人と妖(あやかし)が共に暮らす、文明開化の影に妖しが息づく帝都、椿京。 貧しい書生の娘・時雨 鈴凪(しぐれ すずな)は、ある日突然、九つの尾を持つ妖にして政財界の実力者・朝霞 理玖(あさか りく)のもとへ嫁ぐことになる。 それは表向きの結婚、実際は「契約による花嫁」――ただの取引のはずだった。 しかし、鈴凪は「鈴の娘」と呼ばれる特異な存在。 彼女の鈴は、妖たちの心の声と共鳴し、封じられた記憶を呼び覚ます力を秘めていた。 そして九尾・理玖が心を寄せていたのは、かつての契約者――今はもういない女性。 これは、亡き人への想いに縛られた狐と、決して「代わり」ではないことを願う少女の、百年越しに重なる恋の物語。
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門の前に立つと、不思議な空気が肌に触れる。ひやりとした風が髪をすくい、音が遠ざかっていく。まるで、世界が一枚絹を隔てているかのような感覚──それが、
門の上には銀の紋が刻まれていた。
「……本当に、契約結婚の話なんてあったのね」
小さく息を吐き、言葉にしたのは自身への確認だった。
私がここへ嫁ぐ――? 一年間だけ、形式的な妻として。 それが自分の人生の分岐になるとは、この時の鈴凪はまだ思っていなかった。 鈴凪がその話を耳にしたのは、借金取りに追われて家から逃げていた時だった。村を出てから、数カ月。母を病で亡くし、父もその後を追うようにして逝った。家は父の借金で没落し、書生として働いていた日々も遠くなった。 あちこちの村や町を渡り歩き、辿り着いた都下の小さな村の片隅。古書店で昼の手伝いをしながら、鈴凪は必死に働いていた。「
ふと店主がそう言った。
「豪商の御屋敷でね。そこの旦那が、契約で妻になる女性を探しているって噂があるのだよ。奇妙な話だよね」
ただの噂話だろう、と鈴凪は思った。信じるには突飛すぎる話。もしかすると、貴族の政略結婚のようなものだろうか?
きっと、そうであろうに違いない、と思いながら、店主に問いかけた。「その契約って、形式だけのものなのですか? 政略結婚とは違うのですか?」
「さあねえ。詳しいことは聞いていないけれど、かなり条件が良いらしいよ」
「条件……」
店主は曖昧に言葉を濁すと煙草をくゆらせた。その手の中にある
この国の首都に近い椿京には、昔から人と妖が共存していると噂されている。椿京にほど近いこの村にもそんな噂があり、鈴凪はそれとなく人々を観察しているけれど、誰もかれもが皆、人でしかなく、妖がいるなどと到底信じられずにいた。
けれど、時々こうして妖にまつわる道具や本、美術品を目にすることがある。 その夜、私は曾祖母である
そして――。
「鈴凪、あなたは
母は鈴凪にそう話してくれた。曾祖母は、私が物心つく前に亡くなってしまったので、記憶には何も残っていないけれど、遺された品々には不思議と懐かしさを感じている。特に代々受け継がれている銀の鈴……。
鈴凪には、鈴の娘の意味はわからなかったが、母の言う『鈴』というものが、妖や神と関係することは、薄々気づいていた。「ごめんくださいませ」
長屋の引き戸の向こうから声を掛けられ、鈴凪は慌てて荷物を竹籠へと詰め込んだ。借金取りが、もう、この居場所に気づいたのだろうか。これ以上、お金に変えられるものはないし、手元のお金も僅かばかり……。
ただ、借金取りにしては丁寧な口調なのが気になった。「……はい」
「こちら、時雨さまのお宅で間違いないでしょうか?」
「はい……あの……どちら様でしょうか?」
鈴凪は問いかけながら、そっと引き戸を開けた。細く開いた隙間の向こうには、小さな箱を手にした女性が立っている。どこかの使用人のような恰好だ。
「私は朝霞開発の朝霞家よりやって参りました。こちらの鈴凪さまへお願いがございます」
「お願い、ですか?」
朝霞開発は、鈴凪も名を知っている大企業だ。そんな所の関係者が、鈴凪に用があるというのが不思議だった。今度はきちんと戸を開き、相手に向かって頭を下げる。
「失礼いたしました。私が
女性は手にした箱の包みを開き、一通の書状を差し出した。
「この度、当主の
契約による婚姻……。
