王妃選定試験の最終結果が発表される日。
私は、公爵邸でアシュトン様と共にその知らせを待っていた。アシュトン様は、落ち着かない様子で執務室の窓辺に立ち、遠くの空を眺めていた。その横顔には、珍しく微かな緊張の色が浮かんでいるように見えた。 私は、彼の隣にそっと歩み寄った。 「アシュトン様。もし、私が王妃に選ばれたら……」 私が言葉を切ると、アシュトン様は私を真っ直ぐに見つめた。 「その時は、貴様の意思を尊重しよう。だが、貴様が望むのならば、俺は……」 彼の言葉は、そこで途切れた。彼の瞳の奥には、私への強い執着と、そして、失うことへの微かな恐怖が揺らめいているように見えた。その時、公爵邸の執事が慌ただしく執務室に飛び込んできた。
「アシュトン様!セリーナ様!王宮から、伝令でございます!」 執事の手には、厳重な封がされた書状が握られていた。 アシュトン様は、その書状を受け取ると、ゆっくりと封を破り、中身に目を通した。 彼の表情が、見る見るうちに硬直していくのが見えた。 「……そうか」 彼は、低い声で呟いた。「アシュトン様、何と書かれていましたの?」
私が尋ねると、アシュトン様は書状を私に手渡した。 私は、震える手で書状を受け取り、その内容に目を通した。『セリーナ・フェルティア嬢を、次期王妃候補の最終合格者と定める。よって、改めて王妃の座への意向を問う』
私は、その言葉に、息を飲んだ。
私が、王妃に選ばれる可能性が最も高かったのだ。つまり、王妃になるか否かは、私の最終的な意思にかかっている。「セリーナ……」
アシュトン様が、私の名を呼んだ。 私は、彼に視線を向けた。彼の瞳は、私を深く見つめていたが、その奥には、複雑な感情が渦巻いているように見えた。 「貴様が、望んだ結果か?」 彼の問いかけに、私は、迷いなく答えた。 「いいえ、アシュトン様。これは、私の望んだ結果ではございません」私の言葉に、アシュトン様の表情が、驚きに見開かれた。
「どういうことだ?」 彼の声には、戸惑いが混じっていた。「私には、王妃の座よりも、もっと大切なものがございます」
私は、アシュトン様の両手を握りしめ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。 「愛のない結婚に意味はないと、私がお伝えしたのは、アシュトン様ではないですか。そして、私自身、その言葉の意味を深く理解いたしました」 私の言葉に、アシュトン様は何も言わずに、ただ私を見つめていた。「アシュトン様。私は、あなたを愛しております。あなたの隣で、あなたの隣でしか、私の人生は意味を持たないと、そう確信いたしました」
私の言葉に、アシュトン様の瞳から、一筋の光が消えた。 そして、その瞳は、私を深く見つめ、その奥には、今まで見たことのないような、温かい感情が揺らめいているように見えた。 「セリーナ……」 彼の声は、微かに震えていた。 「俺も……貴様を、愛している」 アシュトン様の言葉は、まるで彼の心の氷が解けたかのような、温かい響きだった。私は、彼の胸に顔を埋め、彼の腕の中に抱きしめられた。その腕は、今までのような支配的なものではなく、私を慈しむかのような、優しい抱擁だった。
この温かい抱擁こそが、私が本当に求めていたもの。王妃という輝かしい地位ではなく、たった一人の、この人の隣で生きる、ありふれた幸せなのだと。国王陛下への謁見は、その日の午後に行われることになった。
私は、アシュトン様からの抱擁を名残惜しく思いながらも、自室へと戻り、謁見のための準備を整えた。 ドレスに着替え、髪を整える間も、私の心は決意に満ちていた。 王妃の座は、この国の最高位であり、誰もが羨む地位だろう。しかし、私が選ぶ道は、愛する人の隣で、共に人生を歩む道なのだ。王宮の謁見の間へと向かう馬車の中、私は深く息を吸い込んだ。
道中、窓の外には、王都の華やかな街並みが広がっていた。人々はそれぞれの生活を送り、笑顔を見せている。 私が王妃になれば、この全ての民の期待を背負い、彼らを導く立場になる。 しかし、私の心は、本当にそれができるのかと、問いかけていた。 民を真に愛し、導くためには、まず自分自身が真の愛を知り、満たされているべきではないか。 そして、私の真の愛は、アシュトン様の中にあった。王宮に到着し、私は謁見の間へと案内された。
