LOGINこの家に、私の居場所なんてなかった。 幸せになることも、誰かに愛されることも、すべて諦めていた。 そんなある日、突然、縁談の話が舞い込んでくる。 どうせその人も、みんなと同じなんだろう。 そう思っていたけど…?
View More「口説いてるんだよ」
彼の声は低く、けれどどこか柔らかくて、朝の静けさに溶け込むように響いた。 カーテンの隙間から差し込む光が、彼の輪郭を淡く照らしている。 まるで夢の中のようだった。 「口説く、って……どうして、ですか」 私は思わず問い返していた。 自分の声が少し震えているのが分かった。 けれど、彼の瞳から目を逸らすことができなかった。 「花澄のことが、好きだから」 その言葉は、まるで春の陽だまりのように、私の胸の奥にじんわりと染み込んでいった。 彼は一歩、また一歩と、ゆっくり私の方へ歩み寄ってくる。 足音はほとんど聞こえないのに、彼の存在だけがどんどん大きくなっていくようだった。 心臓が早鐘のように鳴り響き、頬が熱を帯びていくのを感じた。息をするのも忘れそうだった。 私は、ずっと思っていた。 私には人権なんてないのだと。 この先もずっと、父の命令に従い、姉の顔色をうかがいながら生きていくのだと。 自分の意思なんて、望むことすら許されない。 でも、壱馬様が現れてから、私の世界は少しずつ変わっていった。 彼は、私に特別をくれた。 私の名前を、まるで宝物のように呼んでくれて、私の話を最後まで遮らずに聞いてくれた。 彼の優しい言葉と、あたたかな微笑みが、私の冷えきった心を少しずつ溶かしていった。 彼の隣にいると、世界が少しだけ優しく見えた。 これからは…私も幸せになれるんじゃないかって。 そんな希望が、心の奥に小さな灯をともした。 でも、その灯は、風が吹けばすぐに消えてしまいそうで。 怖かった。 私は何も持っていない。 学もない。美しさもない。誰かに誇れるようなものなんて、ひとつもない。 壱馬様のような人が、どうして私なんかを好きになってくれるのか、分からなかった。 もし、彼の気持ちが変わってしまったら。 もし、私が彼の期待に応えられなかったら。 そんな不安が、胸の奥で静かに渦を巻いていた。 …やっぱり、上手くはいかないみたい。 私が幸せになるなんて、無理だったんだ。「うまっ! これめちゃくちゃ美味しい!」 雄大さんはスプーンいっぱいにすくった熱々のシチューを勢いよく口に運ぶと、目を大きく見開いて感動の声を上げた。 そのあまりにも素直で気持ちのいい食べっぷりに、料理を作った側としてはこれ以上ないほどの喜びを感じてしまう。 「お口に合ってよかったです」 私の返事を聞いて、雄大さんは「ほんと、お店に出せるレベルだよ!」と大げさに褒めてくれる。 彼はふと何か思いついたように顔を上げ、私の顔と、静かに食事を進めている壱馬さんの顔を交互に見比べた。そして、少し羨ましそうな、それでいて本気とも冗談ともつかないようなトーンで突然突拍子もない提案を口にした。 「いいなぁ、こんな美味いご飯が毎日食べられるなんて。俺も毎日通っちゃおうかな」 毎日通うだなんて、雄大さんらしい思い切った冗談に聞こえて笑ってしまう。仮にその突拍子もない言葉が半分、いや全部が本気だったとしても、嫌だとは思わなかった。毎日の食事の準備や買い出しは今より少しだけ大変になるかもしれないけれど、こんなにも美味しそうに私の作った料理を食べてくれる人がもう一人増えるのなら、料理を作る身としては凄く嬉しい。ただ、スーパーに行く回数が増えることだけが…。 「ふふっ、お時間がある時ならいつでも大歓迎ですよ」 私がにこやかにそう答えると、雄大さんは子供のように両手を上げてガッツポーズをした。 ズボンのポケットからゴソゴソと自分のスマートフォンを取り出すと、目を輝かせながら身を乗り出し、私に向けてそのスマートフォンの画面を突き出すように見せてきた。 「じゃあさ、行く前に連絡したいから連絡先教えてよ!」 確かに、いつ来るかわからない状態よりも、事前に連絡をもらえた方が食材の買い出しや準備の都合がつけやすくて断然助かる。それに、こうして親しくお話をするようになったのだから、連絡