突然のことに困惑しながらも、古書店の店主の話を思い出し、鈴凪はつい曖昧な返事をしたのだった。部屋の襖を閉めた瞬間、私はようやく一人になれたことに安堵のため息をついた。 奥の寝室には既に布団が敷かれていて、すぐに休めるようになっている。布団は私がこれまで使っていたものと違って、ふかふかと厚みがあって柔らかそう。 床の間に飾られた花の甘い香りが疲れを癒してくれる気がした。箪笥や化粧台に触れてみると、温かい木のぬくもりが伝わってくる。 借金取りに追われていた数日前の生活とのあまりの落差に、現実感が湧かない。「本当に、これが私の部屋なの……」 呟きながら、私は持参した小さな竹籠の中から、形見の一つである手鏡を取り出した。銀の縁に繊細な菊の花の彫刻が施された小さな鏡は、曾祖母のちよが遺してくれた大切な宝物だった。 鏡面に映る自分の顔を見つめながら、私は今日一日の出来事を振り返った。 朝霞理玖という人は、確かに紳士的で礼儀正しい。容姿端麗で、言葉遣いも丁寧。けれど、どこか近寄りがたい雰囲気がある。まるで美しい氷の彫刻を見ているような、触れれば凍えてしまいそうな冷たさを感じるのだ。「あの方は、どうして私を選んだのかしら」 私は鏡に映る自分の顔を改めて見詰めた。特別美しいわけでもない。家柄も今では没落している。理玖ほどの男性であれば、もっと相応しい相手がいくらでもいるはずなのに。 夕食の席で交わした会話を思い出す。契約結婚の条件を淡々と説明する理玖の声には、感情の起伏が一切感じられなかった。まるで商談でもしているかのような、事務的な口調。曾祖母との約束だと言っていたけれど、曾祖母が亡くなって長い今、そんな約束など反故にされてもおかしくもない。「朝霞様の正体や仕事の詳細を詮索しない、か……」 その時の理玖の表情が妙に印象に残っている。一瞬、目の奥に何か暗いものが宿ったような気がしたのだ。正体、という言葉の使い方も気になった。普通なら「私生活」や「仕事の内容」と言うところではないだろうか。 私は鏡を大切にしまいながら、曾祖母に対する感傷に浸った。「曾祖母様、私は正しい選択をしたのでしょうか」
部屋の襖を閉めた瞬間、私はようやく一人になれたことに安堵のため息をついた。 奥の寝室には既に布団が敷かれていて、すぐに休めるようになっている。布団は私がこれまで使っていたものと違って、ふかふかと厚みがあって柔らかそう。 床の間に飾られた花の甘い香りが疲れを癒してくれる気がした。箪笥や化粧台に触れてみると、温かい木のぬくもりが伝わってくる。 借金取りに追われていた数日前の生活とのあまりの落差に、現実感が湧かない。「本当に、これが私の部屋なの……」 呟きながら、私は持参した小さな竹籠の中から、形見の一つである手鏡を取り出した。銀の縁に繊細な菊の花の彫刻が施された小さな鏡は、曾祖母のちよが遺してくれた大切な宝物だった。 鏡面に映る自分の顔を見つめながら、私は今日一日の出来事を振り返った。 朝霞理玖という人は、確かに紳士的で礼儀正しい。容姿端麗で、言葉遣いも丁寧。けれど、どこか近寄りがたい雰囲気がある。まるで美しい氷の彫刻を見ているような、触れれば凍えてしまいそうな冷たさを感じるのだ。「あの方は、どうして私を選んだのかしら」 私は鏡に映る自分の顔を改めて見詰めた。特別美しいわけでもない。家柄も今では没落している。理玖ほどの男性であれば、もっと相応しい相手がいくらでもいるはずなのに。 夕食の席で交わした会話を思い出す。契約結婚の条件を淡々と説明する理玖の声には、感情の起伏が一切感じられなかった。まるで商談でもしているかのような、事務的な口調。曾祖母との約束だと言っていたけれど、曾祖母が亡くなって長い今、そんな約束など反故にされてもおかしくもない。「朝霞様の正体や仕事の詳細を詮索しない、か……」 その時の理玖の表情が妙に印象に残っている。一瞬、目の奥に何か暗いものが宿ったような気がしたのだ。正体、という言葉の使い方も気になった。普通なら「私生活」や「仕事の内容」と言うところではないだろうか。 私は鏡を大切にしまいながら、曾祖母に対する感傷に浸った。「曾祖母様、私は正しい選択をしたのでしょうか」 小さな声で問いかける。曾祖母の顔さえも記憶に残っていないけれど、後に残る私のことまで考えていてくれたことを、嬉しく思う。『鈴凪はいつか、大きなお屋敷のお嬢様になるのよ。きっと素敵な殿方と出会って、幸せになるの』 昔、母がそんな風に言ってくれたことがあ
