狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした

狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした

last updateLast Updated : 2025-08-01
By:  釜瑪秋摩Updated just now
Language: Japanese
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人と妖(あやかし)が共に暮らす、文明開化の影に妖しが息づく帝都、椿京。 貧しい書生の娘・時雨 鈴凪(しぐれ すずな)は、ある日突然、九つの尾を持つ妖にして政財界の実力者・朝霞 理玖(あさか りく)のもとへ嫁ぐことになる。 それは表向きの結婚、実際は「契約による花嫁」――ただの取引のはずだった。 しかし、鈴凪は「鈴の娘」と呼ばれる特異な存在。 彼女の鈴は、妖たちの心の声と共鳴し、封じられた記憶を呼び覚ます力を秘めていた。 そして九尾・理玖が心を寄せていたのは、かつての契約者――今はもういない女性。 これは、亡き人への想いに縛られた狐と、決して「代わり」ではないことを願う少女の、百年越しに重なる恋の物語。

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Chapter 1

第1話 プロローグ

 椿京つばききょう──東と西が交錯する近代都市。白漆喰の町屋が並び、軒先では狐面が風に揺れ、通りには人力車と馬車がすれ違っていく。文明開化の光が射す一方で、どこか古めかしい静寂が都市の底に息づいていた。

 鈴凪すずなは、竹籠の入った風呂敷を抱えて、その異質な豪邸の前で足を止めた。

 門の前に立つと、不思議な空気が肌に触れる。ひやりとした風が髪をすくい、音が遠ざかっていく。まるで、世界が一枚絹を隔てているかのような感覚──それが、朝霞あさか邸の印象だった。

 門の上には銀の紋が刻まれていた。すすきの穂が左右から寄り添い、根元で結ばれている文様。

「……本当に、契約結婚の話なんてあったのね」

 小さく息を吐き、言葉にしたのは自身への確認だった。

 私がここへ嫁ぐ――?

 一年間だけ、形式的な妻として。

 それが自分の人生の分岐になるとは、この時の鈴凪はまだ思っていなかった。

 鈴凪がその話を耳にしたのは、借金取りに追われて家から逃げていた時だった。村を出てから、数カ月。母を病で亡くし、父もその後を追うようにして逝った。家は父の借金で没落し、書生として働いていた日々も遠くなった。

 あちこちの村や町を渡り歩き、辿り着いた都下の小さな村の片隅。古書店で昼の手伝いをしながら、鈴凪は必死に働いていた。

時雨しぐれさん、椿京にある朝霞邸って知っています?」

 ふと店主がそう言った。

「豪商の御屋敷でね。そこの旦那が、契約で妻になる女性を探しているって噂があるのだよ。奇妙な話だよね」

 ただの噂話だろう、と鈴凪は思った。信じるには突飛すぎる話。もしかすると、貴族の政略結婚のようなものだろうか?

 きっと、そうであろうに違いない、と思いながら、店主に問いかけた。

「その契約って、形式だけのものなのですか? 政略結婚とは違うのですか?」

「さあねえ。詳しいことは聞いていないけれど、かなり条件が良いらしいよ」

「条件……」

 店主は曖昧に言葉を濁すと煙草をくゆらせた。その手の中にある煙管きせるは、美しい狐とすすきの蒔絵が施されている。以前、それとなしに店主と話していた時、その煙管はあやかしの意匠だと言っていた。古い友人が人の世界で暮らす妖たちと懇意にしていて、譲り受けたものだと。

 この国の首都に近い椿京には、昔から人と妖が共存していると噂されている。椿京にほど近いこの村にもそんな噂があり、鈴凪はそれとなく人々を観察しているけれど、誰もかれもが皆、人でしかなく、妖がいるなどと到底信じられずにいた。

 けれど、時々こうして妖にまつわる道具や本、美術品を目にすることがある。

 その夜、私は曾祖母である··の遺品を整理していた。父や母の形見はほんの少しの本と小物だけで、お金になる物は全て売られてしまった。ちよの遺品も僅かなものしか残っていない。これらは母から、絶対に手放してはいけないと言い含められていて、竹籠に入れて大切に手元に置いている。

