Chapter: 至れり尽くせりな助手生活④「ほんと、違うから!ダンデさんから、エルベルトさんが戻ってきたって教えてもらって、すぐにここに来ただけなの!エルベルトさんがお風呂入ってるって知らなかったし!知ってたら部屋に入らなかったし、廊下で待ってたし!」 言い訳をすればするほど、部屋は微妙な空気になっていく。(ああ、もうっ!!) 何も言ってくれないエルベルトに、苛立ちが募る。 地団太を踏みたくなるツグミだが、心の隅で「あれ?」と自分自身に対して疑問を持つ。(私、なんで恥ずかしがってんの??) 異性の上半身裸の姿なんて、これまで嫌というほど目にしてきた。治療のために、時には自分でシャツや肌着をむしり取ったし、ズボンまで脱がせた経験は数知れない。 でも一度たりとも、恥ずかしいとは思わなかった。こんな赤面して、無意味な言い訳を並べまくることなんて自分じゃないみたいだ。「おい、ずっとそこにいる気か?」「っ……!」 不機嫌なエルベルトの声で、ハッと我に返ったツグミは再び彼の裸体をガン見してしまった。 美しく盛り上がった胸筋、綺麗に割れた腹筋。まだちゃんと髪を乾かしていないせいで、首筋からお湯が滑り流れて、彫刻のような彼の身体に艶めかしさを加えている。「っ……!!」 やっぱり恥ずかしいと、ツグミは声にならない悲鳴を上げる。 なら部屋を出ていけばいいのだが、ツグミはそうしたくない理由があった。「うん、ここにいる。だから早く服着て」「図々しいな」「わかってる。でも、出ていかない」 だってちょっと目を離したすきに、またエルベルトが逃げるかもしれないから。 そんな気持ちを声に出せない代わりに、ツグミは目についた椅子にドスンと座る。「安心して、薄目でいてあげるから」「なんだそれ、却下だ。俺は他人がいる部屋では着替えをしない主義だ」 折衷案を提示したのに、すげなく断られてしまった。「……でも、出ていきたいない」 シュンと肩を落として最後の主張をすれば、エルベルトは小さく息を吐く。 呆れられたかな?それとも嫌われたかな?と不安に思うツグミに、エルベルトは近づくと手を伸ばし頭をポンポンと叩いた。「執務室で待ってろ。すぐに行く」「ほんと?」「ああ」 強く頷いたエルベルトから、嘘の匂いは感じられなかった。 なら、信じるしかない。「わかった、すぐ来てね。でも、ちゃんと身体拭いて、
Terakhir Diperbarui: 2025-10-11
Chapter: 至れり尽くせりな助手生活③『今は身体を癒すのが仕事だ』 エルベルトの言葉に従って、ツグミは一ヶ月ほど療養に専念した。 おかげで、身体がびっくりするほど軽くなった。夜中に、何度も起きることはなくなった。ちょっとの物音で、過敏に反応しなくなった。気合を入れなくても、眩暈を起こさなくなった。 医者も認める健康な身体を手に入れることができたツグミは、その頃になって自分はかなり疲れていて、疲れすぎて体の不調すらわからなくなっていたことを知った。「もぉーおぉーーー!ツグミ様は、医者の不養生だったのですねぇー」 顔色が良くなったツグミに薬膳茶を淹れながら、侍女のルインは頬を膨らませる。 しかし鏡台に座るツグミは、反省するどころか「いやぁー照れるな」とモジモジする。「あの……なぜ、喜ぶのですか?」 ツグミの髪を結いながら、リビナは奇怪な虫を見るような目つきになる。鏡越しでも、その視線はちょっと胸に刺さる。 「……だって一人前の治療師って認められたような気がしたから」 ツグミが素直な気持ちを吐き出した途端、ルインとリビナは同時に変な顔をした。さすが双子。そういうところは、息ピッタリだ。