「それでは、奥様のお部屋からご案内させていただきます」 華に導かれて足を踏み入れた屋敷の内部は、外観以上に息を呑むほど美しかった。玄関から続く廊下には、洋風の絨毯が敷かれているにも関わらず、天井には和風の格子が組まれている。ガス灯と提灯が共存し、西洋の油絵と日本画が同じ壁に飾られていた。「珍しい造りでございましょう?」 華が私の様子を見て微笑んだ。「旦那様のご趣味で、東西の美を調和させた設計になっております」「とても素敵です」 私は率直な感想を口にした。なにもかもが珍しく見えて目が離せない。「まるで夢の中にいるようです」「そのお言葉、旦那様がお聞きになったら喜ばれるでしょう」 廊下を歩きながら、私は何とも言えない違和感を覚えていた。この屋敷には多くの使用人がいるはずなのに、人の気配が薄いのだ。時折、廊下の向こうを誰かが通り過ぎるのが見えるのだが、足音が全く聞こえない。「あの……」 私は遠慮がちに声をかけた。「こちらにはたくさんの方がお勤めなのでしょうか?」「はい。この屋敷には二十人ほどの使用人がおります」 華は振り返って答えた。「皆、長年この家にお仕えしている者ばかりです。奥様のことも、きっと大切にお守りするでしょう」 大切にお守りする――その言葉に込められた響きが、単なる主人への敬意以上のものに聞こえた。まるで私を何かから守らなければならない事情があるかのように。「華さん」 私は思い切って尋ねた。「もしかして、私のことをご存知だったのでしょうか? 先ほどから、初対面とは思えないようなお顔をなさっていて……」 華の足が止まった。振り返った彼女の表情には、明らかな動揺があった。「いえ、そのような……」 華は言葉を濁し、それから僅かに俯くと、深く息を吐いた。「申し訳ございません。実は、奥様の曾祖母様のちよ様を存じ上げておりまして」「曾祖母を?」 私は驚いて声を上げた。「はい。ちよ様には、若い頃この屋敷でお世話になったことがございます。奥様のお顔立ちが、ちよ様にそっくりでいらしたもので……」 曾祖母のちよが朝霞家と関わりがあった――。それは初耳だった。理玖が私を見つけ出せたのも、そういう縁があったからなのだろうか。「そうだったのですね」 私は華の表情を見つめた。彼女の目には、懐かしさと同時に、何か言えない秘密を抱
夕刻の空が茜色に染まる頃、私――時雨鈴凪は、人生で最も大きな分岐点の前に立っていた。「こちらが朝霞様のお屋敷でございます」 人力車の車夫が振り返って言った言葉に、私は小さく頷いた。目の前にそびえ立つのは、これまで見たこともないほど立派な屋敷だ。洋館の重厚さと日本家屋の優美さが不思議に調和した建物は、まるで異国の物語から抜け出してきたかのように幻想的で、私のような庶民には場違いな場所だと感じる。それなのに――。 先日、訪ねてきた時にも感じたけれど、どこか懐かしいような感覚が胸をよぎる。「ありがとうございました」 震え声にならないよう気をつけながら車夫に礼を言い、小さな竹籠の入った風呂敷包み一つを抱えて車を降りる。これが私の全財産だった。父の死後、家財道具はほとんど借金の形に取られてしまったのだから。 門の前で立ち止まり、私は深く息を吸った。 朝霞邸――。 椿京でも有数の大企業、朝霞開発の代表を務める朝霞理玖氏の邸宅。そして今日から一年間、私がその「妻」として暮らすことになる場所。 契約結婚。そんな現実離れした話が私の元に舞い込んできたのは、ほんの一週間前のことだった。「本当にこれでよかったのだろうか」 心の中で呟きながら、私は重厚な門扉を見上げた。黒塗りの木材に施された金の装飾が、夕日を受けて鈍く光っている。門柱には「朝霞」の文字が刻まれた表札があり、その下には見慣れない家紋――すすきの穂が左右から寄り添い、根元で結ばれた優美な意匠が彫り込まれていた。「お嬢様、時雨様でございますね」 突然声をかけられて、私は背筋がピンと伸びた。いつの間にか門番の老人が現れていたのだ。白髪を丁寧に撫でつけた、品のある初老の男性だった。「は、はい。時雨鈴凪と申します」「ご足労をおかけいたしました。旦那様がお待ちでございます。どうぞこちらへ」 老人の敬語は丁寧すぎるほど丁寧で、まるで私が本当に身分の高い令嬢であるかのように響いた。それがかえって居心地の悪さを増していく。 ――私には身分なんてないようなものなのに。 門をくぐると、玉砂利の敷かれた前庭が広がっていた。手入れの行き届いた植木や、季節外れなのに美しく咲いている彼岸花が目に入る。 彼岸花は秋の花のはずなのに、なぜ今の季節に? そんな疑問
