、とても幸せです」
「僕もだよ、セレスティナ。君を生涯、大切にすると誓う」アランは立ち止まり、彼女の肩を優しく抱いた。彼の腕の中はいつも安心できて、心地よい温もりに満ちている。セレスティナはそっと目を閉じ、彼の胸に顔をうずめた。
この腕が、この温もりが、自分を永遠に守ってくれる。 この幸福が、失われることなどありえない。すみれ色の瞳に映るのは、どこまでも続く青い空と、愛する人の優しい笑顔だけ。
やがて訪れる絶望の影も、裏切りの刃も、まだ彼女は何も知らない。ただ、与えられた幸福の光を一身に浴びて、無垢な白百合のように微笑んでいた。夜の森は、狼たちのための狩場だった。 ライナスが率いる三十名の精鋭は、もはや人間ではなく、闇に溶け込んだ獣の群れそのものだった。彼らは音を立てず、風のように木々の間を駆け抜ける。月明かりさえ届かぬ森の奥深くで、彼らの目は獲物の匂いを正確に捉えていた。 目指すは、敗走を始めた討伐軍の生命線。その腹心とも言うべき輜重隊だ。「…見えたぞ」 斥候として先行していた兵士が、音もなくライナスの隣に戻り、囁いた。その指が示す先、谷間を縫うように続く細い道に、長く伸びる荷馬車の列が見える。その周囲を固める護衛の兵士たちの数は多いが、その足取りは重く、警戒網は弛緩しきっていた。本隊から切り離され、ただひたすらに前進するだけの彼らに、かつての王都軍の威光はなかった。「見事な無防備さだな」 ライナスは、木の幹に背を預けたまま、冷ややかに呟いた。その金色の瞳が、闇の中で鋭い光を放つ。「あれが、自分たちの命綱だという自覚すらないらしい」 傲慢な獅子は、手負いとなってもなお、己の腹の柔らかさを忘れている。その油断こそが、狼たちにとって最高の馳走だった。「作戦通り、三方に分かれろ。合図があるまで、決して動くな。我らが目的は、殺戮ではない。恐怖を与えることだ」 ライナスの低い声に、三十の影が、音もなく散開していく。彼らは、この夜の狩りの意味を、その骨の髄まで理解していた。 しばらくの静寂。 荷馬車の列が、完全に罠の中心へと足を踏み入れた、その瞬間。 ライナスは、夜の静寂を破る、一声の口笛を鳴らした。 それが、饗宴の始まりを告げる合図だった。 最初に、火の矢が放たれた。 狙いは、兵士ではない。荷馬車の幌や、積まれた乾草、そして食料袋そのものだった。油を染み込ませた矢尻は、いともたやすく燃え広がり、夜の闇にいくつもの巨大な篝火を打ち立てた。「な、なんだ!? 敵襲! 敵襲だ!」 護衛の兵士たちが、パニックに陥って叫ぶ。だが、敵の姿はどこにも見えない。ただ、闇の中から、次々と火矢が飛来し、彼らの命の糧を灰へと変えていく。「水をかけろ! 火を消すんだ!」
戦とは、兵の数や武器の質だけで決まるものではない。 それは時に、一本の矢、一通の書状、そして一つの疑念によって、その趨勢が決定づけられる。 グスタフ・フォン・ベルガー元帥は、その身をもって、その真理を味わっていた。彼の目の前には、かつて一万を誇った大軍の、見るも無残な残骸が広がっている。 離反した者、恐怖に駆られて逃亡した者、そして、もはや戦う意志を失い、虚ろな目で地面に座り込む者。残った兵力は、かき集めても三千に満たないだろう。そのほとんどが、彼の直属の親衛隊と、今さらヴァインベルク公爵を裏切ることもできぬ、立場のない貴族たちの私兵だけだった。 醜い罵り合いは、いつしか終わっていた。いや、終わらざるを得なかったのだ。あまりにも多くの者が、陣から離脱してしまったために。残された者たちの間には、共通の絶望と、敗北という名の重苦しい沈黙だけが垂れ込めていた。 ベルガーは、馬上で天を仰いだ。辺境の空は、まるで彼の心の内を映すかのように、重く、灰色の雲に覆われている。 屈辱。怒り。そして、己の傲慢さへの深い後悔。様々な感情が、嵐のように胸中で渦巻いていた。だが、それらの感情のさらに奥底で、彼は、これまで感じたことのない種類の、純粋な畏怖を感じていた。 ライナス。そして、その背後にいるであろう、影の指揮官。 自分は、その見えざる敵に、完膚なきまでに敗れたのだ。武力でなく、知略で。正面からの衝突ではなく、人の心の脆さを突く、あまりにも狡猾な戦術によって。 あれほどの情報戦を、これほど完璧なタイミングで仕掛けられる人物とは、一体何者なのか。その正体不明の軍師の存在は、歴戦の将帥である彼のプライドを、根底から揺さぶっていた。 だが、今は感傷に浸っている場合ではない。将としての、最後の務めが残っている。 それは、この残った兵たちを、一人でも多く、生きて王都へ帰すこと。 たとえ、それがどれほどの屈辱を伴う選択であったとしても。「…聞け」 ベルガーは、声を振り絞った。その声は嗄れていたが、不思議なほどの静けさと、覚悟の響きを帯びていた。「我々は、これより、撤退を開始する」 その