重厚な扉が開かれ、その先に、国王陛下が威厳ある姿で玉座に座しているのが見えた。 私は、深呼吸をし、一歩一歩、その玉座へと近づいていった。 謁見の間には、王族の方々や、高位の貴族たちが列席しており、その視線が私に集まっているのを感じた。国王陛下の前に膝まずくと、陛下は温厚な笑顔で私を見下ろした。
「セリーナ・フェルティア嬢。改めて、貴殿を、次期王妃候補の最終合格者と定める。この国の未来を、共に築いてほしい」 国王陛下の言葉は、私の耳に、重く、そして、温かく響いた。私は、深呼吸をし、顔を上げた。
「陛下。この身に余る光栄でございます。心より感謝申し上げます」 私は、型通りの言葉を述べた後、覚悟を決めて続けた。 「ですが、一つ、陛下にお願いがございます」 私の言葉に、国王陛下の表情が、微かに変わった。 「申してみよ」私は、真っ直ぐに国王陛下の目を見つめた。
「私、セリーナ・フェルティアは、この王妃の座を、謹んで辞退させていただきたく、参上いたしました」私の言葉に、謁見の間は、一瞬にして静まり返った。
列席していた貴族たちからは、ざわめきと、驚きの声が漏れるのが聞こえた。 国王陛下は、驚きに見開かれた瞳で、私をじっと見つめていた。その表情には、戸惑いと、そして、微かな失望のような色が浮かんでいるように見えた。「……セリーナ・フェルティア嬢。貴殿は、今、何と申した?」
国王陛下の声は、威厳に満ちており、その場の空気を凍りつかせたかのようだった。 「陛下。私の言葉に、嘘偽り、一切ございません。私は、王妃の座を、辞退いたします」 私は、もう一度、はっきりと告げた。「なぜだ? 貴殿の才覚は、この国の王妃に相応しいと、この私も認めている。貴殿が王妃となれば、この国の未来は、より盤石なものとなるだろうに」
国王陛下の声には、私を説得しようとする響きがあった。「陛下。王妃は、この国の民全てを愛し、導く存在であるべきだと、私自身、今回の選定試験を通して深く学びました」
私は、言葉を選びながら、丁寧に続けた。 「しかし、私には、その務めを全うすることは叶いません。私の心は、すでに一人の人物を深く愛しております。その方を愛し、その方の隣でしか、真の幸福を見出すことができません」国王陛下の表情が、ゆっくりと変わっていくのが見えた。
その瞳は、私を深く見つめ、何かを測るかのように探っていた。 「貴殿が愛する者とは……ヴァルター公爵のことか?」 国王陛下の言葉に、私は顔を伏せた。 「はい。アシュトン・ヴァルター公爵でございます」 私がそう答えると、国王陛下は深く息を吐き出した。「ヴァルター公爵か……彼の貴殿への執着は、すでに宮廷中の噂になっている。貴殿の愛は、その執着を真の愛へと変えるほどのものだというのか?」
国王陛下の声には、皮肉のような響きがあったが、その瞳の奥には、私への興味が揺らめいているように見えた。 「はい、陛下。私にとって、アシュトン様への想いは、まさしくそれであり、王妃として国民の模範となるべき愛の形であると、信じております」 私は、自分の正直な気持ちを、国王陛下に伝えた。 「真の愛こそが、人を強くし、国を支える基盤となると信じております。ですが、その愛が、特定の個人に向けられたものである以上、王妃として全てを愛することは、私の偽りとなるでしょう」 私は、王妃としてあるべき姿と、私自身の真の感情の乖離を、包み隠さず陛下に訴えた。国王陛下は、しばらくの間、静かに私を見つめていた。
謁見の間は、静寂に包まれ、私と陛下の声だけが響いていた。 そして、やがて、国王陛下は、大きく頷いた。 「……よかろう。貴殿の決断、しかと受け止めた」 国王陛下の言葉は、私にとって、何よりも重い、そして温かい響きだった。 「真実の愛を選んだ貴殿の人生が、幸福に満ちたものとなることを願う」 国王陛下は、そう言って、私の辞退を受け入れてくださった。私は、深く頭を下げ、その場を辞した。