そして、今――。 朝霞邸の門前。 昨夜、受け取った書状を手に、鈴凪は成り行きで、ここに立っている。 門が静かに軋んだ音を立て、独特な気配が、扉の奥から滲み出てきた。「あなたが時雨鈴凪さん、ですか」 呼びかけられて鈴凪は顔を上げた。目の前には、黒羽織の青年が立っていた。 ──美しい、と思った。 それが初めての感想だった。 ただ、その美しさは、普通の人とはどこか違う気がした。 彼の瞳は琥珀色で、獣のような冷たさを帯びていた。銀の指輪が左手に光り、立ち姿はまるで絵巻の登場人物のように見える。「はい。時雨鈴凪です。朝霞様……ですね」 言葉が喉の奥で震えるのを押さえて問いかけた。彼が静かに頷くと、後ろに控えていた使用人たちに促され、鈴凪は屋敷の居間に通された。「あの……それで、契約による婚姻というのは……」「先ずは簡単にご説明します。これから一年間、形式上の妻であること。書面上の婚姻関係を結び、朝霞邸に暮らす。あなたの自由はある程度、制限されます。外出は許可制。契約の秘密は漏らしてはならない。この契約について、外部では黙っておくこと──以上が条件となります」「契約については秘密……ですか?」 鈴凪は耳を疑った。既に古書店の店主も知っているほど噂になっているようなのに、今さら、秘密にしなければならないのはなぜなのだろう。 理玖の瞳はまっすぐ鈴凪を見つめている。「不服ですか? 秘密を守ることもできないほど、口が軽いようでは困るのですが」 棘のある言い方に、鈴凪は驚いた。初対面であるのに少し失礼なのではないか……そんな風に感じていた。観察しているような、様子を窺っているような、そんな理玖の視線も気になった。「え……いえ、不服だなんて、そんなことはありません」「私は昔、ある人と約束を交わしています。いつか時雨家に何かあったら助けてやってほしい、と――。今、この契約を機にその手助けができるかと」「ある人……?」 ある人とは誰だろう? 鈴凪には身内と呼ばれるような親戚などいないし、過去に誰かが何かを頼んでいるとしたら、父か母しか思い浮かばない。けれど、父や母なら、『ある人』などと曖昧な言いかたをするはずがない。「……それでも、この婚姻は契約ですよね。助けていただくのは有難く思いますが、私は道具ではありませんので、契約以上の
椿京──東と西が交錯する近代都市。白漆喰の町屋が並び、軒先では狐面が風に揺れ、通りには人力車と馬車がすれ違っていく。文明開化の光が射す一方で、どこか古めかしい静寂が都市の底に息づいていた。 鈴凪は、竹籠の入った風呂敷を抱えて、その異質な豪邸の前で足を止めた。 門の前に立つと、不思議な空気が肌に触れる。ひやりとした風が髪をすくい、音が遠ざかっていく。まるで、世界が一枚絹を隔てているかのような感覚──それが、朝霞邸の印象だった。 門の上には銀の紋が刻まれていた。薄の穂が左右から寄り添い、根元で結ばれている文様。「……本当に、契約結婚の話なんてあったのね」 小さく息を吐き、言葉にしたのは自身への確認だった。 私がここへ嫁ぐ――? 一年間だけ、形式的な妻として。 それが自分の人生の分岐になるとは、この時の鈴凪はまだ思っていなかった。 鈴凪がその話を耳にしたのは、借金取りに追われて家から逃げていた時だった。村を出てから、数カ月。母を病で亡くし、父もその後を追うようにして逝った。家は父の借金で没落し、書生として働いていた日々も遠くなった。 あちこちの村や町を渡り歩き、辿り着いた都下の小さな村の片隅。古書店で昼の手伝いをしながら、鈴凪は必死に働いていた。「時雨さん、椿京にある朝霞邸って知っています?」 ふと店主がそう言った。「豪商の御屋敷でね。そこの旦那が、契約で妻になる女性を探しているって噂があるのだよ。奇妙な話だよね」 ただの噂話だろう、と鈴凪は思った。信じるには突飛すぎる話。もしかすると、貴族の政略結婚のようなものだろうか? きっと、そうであろうに違いない、と思いながら、店主に問いかけた。「その契約って、形式だけのものなのですか? 政略結婚とは違うのですか?」「さあねえ。詳しいことは聞いていないけれど、かなり条件が良いらしいよ」「条件……」 店主は曖昧に言葉を濁すと煙草をくゆらせた。その手の中にある煙管は、美しい狐とすすきの蒔絵が施されている。以前、それとなしに店主と話していた時、その煙管は妖の意匠だと言っていた。古い友人が人の世界で暮らす妖たちと懇意にしていて、譲り受けたものだと。 この国の首都に近い椿京には、昔から人と妖が共
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