(それにしてもさぁ……) 二人の微妙なリアクションをスルーして、ツグミは小さく息を吐く。 助手というのは上司の雑用をこなすのが一般的なのに、医者が「もう大丈夫」と太鼓判を押した今でも、ツグミは上げ膳据え膳の生活が続いてる。 ルインとリビナに起こされ、二人がかりで身支度をされ、食堂に行けばいつでも美味しい料理が用意され、自ら掃除をしなくても屋敷は常に清潔に保たれている。 両親と過ごしていた頃は小さな家に住んでいたとはいえ、母親の手伝いを率先してやっていたし、父の厳しい白魔法の指導も頑張って受けていた。 聖女時代は、二年という月日があっという間だと思えるほど、毎日がバタバタのピリピリだったし、その後は治療師としてそれなりに忙しかった。 とどのつまり、のんびりした時間を過ごすことがなかったツグミは、助手という肩書をもらった途端、こんなに暇な生活になってとても戸惑っている。 豪奢なエルベルトの屋敷は、庭だって無駄に広い。 それらを執事のダンデと数人の使用人で切り盛りしている。貴族の生活がどのようなものかはわからないが、さすがに過酷だ。母が生まれ育った世界で言うならブラック企業というものだ。 今
Terakhir Diperbarui: 2025-10-10
Chapter: 至れり尽くせりな助手生活② ピチチ、ピチッ……チュンチュン……。 鳥のさえずりと、窓から差し込む朝日の眩しさで、ツグミは目を覚ました。 懐かしい夢の余韻から抜け出せないまま、枕から頭を上げずに数回瞬きをする。見慣れない天井と、微かに薬品の香りが漂う。(……ここ、どこ?) 意識が完全に覚醒していないツグミは、ぼんやりと辺りを見渡し、視線が一か所に留まった。「起きたようだな」 窓枠にもたれて外を見ていたエルベルトは、ツグミの視線に気づいてベッドに近づいてくる。「3日も意識が戻らなかった。どうしたらこんなボロボロの身体になるんだと、医者が呆れてたぞ」 口調こそ不機嫌だが、エルベルトの目の下にはひどい隈がある。こちらを見つめる表情は、心から安堵しているようだ。 心配かけたことに、くすぐったさと申し訳なさを抱えるツグミだが、口から出た言葉は全く違うものだった。「私が、誰だかわかるの?」「いうに事欠いて、それかよ」 なんだコイツ、という視線が痛い。でもエルベルトのその表情と、言葉が泣きたくなるほど嬉しい。「ありがとう。私のこと、覚えててくれて」 忘却魔法の副作用は自業自得だから、悲しんでも悔やんでも仕方がない。そう自分に言い聞かせて、諦めていた。 でも、ちゃんと覚えてくれる人がいたという現実は、身体の力が全て抜けるほど安堵する。「……当たり前じゃないか」 ツグミの呟きで、一度動きを止めたエルベルトだが、大股でベッドの前に立つ。「俺が、お前を忘れることはない」「……名前はお忘れのようですけど?」「お前の名前は、カナ。しゃびしゃびのスープがご不満だった流れの治療師。これでいいか?」 完璧な返答に、ありがとうと言うべきだ。でもツグミは、エルベルトがスープのことをまだ根に持っていたことに、ちょっと引いてしまう。「言っておくが、しばらくはスープ生活が続くぞ」「嘘!なんで!?まだ助手の仕事をしてないから??」 なら、今すぐにでも働かせてほしい。 食堂のテーブルにあった血の滴るステーキを思い出したツグミは、ガバリと起き上がる。しかし、すぐに強い眩暈に襲われて蹲った。「おいこら!無理をするな」「……肉」 エルベルトは、ツグミの肉への執着に降参した。「わかった、わかった。軟らかく煮た肉を用意するから、頼むから動かないでくれ」 はぁーと溜息を吐きながら、エルベル
Terakhir Diperbarui: 2025-10-09