朝の冷たい空気の中で、グスタフ・フォン・ベルガー元帥は、自らが築き上げてきた軍隊が、音を立てて崩れていくのを感じていた。 彼の眼前で繰り広げられているのは、もはや軍議ではなかった。それは、恐怖に駆られた者たちの、醜い責任のなすりつけ合いだった。「シラー伯爵こそが怪しい! 昨夜から部下を集め、何かを企んでおりましたぞ!」「何を言うか! 貴殿こそ、天幕の明かりを夜通しつけていたではないか! 誰ぞと密会でもしていたのか!」 将校たちの声はヒステリックに裏返り、その瞳には理性のかけらもない。一度植え付けられた不信の病毒は、彼らの精神を蝕み、正常な判断力を奪っていた。「静まれぃっ!」 ベルガーは、腹の底からの怒声を張り上げた。王国の宿将としての威厳が、かろうじてその場の喧騒を鎮める。「貴様ら、見苦しいぞ! 我らは反逆者を討つために集った王の軍だ。内輪揉めをしている場合ではない!」 だが、その叱責も、もはや空虚に響くだけだった。 追い詰められたシラー伯爵が、半狂乱の形相で叫んだ。「わ、私は裏切ってはいない! これは罠だ! 辺境の狼が、我らを仲違いさせるために仕掛けた、卑劣な罠なのだ!」 それは真実だった。だが、パニックに陥った男が叫ぶ真実ほど、信憑性を失うものはない。彼の必死の訴えは、他の貴族たちの目には、罪を逃れるための見苦しい言い訳にしか映らなかった。「ほう。罠だと知りながら、なぜ貴殿はそれほどまでに動揺しているのかな?」 一人の将校が、蛇のような冷たい声で問いかける。その言葉が、とどめの一撃となった。 ベルガーは、この混沌の中心で、静かに目を閉じた。そして、確信する。 これは、単なる混乱ではない。意図的に引き起こされた、巧妙な工作だ。あの見えざる軍師が、戦場だけでなく、人の心すらも盤上として、駒を進めている。その底知れぬ狡猾さに、彼は戦慄を禁じ得なかった。 この病毒を断ち切るには、もはや通常の手段では不可能。腐った指を断ち切るように、迅速で、そして無慈悲な外科手術が必要だった。 辺境伯の城、司令室。 セレスティナは、ザイファルトから敵陣の混乱につい
夜の闇は、時に最高の隠れ蓑となる。 ザイファルトとその部下たちは、まるで闇そのものから生まれ出た亡霊のように、討伐軍の警戒網をすり抜けていた。彼らは音を立てず、気配を殺し、木々の影から影へと滑るように移動する。見張りの兵士が欠伸をしたその一瞬、持ち場を離れたその一瞬。人の注意が途切れるごくわずかな隙間を、彼らは完璧に見つけ出し、利用した。 敵陣の中心部に近づくにつれ、警戒はより厳重になる。だが、ザイファルトの目には、その厳重な警戒網すら、無数の穴が開いた網のように見えていた。彼は部下たちに手振りだけで指示を出し、それぞれが目標とする天幕へと散開させていく。 最初の標的は、シラー伯爵の天幕だった。彼はヴァインベルク公爵から多額の借財を抱え、今回の戦に半ば強制的に参加させられていた。その精神的な弱さは、潜入する側にとって格好の的となる。 ザイファルトは、天幕の裏手へと音もなく回り込む。布地と地面のわずかな隙間に、指先で小さな穴を掘ると、丸めた羊皮紙をそっと滑り込ませた。それは、まるで蛇が獲物の巣穴に忍び込むかのような、静かで、そして致命的な侵入だった。 同じ頃、彼の部下たちもまた、それぞれの標的の天幕に、毒の矢を放ち終えていた。任務は完了した。彼らは再び闇に溶け込み、誰に気づかれることもなく、その場を後にした。 後に残されたのは、眠りこける兵士たちと、やがて彼らの結束を内側から蝕むことになる、数通の密書だけだった。 シラー伯爵は、浅い眠りからふと目を覚ました。 気のせいか、天幕の外でかすかな物音がしたような気がしたのだ。彼は疲れた体を起こし、剣の柄に手をかけたまま、耳を澄ます。だが、聞こえてくるのは、遠くで燃える篝火の爆ぜる音と、部下たちの寝息だけだった。(…疲れているのか) 彼は自嘲気味に息をつき、再び寝床に体を横たえようとした。その時、彼の視界の隅に、見慣れないものが映った。枕元に、小さな羊皮紙の巻物が、一つ転がっている。「なんだ、これは…?」 衛兵からの報告書か。いや、それならば従者が届けに来るはずだ。彼は訝しみながらも、その巻物を手に取った。封蝋はされていない。ただ、細い革紐で結ば