 これまでは埃を祓う程度だったのを、今日は一つ一つ手に取って、竹籠に収めていた。古い手鏡、懐中時計は、今でも十分に使える。

 そして――。

「鈴凪、あなたはすずなのよ。お母さんの祖母……鈴凪の曾祖母が、そう言っていたの」

 母は鈴凪にそう話してくれた。曾祖母は、私が物心つく前に亡くなってしまったので、記憶には何も残っていないけれど、遺された品々には不思議と懐かしさを感じている。特に代々受け継がれている銀の鈴……。

 鈴凪には、鈴の娘の意味はわからなかったが、母の言う『鈴』というものが、妖や神と関係することは、薄々気づいていた。

「ごめんくださいませ」

 長屋の引き戸の向こうから声を掛けられ、鈴凪は慌てて荷物を竹籠へと詰め込んだ。借金取りが、もう、この居場所に気づいたのだろうか。これ以上、お金に変えられるものはないし、手元のお金も僅かばかり……。

 ただ、借金取りにしては丁寧な口調なのが気になった。

「……はい」

「こちら、時雨さまのお宅で間違いないでしょうか?」

「はい……あの……どちら様でしょうか?」

 鈴凪は問いかけながら、そっと引き戸を開けた。細く開いた隙間の向こうには、小さな箱を手にした女性が立っている。どこかの使用人のような恰好だ。

「私は朝霞開発の朝霞家よりやって参りました。こちらの鈴凪さまへお願いがございます」

「お願い、ですか?」

 朝霞開発は、鈴凪も名を知っている大企業だ。そんな所の関係者が、鈴凪に用があるというのが不思議だった。今度はきちんと戸を開き、相手に向かって頭を下げる。

「失礼いたしました。私が時雨鈴凪しぐれすずなです。お願いというのは何でしょうか?」

 女性は手にした箱の包みを開き、一通の書状を差し出した。

「この度、当主の朝霞理玖あさかりくより、契約による婚姻を結びたいという旨の書状を預かって参りました。是非一度、お話しをさせて頂きたく――」

 契約による婚姻……。

 突然のことに困惑しながらも、古書店の店主の話を思い出し、鈴凪はつい曖昧な返事をしたのだった。

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第1話 プロローグ
 椿京──東と西が交錯する近代都市。白漆喰の町屋が並び、軒先では狐面が風に揺れ、通りには人力車と馬車がすれ違っていく。文明開化の光が射す一方で、どこか古めかしい静寂が都市の底に息づいていた。 鈴凪は、竹籠の入った風呂敷を抱えて、その異質な豪邸の前で足を止めた。 門の前に立つと、不思議な空気が肌に触れる。ひやりとした風が髪をすくい、音が遠ざかっていく。まるで、世界が一枚絹を隔てているかのような感覚──それが、朝霞邸の印象だった。 門の上には銀の紋が刻まれていた。薄の穂が左右から寄り添い、根元で結ばれている文様。「……本当に、契約結婚の話なんてあったのね」 小さく息を吐き、言葉にしたのは自身への確認だった。  私がここへ嫁ぐ――?  一年間だけ、形式的な妻として。  それが自分の人生の分岐になるとは、この時の鈴凪はまだ思っていなかった。  鈴凪がその話を耳にしたのは、借金取りに追われて家から逃げていた時だった。村を出てから、数カ月。母を病で亡くし、父もその後を追うようにして逝った。家は父の借金で没落し、書生として働いていた日々も遠くなった。  あちこちの村や町を渡り歩き、辿り着いた都下の小さな村の片隅。古書店で昼の手伝いをしながら、鈴凪は必死に働いていた。「時雨さん、椿京にある朝霞邸って知っています?」 ふと店主がそう言った。「豪商の御屋敷でね。そこの旦那が、契約で妻になる女性を探しているって噂があるのだよ。奇妙な話だよね」 ただの噂話だろう、と鈴凪は思った。信じるには突飛すぎる話。もしかすると、貴族の政略結婚のようなものだろうか?  きっと、そうであろうに違いない、と思いながら、店主に問いかけた。「その契約って、形式だけのものなのですか? 政略結婚とは違うのですか?」「さあねえ。詳しいことは聞いていないけれど、かなり条件が良いらしいよ」「条件……」 店主は曖昧に言葉を濁すと煙草をくゆらせた。その手の中にある煙管は、美しい狐とすすきの蒔絵が施されている。以前、それとなしに店主と話していた時、その煙管は妖の意匠だと言っていた。古い友人が人の世界で暮らす妖たちと懇意にしていて、譲り受けたものだと。 この国の首都に近い椿京には、昔から人と妖が共
