孤児のツグミは異世界人と白魔導士のハーフ。 戦火で両親を失ったツグミは聖女となり、フォンハール帝国を勝利に導いた。 そんなツグミが皇帝に求めた褒美は【聖女の忘却】 平和になった世界に聖女という存在は災いを蒔く種になると判断したからだ。 望み通り忘却聖女となったツグミは一年後ひょんなことから聖女時代に側近だったエルベルトと再会したけれど、彼はちょうど暗殺中で……。 聖女の存在を忘れたとエルベルトとまさかの同居生活を強いられたツグミは暗殺者の助手をやることに!? 真っ白な聖女衣装を脱ぎ捨てた異世界人二世ツグミと本気を出した暗殺騎士の恋の始まり始まり!
View More帝国歴589年。
雪が解け、若葉が芽吹き、100年続いた戦争が終結した。
フォンハール帝国の帝都ネルシアでは、勝利に導いた聖女を一目見ようと、帝国民が神殿広場にひしめき合っている。
*
式典の主役である聖女ツグミは、神殿の一室で控えている。部屋にはもう一人──皇帝アレクセルが正装姿で腕を組み、窓に目を向けていた。
時計の針がカチリと鳴ったのを機に、ツグミは皇帝の前に立つ。
艶やかな黒髪を背に流し、真っ白な聖女の衣装を纏ったツグミは、先月18歳になった。
アレクセルと出会ったのは、16歳の時。当時の彼は21歳の若き皇帝だったが、2年たった今では頼りなさは消え、威厳に満ちあふれている。
「そろそろ時間なので行ってきます。陛下とはこれでお別れですね。どうかお元気で」
「……なんか、素っ気ないな」
拗ね顔になったアレクセルは頭をガシガシかく。せっかく整えた陽だまりのような金髪が台無しだ。
「抱き合って泣くような間柄じゃないでしょう?私たち。そんなことより、ちゃんと寝てくださいね。書類を寝室に持ち込んじゃ駄目ですよ。あと櫛、使います?」
「つれないねぇ、君は。まったく、つれない。それと櫛はいらない」
はぁーっと溜息を吐いたアレクセルに、ツグミはへへっと笑う。
「だって、しんみりしたくないんですもん。最後は笑って終わりにしましょうよ」
平和の道を歩み始めたフォンハール帝国にとって、聖女は厄介事を産む種でしかない。
敵国だったヴォルテス国と終結条約を結んで、まだ3ヶ月しか経ってないけれど、ツグミは嫌というほど政治の闇を見てしまった。
異世界人と白魔導士の間に生まれたツグミは、治癒と浄化の魔法に加え、誰にでも魔力を付与できる能力を持っている。
戦時中には重宝したその特技は、今では貴族と政治家たちの欲望の対象になり下がった。
だからツグミは、今日をもって聖女職を引退する。
大魔法使いでもあるアレクセルの魔術で、大陸全土にいる人々の記憶から聖女ツグミの存在を消し、ただのツグミに戻るのだ。
「それで、これからどうするんだ?」
「そうですねぇ、ちゃんとは考えてないですけど……しばらくは復興していく国中を見て回ります。お手伝いできそうなことがあれば手伝いたいですし。治癒と浄化は、なにかと重宝しますから」
「……それなら聖女のままでいいんじゃない?ツグミは私と同等の権限があるんだから」
アレクセルからド正論を言われ、ツグミはヘラヘラと笑って誤魔化す。
「まぁ、好きにすればいいさ。今更引き止めたって、無駄でしょ?」
「さすが陛下。私のこと良くわかってくださる!」
「わかりたくなんかないけどね!」
強く言い返されて、ツグミは胸が痛む。
勝利に導いた褒美に「聖女の記憶を消してほしい」とアレクセルに伝えた結果、彼は拗ねて拗ねて、拗ねまくった。
ツグミが話しかけても、無視、無視、無視。皇帝のくせに、大人げない態度を取り続けるアレクセルに、ツグミは根気強く説得し、やっと首を縦に振ってもらえたのだ。
戦時中とは一味違ったあの苦労は、もう二度と味わいたくない。けれど、アレクセルがツグミの身を案じてくれているのは痛いほどわかった。
異世界人の母と、白魔導士の父は、もうこの世にはいない。
聖女ではなくなったツグミが、何の後ろ盾もなく生きていくのは相当厳しい。だからアレクセルは、ずっと庇護下に置いておきたかったのだろう。
「陛下、もう時間だから機嫌直してよ。ね?最後に握手をしてお別れしよ」
ごめんなさい、と言わないのは、言えば言うほどアレクセルが泣きそうになるからだ。