謁見の間を後にし、王宮の廊下を歩く。 私の心は、重い責務から解放されたかのように、軽やかだった。 私は、王妃の座を選ばなかった。だが、その代わりに、私自身の真の幸福を選んだのだ。 公爵邸へと続く道で、私の心は、ただ一人の人物、アシュトン様への思いで満たされていた。あれから半年。 アシュトン様との婚約は無事に継続され、公爵邸での私の生活は、以前では考えられないほど穏やかで、そして温かいものに満ちていた。 冷徹公爵と呼ばれたアシュトン様は、今ではすっかり「愛妻家公爵」などと揶揄される始末だ。もちろん、本人に直接言う者はいないけれど。「セリーナ。また、そんなところで居眠りを」 暖炉のそばの大きなソファで、日当たりの良さに誘われてうとうとしていた私に、低い声がかけられた。 ゆっくりと目を開けると、アシュトン様が、いつの間にか私の隣に座っていた。彼は執務の合間に、こうして私を覗きに来るのが常になっていた。「あら、アシュトン様。お仕事はもうよろしいのですか?」 私がにこやかに問いかけると、彼の眉間に薄く皺が寄った。「貴様の顔を見に来ただけだ」 相変わらず素っ気ない言い方だが、その瞳の奥には、確かな優しさが宿っている。「ふふ、ありがとうございます」 私が身を起こすと、アシュトン様は私の髪に触れた。「髪が乱れているぞ」 そう言って、不器用な手つきで私の髪を直そうとする。以前の彼からは想像もできない行動に、私は小さく笑った。「あら、アシュトン様の手ほどきなんて、贅沢ですね」 私が揶揄うと、彼は少しだけ顔を赤らめた。「それより、セリーナ」 彼は、真顔に戻ると、私の手を握った。「今日の午後、王都の菓子店へ出かけると聞いたが、一人で行くつもりか?」 彼の言葉に、私は思わず目を瞬かせた。私が侍女に話しただけのことを、彼はなぜ知っているのだろう。「ええ。新しい菓子の材料を探しに」 私が答えると、アシュトン様はすぐに言った。「俺も同行する」「あら、お忙しいのではありませんか?」 私が尋ねると、彼はふいと顔をそらした。「……貴様を一人で行かせるのは、心配だ」 その言葉に、私はぷっと吹き出した。相変わらずの、隠しきれない執着ぶりだ。「もう、アシュトン様ったら。私が一人で何ができるというので
王妃の座を辞退するという、前代未聞の決断を下した後、私は王宮の廊下を、心穏やかに歩いていた。 私の胸には、国王陛下の言葉が響いていた。「真実の愛を選んだ貴殿の人生が、幸福に満ちたものとなることを願う」。 名誉や権力ではなく、私が本当に望むものを手に入れたのだという確かな充足感が、私の全身を包み込んでいた。 王宮を出て、待たせていた馬車に乗り込んだ。 馬車が公爵邸へと向かう間、私の心は、早くアシュトン様の元へと帰りたいという思いでいっぱいだった。 彼が、私の決断を知ったら、どんな顔をするだろう。 驚くだろうか、それとも、安堵してくれるだろうか。 彼の表情を思い浮かべると、自然と頬が緩んだ。 公爵邸の門が見えてきた。 門の前には、アシュトン様が、私を待っていたかのように、そこに立っていた。 彼の顔には、微かな不安の色が浮かんでいるように見えた。 私が馬車から降りると、アシュトン様は私に駆け寄ってきた。 「セリーナ……」 彼の声は、不安と、そして、私への強い想いが入り混じったような響きだった。 私は、彼の顔を見上げ、満面の笑みを浮かべた。 「アシュトン様。私、王妃の座を辞退してまいりました」 私の言葉に、アシュトン様の表情が、一瞬にして凍りついた。 そして、彼の瞳の奥に、深い絶望の色が浮かんだように見えた。 「だが……貴様は、最終合格者だったのだろう……?」 彼が何かを言おうとすると、私は彼の言葉を遮った。「はい。ですが、お伝えいたしました通り、私には王妃の務めを全うすることはできません。私の心は、すでにアシュトン様だけを愛しておりますから」 私の言葉に、アシュトン様の瞳が、驚きに見開かれた。 信じられないものを見るように、私を見つめている。 「どういうことだ……セリーナ……」 彼の声は、戸惑いと、そして、微かな希望が混じり合っているように聞こえた。 私は、彼の両手を握りしめ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。 「愛のない結婚に意味はないと、私がお伝えし