「うわ、もうこんな時間か」 お玉でかき混ぜていたシチューの鍋からふわりと立ち上る温かな香りに包まれながら、私はゆっくりと雄大さんの方を見る。 リビングのソファでだらだらとスマートフォンを眺めていた雄大さんが、画面右上にある時計の表示でも見たのか、大きく伸びをしながら天井を仰いでいた。 窓の外はすっかり暗くなり、街灯のオレンジ色の光がカーテンの隙間から細く差し込んでいる。 今日は夕方から急に冷え込んできたから、温かい料理を作っていて正解だったかもしれない。 「よろしければ、夕食食べていきませんか?」 ちょうど多めに食材を買い込んでいたこともあり、お鍋の中には三人分でも十分に足りる量のシチューがたっぷりと煮込まれていた。 それに、賑やかな食卓になるのは私も嬉しい。 「え、マジ? いいの?」 彼の顔がパッと明るくなり、無邪気な表情が浮かんだ。ソファから勢いよく身を乗り出すあまり、クッションが床に落ちそうになるのを慌てて押さえている様子がおかしくて、私は思わずふふっと声を漏らして笑ってしまった。 まな板の上の野菜を片付けながら、私はカトラリーのセットを新しく用意しようと、食器棚の方へと歩みを進めた。 木製のスプーンとフォークを取り出しながら頷く。 「はい、多めに作ってあるので」 私の返事を聞いた雄大さんは、両手を軽く叩いて心底嬉しそうなジェスチャーを見せた。 「やった! じゃあお言葉に甘えて──────」 雄大さんの歓喜の言葉は、リビングの入り口に姿を現した長身の影によって無惨にも途中で遮られた。 「少しは遠慮しろ」 仕事帰りのはずなのに、その立ち姿には疲労感よりも特有の威圧感のようなものが漂っていて、ピシッと整ったスーツ姿がリビングの緩みきった空気を一瞬にして引き締める。 それなのに、雄大さんは悪びれる様子もなくへらへらと笑ってみせた。 「あ、壱馬。おかえりー」 雄大さんの気楽な挨拶に対して、壱馬さんは短く鼻を鳴らして応えた。 上着を脱ぎながらこちらへ歩いてくる彼の姿を追いながら、私も手を休めて正面に向き直る。 普段は夜遅くまで仕事に追われていることが多い壱馬さんが、こんなに早く帰宅するのは珍しいことだった。 「壱馬さん、おかえりなさい。今日は早かったですね」 私の問いかけに、壱馬さんはスーツのジャケットを椅子に掛けながら静
「花澄ちゃんがいてくれて、俺の方こそすごくホッしてるんだ」「私が……ですか?」思いがけない言葉に、私は思わず目を瞬かせた。「あいつ、昔から何でも一人で抱え込む癖があって。周りには平気な顔をして、自分だけで乗り越えようとするんだけどさ」少しだけ苦さを滲ませた声で呟き、雄大さんはふうっと短く息を吐いた。その吐息には、長年親友を見守ってきた彼ならではの、歯がゆさと慈愛が深く入り交じっているように聞こえた。 私が知っている壱馬さんの完璧な微笑みの裏側にある、決して誰にも見せようとしない脆さ。それを誰よりも知っている雄大さんの横顔は、明るく陽気な雰囲気からは想像もつかないほど静かで、どこかひどく切なげだった。「だからね、あいつが花澄ちゃんのことで一喜一憂したり、柄にもなく余裕なくしたりしてるのを見ると…。ああ、やっとあいつの心をこんなに揺さぶる人が現れたんだなって、嬉しくなるんだよね」からかうように悪戯っぽく片目を瞑ってみせる雄大さんに、私はどう返していいか分からず、再び熱を帯び始めた頬を隠すように小さく俯くしかなかった。私の些細な言動が、彼の中に波風を立てているのだとしたら。それはなんて恐ろしくて、なんて幸せなことなのだろう。「まだまだ、私にできることは少ないかもしれないですけど……」絞り出すように紡いだ私の言葉は、情けないことにかすかに震えていたかもしれない。背伸びをして彼にふさわしい自立した女性になろうとしても、その道のりは果てしなく遠く思えて、時折どうしようもない無力感に襲われる。それでも、少しでも彼の力になりたいという嘘偽りのない本音だけは、どうしても伝えたかった。「そんなことないと思うよ。ただ、そばにいてくれるだけで救われることだってあるから」その真っ直ぐで嘘のない声に、私は顔を上げた。気の利いた言葉が言えなくても、彼と対等な立場で支え合うにはまだ時間がかかるとしても、今の私なりにできることが確実にあるのだと、雄大さんが肯定