Chapter: 至れり尽くせりな助手生活① 新月の草原は、空と地平線の境目が曖昧で、ぽっかり自分が宙に浮いている感覚になる。 でも時折、草原独特の草と土の香りを孕んだ風と、さわさわと揺れる草々の音が、ここが地上なんだと教えてくれる。 空を見上げれば星があって、風は同じように吹いている。敵国ヴォルテスの民にも、同じ夜空が広がっているはずだ。 それなのに、どうして争っているのだろう。皆、平和を望んでいるというのに。 こんな風に漠然とした疑問を持てるようになったのは、自分に余裕が生まれたからなのだろう。そして、こんな闇夜でも外に出れるようになったのは、戦況が好転した何よりの証拠だ。「ツグミ様。風が冷たくなってきましたので、天幕にお戻りください」 振り向けば、リュリーアナが布を手にして立っていた。連日の戦いで疲れているはずなのに、リュリーアナは鎧を脱ぐことはない。帯剣もずっとしたままだ。 重いそれを絶えず身に着けているというのに、ちっとも疲労の色をみせない。向けられる視線は、凪いだ海のように穏やかだ。「ありがとう。でも、もう少しここにいていい?」 戻りたくない理由はないが、なんとなく、まだここにいたい。 そんな曖昧なツグミの気持ちを汲み取ったリュリーアナは、穏やかに微笑んだ。「もちろんです。でもその代わり、これを」 リュリーアナはそう言って、手に持っていた布をふわりと肩に掛けてくれた。なるほど、これはストール代わりに持ってきてくれたものか。 今のツグミは聖女の衣装ではなく、膝下までのシンプルなワンピースを着ている。 なぜ、聖女の衣装ではないのかというと、それは単純にツグミがすぐに汚すからだ。 聖女になった当初はそうあろうと努力して、ずっと聖女の衣装を身につけていた。けれど、裾を踏んでコケて泥を付けるし、食事中に食べこぼしをしてシミを作ってしまう。 大切な衣装だから気を付けてはいるが、なにぶん白というのは汚れが目立つ。もちろん汚したのは自分だから己の手で洗おうとするが、リュリーアナがそれを許さなかった。 貴族出身の彼女がジャブジャブ洗濯するのを何度も目にして、必要最低限の時しか着ないことに決めた。ツグミのその主張は、満場一致で可決された。 今、ツグミが着ているのはワンピースといったけど、実はサギルの上衣だ。サギルなら太股までのこの服も、ツグミが着れば膝下丈のワンピースにな
Terakhir Diperbarui: 2025-10-08
Chapter: 予想外の再会からの、あれやこれ⑧「エルベルトさんから助手をやれって誘ったくせに、なんか嫌っぽく見えるのは私の気のせい?」 拗ねたツグミは、わざと可愛げのない質問をしてやった。「まさか。カナほど適任者はもう二度と現れないと断言できる」 真顔で答えるエルベルトに、ツグミは面倒くさい質問を重ねる。まだちょっとだけ、腹の虫がおさまらないのだ。 「ふぅーん……私、暗殺なんてしたことないのに?」「だろうな。見るからにどんくさそうだし」「その通りですけど、もう少し言葉選びません?」「すぐカッとなるところも暗殺に向いてないな」「自分だってすぐ怒るくせに」「俺はカナに合せてやってるんだ」「……へぇ」 その割には目が本気でしたけど?と言い返そうと思ったが、やめた。ツグミだって、もう子供じゃないのだ。「助手っていっても、カナは人殺しには関与しなくていい。俺の雑務をやってくれればいいだけだ」「例えば?」「……うーん……そうだなぁ……まぁ、その時になったらで」 言葉を濁すエルベルトに、ツグミは少々不安を覚えてしまう。 しかしポジティブに考えるなら、すぐに助手の使用方法がわからないというのは、しばらく暗殺をする予定がないということだ。 