Chapter: 第77話 二人の未来 慎吾が帰った後、私と理玖は中庭に出た。 夕暮れ時の庭では、桜と梅と椿の花が時季を違えながら同時に咲き、月見草が星明りに輝いている。この不思議な庭の光景も、今では二人にとって日常の一部だった。「今日も一日、お疲れ様でした」 私が理玖に茶を淹れながら言うと、理玖は愛しそうに彼女を見つめた。「鈴凪こそ。毎日たくさんの人の相談に乗って、疲れただろう」「いいえ、全然。皆さんの笑顔を見ていると、私も元気になります」 私は湯呑みを理玖に手渡すと、自分も隣に腰を下ろした。理玖の肩に頭を預けると、理玖は自然に腕を回す。「理玖様」「何だ?」「私、幸せです」 私の素直な気持ちを伝えると、理玖は肩に回した手に少し力を込めた。「私もだ。鈴凪と出会えて、本当に良かった」 二人はしばらく、庭に散る花びらを眺めながら静かに寄り添っていた。「あの……理玖様」 私は言い淀んで俯いてしまう。顔が熱くなるのは恥ずかしさを隠し切れないからだった。そんな私を、理玖は不思議そうな表情で覗き込む。「どうした? 何か言いにくいことでも?」「その……実は……」 私は頬を赤らめながら、自分のお腹にそっと手を当てた。理玖はその仕草を見て、はっと息を呑んだ。「まさか……」「はい。先日、華さんと一緒に医師の縁火様の
Terakhir Diperbarui: 2025-09-05
Chapter: 第76話 椿京の新たな夜明け それから幾月かが過ぎた。 椿京の街並みは、以前と変わらぬ風情を保ちながらも、どこか空気が軽やかになったように感じられる。和装に帽子を合わせた紳士が狐の面を持つ商人と談笑し、洋傘を差した婦人が猫又の小間物屋で品定めをする光景が、もはや珍しいものではなくなっていた。 朝霞邸の門前には、今日も数人の人影が列を作っている。「順番にお願いいたします。奥様は必ずお会いくださいますから」 華が穏やかな声で案内すると、妖と人とが入り混じった来訪者たちがほっと安堵の表情を浮かべた。ある者は隣人との諍いを抱え、ある者は商売上の取り決めで困り、またある者は恋の悩みを打ち明けたいと願っている。 かつて朝霞家の女中頭として威厳を保っていた華の表情は、今ではすっかり柔らかく、慈愛に満ちていた。「華さん、今日はどのような方々が?」 奥座敷から現れた鈴凪が、来訪者に会釈をしながら華に尋ねる。椿の花を散らした淡い紫の着物に、髪は簡素な髪結いに銀の簪を一本。装いは質素だが、その立ち姿には凛とした品格が宿っていた。「北区の魚屋の旦那さんが、河童の職人さんとの契約で悩んでおられます。それから、向島の娘さんが、狐火の青年との縁談について……」「そうですか。では、順番にお話を伺いましょう」 鈴凪は微笑んで頷くと、来訪者たちに向かって丁寧にお辞儀をした。「皆様、今日はお忙しい中をありがとうございます。私で力になれることがあれば、何でもお聞かせください」 その声音は落ち着いていて、聞く者の心を自然と和ませる。かつて時雨家の没落した娘として肩身の狭い思いをしていた少女の面影は、もうそこにはない。代わりにあるのは、多くの人と妖に頼られ、愛される女性の佳い姿だった。「所長さんは、本当にお若いのに偉いねぇ」
Terakhir Diperbarui: 2025-09-04
Chapter: 第75話 真実の結婚式 月光が中庭の花々を銀色に染める深夜、朝霞邸は静寂に包まれていた。昼の喧騒も、夕刻の使用人たちの慌ただしさも、今はすべてが遠い記憶のように感じられる。 私は白い小袖に身を包み、髪に簪を挿して中庭の中央に立っていた。 月明かりが彼女の頬を照らし、銀の鈴が胸元で小さく揺れている。心臓の鼓動が早鐘のように響いているのがわかったが、それは恐れからではなかった。これから始まることへの、深い期待と愛しさからだった。「鈴凪」 低い声が闇の中から響いた。振り返ると、理玖が歩いてくる。