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第2話 門前
 そして、今――。 朝霞邸の門前。  昨夜、受け取った書状を手に、鈴凪は成り行きで、ここに立っている。 門が静かに軋んだ音を立て、独特な気配が、扉の奥から滲み出てきた。「あなたが時雨鈴凪さん、ですか」  呼びかけられて鈴凪は顔を上げた。目の前には、黒羽織の青年が立っていた。 ──美しい、と思った。 それが初めての感想だった。  ただ、その美しさは、普通の人とはどこか違う気がした。  彼の瞳は琥珀色で、獣のような冷たさを帯びていた。銀の指輪が左手に光り、立ち姿はまるで絵巻の登場人物のように見える。「はい。時雨鈴凪です。朝霞様……ですね」 言葉が喉の奥で震えるのを押さえて問いかけた。彼が静かに頷くと、後ろに控えていた使用人たちに促され、鈴凪は屋敷の居間に通された。「あの……それで、契約による婚姻というのは……」「先ずは簡単にご説明します。これから一年間、形式上の妻であること。書面上の婚姻関係を結び、朝霞邸に暮らす。あなたの自由はある程度、制限されます。外出は許可制。契約の秘密は漏らしてはならない。この契約について、外部では黙っておくこと──以上が条件となります」「契約については秘密……ですか?」 鈴凪は耳を疑った。既に古書店の店主も知っているほど噂になっているようなのに、今さら、秘密にしなければならないのはなぜなのだろう。  理玖の瞳はまっすぐ鈴凪を見つめている。「不服ですか? 秘密を守ることもできないほど、口が軽いようでは困るのですが」 棘のある言い方に、鈴凪は驚いた。初対面であるのに少し失礼なのではないか……そんな風に感じていた。観察しているような、様子を窺っているような、そんな理玖の視線も気になった。「え……いえ、不服だなんて、そんなことはありません」「私は昔、ある人と約束を交わしています。いつか時雨家に何かあったら助けてやってほしい、と――。今、この契約を機にその手助けができるかと」「ある人……?」 ある人とは誰だろう?  鈴凪には身内と呼ばれるような親戚などいないし、過去に誰かが何かを頼んでいるとしたら、父か母しか思い浮かばない。けれど、父や母なら、『ある人』などと曖昧な言いかたをするはずがない。「……それでも、この婚姻は契約ですよね。助けていただくのは有難く思いますが、私は道具ではありませんので、契約以上の
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第3話
 夕刻の空が茜色に染まる頃、私――時雨鈴凪は、人生で最も大きな分岐点の前に立っていた。「こちらが朝霞様のお屋敷でございます」 人力車の車夫が振り返って言った言葉に、私は小さく頷いた。目の前にそびえ立つのは、これまで見たこともないほど立派な屋敷だ。洋館の重厚さと日本家屋の優美さが不思議に調和した建物は、まるで異国の物語から抜け出してきたかのように幻想的で、私のような庶民には場違いな場所だと感じる。それなのに――。 先日、訪ねてきた時にも感じたけれど、どこか懐かしいような感覚が胸をよぎる。「ありがとうございました」 震え声にならないよう気をつけながら車夫に礼を言い、小さな竹籠の入った風呂敷包み一つを抱えて車を降りる。これが私の全財産だった。父の死後、家財道具はほとんど借金の形に取られてしまったのだから。 門の前で立ち止まり、私は深く息を吸った。 朝霞邸――。 椿京でも有数の大企業、朝霞開発の代表を務める朝霞理玖氏の邸宅。そして今日から一年間、私がその「妻」として暮らすことになる場所。 