正直、そっちのほうがありがたい。「わかった。じゃあその時は頑張る」 任せて!と言いたげにツグミは自分の胸を軽く叩いたが、エルベルトは思いつめた表情を浮かべた。 てっきり「ああ。期待してる」と、ニヒルな笑みを返されると思っていたのに。「ねぇ……どうし……っ……!」 エルベルトの顔を覗き込もうとした瞬間、素早い動きで手首を掴まれてしまった。「一度だけ、訊く」「う、うん」「本当にいいのか?」 エルベルトの藤色の瞳が、心の奥底まで見透かしているようで、ツグミはソワソワしてしまう。「この提案は俺にとったらとてつもなく僥倖だが、カナにとったら違うことはわかっている。危険な目に合わせることはないと誓うし、カナが嫌だと思うことはしなくていい。だが断るなら、今だ。機会は一度しか与えない。慎重に考えてくれ」 胸の内を吐き出すエルベルトの声音は、少し震えていた。 この人は優しい。本当に、馬鹿みたいに優しい。 力でねじ伏せることも、権力で囲い込むことだってできるのに、こんな小娘に選択を委ねてくれる。(……あ、なんかこの表情、どっかで見たことある) 記
Terakhir Diperbarui: 2025-10-07
Chapter: 予想外の再会からの、あれやこれ⑦「ごちそうさまでした」 手を合わせて、頭を下げる。フォンハール帝国には無い習慣だが、ツグミの母が毎度そうしていたので、自然に身についてしまった。 初めて目にする人は不思議な顔をするけれど、エルベルトは動じない。 そこに疑問を抱くべきなのだが、ツグミは別のことで頭がいっぱいで気がつかなかった。(……で、これからどうしよう) 知り合いならともかく、エルベルトは暗殺現場に居合わせた自分を見逃してくれ、食事までごちそうしてくれた。 ごちそうを前にしてスープだけしか食べれなかったことに思うところはあるけれど、それでも赤の他人に対してここまで親切にするとは──(なにか、あるよね) ただ憐れに思ったから?それとも殺す価値すらないと判断された? その可能性は十分ある。なによりエルベルトは、なんだかんだいって優しい。でも見返りのない優しさは、警戒すべきだ。 ツグミはさりげなく周囲を探る。壁際に数人の使用人がいるとはいえ、食堂の出入口には誰もいないし、扉はほんの少しだけ開いている。 まるでエルベルトが、逃げたいなら逃げてもいいよと訴えているようだが──そういうことをされたら、逃げるような真似はしたくない。 ツグミはおもむろに立ち上がると、エルベルトの元に近づいた。「そろそろ、落ち着いた?」「ああ。こんなに笑ったのは、久しぶりだ。おかげで腹筋が痛くてたまらない」「笑うと血行が促進され、免疫力が向上して、ストレスが減って、脳の活性化にも繋がるんです。腹筋痛は残念ですが、トータル的には心と身体にいい効果をもたらしたんで、まぁ良かったですね。で、真面目な話……できますか?」 最後は口調を変えてツグミが尋ねれば、エルベルトも真顔になった。「できる。まずはお前の話を聞こう」 促され、ツグミは気持ちを落ち着かせるために小さく咳ばらいをしてから口を開く。「えっとね、まず……さっきも言ったけど路地裏でのこと……私は何も見てない。何も知らない。誰かに訊かれてもそう答える。あなたにもさっきのことは一生問い詰めない。ここで全部忘れることにする」「ああ」「それとね、これもさっき言ったことだけど、私ちょっと事情があって人から忘れられやすい体質なの。だからこうしてあなたとお話してても、明日の朝にはぼんやりとしか思い出せないと思う。だから、諸々不安かもしれないけど、安心
Terakhir Diperbarui: 2025-10-06