「握手で終わり?ほんと、つれないねぇ」
ツグミの差し出した手に視線を落として、アレクセルは溜息を吐く。
そうしているうちに、扉の向こうからノックの音が響く。神官が迎えに来たのだろう。
「……陛下」
「ああ、わかったよ」
何もかも諦めたように肩をすくめたアレクセルは、ツグミの手を取った。しかし握り返すことはせず、ツグミの手を両手で掴むと、そのまま額に押し当てた。
「これまでありがとう、ツグミ。君にとっては辛く厳しい日々でしかなかったかも知れないが、私は君に出会えて本当に良かった」
アレクセルの言葉に、ツグミは熱いものが込み上げる。それと同時にイラっとした。
「そんなこと言わないで!私、ぜんぜん辛くなかったよ」
「君のご両親が隠し続けた君の存在を、私は無理矢理表舞台に引きずり出してしまった」
「違う。聖女になることを選んだのは私だよ。私が決めて、選んで、ここにいるんだよ」
「まだ子供の君に汚い大人たちを見せてしまった」
「……私、18だよ?成人したよ?略式だけど、成人の儀をやったじゃん。陛下忘れたの?」
「覚えてる。私は立会人だったのだから、忘れるわけがない。だがツグミ、君は見た目は子供だ。あの日──戦火の中を泣いてさまよっていた子供のままだ」
「ちょっと、それどういう意味!?」
母親が小柄だったせいか、ツグミは平均以下の身長だ。それをとにかく気にしている。
逆鱗に触れたツグミが、カッとなった瞬間、アレクセルは声を上げて笑った。
「ははっ。最後に君のこの顔を見れて良かった」
悪戯が成功したような子供みたいな笑みを見せるアレクセルに、ツグミは頬を膨らます。
うっかりしていたが、アレクセルは軽いサディストだった。
「もぉー」
「その膨れっ面も好きだった」
「なにそれ」
ぷっと噴き出したツグミに、アレクセルは何か言いかけて口をつぐむ。
「ん?……陛下」
「私はね、戦時中も戦争が終結してからも、ずっと思い描いていた未来があったんだ」
「……そっか」
「そうなることが必然だと思っていたんだ。でも……」
「でも?」
ツグミが続きを促せば、アレクセルは顔をくしゃりと歪めて何かの言葉を吞み、違う言葉を紡いだ。
「君と最後に会話できたのが私だから、まぁ良しとするよ」
「……陛下、酔ってます?」
「いっそ、ベロベロに酔いたいねぇー」
はははっ、と乾いた眼をしたアレクセルは、ツグミの身体を廊下へと続く扉に向けた。
「さ、お行き。民が君のことを待ってるよ。最後の聖女の勤めを果たしておいで」
「うん!行ってきます、陛下」
「行ってらっしゃい、ツグミ」
手を振り合って廊下に出たツグミは、待機していた神官と共に神殿広場に向かった。
『今は身体を癒すのが仕事だ』 エルベルトの言葉に従って、ツグミは一ヶ月ほど療養に専念した。 おかげで、身体がびっくりするほど軽くなった。夜中に、何度も起きることはなくなった。ちょっとの物音で、過敏に反応しなくなった。気合を入れなくても、眩暈を起こさなくなった。 医者も認める健康な身体を手に入れることができたツグミは、その頃になって自分はかなり疲れていて、疲れすぎて体の不調すらわからなくなっていたことを知った。「もぉーおぉーーー!ツグミ様は、医者の不養生だったのですねぇー」 顔色が良くなったツグミに薬膳茶を淹れながら、侍女のルインは頬を膨らませる。 しかし鏡台に座るツグミは、反省するどころか「いやぁー照れるな」とモジモジする。「あの……なぜ、喜ぶのですか?」 ツグミの髪を結いながら、リビナは奇怪な虫を見るような目つきになる。鏡越しでも、その視線はちょっと胸に刺さる。 「……だって一人前の治療師って認められたような気がしたから」 ツグミが素直な気持ちを吐き出した途端、ルインとリビナは同時に変な顔をした。さすが双子。そういうところは、息ピッタリだ。(それにしてもさぁ……) 二人の微妙なリアクションをスルーして、ツグミは小さく息を吐く。 助手というのは上司の雑用をこなすのが一般的なのに、医者が「もう大丈夫」と太鼓判を押した今でも、ツグミは上げ膳据え膳の生活が続いてる。 