王都の片隅で、日々の糧を得るために懸命に働く貧しい侍女、アメリア。 ある夜、彼女は屋敷の裏庭で深手を負い倒れていた騎士を発見してしまう。 彼の正体は、名門貴族の嫡男レイモンド。 身分違いの彼を匿うことになったアメリアに、彼はある秘密の契約を持ちかける。 互いの素性を隠しながら協力するうちに、アメリアは彼の内に秘めた優しさや、彼が背負う孤独を知り、次第に惹かれていく。 そしてレイモンドもまた、どんな逆境にもめげないアメリアの強さと明るさに、閉ざしていた心を開いていくのだが――。 これは、許されない身分差と、いつか終わりを告げる契約の狭間で揺れる二人の、切なくも甘い恋の物語。
View More夜明け前の王都は、まだ深い眠りの中にあった。石畳の通りには薄い霧が立ち込め、まばらに灯る街灯の柔らかな光がその中でぼんやりと揺れていた。冷たい空気が肌を刺すが、アメリアは慣れた足取りで屋敷の裏口へと向かった。手には使い古された籐の籠が提げられている。今日の最初の仕事は、花屋へ向かうことだ。彼女の日課である。
アメリアは王都のこの屋敷で、侍女として暮らしていた。彼女の住む部屋は、屋根裏の小さな一室である。窓からは遠く、街の尖塔が辛うじて見えるだけだった。朝は誰よりも早く目を覚まし、まだ静まり返る屋敷の中で、朝食の支度を手伝い、掃除を始める。日中の仕事は多岐にわたり、洗濯や庭の手入れ、買い出しと、休む暇はほとんどない。彼女の細い指先は、絶え間ない労働のせいで少し赤く、荒れていた。それでも、彼女の瞳にはいつも、希望のような穏やかな光が宿っていた。疲労を隠すように、口元には小さな笑みを浮かべている。
花屋の店先では、まだ夜露を纏う薔薇が並べられ、芳しい香りが漂っていた。店の主である老婦人が、アメリアに優しく微笑みかける。彼女はアメリアがこの屋敷に来た頃からの顔なじみで、忙しいアメリアにとって、束の間の心安らぐ時間だった。
「アメリアちゃん、今日も早いね。よく働くこと」
「はい、おばあさま。いつもの白い薔薇をお願いします」
アメリアは返事をしながら、店先に並べられた色とりどりの花々に目を向けた。鮮やかな赤や黄色、淡いピンクの花々が、まだ暗い早朝の空気の中で、ひときわ輝いて見えた。その中でも、露を弾く小さな青い花が、彼女の目を引いた。それは、屋敷の庭の片隅でひっそりと咲く、名も知らぬ小さな花に似ていた。貧しい生活の中でも、そうしたささやかな美しさを見つけることが、アメリアの心を温めてくれた。彼女は、その小さな花の可憐さに、そっと指先を伸ばした。触れるか触れないかのところで、躊躇する。自分の指の荒れが、この繊細な花を傷つけてしまいそうな気がしたからだ。
アメリアには、もう家族と呼べる者はいなかった。幼い頃に両親を亡くし、故郷を離れてこの王都にたどり着いた。幸い、この屋敷の主人は、彼女を雇ってくれた。厳しいけれど、衣食住に困ることはない。他の使用人たちと特別親しいわけではないが、争いごともなく、平穏な日々が続いていた。彼女は、この安定した生活を守るため、決して不平を口にせず、与えられた仕事をひたむきにこなした。それが、彼女にできる唯一の恩返しであり、生きる術だった。いつか、自分にもささやかながら、心安らぐ場所が見つかるだろうか。そんな漠然とした思いを胸に抱きながら、アメリアは薔薇を抱えて屋敷へと戻る道を急いだ。
朝日はまだ昇りきらないが、東の空は少しずつ白み始めていた。街が目覚める前の、その静寂の時間がアメリアは好きだった。喧騒が始まる前の、清らかな空気。それは、彼女の心を洗うようだった。
屋敷に戻ると、他の使用人たちは朝食の準備に取り掛かっていた。パンを焼く香ばしい匂いが、廊下へと漂ってくる。アメリアは買ってきた白い薔薇を丁寧に花瓶に活け、奥様の居間へと飾った。ひっそりと佇む純白の花々は、彼女の心に寄り添うように静かにそこに存在していた。