Chapter: 天狐上司のもう一つの顔⑤ うどん屋を出れば昼時のオフィス街らしく、秋晴れの大通りはとても賑やかだった。指宿は大通りに背を向け、路地裏のもっと奥へと歩き出す。 一体どこに行くんだろうと、美亜が尋ねようとしたその時、急に周囲の音が消えて暗闇に包まれた。「えっ、な……なになに」 怯える美亜に、指宿は眼鏡を外しながら振り返って、こう言った。「|神路《しんろ》を敷いた」「はぁ?何を言って……えっ?えぇぇっーーー!?」 中二病かと疑う指宿の発言を聞いた美亜は、間抜けな声す。そして、すぐに目を丸くした。 信じられないことに指宿の頭に、ピンとした獣の耳が生えていたのだ。「か、か……課長、み、み、み、耳が増えてます!」「ああ、やっぱりお前、見えるんだな」 ケモ耳をピコピコ揺らしながら、指宿は表情を変えることなく、ふむと頷いた。まるで部下の報告を聞くように。 でもそれだけ。特にコメントを残すことはせず、くるりと美亜に背を向けて暗闇を歩き出した。 置いていかれたらたまったもんではない美亜は、慌てて後を追う。 振り返ってもくれない指宿は一歩一歩、足を動かす度にその姿が変わっていく。 尻尾がにょきにょき生えて、スーツは平安貴族のような服装に。ゆらめく4つの尻尾にじゃれるかのように、青白い小さな炎が暗闇を照らす。「あの……課長」「今、ハロウィンワードを口に出したら置いていくぞ」「そ、それだけは勘弁してくださいっ」 真顔で忠告を受けた美亜は、ひぃんと半泣きになりながら指宿の尻尾をつかむ。「おい、どこ触ってるんだ」「だ、だって課長が置いていくって言うからじゃないですかっ」 死んでも離すもんかと、ぎゅーっと握る手に力を入れたら、指宿はこれ以上無いほどしかめっ面をした。 しかし離せとは言わず、ただただ黙々と暗闇の中を歩き続ける。青白い小さな灯火だけを頼りに。 指宿の尻尾を命綱にしてしばらく歩けば、時代劇に出てきそうな庵が、ぽっかりと闇の中から浮き出すように現れた。 辺りは、満開の花畑。ただし全部菊の花で、縁起が悪い。微かに漂う香りが実家の仏間を思い出す。 本能的に近づきたくないがそこが目的地のようで、指宿の足は迷わず庵に向かう。尻尾が動けば美亜だって付いていくしかない。 近くで見る菊畑は、お墓参りでよく見る品種の他に、結婚式で見かけるポンポン菊もあって、ちょっとホッとする
Terakhir Diperbarui: 2025-10-11
Chapter: 天狐上司のもう一つの顔④ 向かい合わせに座っているので、指宿の不機嫌さが露骨に伝わる。気まずい沈黙に苦痛を感じ始めたころ、二人が注文したうどんが並べられた。「い、いただきます」「ああ」 きちんと手を合わせてから、猫舌の美亜はハフハフしながら食べる。店構えは残念だが、味は満点だ。 一方、指宿は味噌煮込みうどんの麺は硬いはずなのに、難儀することなく食べている。真っ白なシャツには汁一つ飛ばしていない。 しかも取り皿に麺を移す指宿の箸使いは、とても綺麗だ。「ん?こっちの方が良かったのか?」 つい指宿の手元を見入っていたら、そんなことを訊かれてしまった。さっきまでムッとしていたのに。 急な指宿の態度の変化に、美亜はポカンとしながらも首を横に振る。その後は、意識して食べることに専念した。 指宿が箸をおいて遅れること数分、美亜もうどんを汁まで飲み干した。「ごちそうさまでした」「ああ……さっそくだが」 そう切り出した指宿だが、一旦言葉を止めてポットを手に取り、二人分のお茶を湯呑に足す。「お、恐れ入ります」「いや、ついでだ。で、先に言っておくが俺は仕事の話をしにきたんじゃない」「え……じゃ、じゃあ」「至極プライベートな話だ」 それすなわち、先週金曜日のコスプレの件だろう。 