今宵の彼は、いつもの人間の姿ではなかった。 月光の下で、理玖の背後には九つの金色の尾が優雅に揺らめいていた。その尾は炎のように、水のように、時には風のように形を変えながら、彼の周りを舞い踊っている。瞳は琥珀色に輝き、頬には薄く妖の紋様が浮かんでいる。それは恐ろしいものではなく、神々しささえ感じさせる美しさだった。「理玖様……」 私は息を呑んだ。これが理玖の真の姿。九尾の妖として生まれ、長い年月を生きてきた彼の、隠すことのない本当の姿。「驚いたか?」 理玖は立ち止まり、わずかに眉を寄せる。「やはり、恐ろしいだろう。こんな日に、あなたにこの姿を見せるべきではなかった」「いいえ」 私は首を振り、一歩前に出た。「以前と同じ……美しい、と思いました」 理玖の瞳が見開かれる。「美しい……?」「はい。理玖様のすべてが、こんなにも美しいなんて」 私の声は震えていたが、それは恐怖からではなく感動からだった。
Terakhir Diperbarui: 2025-09-04
Chapter: 第74話 迦具土烈火の封印 夕影山は、まるで世界の終わりのような静寂に包まれていた。 理玖と鈴凪は、山頂近くの焼け焦げた大地に立っている。かつて迦具土烈火が暴れ回った場所は、今も黒い灰に覆われ、植物一つ生えていない。「本当に、ここにいらっしゃるのですか」 私は理玖の手を握りながら、不安を抑えて問いかけた。「ああ。烈火の気配はまだ残っている。完全に消滅したわけではない。百五十年前と同じように封印をしなければ……」 二人が歩を進めると、空気が次第に重くなっていく。そして、大きな岩の陰から、弱々しい声が聞こえてきた。「理玖……来たか」 朧月会の本部で見た、威厳ある姿はもうそこにはなかった。迦具土烈火は、人間の老人のような姿で、岩にもたれかかっている。体の各所から薄い炎が立ち昇っているが、それさえも今にも消えそうなほど弱々しい。「烈火」 理玖が迦具土に静かに近づいた。「おまえとの戦いに決着をつけに来た」「決着?」 烈火は嘲笑した。「見ろ、この様を。私はもう、戦う力さえ残っていない」 私は迦具土を見つめながら、胸の奥に複雑な感情が湧き上がるのを感じていた。恐怖、憐れみ、そして……理解しがたい親近感。「迦具土烈火様……」 私も理玖の横に立った。「私は朝霞鈴凪と申します」 迦具土は私を見上げると、瞳の奥を覗き込むように見つめてきた。
Terakhir Diperbarui: 2025-09-03
Chapter: 第73話 朧月会本部での決議 朧月会本部の会議室に、重苦しい空気が漂っていた。長い楕円形のテーブルを囲んで座る幹部たちの表情は、それぞれに複雑な感情を映している。 議長席に座る慎吾は、手元の書類に目を落としながら、深く息を吸った。この日のために、彼は三日三晩考え抜いてきた。「諸君、本日は重要な議題について話し合いたい」 慎吾の声が、静寂を破った。「九尾・朝霞理玖との戦いが終結し、我々、朧月会の使命について、根本から見直す時が来たと思う」 会議室のあちこちで、ざわめきが起こる。最前列に座る高師小夜が、鋭い視線を慎吾に向けた。「慎吾、まさか敗北宣言をするつもりではないでしょうね」「小夜さん、これは敗北ではない」 慎吾は落ち着いて答えた。「我々は、戦うべき相手を間違えていたのではないかと言っているのです」「何を言っているの!」 復讐することを諦めたとはいえ、相変わらず小夜の声は、どこまでも冷たい。「妖は人類の敵よ。それは変わらない事実でしょうが! 人を騙して弄び、」「本当にそうでしょうか」 慎吾は立ち上がり、窓辺に歩いた。外では、椿京の街並みが夕日に染まっている。「僕は先日、朝霞邸を訪れました。そこで見たのは、恐ろしい化け物ではなく、一人の女性を心から愛する男の姿でした」「惑わされているのよ! 妖の幻術に騙されているだけじゃない」 小夜が苛立ちを隠さずに言う。