ルインとリビナに起こされ、二人がかりで身支度をされ、食堂に行けばいつでも美味しい料理が用意され、自ら掃除をしなくても屋敷は常に清潔に保たれている。 両親と過ごしていた頃は小さな家に住んでいたとはいえ、母親の手伝いを率先してやっていたし、父の厳しい白魔法の指導も頑張って受けていた。 聖女時代は、二年という月日があっという間だと思えるほど、毎日がバタバタのピリピリだったし、その後は治療師としてそれなりに忙しかった。 とどのつまり、のんびりした時間を過ごすことがなかったツグミは、助手という肩書をもらった途端、こんなに暇な生活になってとても戸惑っている。 豪奢なエルベルトの屋敷は、庭だって無駄に広い。 それらを執事のダンデと数人の使用人で切り盛りしている。貴族の生活がどのようなものかはわからないが、さすがに過酷だ。母が生まれ育った世界で言うならブラック企業というものだ。 今
ピチチ、ピチッ……チュンチュン……。 鳥のさえずりと、窓から差し込む朝日の眩しさで、ツグミは目を覚ました。 懐かしい夢の余韻から抜け出せないまま、枕から頭を上げずに数回瞬きをする。見慣れない天井と、微かに薬品の香りが漂う。(……ここ、どこ?) 意識が完全に覚醒していないツグミは、ぼんやりと辺りを見渡し、視線が一か所に留まった。「起きたようだな」 窓枠にもたれて外を見ていたエルベルトは、ツグミの視線に気づいてベッドに近づいてくる。「3日も意識が戻らなかった。どうしたらこんなボロボロの身体になるんだと、医者が呆れてたぞ」 口調こそ不機嫌だが、エルベルトの目の下にはひどい隈がある。こちらを見つめる表情は、心から安堵しているようだ。 心配かけたことに、くすぐったさと申し訳なさを抱えるツグミだが、口から出た言葉は全く違うものだった。「私が、誰だかわかるの?」「いうに事欠いて、それかよ」 なんだコイツ、という視線が痛い。でもエルベルトのその表情と、言葉が泣きたくなるほど嬉しい。「ありがとう。私のこと、覚えててくれて」 忘却魔法の副作用は自業自得だから、悲しんでも悔やんでも仕方がない。そう自分に言い聞かせて、諦めていた。 でも、ちゃんと覚えてくれる人がいたという現実は、身体の力が全て抜けるほど安堵する。「……当たり前じゃないか」 ツグミの呟きで、一度動きを止めたエルベルトだが、大股でベッドの前に立つ。「俺が、お前を忘れることはない」「……名前はお忘れのようですけど?」「お前の名前は、カナ。しゃびしゃびのスープがご不満だった流れの治療師。これでいいか?」 完璧な返答に、ありがとうと言うべきだ。でもツグミは、エルベルトがスープのことをまだ根に持っていたことに、ちょっと引いてしまう。「言っておくが、しばらくはスープ生活が続くぞ」「嘘!なんで!?まだ助手の仕事をしてないから??」 なら、今すぐにでも働かせてほしい。 食堂のテーブルにあった血の滴るステーキを思い出したツグミは、ガバリと起き上がる。しかし、すぐに強い眩暈に襲われて蹲った。「おいこら!無理をするな」「……肉」 エルベルトは、ツグミの肉への執着に降参した。「わかった、わかった。軟らかく煮た肉を用意するから、頼むから動かないでくれ」 はぁーと溜息を吐きながら、エルベル
新月の草原は、空と地平線の境目が曖昧で、ぽっかり自分が宙に浮いている感覚になる。 でも時折、草原独特の草と土の香りを孕んだ風と、さわさわと揺れる草々の音が、ここが地上なんだと教えてくれる。 空を見上げれば星があって、風は同じように吹いている。敵国ヴォルテスの民にも、同じ夜空が広がっているはずだ。 それなのに、どうして争っているのだろう。皆、平和を望んでいるというのに。 こんな風に漠然とした疑問を持てるようになったのは、自分に余裕が生まれたからなのだろう。そして、こんな闇夜でも外に出れるようになったのは、戦況が好転した何よりの証拠だ。「ツグミ様。風が冷たくなってきましたので、天幕にお戻りください」 振り向けば、リュリーアナが布を手にして立っていた。連日の戦いで疲れているはずなのに、リュリーアナは鎧を脱ぐことはない。帯剣もずっとしたままだ。 重いそれを絶えず身に着けているというのに、ちっとも疲労の色をみせない。向けられる視線は、凪いだ海のように穏やかだ。