察した美亜は「誰にも言いません」と、先手を打とうとしたが、そうじゃなかった。「お前、あの男と縁を切りたいか?」「……は?」 まったく予測していなかった質問に、美亜は間抜けな声を出してしまった。 てっきりコスプレを口止めされると思っていた美亜に、指宿は言葉を重ねる。「あの男はお前にとって悪縁だ。しかも無駄に固く結びついているから自力で解くのは無理だ。このままじゃ、一生付きまとわれるぞ」「……一生って……そんな……」 あんぐりと口を開ける美亜だが、ここで気になることがあった。「……課長、あの時のこと全部見てたんですか?」「たまたま視界に入っただけだ」「来るべきハロウィンに向けての練習中にですか?」「何言ってんだ、お前?」 どうやら指宿はコスプレのことはしらばっくれるらしい。なら自分もと、美亜はとぼけることにする。「ちょっと仰っている意味がわかりません。それにもうあの人とは別れてます」「お前なぁ男と女の関係が終わったからといって、縁が切れるなんて思うなよ。金づるとしての縁は切
Terakhir Diperbarui: 2025-10-10
Chapter: 天狐上司のもう一つの顔③ 顔の熱が完全に冷めてから、美亜は自分の席に戻る。香苗と綾乃は時間差で、戻ってくるだろう。その辺りの連携は取れている。 昼休憩まであと5分。パールカンパニーは福利厚生が充実していて各階に休憩スペースがあり、最上階はワンフロア全てが社員のためのカフェスペースになっている。 しかも昼食時には無料のデザートまで用意される。ただし数には限りがあり、雇用形態に関係なく早い者勝ちのルールだ。 暗黙の了解として、本来なら正社員に譲るべきなのだが、美亜は遠慮はしない。 だって用意されているデザートは駄菓子だけではなく、自社ブランドの高級菓子”花珠シリーズ”と、コンビニコラボで大ヒットした真珠大福もある。淡く輝くそれを何としても食べたいのだ。 美亜は机の上を片付けながら、綾乃たちが戻ってくるのをソワソワしながら待つ。時刻は11時57分。どうか内線が鳴らないでと祈ったその時、甘い香りとともに頭上から声が降ってきた。「星野君、ちょっといいかな」 空気を読まずそう言ったのは、コスプレ課長……もとい、指宿亮史だった。「は、はい。なんでしょう」 チャイムと同時に駆け出したい美亜は舌打ちしたい気分だが、立場上嫌とは言えない。引きつった笑顔を浮かべて指宿に続きを促す。「お昼前に悪いが、先ほどミーティングでちょっといい案がでなくてね。申し訳ないんだが、派遣の皆さんにも意見を聞きてみようと思ったんだ」「……はぁ」 こりゃあ、話が長くなるなと美亜はうんざりする。何も今じゃなくていいじゃんと、心の中でぼやいていたら、綾乃と香苗がトイレから戻ってきた。「あ、課長お疲れ様です」「お……お疲れ様ーす」「ああ、お疲れ」 二人はぎこちなく指宿に挨拶をして席に着いたが、動揺を隠せないでいる。 無理もない。営業企画課に席を置いて半年近く経つが、これまで美亜を始め、派遣社員は一度も指宿から声を掛けられたことはない。これは、かなりの事件である。 しかし好奇心はあっても、面倒事に巻き込まれたくないと思うのは当然の発想で、二人はこちらを見ようとはせず、ただただ仕事をするフリをしてチャイムが鳴るのを待っている。「で、話は戻すが今度の商品のターゲットが──ああ、昼か」 再び指宿が口を開いたと同時に、昼休憩を告げるチャイムがフロアに響き渡る。 すぐさまざわざわし始める社員達を一瞥した指宿は
Terakhir Diperbarui: 2025-10-09