これまでずっと、妖を憎み続けた小夜にとっては、全ての妖が同じに見えるのだろう。長い間、抱えていた憎しみを急に忘れることなどできないと、慎吾にもわかる。「では、鈴凪さんも幻術にかかっているとでも?」 慎吾は振り返り、会議室の全員を見回した。誰もが慎吾の言葉に耳を傾けていながらも、小夜の強い口調に身をひそめている。「僕は彼女を以前から知っています。彼女がどれほど聡明で、意志の強い女性かも知っている。その彼女が、自分の意志で朝霞を選んだのです」 年配の幹部の一人、橋本が口を開いた。「真壁君の言いたいことは分からんでもない。だが、それは一例に過ぎないのではないか。すべての妖が朝霞のような存在だとは限らん」「その通りです、橋本さん」 慎吾は頷いた。「だからこそ、我々は妖を一律に敵視するのではなく、個々の存在として向き合うべきなのです」 小夜が立ち上がった。「あなたは朧月会を解散させるつもりなの? 我
Terakhir Diperbarui: 2025-09-03
Chapter: 第72話 慎吾の訪問 朝霞邸の玄関に、聞き慣れない足音が響いたのは、契約解除の儀式から二日が過ぎた夕刻のことだった。「真壁慎吾様がお見えです」 華の知らせに、私は胸の奥で小さく息を呑んだ。理玖と真の夫婦になると決めてから、いつかこの時が来ることは分かっていた。それでも、実際に慎吾と向き合うとなると、心は複雑に揺れる。「お通ししてください」 私は襟を正し、座敷へと向かった。障子の向こうから差し込む夕日が、畳に長い影を落としている。やがて襖が開き、慎吾が姿を現した。 朧月会の制服ではなく、質素な紬の着物に袴。その表情は、かつてのような激しい敵意ではなく、深い疲労と諦めに似た静けさを湛えていた。「鈴凪さん、お久しぶりです」 慎吾は畳に正座すると、まっすぐに私を見つめた。「お久しぶりです、慎吾さん」 私も正座し、丁寧に頭を下げる。二人の間に流れる空気は、以前とはまったく違っていた。敵対でもなく、昔の親しさでもない。ただ、互いを理解しようとする静かな意志だけがそこにあった。「君は……元気そうですね」 慎吾の声は、どこか安堵を含んでいる。「おかげさまで。慎吾さんは……ずいぶんとお疲れのようですが」「ええ」 慎吾は苦い笑みを浮かべた。「朧月会の後始末に追われています。今日は、その件で来たのです」 私は静かに頷く。理玖が迦具土を退けた後、朧月会内部では激しい議論が続いていることを、華から聞いていた。「まずは…&helli
Terakhir Diperbarui: 2025-09-02
Chapter: 第26話 エピローグ 大学三年の秋――。 私は文学サークルで親しくなった安部真理子と一緒に、学食で遅めのお昼をとっていた。「ねえ、紀子。今度の日曜日、時間ある?」「日曜日? 特に予定はないけど」「じゃあさ、H大の学園祭に付き合ってくれない?」「学園祭? なにかあるの?」 私がそう聞くと、真理子はパッと顔を赤くした。あまりにも突然で私は目を見開いて真理子の顔を見つめた。「彼氏、できたって言ったでしょ? H大なの。遊びにおいでよって言われてて……」 照れた表情を見せる真理子は、とても美しく見え、私まで胸の奥が温かい気持ちになる。そういえば、一カ月ほど前に文学サークルで他の大学のサークルと飲み会をすると言っていた。 私は気後れしてしまって、飲み会や集まりにはほとんど参加しない。その時に、とても気が合う良い人がいると言っていたけれど、その後、付き合うことになったと聞いたっけ。「会いに行くなら、私が一緒じゃ邪魔になっちゃうんじゃない?」「そんなことないよ! ホラ、彼も出し物の屋台? 忙しいだろうから」 きっとほとんど一人になってしまうと言って、真理子は私の手を握り、懇願してくる。人混みは、今でもどうしても避けたい気持ちが溢れてくるけれど、こんなに頼まれて無下にはできない。 