いつも通りの、何事もない一日が始まるはずだった。屋敷でのアメリアの立場は、決して高くはない。だが、彼女は自分の役割に文句を言わず、むしろ感謝していた。この時代、身寄りのない少女が職を得ることは容易ではない。屋敷の主人夫婦は厳格で、時に理不尽な要求もあったが、それも彼女にとっては「当たり前」の日常だった。他の侍女たちとは、仕事の話はするものの、個人的な深い交流はなかった。皆、自分のことで精一杯なのだ。アメリアもまた、故郷へのわずかな仕送りと、将来への漠然とした不安を抱えながら、黙々と日々をこなしていた。
昼には、奥様が主催する小規模な茶会があった。アメリアは茶葉を淹れ、菓子を並べ、優雅な令嬢たちの傍らを、音を立てぬよう行き来した。白いレースのフリルがあしらわれたドレスを身につけた令嬢たちが、笑いさざめく声が耳に届く。彼女たちの世界は、アメリアのそれとはあまりにもかけ離れていた。華やかで、豊かで、そして、どこか遠い。アメリアは、ふと、自分の荒れた指先と、令嬢たちの滑らかな白い指を見比べた。そこに横たわる差は、アメリアには乗り越えられない壁のように思えた。それでも、彼女は羨むことはしなかった。羨望は、疲れる感情だと知っていたから。彼女はただ、与えられた場所で、自分の務めを果たすことに集中した。
午後には、大量の洗濯物があった。中庭の物干し竿に、色とりどりの布が風にはためく。洗濯板で服をこすり洗いしていると、腕がじんじんと痺れてくる。しかし、汚れが落ちていくたび、そして、太陽の光を浴びて真っ白になった布が風に揺れるたび、アメリアの心にはささやかな達成感が芽生えた。どんなに地味な仕事でも、誰かの役に立っている。そう思うと、体の疲れも少しは和らいだ。
夕食の準備を終え、主人夫婦が食卓につくのを見届けてから、アメリアは使用人たちの食事を摂る。質素だが温かいスープと堅いパン。一日働いた体には、それが何よりのご馳走だった。食後は、台所の片付けが待っている。山のように積まれた食器を洗い、床を磨き、明日への準備を整える。
時計の針は、もう夜の帳が降りる時間を大きく過ぎていた。外では、いつの間にか雨が降り始めていた。冷たい雨粒が窓を叩く音が、疲労困憊の体に染み渡る。ようやく全ての片付けが終わり、自室に戻る頃には、アメリアの全身は軋むように痛んでいた。
温かいお茶を淹れ、小さな机のランプを灯す。今日の出来事を振り返りながら、ゆっくりと心を落ち着かせようとした。普段ならすぐに眠りにつくはずなのに、妙に目が冴えていた。遠くで雷鳴が轟き、窓の外の木々が風に揺れてざわめく。肌寒い夜だった。静かな雨音が、心を洗い流してくれるようだった。
アメリアは、机の上に置かれた、小さな木彫りの鳥に目をやった。それは、幼い頃に父が作ってくれた唯一の思い出の品だ。ひび割れた木肌を指でなぞると、温かい記憶が蘇る。両親と過ごした日々は、遠い夢のようだった。あの頃の自分は、こんなにも一人で生きることになるとは思ってもいなかっただろう。それでも、アメリアは、決して弱音を吐かなかった。
(明日も、頑張ろう)
そう心の中で呟き、アメリアは目を閉じた。明日も、明後日も、きっと同じような日々が続くのだろう。平穏で、そして少しだけ寂しい日常。それは、アメリアにとって、何よりも大切な「居場所」だった。
しかし、その夜、アメリアの日常は、突然、終わりを告げることになる。
「……ッ、ぐ、う……!」
微かな、しかし確かに、人間の苦しげな声が聞こえた。それは、嵐の音にかき消されそうになりながらも、アメリアの耳に届いた。彼女は目を見開き、耳を澄ませる。音は庭の方から聞こえるようだった。最初は風の音かと思ったが、不規則で、何か重いものが地面に倒れるような鈍い響きが続いた。アメリアの胸に、漠然とした不安がよぎる。こんな夜更けに、いったい何が。
用心のため、手燭を手に、アメリアはそっと自室を出た。廊下はしんと静まり返っている。他の使用人たちは皆、すでに深い眠りについているだろう。足音を立てないよう、ゆっくりと階段を降り、裏口へと向かった。その時すでに、彼女の心臓は警戒と不安で、早鐘を打っていた。誰もいないはずの庭から聞こえる音。それは、アメリアの平穏な日常を揺るがす、不吉な予感だった。冷たい雨が、容赦なく屋敷の屋根を叩き続ける。アメリアは、その音に導かれるように、静かに裏口の扉を開いた。
