LOGINこの家に、私の居場所なんてなかった。 幸せになることも、誰かに愛されることも、すべて諦めていた。 そんなある日、突然、縁談の話が舞い込んでくる。 どうせその人も、みんなと同じなんだろう。 そう思っていたけど…?
View More「口説いてるんだよ」
彼の声は低く、けれどどこか柔らかくて、朝の静けさに溶け込むように響いた。 カーテンの隙間から差し込む光が、彼の輪郭を淡く照らしている。 まるで夢の中のようだった。 「口説く、って……どうして、ですか」 私は思わず問い返していた。 自分の声が少し震えているのが分かった。 けれど、彼の瞳から目を逸らすことができなかった。 「花澄のことが、好きだから」 その言葉は、まるで春の陽だまりのように、私の胸の奥にじんわりと染み込んでいった。 彼は一歩、また一歩と、ゆっくり私の方へ歩み寄ってくる。 足音はほとんど聞こえないのに、彼の存在だけがどんどん大きくなっていくようだった。 心臓が早鐘のように鳴り響き、頬が熱を帯びていくのを感じた。息をするのも忘れそうだった。 私は、ずっと思っていた。 私には人権なんてないのだと。 この先もずっと、父の命令に従い、姉の顔色をうかがいながら生きていくのだと。 自分の意思なんて、望むことすら許されない。 でも、壱馬様が現れてから、私の世界は少しずつ変わっていった。 彼は、私に特別をくれた。 私の名前を、まるで宝物のように呼んでくれて、私の話を最後まで遮らずに聞いてくれた。 彼の優しい言葉と、あたたかな微笑みが、私の冷えきった心を少しずつ溶かしていった。 彼の隣にいると、世界が少しだけ優しく見えた。 これからは…私も幸せになれるんじゃないかって。 そんな希望が、心の奥に小さな灯をともした。 でも、その灯は、風が吹けばすぐに消えてしまいそうで。 怖かった。 私は何も持っていない。 学もない。美しさもない。誰かに誇れるようなものなんて、ひとつもない。 壱馬様のような人が、どうして私なんかを好きになってくれるのか、分からなかった。 もし、彼の気持ちが変わってしまったら。 もし、私が彼の期待に応えられなかったら。 そんな不安が、胸の奥で静かに渦を巻いていた。 …やっぱり、上手くはいかないみたい。 私が幸せになるなんて、無理だったんだ。「花澄、お前に縁談がきている」お父様の言葉に、私は心が凍りついた。まるで、冬の朝に薄く張った氷の上を、突然誰かに踏み抜かれたような感覚だった。胸の奥が、ひやりと冷たくなる。息を吸うのも忘れて、私はただその言葉を反芻した。縁談。その二文字が、私の未来を一瞬で塗り替えていく。まさか、こんなふうに、何の前触れもなく、運命が決まってしまうなんて。…どこかで分かっていたのかもしれない。それでも、どこかで願っていた。せめて、もう少しだけ自由でいられたらと。せめて、自分の気持ちに正直でいられる時間が、あと少しだけでもあったならと。でも、そんな願いは、やはり甘えだったのだろう。「あら、良かったじゃない」お姉様の声が、わざとらしく明るく響いた。その笑みは、口元だけが動いていて、目はまったく笑っていなかった。むしろ、冷たい光を宿したその瞳は、私の反応を楽しんでいるようにさえ見えた。お姉様はいつもそうだった。私が困っているときほど、よく笑う。もう慣れていた。この家で生きるには、痛みにも慣れなければならない。「そうですか」私は感情を押し殺して答えた。声が震えないように、喉の奥に力を込める。目を伏せ、まつげの影に表情を隠す。拒絶を口にしたところで、何も変わらない。「嫁ぎ先は東条家の所だ」お父様の言葉に、私は思わず顔を上げてしまった。東条家といえば、名家ではあるけれど、どこか得体の知れない噂が絶えない家。その家に、私が嫁ぐ?なぜ、私が…そんな疑問が頭の中をぐるぐると
「俺のせいだよな。俺は花澄と別れたこと、後悔してるよ」ずっと閉じ込めていた感情が、ふいに呼び起こされる。あのとき、何も言えなかった自分を思い出す。別れを告げたのは私だった。でも、それは私の意思ではなかった。彼を、守りたかった。「これ以上、二人きりでいるのはよくありません」声を潜めながらも、必死に冷静を装った。けれど、心の中では警鐘が鳴り響いていた。こんな話がお姉様の耳に入ったら…。「正直、今でもやり直せると思ってる。いっそのこと、二人で駆け落ちしようよ」その言葉に、息が止まりそうになった。夢のような響きだった。誰にも邪魔されず、彼とふたりで生きていける世界。そんな未来を、何度も想像したことがある。けれど、それは夢でしかない。現実は、そんなに優しくない。逃げたところで、きっとすぐに見つかる。お姉様は、そういう人だ。どんな手を使ってでも、私たちを引き裂こうとする。その執念深さを、私は誰よりも知っている。「樹様…」名前を呼ぶ声が、かすかに震えた。心の奥では、彼の言葉に応えたい気持ちが渦巻いていた。でも、現実を知っているからこそ、踏み出せない。夢を見てはいけない。希望を抱けば抱くほど、失ったときの痛みは深くなる。私はそれを、もう何度も味わってきた。「樹様なんて言わないで、前みたいに樹って呼んでよ」彼の声が、どこか寂しげだった。私だって、そう呼びたい。昔のように名前を呼んで、手を繋いで歩きたい。