Chapter: 天狐上司のもう一つの顔② 長いミーティングの後、主任と呼ばれている男性社員から指示された仕事は、見慣れた商品名と数字の打ち込みと、ボツになった企画の数々を一つのデータにまとめることだった。 誰でもできる単純で簡単な仕事だが、美亜はニコッと笑って引き受ける。 このご時世、お茶くみなんかはないけれど、雑用全般は派遣社員の仕事。電話を取り次いだ挙句「あーもー忙しいんだから、後にして!」と言われ、頭をペコペコ下げながら相手先に謝るのも派遣の役割。 美亜はアルバイトの経験があまりなく、派遣で働くのも初めてだった。事前に兄の俊郎から、働く際の心構えを教えてもらったが、パールカンパニーで働き出してから葛藤したり悩んだりしたことは数知れない。 他の職場がどうなのかわからないが、パールカンパニーは正社員と派遣社員との線引きがとても細かく、美亜はやりたいのにできないジレンマと、一線を引く正社員たちの態度に少々病んだ。 兄に愚痴り、諭され、足を引きずるようにして出社すること一年。何となく自分の立ち位置がわかってきた。 その後、商品企画部に移動して綾乃と香苗と出会って、今は派遣社員としての働き方を少しは覚えたつもりだ。要領も、ちょっとだけ良くなった。 割り切った気持ちで淡々と仕事をこなしていた美亜は、パソコン画面に表示されている時計に目を向ける。お昼休憩の10分前だった。 やる気に満ち溢れていた初期の頃は、終わり次第報告に行って「次の仕事をくださーい」と言って迷惑な顔をされた。 その度に傷付く自分がいたけれど、今は完了報告は昼一にして、トイレで時間を潰そうとそっと席を立つ。 遅れて香苗が席を立つのが見えた。おそらく自分と同じ考えなのだろう。「──ねえ星野さん、来週の金曜日って暇?」 女子トイレに入った途端、追いついた香苗から問い掛けられ、美亜は満面の笑みで頷く。「暇、暇、超ぉー暇です!」「おっけ。じゃあ、合コン大丈夫だよね?」「ええっ!?私が、ですか?お誘いしてくれてるんですか??」 これまで人数合わせですら合コンに誘われなかった美亜は、あからさまにオロオロする。 しかし、嬉しさはダダ漏れしていたので、香苗に変な誤解を与えることはなかった。「そうよ、星野さんと一緒に合コンに行きたいの」 慈愛に満ちた言葉に、美亜は香苗の腰に抱きつく。「ありがとうございます……好きです」
Terakhir Diperbarui: 2025-10-08
Chapter: 冷徹上司のもう一つの顔① 美亜が派遣社員として働いている職場──パールカンパニーは、創業100年を超える駄菓子メーカーである。 看板商品は【真珠餅】。光沢のある真っ白な小粒の餅は12個入りで税抜50円。全国のスーパーやコンビニに陳列され、遠足のおやつに最適なロングセラー商品だ。 もちろんパールカンパニーは、その他の商品も扱っている。 粉末ジュースやゼリーといった駄菓子はもちろんのこと、贈答用の高級菓子。最近ではコンビニとコラボした、季節のフルーツ大福シリーズも大ヒット。 一貫して甘い物だけを追求し続け、景気不景気関係なく年々ゆっくりと成長をし続けるこの会社は、安心安定の大企業。 市内の交通拠点であり、オフィスビルやデパートが聳える最も活気あふれるエリアに自社ビルを構えている。 美亜は、そこの6階にある商品企画部に席を置いている。* 10人以上の正社員がフロアの大きなテーブルに集まり真剣な表情でミーティングをするのは、月曜日の朝一の決まり事。 しかし派遣社員である美亜は、そこに呼ばれることはない。ただただ黙ってデータ入力をすることだけを求められている。 商品企画部とはその名の通り、自社商品をどうやって世の中に流通させるかを考える部署のこと。 