一歩外に出ると、冷たい雨粒が顔に当たった。風が強く、手燭の炎が今にも消えそうだ。闇が深く、視界はほとんど効かない。しかし、アメリアは、地面に広がる奇妙な水たまりの匂いに気づいた。それは、生々しい鉄の匂い。血の匂いだった。アメリアの体から、一瞬にして血の気が引く。「まさか……」
アメリアは息を詰めた。恐怖がじわりと背筋を這い上がってくる。それでも、彼女は後戻りできなかった。何かに導かれるように、足元の泥濘も気にせず、音のした方へと進む。庭の奥、大きな木が雨風に晒されてざわめくその影に、何かがある。手燭の光をわずかに高く掲げた時、その光景は、アメリアの呼吸を奪った。それは、この夜がもはや、これまでの穏やかな日常ではあり得ないことを、アメリアに強烈に告げていた。
秘密の契約が結ばれた翌朝、アメリアは再び物置小屋へと向かった。昨夜のことは夢だったのではないかと、現実感が薄い。しかし、手に残るレイモンドの体温と、決意を込めて告げた自身の言葉が、それが紛れもない現実だと告げていた。 小屋の扉を開けると、レイモンドは既に身を起こしていた。彼の顔色は、まだ蒼白いものの、以前のような死人のような色ではなく、微かに生気が戻っているように見えた。彼はアメリアが入ってきたことに気づくと、一瞬、視線を向けたが、すぐに小屋の窓の外へと目を戻した。依然として警戒を怠らない様子だ。「おはようございます、レイモンド様」 アメリアは、昨日よりも少し丁寧に挨拶した。この日から、二人の関係は「救助された者と救助した者」から、「契約者と協力者」へと変わるのだ。その変化を、アメリアはまだ掴みかねていた。 レイモンドは、静かに頷いた。「今日の昼過ぎには、追手の探索隊がこの周辺を再度調べるだろう。用心が必要だ。お前は、いつも通りに振る舞え。不自然な行動は、かえって疑いを招く」 彼の言葉は、簡潔で、感情がこもっていない。まるで、軍の指揮官が部下に命令を下すかのようだった。アメリアは、その冷徹な指示に、一瞬身をすくませた。これが、彼の本性なのだろうか。「かしこまりました」 アメリアは、小さく答えた。彼の言葉に従い、この日もアメリアはいつも通り、屋敷での侍女の仕事に精を出した。洗濯物を中庭に干す際も、庭の手入れをする際も、常に周囲に目を光らせた。普段は気に留めることのなかった、門の向こうの往来や、空を飛ぶ鳥の動きまで、彼女の視界に鋭く捉えられるようになった。 昼過ぎ、レイモンドの言った通り、見慣れない男たちが屋敷の周辺をうろついているのを、アメリアは目にした。彼らは旅人にしては身なりが整いすぎている。鋭い視線で周囲を窺うその姿は、まるで何かを探しているようだった。アメリアは、洗濯物を干す手を止めず、さりげなく彼らを観察した。そして、彼らの視線が物置小屋へと向けられた瞬間、アメリアの心臓が強く跳ねた。(まさか、見つかる?) 恐怖に全身が震えそうになったが、アメリアは表情を変えなかった。洗濯物を抱え
物置小屋の中に、沈黙が降りた。レイモンドと名乗った男性の瞳は、アメリアをじっと見つめている。その視線は鋭く、まるで彼女の心の奥底を見透かすかのようだった。彼の纏う空気は、この屋敷の主人さえも凌駕するほどの、圧倒的な威厳に満ちている。アメリアは、自分が想像していたよりもはるかに高貴な人物を助けてしまったのだと、改めて実感した。 どれほどの時間がそうして流れただろうか。小屋の外では、依然として雨が降り続いている。その雨音が、二人の間の張り詰めた空気を、一層際立たせていた。 やがて、レイモンドが口を開いた。彼の声はまだかすれていたが、確固たる意志を感じさせた。「……アメリア、と申したな。お前に、いくつか聞きたいことがある」 彼の言葉に、アメリアは小さく頷いた。正直なところ、恐怖がないわけではなかった。彼の素性が高ければ高いほど、秘密を共有してしまった自分に、どのような結末が待っているのか、想像もつかなかったからだ。