でも、今の私は、あの頃の私じゃない。彼の隣に立つ資格なんて、もうない。「すみません…」それが、私にできる精一杯の返事だった。彼の視線が、まっすぐに私を見つめていた。その眼差しが、心の奥を揺さぶる。「俺は、まだ花澄のことが──」その声が、かすかに震えていた。彼の想いが言葉になる前に、空気が凍りついた。「あら、二人でコソコソ、何のお話をしているのかしら」冷たい声が、私たちの間に割り込んできた。その声を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。振り返ると、そこにはお姉様が立っていた。その視線は氷のように冷たく、私たちを射抜いていた。「…お姉様」声がうわずった。心臓が、早鐘のように打ち始める。手のひらが汗ばみ、足元がふらつく。逃げ場は、どこにもなかった。「まさか浮気でもしてるんじゃないでしょうね」その場
「こんな不味いご飯は食べられないわ!」甲高く響いた声が、食卓の空気を一瞬で凍らせた。お姉様の手が振り下ろされ、陶器の皿がテーブルから弾け飛ぶ。カラン、と乾いた音を立てて床に落ちた皿は、無惨に割れ、炊きたてのご飯が畳の上に散らばった。味噌汁の椀も倒れ、汁がじわりと染み広がっていく。私は反射的に膝をつき、こぼれた食べ物を拾い集め始めた。指先が熱い汁に触れても、痛みを感じる余裕はなかった。ただ、これ以上怒らせてはいけないという思いだけが、私の体を動かしていた。「申し訳ございません…」声はかすれていた。喉の奥がひりつくほど乾いていたけれど、なんとか言葉を絞り出した。床に散らばったご飯を、一粒ずつ、指先で拾い上げる。誰にも必要とされていない私が、それでもここにいるという証を、必死に掻き集めるように。「味が濃いと前にも言ったでしょ!?この役立たず!」お姉様の怒声が、背中に突き刺さる。前は味が薄いと怒られた。だから、少しでも美味しくなるようにと、調味料を増やした。それが、また裏目に出た。「はい。すみません」それ以上、何も言えなかった。言い返す言葉なんて、とうに持ち合わせていない。反論すれば、もっとひどい言葉が返ってくるだけだと知っているから。それに、どこかで自分が悪いのかもしれないと、思ってしまう自分がいる。そのことが、何よりも情けなくて、やるせなかった。「分かったならさっさと作り直してきなさい」お姉様は私の方を一瞥することもなく、冷たく言い放った。その言葉には、感情のかけらもなかった。「はい」私は立ち上がり、配膳を抱えて部屋を出た。背筋を伸ばして歩こうとするけれど、足元がふらつく。それでも、泣くわけにはいかない。この家では、私に人権なんてものはないのだから。この家は、お姉様がすべてだった。父も母も、いつだってお姉様の味方だった。私は、ただの影。いてもいなくても変わらない存在。いや、むしろ邪魔者として扱われていた。お姉様は何でもできる。美しくて、頭が良くて、誰からも愛される。一方の私は、料理ひとつまともに作れない。比べられるたびに、私はどんどん小さくなっていった。どれだけ理不尽に怒鳴られても、どれだけ傷つけられても、両親は見て見ぬふりをするだけだった。廊下に出たそのとき、不意に背後から声がした。
「口説いてるんだよ」 彼の声は低く、けれどどこか柔らかくて、朝の静けさに溶け込むように響いた。 カーテンの隙間から差し込む光が、彼の輪郭を淡く照らしている。 まるで夢の中のようだった。 「口説く、って……どうして、ですか」 私は思わず問い返していた。 自分の声が少し震えているのが分かった。 けれど、彼の瞳から目を逸らすことができなかった。 「花澄のことが、好きだから」 その言葉は、まるで春の陽だまりのように、私の胸の奥にじんわりと染み込んでいった。 彼は一歩、また一歩と、ゆっくり私の方へ歩み寄ってくる。 足音はほとんど聞こえないのに、彼の存在だけがどんどん大きくなっていくようだった。 心臓が早鐘のように鳴り響き、頬が熱を帯びていくのを感じた。息をするのも忘れそうだった。 私は、ずっと思っていた。 私には人権なんてないのだと。 この先もずっと、父の命令に従い、姉の顔色をうかがいながら生きていくのだと。 自分の意思なんて、望むことすら許されない。 でも、壱馬様が現れてから、私の世界は少しずつ変わっていった。 彼は、私に特別をくれた。 私の名前を、まるで宝物のように呼んでくれて、私の話を最後まで遮らずに聞いてくれた。 彼の優しい言葉と、あたたかな微笑みが、私の冷えきった心を少しずつ溶かしていった。 彼の隣にいると、世界が少しだけ優しく見えた。 これからは…私も幸せになれるんじゃないかって。 そんな希望が、心の奥に小さな灯をともした。 でも、その灯は、風が吹けばすぐに消えてしまいそうで。 怖かった。 私は何も持っていない。 学もない。美しさもない。誰かに誇れるようなものなんて、ひとつもない。 壱馬様のような人が、どうして私なんかを好きになってくれるのか、分からなかった。 もし、彼の気持ちが変わってしまったら。 もし、私が彼の期待に応えられなかったら。 そんな不安が、胸の奥で静かに渦を巻いていた。 …やっぱり、上手くはいかないみたい。 私が幸せになるなんて、無理だったんだ。