「ありがとう。でも、もう少しここにいていい?」 戻りたくない理由はないが、なんとなく、まだここにいたい。 そんな曖昧なツグミの気持ちを汲み取ったリュリーアナは、穏やかに微笑んだ。「もちろんです。でもその代わり、これを」 リュリーアナはそう言って、手に持っていた布をふわりと肩に掛けてくれた。なるほど、これはストール代わりに持ってきてくれたものか。 今のツグミは聖女の衣装ではなく、膝下までのシンプルなワンピースを着ている。 なぜ、聖女の衣装ではないのかというと、それは単純にツグミがすぐに汚すからだ。 聖女になった当初はそうあろうと努力して、ずっと聖女の衣装を身につけていた。けれど、裾を踏んでコケて泥を付けるし、食事中に食べこぼしをしてシミを作ってしまう。 大切な衣装だから気を付けてはいるが、なにぶん白というのは汚れが目立つ。もちろん汚したのは自分だから己の手で洗おうとするが、リュリーアナがそれを許さなかった。 貴族出身の彼女がジャブジャブ洗濯するのを何度も目にして、必要最低限の時しか着ないことに決めた。ツグミのその主張は、満場一致で可決された。 今、ツグミが着ているのはワンピースといったけど、実はサギルの上衣だ。サギルなら太股までのこの服も、ツグミが着れば膝下丈のワンピースにな
「エルベルトさんから助手をやれって誘ったくせに、なんか嫌っぽく見えるのは私の気のせい?」 拗ねたツグミは、わざと可愛げのない質問をしてやった。「まさか。カナほど適任者はもう二度と現れないと断言できる」 真顔で答えるエルベルトに、ツグミは面倒くさい質問を重ねる。まだちょっとだけ、腹の虫がおさまらないのだ。 「ふぅーん……私、暗殺なんてしたことないのに?」「だろうな。見るからにどんくさそうだし」「その通りですけど、もう少し言葉選びません?」「すぐカッとなるところも暗殺に向いてないな」「自分だってすぐ怒るくせに」「俺はカナに合せてやってるんだ」「……へぇ」 その割には目が本気でしたけど?と言い返そうと思ったが、やめた。ツグミだって、もう子供じゃないのだ。「助手っていっても、カナは人殺しには関与しなくていい。俺の雑務をやってくれればいいだけだ」「例えば?」「……うーん……そうだなぁ……まぁ、その時になったらで」 言葉を濁すエルベルトに、ツグミは少々不安を覚えてしまう。 しかしポジティブに考えるなら、すぐに助手の使用方法がわからないというのは、しばらく暗殺をする予定がないということだ。 正直、そっちのほうがありがたい。「わかった。じゃあその時は頑張る」 任せて!と言いたげにツグミは自分の胸を軽く叩いたが、エルベルトは思いつめた表情を浮かべた。 てっきり「ああ。期待してる」と、ニヒルな笑みを返されると思っていたのに。「ねぇ……どうし……っ……!」 エルベルトの顔を覗き込もうとした瞬間、素早い動きで手首を掴まれてしまった。「一度だけ、訊く」「う、うん」「本当にいいのか?」 エルベルトの藤色の瞳が、心の奥底まで見透かしているようで、ツグミはソワソワしてしまう。「この提案は俺にとったらとてつもなく僥倖だが、カナにとったら違うことはわかっている。危険な目に合わせることはないと誓うし、カナが嫌だと思うことはしなくていい。だが断るなら、今だ。機会は一度しか与えない。慎重に考えてくれ」 胸の内を吐き出すエルベルトの声音は、少し震えていた。 この人は優しい。本当に、馬鹿みたいに優しい。 力でねじ伏せることも、権力で囲い込むことだってできるのに、こんな小娘に選択を委ねてくれる。(……あ、なんかこの表情、どっかで見たことある) 記