夜の森は、敗残兵の呻きと絶望を吸い込んで、どこまでも深く沈黙していた。 グスタフ・フォン・ベルガー元帥が率いる討伐軍は、かつての壮麗な威容を完全に失い、今は森の中のわずかな開けた場所で、傷ついた獣のように身を寄せ合っていた。兵士たちの顔には、疲労と飢え、そして何よりも、姿を見せぬ敵への根源的な恐怖が色濃く浮かんでいる。 数時間前までの一方的な蹂躙。隘路で壊滅した先鋒部隊の悪夢と、森の闇から放たれる神出鬼没の奇襲は、彼らの誇りを粉々に打ち砕いた。王国最強と謳われた軍勢は、今や統率を失いかけた烏合の衆と成り果てていた。「…報告はどうした」 本陣に張られた粗末な天幕の中で、ベルガーは低い声で問うた。その声は、怒りを通り越して、乾いた響きを帯びている。彼の眼前には、無数の駒が散らばったままの作戦地図が広げられていたが、もはや何の役にも立たないガラクタに等しかった。「はっ。各部隊、損害の確認を急いでおりますが、混乱がひどく、正確な数字は未だ…」 副官の一人が、顔を青ざめさせて報告する。「食料は」「…残存の輜重隊と合流できましたが、あと二日分がやっとかと。兵の士気は、著しく低下しております」 報告を聞きながら、ベルガーは固く目を閉じた。 屈辱。その二文字が、彼の内臓を焼き焦がすようだった。平民上がりの小僧と侮っていた相手に、これほど完璧な敗北を喫した。こちらの思考、将校の功名心、そして兵力差という傲慢さまで、全てを読み切られた上での完敗だった。(ライナス…いや、あの男一人ではない) ベルガーの脳裏に、確信に近い疑念が渦巻いていた。 あの戦術は、一人の武人の発想だけで描けるものではない。まるで、高みから盤面全体を見下ろしている、もう一人の「誰か」がいる。冷徹で、狡猾で、そして貴族の戦い方を熟知している、恐るべき軍師が。 その見えざる敵の存在が、彼の百戦錬磨の経験をもってしても、得体の知れない恐怖を感じさせていた。 だが、感傷に浸っている時間はない。このままでは、飢えと恐怖で自滅するだけだ。活路を見出さねばならない。「&hel
辺境の森は、侵略者にとって巨大な迷宮と化した。 側面からの奇襲を受け、完全に陣形を崩された討伐軍は、もはや統制の取れた軍隊ではなかった。地の利を熟知した鉄狼団と民兵たちは、木々や岩陰を巧みに利用し、一撃を加えては闇に消えるというゲリラ戦を展開する。どこから矢が飛んでくるか、どこから剣を持った敵兵が躍り出てくるか分からない。その終わりの見えない恐怖が、討伐軍の兵士たちの士気を、じわじわと、しかし確実に削り取っていった。「怯むな! 隊列を組め! 円陣を組んで敵を迎え撃つのだ!」 本陣で、ベルガー元帥は声を嗄らして叫んでいた。彼は親衛隊を周囲に固め、必死で崩壊する軍の統率を取り戻そうと試みる。さすがは王国の宿将というべきか、その声にはまだ兵士を奮い立たせるだけの威厳が残っていた。 だが、その奮闘も、森という地の利と、辺境の民の剥き出しの敵意の前では、焼け石に水だった。討伐軍の兵士たちは、王都周辺の開けた土地での集団戦には慣れている。しかし、足場の悪い森の中、散発的に繰り返される小競り合いでは、その数の優位性を全く活かすことができなかった。「くそ、猪武者が! 深追いするなと言っているだろうが!」 将校の一人が、命令を無視して森の奥へと突っ込んでいく部下を怒鳴りつける。だが、その声が届く前に、森の闇から数本の矢が放たれ、兵士は短い悲鳴と共に地面に崩れ落ちた。 それは、戦場の其処彼処で繰り返されている光景だった。 敵兵の中には、明らかに正規の訓練を受けていない、農夫や猟師のような者たちが多数混じっている。だが、彼らの目には、恐怖の色はなかった。そこにあるのは、自分たちの土地を、家族を、そして主君を守るのだという、揺るぎない決意の光だった。その気迫が、恐怖に駆られた討伐軍の兵士たちの心を、さらに蝕んでいく。「おのれ、おのれ蛮族どもが…!」 ベルガーは歯噛みした。彼は自ら剣を抜き、襲い掛かってくる辺境の兵士を斬り伏せながら、戦慄を覚えていた。 この戦況は、異常だ。 隘路の罠、退路の破壊、そしてこの完璧なタイミングでの側面奇襲。その全てが、まるで一つの組曲のように、淀みなく、完璧に連動している。 ライナスとい
Komen