しかし、彼の命を救ったことに後悔はなかった。 レイモンドは、ゆっくりと体を起こそうとした。しかし、その動きはまだ鈍く、ひどい傷が彼を捕らえていることが分かる。アメリアは思わず手を差し伸べようとしたが、彼の視線がそれを制した。彼は僅かに眉をひそめ、自力で上体を起こし、干し草に体を預けた。「……俺は、この国の王家にも近い、ある名門貴族の嫡男だ」 その言葉に、アメリアは息を呑んだ。やはり、想像以上だった。王家にも近い名門貴族。そんな人物が、なぜこんな裏庭で、血塗れになって倒れていたのだろうか。アメリアの頭の中を、無数の疑問が駆け巡ったが、彼女は何も尋ねることができなかった。彼の言葉の続きを、ただ黙って待った。 レイモンドは、ゆっくりと話を始めた。彼の声は低く、淡々としていたが、その言葉の端々には、計り知れない重みが込められているようだった。「俺は、ある陰謀に巻き込まれた。家族の名誉、そして、この国の未来さえ左右するような、巨大な陰謀だ。証拠を掴み、真実を暴こうとしていた矢先、追手に襲われた。それで、この屋敷の庭に…」 彼の言葉には、多くが語られていない。しかし、その短い説明だけでも、レイモンドがどれほど
嵐の夜から、アメリアの日常は一変した。 物置小屋に匿った騎士は、一晩中高熱にうなされ続けた。荒い息が途切れるたび、アメリアの心臓は締め付けられる。夜が明けても、彼の状態は芳しくなかった。傷口は熱を持ち、苦しげな呻き声が時折、小屋の中に響いた。 アメリアは、昼間は侍女としての仕事をいつも通りこなした。疲労困憊の体を引きずりながら、誰にも気づかれぬよう、細心の注意を払う。いつもより顔色が悪いと他の侍女に指摘されないよう、努めて明るく振る舞った。心の奥底では、物置小屋に横たわる男性のことが常に頭を離れなかった。 仕事を終え、皆が寝静まった深夜。アメリアは再び、手燭を手に物置小屋へと向かった。夜が深まるほど、ひっそりとした屋敷は、その秘密をより一層深く包み込むようだった。小屋の扉をそっと開くと、むっとするような熱気と、血と汗の混じった匂いが鼻をつく。彼の状態は、悪化しているように見えた。「どうか…」 アメリアは震える声で呟き、傍らに跪いた。額に触れると、灼けるように熱い。傷口はまだ血が滲み、熱を持っている。屋敷の薬箱にあった薬草だけでは、足りない。もっと効き目のある薬が、あるいは、専門の医術が必要だと、アメリアは直感した。だが、医者を呼ぶなど、もってのほかだ。彼を匿っていることが、即座に露見してしまう。 アメリアは、屋敷の薬草の知識を総動員し、少しでも熱を下げるための方法を考えた。冷たい井戸水で絞った布を彼の額に何度もあてる。体にまとわりつく濡れた衣類を拭き取り、清潔な布に替える。その度、彼の鍛えられた肉体が露わになるが、アメリアに羞恥を感じる暇などなかった。ただ、彼の命が尽きないようにと、一心不乱に介抱を続けた。 三日、そうしてアメリアは昼夜を問わず、彼の看病に当たった。日中の仕事の合間を縫って、こっそり食べ物を運び、水を与えた。主人の目を盗んでの行動は、常に緊張を伴った。いつ見つかるか分からないという恐怖が、彼女の心に重くのしかかる。しかし、そんな恐怖よりも、目の前の命を救いたいという思いが、アメリアを突き動かし続けた。 三日目の夜明け前。 彼の呼吸が、僅かに落ち着いたように感じられた。額の熱も、昨日よりは下がっている。アメリア