「え……?」ポツリと落ちた雄大さんの言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。あんな顔って、一体どんな顔だったのだろう。私が知らない壱馬さんの表情を想像して、思わず聞き返してしまう。「あ、いや、何でもないよ。こっちの話」雄大さんは少し悪戯っぽく笑って、ひらひらと手を振った。深く追求してはいけないような気がして、私はそれ以上踏み込むことができず、微かに熱の残る頬を冷ますように小さく息を吐いた。「……でも、少し羨ましいです」ぽつりと溢れた私の声に、雄大さんが「ん?」と小首を傾げる。「壱馬さん、雄大さんと一緒にいる時はすごく自然体で…」カップの縁を指先でなぞりながら、私は自分の中にあるもどかしさを言葉にしていく。雄大さんと話す時の壱馬さんは、私が普段見ている彼とは少し違っていた。言葉遣いも少しだけ荒っぽくなって、どこか少年のような、飾らない等身大の男性という感じがする。私と一緒にいる時の壱馬さんは、いつだって完璧で、エスコートもスマートで、驚くほど優しい。雄大さんの前で見せるような、力の抜けた素の壱馬さんを引き出せるのは、長い時間を共に過ごし、深く理解し合っている雄大さんだからこそなのだと思う。私に向けてくれる甘く優しい微笑みももちろん大好きだけれど、本当はもっと、彼の中にある泥臭い部分、不器用なところにも触れてみたい。「私にはまだ……見えない壁があるというか。優しくしていただいている分、気を遣わせてしまっているんじゃないかって、時々不安になるんです」私に向けられる優しさが特別なものだとしても、彼にとって一番居心地のいい場所は、まだ私ではないのかもしれない。そんな身勝手な劣等感が、せっかくの嬉しい気持ちに薄い影を落としていた。彼が何の鎧も纏わずに、ただ息をするように傍にいられる一番安らげる場所が私であればいいのにと、そんな身の程知らずな独占欲が心の奥底で静かに渦巻いていた。沈黙が降りた数秒の間、私は自分のひねくれた感
「花澄、お前に縁談がきている」お父様の言葉に、私は心が凍りついた。まるで、冬の朝に薄く張った氷の上を、突然誰かに踏み抜かれたような感覚だった。胸の奥が、ひやりと冷たくなる。息を吸うのも忘れて、私はただその言葉を反芻した。縁談。その二文字が、私の未来を一瞬で塗り替えていく。まさか、こんなふうに、何の前触れもなく、運命が決まってしまうなんて。…どこかで分かっていたのかもしれない。
「俺のせいだよな。俺は花澄と別れたこと、後悔してるよ」ずっと閉じ込めていた感情が、ふいに呼び起こされる。あのとき、何も言えなかった自分を思い出す。別れを告げたのは私だった。でも、それは私の意思ではなかった。彼を、守りたかった。「これ以上、二人きりでいるのはよくありません」声を潜めながらも、必死に冷静を装った。けれど、心の中では警鐘が鳴り響いていた。こんな話がお姉様の耳に入ったら…。「正直、今でもやり直せると思ってる。いっそのこと、二人で駆け落ちしようよ」その言葉に、息が止まりそうになった。夢のような響きだった。誰にも邪魔されず、彼とふたりで生きていける世界。そんな
「こんな不味いご飯は食べられないわ!」甲高く響いた声が、食卓の空気を一瞬で凍らせた。お姉様の手が振り下ろされ、陶器の皿がテーブルから弾け飛ぶ。カラン、と乾いた音を立てて床に落ちた皿は、無惨に割れ、炊きたてのご飯が畳の上に散らばった。味噌汁の椀も倒れ、汁がじわりと染み広がっていく。私は反射的に膝をつき、こぼれた食べ物を拾い集め始めた。指先が熱い汁に触れても、痛みを感じる余裕はなかった。ただ、これ以上怒らせてはいけないという思いだけが、私の体を動かしていた。「申し訳ございません…」声はかすれていた。喉の奥がひりつくほど乾いていたけれど、なんとか言葉を絞り出した。床に散らばっ
「口説いてるんだよ」 彼の声は低く、けれどどこか柔らかくて、朝の静けさに溶け込むように響いた。 カーテンの隙間から差し込む光が、彼の輪郭を淡く照らしている。 まるで夢の中のようだった。 「口説く、って……どうして、ですか」 私は思わず問い返していた。 自分の声が少し震えているのが分かった。 けれど、彼の瞳から目を逸らすことができなかった。 「花澄のことが、好きだから」 その言葉は、まるで春の陽だまりのように、私の胸の奥にじんわりと染み込んでいった。 彼は一歩、また一歩と、ゆっくり私の方へ歩み寄ってくる。 足音はほとんど聞こえないのに、彼の存在だけが