王妃選定試験の最終結果が発表される日。 私は、公爵邸でアシュトン様と共にその知らせを待っていた。アシュトン様は、落ち着かない様子で執務室の窓辺に立ち、遠くの空を眺めていた。その横顔には、珍しく微かな緊張の色が浮かんでいるように見えた。 私は、彼の隣にそっと歩み寄った。「アシュトン様。もし、私が王妃に選ばれたら……」 私が言葉を切ると、アシュトン様は私を真っ直ぐに見つめた。「その時は、貴様の意思を尊重しよう。だが、貴様が望むのならば、俺は……」 彼の言葉は、そこで途切れた。彼の瞳の奥には、私への強い執着と、そして、失うことへの微かな恐怖が揺らめいているように見えた。 その時、公爵邸の執事が慌ただしく執務室に飛び込んできた。「アシュトン様!セリーナ様!王宮から、伝令でございます!」 執事の手には、厳重な封がされた書状が握られていた。 アシュトン様は、その書状を受け取ると、ゆっくりと封を破り、中身に目を通した。 彼の表情が、見る見るうちに硬直していくのが見えた。「……そうか」 彼は、低い声で呟いた。「アシュトン様、何と書かれていましたの?」 私が尋ねると、アシュトン様は書状を私に手渡した。 私は、震える手で書状を受け取り、その内容に目を通した。 『セリーナ・フェルティア嬢を、次期王妃候補の最終合格者と定める。よって、改めて王妃の座への意向を問う』 私は、その言葉に、息を飲んだ。 私が、王妃に選ばれる可能性が最も高かったのだ。つまり、王妃になるか否かは、私の最終的な意思にかかっている。「セリーナ……」 アシュトン様が、私の名を呼んだ。 私は、彼に視線を向けた。彼の瞳は、私を深く見つめていたが、その奥には、複雑な感情が渦巻いているように見えた。「貴様が、望んだ結果か?」 彼の問いかけに、私は、迷いなく答えた。「いいえ、アシュトン様。これは、私の
王妃選定試験は佳境に入り、最終候補の三人への注目は日々高まっていった。私、セリーナ・フェルティア。そして、最後まで残ったのは、私と、もう一人、侯爵令嬢のリアーナ・クレメンス嬢だった。エルメリア嬢は、アシュトン様の介入により早々に辞退を余儀なくされ、王妃の座を巡る争いは、私とリアーナ嬢の一騎打ちとなっていた。 アシュトン様の執着は、王宮でも知れ渡るようになり、私がどこへ行っても彼の護衛が影のように付き従った。周囲の令嬢たちからは好奇の目で見られたが、私にとって彼の存在は、重圧であると同時に、漠然とした不安を打ち消してくれる唯一のよりどころになりつつあった。彼の歪んだ執着の中に、私への確かな「特別」があることを、私の心は感じ取っていたのだ。 ある日の夕食後、私はアシュトン様の執務室に呼び出された。 「セリーナ。王妃選定試験の進捗は?」 彼の声は、いつも通り感情の起伏が少なかったが、その瞳は私を深く見つめていた。 「滞りなく進んでおります。最終選考に残ったのは、私とリアーナ嬢の二人でございます」 私がそう答えると、彼は静かに頷いた。 「国王陛下は、貴様を高く評価していると聞く。貴様は、本当に王妃になるつもりか?」 彼の問いかけに、私は言葉に詰まった。王妃の座は、名誉であり、フェルティア公爵家の繁栄にも繋がる。しかし、それは同時に、アシュトン様の隣から離れることを意味していた。「……王命に背くことはできません」 私は、そう答えるのが精一杯だった。 アシュトン様は、私の言葉を聞くと、ゆっくりと椅子から立ち上がった。 そして、私の前に立ち、私の頬にそっと手を触れた。 彼の指先は、ひんやりと冷たかったが、その温度とは裏腹に、私の心臓は熱く脈打った。「セリーナ。貴様は、本当に愛のない結婚に意味はないと、そう思っているのか?」 彼の問いかけは、まるで私の心を覗き込もうとするかのような響きだった。 「……はい」 私は、震える声で答えた。 「ならば、俺は……貴様を、愛せば良いのか?」 アシュトン様の言葉に、私は息を飲んだ。 愛する? 彼が? 感情を知らないと語っていた彼が、私を? 彼の瞳は、私を真剣に見つめていた。そこには、今まで見たことのないような、迷いや、戸惑いのような感情が揺らめいているように見えた。「アシュトン