アメリアは、手燭の光をわずかに高く掲げた。裏口の扉を押し開くと、冷たい雨粒が容赦なく顔に叩きつけられた。風が強く、手燭の炎は今にも消えそうだ。闇が深く、視界はほとんど効かない。しかし、彼女の鼻腔を刺激する、あの奇妙な匂いは一層強くなっていた。生々しい鉄の匂い。紛れもなく血の匂いだ。 心臓が早鐘を打ち、全身から血の気が引く。恐怖がじわりと背筋を這い上がってくるが、アメリアは後戻りできなかった。何かに導かれるように、足元の泥濘も気にせず、音のした方へと進む。庭の奥、大きな木が雨風に晒されてざわめくその影に、何かがある。 手燭の光が、その影の輪郭を捉えた瞬間、アメリアは息を呑んだ。 庭の隅にある大きな樫の木の下で、何かが横たわっていた。それは人間だった。しかも、銀色の鎧を身につけている。騎士だ。雨に濡れた鎧は鈍く光り、その下には濃い色の布地が見え隠れしていた。しかし、その布地はひどく濡れており、そして、夥しい量の血で黒く染まっていた。流れ出した血は、雨水と混じり合い、地面を赤黒い澱のように広がり、不吉な模様を描いていた。 男性はうつ伏せに倒れており、身じろぎ一つしない。死んでいるのか。それとも──。恐る恐る、アメリアは数歩近づいた。足元は滑りやすく、泥が靴底にまとわりつく。手燭の小さな灯りが、彼の顔の半分を照らした。端正な横顔は青ざめ、苦悶に歪んでいる。黒い髪が額に貼りつき、冷たい雨粒が頬を伝っていた。そして、かすかに聞こえる、荒い息遣い。か細く、今にも途絶えそうな、生命の音。 生きている。だが、その息は途切れ途切れで、生命の灯火が今にも消えそうだった。彼の背中には、おそらく剣によるものだろう、大きく深い傷が開いている。そこから流れ出た血が、まるで地面に描かれた不吉な模様のように広がっていた。冷たい雨が、容赦なく彼の体を打ち続ける。 アメリアは呆然と立ち尽くした。誰かに見つかれば、大変なことになる。夜中に屋敷の裏庭で倒れている騎士など、尋常ではない。屋敷の主人に知られれば、自分まで巻き添えを食らい、この唯一の居場所を失うかもしれない。それは、身寄りのないアメリアにとって、何よりも恐ろしいことだった。だが、このまま放っておけば、彼は確実に死ぬだろう。この場で死なせてしまえ
夜明け前の王都は、まだ深い眠りの中にあった。石畳の通りには薄い霧が立ち込め、まばらに灯る街灯の柔らかな光がその中でぼんやりと揺れていた。冷たい空気が肌を刺すが、アメリアは慣れた足取りで屋敷の裏口へと向かった。手には使い古された籐の籠が提げられている。今日の最初の仕事は、花屋へ向かうことだ。彼女の日課である。 アメリアは王都のこの屋敷で、侍女として暮らしていた。彼女の住む部屋は、屋根裏の小さな一室である。窓からは遠く、街の尖塔が辛うじて見えるだけだった。朝は誰よりも早く目を覚まし、まだ静まり返る屋敷の中で、朝食の支度を手伝い、掃除を始める。日中の仕事は多岐にわたり、洗濯や庭の手入れ、買い出しと、休む暇はほとんどない。彼女の細い指先は、絶え間ない労働のせいで少し赤く、荒れていた。それでも、彼女の瞳にはいつも、希望のような穏やかな光が宿っていた。疲労を隠すように、口元には小さな笑みを浮かべている。 花屋の店先では、まだ夜露を纏う薔薇が並べられ、芳しい香りが漂っていた。店の主である老婦人が、アメリアに優しく微笑みかける。彼女はアメリアがこの屋敷に来た頃からの顔なじみで、忙しいアメリアにとって、束の間の心安らぐ時間だった。「アメリアちゃん、今日も早いね。よく働くこと」「はい、おばあさま。いつもの白い薔薇をお願いします」 アメリアは返事をしながら、店先に並べられた色とりどりの花々に目を向けた。鮮やかな赤や黄色、淡いピンクの花々が、まだ暗い早朝の空気の中で、ひときわ輝いて見えた。その中でも、露を弾く小さな青い花が、彼女の目を引いた。それは、屋敷の庭の片隅でひっそりと咲く、名も知らぬ小さな花に似ていた。貧しい生活の中でも、そうしたささやかな美しさを見つけることが、アメリアの心を温めてくれた。彼女は、その小さな花の可憐さに、そっと指先を伸ばした。触れるか触れないかのところで、躊躇する。自分の指の荒れが、この繊細な花を傷つけてしまいそうな気がしたからだ。 アメリアには、もう家族と呼べる者はいなかった。幼い頃に両親を亡くし、故郷を離れてこの王都にたどり着いた。幸い、この屋敷の主人は、彼女を雇ってくれた。厳しいけれど、衣食住に困ることはない。他の使用人たちと特別親しいわけではないが、争い
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