「ごちそうさまでした」 手を合わせて、頭を下げる。フォンハール帝国には無い習慣だが、ツグミの母が毎度そうしていたので、自然に身についてしまった。 初めて目にする人は不思議な顔をするけれど、エルベルトは動じない。 そこに疑問を抱くべきなのだが、ツグミは別のことで頭がいっぱいで気がつかなかった。(……で、これからどうしよう) 知り合いならともかく、エルベルトは暗殺現場に居合わせた自分を見逃してくれ、食事までごちそうしてくれた。 ごちそうを前にしてスープだけしか食べれなかったことに思うところはあるけれど、それでも赤の他人に対してここまで親切にするとは──(なにか、あるよね) ただ憐れに思ったから?それとも殺す価値すらないと判断された? その可能性は十分ある。なによりエルベルトは、なんだかんだいって優しい。でも見返りのない優しさは、警戒すべきだ。 ツグミはさりげなく周囲を探る。壁際に数人の使用人がいるとはいえ、食堂の出入口には誰もいないし、扉はほんの少しだけ開いている。 まるでエルベルトが、逃げたいなら逃げてもいいよと訴えているようだが──そういうことをされたら、逃げるような真似はしたくない。 ツグミはおもむろに立ち上がると、エルベルトの元に近づいた。「そろそろ、落ち着いた?」「ああ。こんなに笑ったのは、久しぶりだ。おかげで腹筋が痛くてたまらない」「笑うと血行が促進され、免疫力が向上して、ストレスが減って、脳の活性化にも繋がるんです。腹筋痛は残念ですが、トータル的には心と身体にいい効果をもたらしたんで、まぁ良かったですね。で、真面目な話……できますか?」 最後は口調を変えてツグミが尋ねれば、エルベルトも真顔になった。「できる。まずはお前の話を聞こう」 促され、ツグミは気持ちを落ち着かせるために小さく咳ばらいをしてから口を開く。「えっとね、まず……さっきも言ったけど路地裏でのこと……私は何も見てない。何も知らない。誰かに訊かれてもそう答える。あなたにもさっきのことは一生問い詰めない。ここで全部忘れることにする」「ああ」「それとね、これもさっき言ったことだけど、私ちょっと事情があって人から忘れられやすい体質なの。だからこうしてあなたとお話してても、明日の朝にはぼんやりとしか思い出せないと思う。だから、諸々不安かもしれないけど、安心
お風呂から出たらすぐに食事にありつけると思ったツグミだが、今度は傷の手当てが待っていた。 ぬかるんだ道を丸一日歩いたツグミの足は、靴擦れで両足とも皮がめくれて、酷い有様だった。他にも、誘拐されかけた時に転んだり、あちこちぶつけたせいで、打ち身や擦り傷も 体中にある。 エルベルトはそれを丁寧に手当したかったようだが、絶えず鳴り続けるツグミの腹の音に負け、二人は食堂に移動した。 長テーブルに並べられた食事は、軽食というには豪華すぎるものだった。 しかしツグミの席には、薄いスープだけが置かれてる。「……肉が遠い」「ああ。今日のお前は肉ナシだ……おい、そんな目で睨むな。空腹なのに重いもの食べたら後で吐く羽目になるぞ。とりあえず、消化にいいものから手をつけろ」 濃厚なソースにまみれた肉に釘付けになっているツグミにエルベルトはそう言うと、ナイフとフォークを手に取り食事を始める。 ちなみにエルベルトの前には、血の滴る分厚いステーキがある。「ひもじい思いをしている前で、良く肉をがっつけますね。良心が痛まないんですか?」「痛むわけないだろ。俺は怪我人でもなければ、飢え死にしそうなほど空腹でもないからな」 しれっと答えたエルベルトは、ひと口大に切った肉を自分の口の中に放り込む。一つ一つの仕草が洗練されていて、彼の育ちの良さを感じさせる。 しばらくエルベルトの洗練された食事風景を鑑賞していたが、どうあっても肉を与えてもらえる気配はない。「……いただきます。薄いスープをいただきます……」「ああ。ゆっくり飲め」「ゆっくり……できるかなぁ……」 不安を抱えながらツグミは、スプーンを握ってスープを口に含む。「っ……!?……っ……!!」 薄味だが、信じられないくらい美味だった。 感動したツグミは、そこから無心にスープを口に運ぶ。気づいた時には皿は空になっていた。「あの、お代わりをお願いできる権利って、私にありますか?」「ある。だがなぁ」 変なところで言葉を止めたエルベルトは、フォークをテーブルに置くと頬杖をついた。「……良く平気で俺が出したものを口にできるよな。お前」「え?……平気って何が?」 首をコテンと横に倒したツグミは、本当に意味が分からない。 しかしエルベルトには、とぼけているように見えたようだ。「暗殺者が用意したメシだぞ。この中に
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