真理子はいつでも私に気遣ってくれる、数少ない大切な友だちだから。「わかった。それじゃあ、彼氏さんの時間が空くまで付き合うよ」「ありがとう~! じゃあ、日曜日の十一時に、H大の最寄り駅で待ち合わせでいい?」「いいよ」 こうして、私はH大まで出かけることになった。 ――日曜日。 H大の構内は様々な屋台や出し物で溢れかえり、人も多く、とても賑わいでいた。私たちの通うG大も学園祭になると人が増えるけれど、H大の方が明るくて派手に感じてしまう。 慣れない他校の雰囲気に、私は少し飲まれ気味になっていた。「あっ! 紀子、あそこ!」 真理子が指さしたのは、立ち並ぶ屋台の
Terakhir Diperbarui: 2025-07-26
Chapter: 第25話 会わない恋人の結末 春が来た。 私の人生に、新しい季節が訪れようとしている。 合格通知書を手にしたとき、私は一人で静かに涙を流した。憧れの大学の文学部。新しい環境で、新しい自分になれるかもしれない。「おめでとう、紀子」 母が嬉しそうに私を抱きしめてくれた。父も、珍しく満面の笑みを浮かべている。「ありがとう」 素直に喜びを表現できるようになった自分に、少し驚いた。あのころの私なら、どんなに嬉しいことがあっても、心の底から喜ぶことができなかっただろう。 自分の容姿を気にして、先へと続く時間も、これまでと同じに流れるとしか思えないままでいただろう。 ――卒業式の日。 桜の花びらが舞い散る中、私は高校生活に別れを告げた。この三年間、特に最後の一年は、私にとって大きな転換期だったと思う。 彩音とは、結局最後まで和解することはなかった。クラスが別になって、接点がなくなったのも理由の一つかもしれない。それでも、彼女への恨みは不思議と薄れていた。もしかしたら、彼女も彼女なりの事情があったんだろう。そんな風に思えるようになった。 クラスメイトたちとの別れ際、何人かが私に声をかけてくれた。「紀子、大学でも頑張ってね」「元気でね。素敵な小説を書いてね」「今度、連絡するから」 社交辞令かもしれないけれど、そんな言葉をかけてもらえることが嬉しかった。入学したころは、こんな風に卒業式を迎えられるなんて、考えもしなかった。中学のころのように、一人ぼっちで誰とも話すことなく、校門をくぐるだろうと思っていた。 一人になった教室で、私は窓の外を眺めた。 拓翔も、どこかで卒業式を迎えているのだろうか。新しい道へ向かって歩み始めているのだろうか。友だちや、もしかすると、新しい出会いがあって、素敵な人と卒業のお祝いをしているかもしれない。「拓翔、卒業おめでとう」 同じ空の下、どこかで今日を迎えている拓翔に、届かないとわかっていても伝えたかった。*** 大学生活が始まった
Terakhir Diperbarui: 2025-07-25
Chapter: 第24話 時の流れ 新緑の葉が赤や黄色に色を変え、高く広がる空が心地よい季節になった。 私もついに進路を決めて、受験に向けて本格的に準備を進めている。教室の黒板には「進路希望調査」の文字が踊り、周りのクラスメイトたちは将来の話で盛り上がっている。この数カ月で、私の周りの環境も少しずつ変わっていた。彩音とは別のクラスになって顔を合わせることもほとんどなくなった。今のクラスメイトたちは、そこまで深く付き合っていなくても、私と普通に接してくれる。 以前のように、私を嫌な目で見る人もいるけれど、嫌がらせをする人はいない。 お昼ももう、一人で食べることはなくなった。一緒に食べる仲間ができたから。毎朝、学校へ来ることが憂鬱でたまらないことは、もうなくなった。「紀子は大学行くの?」 隣の席の女子が気さくに声をかけてくれる。「うん、文学部に進みたいと思ってるんだ」「へえ、美術部だから、てっきり美大に行くんだと思った。もしかして小説とか書くの?」「まあ、そんなところかな」「いいじゃん、夢があるよね。