具体的にはマーケティングをして、商品コンセプトの抽出して、企画提案まで一手に引き受ける花形部署。美亜の言葉を借りるならキラキラした人達が集う場所なのだ。 といっても、ここに在籍する人全てがキラキラできるわけじゃない。 カッコよくフライパンで炒める前に下ごしらえが必要になるように、地味で面倒な作業をする人達だっている。それが派遣社員の役割だ。営業企画部には、美亜を含めて3人の派遣社員がいる。「ねえ、今日のミーティングちょっと長くない?」 パチパチとキーボードを叩く美亜の隣で、同じようにデータ入力をしている派遣社員の|長坂綾乃《ながさか あやの》が呟く。美亜は手を止めることなく、こくこくと頷いた。 長坂綾乃こと綾乃は、美亜より2つ年上の24歳。お嬢様学校で有名な地元大学を卒業した後、パールカンパニーの派遣社員として働いている。 代々続く老舗料亭の一人娘である綾乃は、すでに結婚相手が決まっている。だから、のんびりとした暮らしをしてもいいはずなのに、一度くらいOLをしてみたいという理由でここにいる。美亜からすれば、羨ましい境遇
Terakhir Diperbarui: 2025-10-07
Chapter: prologue それはきっと、ハロウィンだから② ──5日後。給料日。 仕事帰りの美亜は、コンビニでビールを買って自宅アパートに向かっている。 時刻は21時過ぎ。残業で疲れ切った美亜が歩く道は住宅街というのもあり、まだ寝るのには早い時間なのに静まり返っている。 肩に通勤カバンをかけ、手にはエコバッグ。お待ちかねの金ラベルのビールを買えたというのに、美亜の足取りはトボトボだ。 一ケ月頑張った自分を労り、来月の給料日まで頑張るために、もっとテンションを上げるべきなのに。「……なんか違う。でも、これが現実なんだよね」 新幹線を降りて名古屋駅に降りた時、この街は眩しいほどにキラキラしていた。 高層ビルが聳え立ち、足元には都会の象徴である地下鉄が走っている。道を行き交う人たちはスーツ率が高くて、トラクターなんて一台も走っていない。 おばあちゃん、ありがとう。私、ここで頑張って生きていくね。そして誰よりも輝くキラキラ女子になるから!そう決意した美亜だったが、いきなり就職先で躓いた。 地元では黙っていればそこそこ可愛いと言われた美亜は、都会なら仕事なんて幾らでもあるし、希望する仕事に就けると高をくくっていた。 しかし元は引きこもり。加えて気持ちが空回りしたせいで、面接は目も当てられない有様だった。ことごとく不採用になったのは言うまでもない。 不採用通知を受け取るたびに、美亜は己の不甲斐なさに半分闇落ちした。布団をかぶってテレビばかり見続ける美亜を見るに見かねた兄が、派遣社員という道を進めてくれて田舎に戻らずにすんでいる。 そんな残念なスタートダッシュを切ったけれど、今の職場には満足している。派遣仲間からのアドバイスでお化粧だって上手になったし、カラーリングした髪は都会色のセミロングで、ド田舎で暮らしていたあの頃より格段にあか抜けた。 でもやっぱり何かが違う。まかり間違っても、給料日に一人寂しくコンビニでビールを買う生活を夢見ていたわけじゃない。 美亜は手に持っているマイバックに視線を落として、溜息を吐く。「……新しい出会いとかないかなぁー」 などと呟いたのが間違いだったのだろう。背後から、聞き覚えのある声がした。「おう、美亜。久しぶり、元気してたか?」 声の主は元彼である|山崎圭司《やまざき けいじ》だった。彼は美亜にとって初めての恋人であり、黒歴史でもある。 元彼こと山崎圭司は、美
Terakhir Diperbarui: 2025-10-06