王妃選定試験は、予想以上に熾烈なものだった。 私を含め、選ばれた令嬢たちは皆、それぞれの家柄と教養を背景に、王妃の座を巡って静かに火花を散らしていた。 私は、アシュトン様の視線を感じながらも、試験に集中しようと努めた。彼の執着は、私にとって重圧であると同時に、どこか奇妙な安心感を与えていることに、私自身が困惑していた。 試験の一環として、各令嬢は王族の前で自身の才覚を披露することになった。 私は、幼い頃から学んできたピアノを披露することにした。それは、私にとって、唯一の自己表現の場だった。 演奏の順番を待っている間、私は控え室で最後の練習をしていた。 その時、扉がノックされ、アシュトン様が姿を現した。「セリーナ。貴様は、ピアノを弾くのか」 彼の声には、僅かな驚きが混じっているように聞こえた。「はい。幼い頃から習っておりましたので」 私が答えると、アシュトン様は私の隣に立ち、私の手元にある楽譜に視線を落とした。「……貴様は、まだ私に何も明かしていないことがあったのだな」 彼の言葉には、どこか不満げな響きがあったが、その瞳の奥には、私への好奇心のような光が揺らめいているように見えた。「アシュトン様は、音楽がお好きではないと伺っておりましたが……」 私がそう言うと、彼は私に視線を向けた。「俺は、貴様の奏でる音ならば、聞いてやっても良い」 彼の言葉は、彼なりの精一杯の譲歩なのかもしれない。私は、彼の意外な言葉に、少しだけ心が温かくなった。 そして、私の番が来た。 私は、緊張しながら舞台へと向かった。客席には、国王陛下を始め、王族の方々、そして数多くの貴族たちが座っていた。 その中に、アシュトン様の姿もあった。彼の視線は、私を真っ直ぐに捉えていた。 私は、深呼吸をし、鍵盤に指を置いた。 私が演奏したのは、幼い頃から好きだった、故郷の風景を思い起こさせるような、穏やかな曲だった。 私の指が鍵盤の上を滑るたびに、澄んだ音色が広間に響き渡った。
陛下の突然の来訪、そして私を次期王妃候補とする命令は、私の日常に大きな波紋を投げかけた。 アシュトン様は、私を王妃選定試験に参加させまいと、ますますその執着を強めた。公爵邸は、まるで私を閉じ込めるための厳重な檻と化したかのようだった。「セリーナ、今日は外出しないのか?」 朝食の席で、アシュトン様が私に尋ねた。彼の視線は、私の行動を常に探っているかのようだった。「はい。今日は、公爵邸の図書室で過ごそうかと」 私がそう答えると、彼は満足げに頷いた。「賢明な判断だ。外は騒がしい」 彼の言葉に、私は息苦しさを感じた。彼は、私が自主的に公爵邸に留まっていると思っているのだろうが、実際は彼の監視下から逃れることができないだけだ。 しかし、王妃選定試験への参加は、王命である。私が拒否すれば、フェルティア公爵家が危うくなる。 私は、アシュトン様の目を盗んで、父に手紙を送った。王命に背くことはできない、と。 数日後、父からの返信が届いた。そこには、王妃選定試験には必ず参加するように、という指示が書かれていた。そして、アシュトン様には、私が王妃選定試験に参加せざるを得ない状況であることを、それとなく伝えるように、とも。 私は、手紙を読み終えると、覚悟を決めた。 私は、王妃選定試験に参加する。それが、私の使命だ。 その夜、私はアシュトン様に、王妃選定試験に参加する旨を伝えようとした。 夕食の席で、彼がデザートに手を伸ばした時、私は意を決して口を開いた。「アシュトン様。私、王妃選定試験に参加させていただきます」 私の言葉に、アシュトン様の手がぴたりと止まった。 彼の顔から、一瞬にして血の気が引いていくのが見えた。 そして、ゆっくりと顔を上げ、私を射抜くような視線で睨みつけた。「……何を言っている?」 彼の声は、低く、そして怒りに満ちていた。「陛下からの命令でございます。フェルティア公爵家として、王命に背くことはできません」 私がそう言うと、アシュトン様は立ち上がり、テーブルを