でも、絵を描くのはやめちゃうの? 上手いのにもったいなくない?」「ありがとう……絵は続けるよ。せっかく美術部で色々と教わったから」 あのころから物語を書くことに興味を持つようになっていた。自分の気持ちを言葉にすることで、少しずつ心の整理ができるようになった気がする。 絵を描くことも、もちろん続けていきたい。自己流だけれど、時間を見つけて描くようにしている。拓翔が上手いと褒めてくれたから。 放課後の図書館で、私は大学の資料を眺めていた。志望校のパンフレットを開きながら、今日もまた、拓翔は今どうしているのだろうと考えてしまう。 彼も高校三年生になったはずだ。進路は決まったのだろうか。拓翔は小説家になりたいと言っていた。私と同じように、どこかの大学の文学部に進むんだろうか。 そして、あの優しくて温かい口調で、進路について、誰かと話しているのだろうか。 もしかすると、同じ大学を希望しているかもしれない。「……だめね、私」 思わず呟いてしまう。こんな風に、拓翔のことを考えない日はない。あの日、私は自分から関係を断ち切ったのに、心の奥底では、今でも彼への想いを手放すことができずにいた。 夜、自分の部屋でスマホを見つめる。 あの日以来、私はSNSやチャット、掲示板からは完全に距
Terakhir Diperbarui: 2025-07-24
Chapter: 第23話 それぞれの道 桜が散り始めた四月の午後、私は一人で図書室にいた。 進路相談の資料を広げながら、将来のことを考えている。三年生になって、現実的に自分の進路を決めなければならない時期が来た。 以前なら、こんなときも拓翔に相談していただろう。拓翔は私の話をいつも真剣に聞いてくれて、的確なアドバイスをくれた。でも、もうそれは叶わない。「神林さん、一人?」 振り返ると、同じクラスの|梶原哲哉《かじわらてつや》が立っていた。彼は図書委員で、私とは時々、本の話をする仲だった。「うん、進路のことを調べてるの」「俺も。一緒に考えない?」 哲哉は、私の向かいに座った。彼は背が高くて、優しい顔をしている。クラスでも人気があって、私なんかとは住む世界が違う人だと思っていた。どちらかというと、彩音のグループにいるような人だから。「神林さんは、文学部志望だっけ?」「うん。でも、まだ迷ってる」「なにを迷ってるの?」 私は少し考えてから答えた。「本当に、私なんかが文学を学んでいいのかなって」 哲哉はジッと私を見つめて首をかしげた。「どうして? 神林さんの読書感想文、いつもすごく深くて感動するよ。先生も褒めてたし」 その言葉に、私は驚いた。誰かが私の感想文を読んでくれていたなんて知らなかった。「ありがとう。でも、私は人とのコミュニケーションが苦手だから、将来文学の道に進んでも、うまくやっていけるか心配で」「それなら、今から少しずつ慣れていけばいいんじゃない? 僕、神林さんと話してると楽しいよ。落ち着いてるし、考えが深いし」 哲哉の言葉は、拓翔が言ってくれた言葉と似ていた。以前は受け入れられなかったお世辞も、今度は素直に受け取ることができた。「そう言ってもらえると、少し自信が持てる」「神林さんは、もっと自分を信じていいと思う」 その後、私たちは進路について色々と話し合った。哲哉は理系志望で、将来は研究者になりたいと言っていた。真剣に夢を語る彼の姿を見ていると、拓翔と重なる。私も
Terakhir Diperbarui: 2025-07-23