契約結婚。そんな現実離れした話が私の元に舞い込んできたのは、ほんの一週間前のことだった。「本当にこれでよかったのだろうか」 心の中で呟きながら、私は重厚な門扉を見上げた。黒塗りの木材に施された金の装飾が、夕日を受けて鈍く光っている。門柱には「朝霞」の文字が刻まれた表札があり、その下には見慣れない家紋――すすきの穂が左右から寄り添い、根元で結ばれた優美な意匠が彫り込まれていた。「お嬢様、時雨様でございますね」 突然声をかけられて、私は背筋がピンと伸びた。いつの間にか門番の老人が現れていたのだ。白髪を丁寧に撫でつけた、品のある初老の男性だった。「は、はい。時雨鈴凪と申します」「ご足労をおかけいたしました。旦那様がお待ちでございます。どうぞこちらへ」 老人の敬語は丁寧すぎるほど丁寧で、まるで私が本当に身分の高い令嬢であるかのように響いた。それがかえって居心地の悪さを増していく。 ――私には身分なんてないようなものなのに。 門をくぐると、玉砂利の敷かれた前庭が広がっていた。手入れの行き届いた植木や、季節外れなのに美しく咲いている彼岸花が目に入る。 彼岸花は秋の花のはずなのに、なぜ今の季節に? そんな疑問
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第4話
「それでは、奥様のお部屋からご案内させていただきます」 華に導かれて足を踏み入れた屋敷の内部は、外観以上に息を呑むほど美しかった。玄関から続く廊下には、洋風の絨毯が敷かれているにも関わらず、天井には和風の格子が組まれている。ガス灯と提灯が共存し、西洋の油絵と日本画が同じ壁に飾られていた。「珍しい造りでございましょう?」 華が私の様子を見て微笑んだ。「旦那様のご趣味で、東西の美を調和させた設計になっております」「とても素敵です」 私は率直な感想を口にした。なにもかもが珍しく見えて目が離せない。「まるで夢の中にいるようです」「そのお言葉、旦那様がお聞きになったら喜ばれるでしょう」 廊下を歩きながら、私は何とも言えない違和感を覚えていた。この屋敷には多くの使用人がいるはずなのに、人の気配が薄いのだ。時折、廊下の向こうを誰かが通り過ぎるのが見えるのだが、足音が全く聞こえない。「あの……」 私は遠慮がちに声をかけた。「こちらにはたくさんの方がお勤めなのでしょうか?」「はい。この屋敷には二十人ほどの使用人がおります」 華は振り返って答えた。「皆、長年この家にお仕えしている者ばかりです。奥様のことも、きっと大切にお守りするでしょう」 大切にお守りする――その言葉に込められた響きが、単なる主人への敬意以上のものに聞こえた。まるで私を何かから守らなければならない事情があるかのように。「華さん」 私は思い切って尋ねた。「もしかして、私のことをご存知だったのでしょうか? 先ほどから、初対面とは思えないようなお顔をなさっていて……」 華の足が止まった。振り返った彼女の表情には、明らかな動揺があった。「いえ、そのような……」 華は言葉を濁し、それから僅かに俯くと、深く息を吐いた。「申し訳ございません。実は、奥様の曾祖母様のちよ様を存じ上げておりまして」「曾祖母を?」 私は驚いて声を上げた。「はい。ちよ様には、若い頃この屋敷でお世話になったことがございます。奥様のお顔立ちが、ちよ様にそっくりでいらしたもので……」 曾祖母のちよが朝霞家と関わりがあった――。それは初耳だった。理玖が私を見つけ出せたのも、そういう縁があったからなのだろうか。「そうだったのですね」 私は華の表情を見つめた。彼女の目には、懐かしさと同時に、何か言えない秘密を抱
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第5話
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第6話 夜、一人の時間
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