Chapter: 第22話 拓翔の行動 僕は、もう一週間も眠れない夜を過ごしていた。 スマホの画面を何度も確認するけれど、紀子からの返信は来ない。当然だった。彼女は最後のメッセージで、もう連絡しないでと言ったのだから。 それでも僕は、諦めることができなかった。 あの日、紀子の写真を見たときの気持ちを思い出す。確かに驚いた。でも、それは彼女が思っているような嫌悪感ではなかった。むしろ、ほっとしたのだ。 紀子は、ずっと自分のことを醜いと言い続けてきた。だから僕は、相当な容姿の人を想像していた。でも実際の写真は、ごく普通の、むしろ優しそうな表情をした女の子だった。「なんだ、全然大丈夫じゃないか」 それが、僕の率直な感想だった。 自分だって、身長が低いことで散々からかわれてきた。人の容姿をどうこう言えるような立場ではない。それに、紀子の魅力は見た目ではなく、その優しい心や、物事を深く考える知性、そして純粋さにあった。 写真を見たあとも、彼女への愛情は微塵も揺らがなかった。むしろ、やっと実際の彼女を知ることができて、嬉しかったのだ。 でも、紀子には信じてもらえなかった。『もう連絡しないでください』 あの言葉が、何度も頭の中で響く。紀子の気持ちもわかる。容姿にコンプレックスを持つ彼女にとって、写真を見られることは、心の奥の傷をえぐられるような体験だったのだろう。 でも、だからといって諦めるわけにはいかない。彼女が誤解したまま関係を終わらせてしまうなんて、あまりにも悲しすぎる。 僕は、パソコンの前に座り、新しいアカウントを作成した。名前も、アイコンも、すべて変えて。そして、紀子が使っていた掲示板にアクセスする。 紀子がもう戻ってこないことはわかっている。でも、もしかしたら、気が変わって覗きに来るかもしれない。そのときのために、メッセージを残しておこう。 本名を晒すわけにはいかないから、ハンドルネームで。『NORIへ。君がこれを見てくれるかはわからないけれど、どうしても伝えたいことがある。僕の気持ちは、君が思っているようなものじゃない。君は美しい人だ。外見的な美しさ
Terakhir Diperbarui: 2025-07-22
Chapter: 第21話 失ったもの 机の引き出しに、使わなくなったスマホが眠っている。 あれから一週間。 私は機種変更として、新しいスマホを買ってもらったけれど、SNSのアプリは一切入れていない。ネットの世界には、もう戻らないと決めたのだ。 朝、目が覚めると、真っ先にスマホを手に取る習慣が抜けない。拓翔からメッセージが来ていないか確認しようとして、ハッと我に返る。もう、拓翔からのメッセージが来ることはないのだ。 学校に行く準備をしながら、鏡の前に立つ。相変わらず、そこには醜い自分が映っている。でも、なぜか少し違って見える。拓翔が「優しそうな表情をした女の子」だと言ってくれた顔。本当にそう見えるのだろうか。 そんなことを考えている自分に気づいて、慌てて頭を振る。もう、彼の言葉にすがるのはやめよう。「紀子ー、朝ごはんよー」 母の声に返事をして、階下に向かう。食卓に着くと、母が心配そうに私を見つめていた。「最近、元気がないみたいだけど、大丈夫?」「大丈夫だよ」 嘘だった。全然大丈夫じゃない。胸に空いた穴は、日に日に大きくなっているような気がする。「友だちと、なにかあった? 最近、スマホもあまり見てないみたいだし」 母の優しい問いかけに、思わず涙が出そうになる。でも、説明することはできない。ネットで出会った人との恋愛なんて、理解してもらえるはずがない。「ちょっと疲れてるだけ。心配しないで」 母は納得していない様子だったけれど、それ以上は聞いてこなかった。 学校に着くと、彩音が意地悪な笑みを浮かべて近づいてきた。「あら、神林さん。ネットの彼氏とはうまくいってる?」 その言葉に、クラスメイトたちがこちらを見る。あの日から、私はクラス中の好奇の対象になってしまった。「もう、そんな人はいません」 私の答えに、彩音は満足そうに微笑んだ。「そうよね。所詮、ネットの関係なんて虚しいものよ。現実を知れば、みんな逃げていくのよ。傷が浅いうちで良かったんじゃない?」 胸に刺さる言葉。でも、違う。
Terakhir Diperbarui: 2025-07-22