Chapter: 近くに在りて、されど心は遠く 3 隊が今夜の宿営地と定めた場所へ移動するまでの間、レンジュは馬に跨り、隊の最後尾で数人の仲間とともに任にあたっていた。 市の周辺では規約に縛られた敵軍よりも、地を熟知した盗賊団の襲撃こそ危険で警戒しなくてはならない。 盗賊たちのほとんどは、敗戦して壊滅した隊の生存者や脱走兵で構成されている。国との関係が切れて物資補給が得られず、何もかも自力で手に入れなくてはならない彼らにとって、最も手っ取り早い方法が他者から奪うことだ。 彼らにとって必要なのは金でなく、食料や服、道具といった物品、そして女だ。市という餌場でたらふく食らい、身重の雌鹿ほど腹のふくれた隊などいいカモというわけだ。 特にこのアーシェンカ近辺では、数年前から神出鬼没の盗賊団が噂になっている。 イルク――月神の娘に愛された、伝説上の男の名――を通り名とする謎の男が頭領で、その素性はいまだ謎に包まれている。 流浪人のようにふらりと単独で現れたと思うやわずか数日のうちに近辺の盗賊たちを力でねじ伏せ、配下とし、組織化したらしい。 これが他に類を見ない残虐非道な盗賊団で、男は個々の区別ができなくなるまで切り刻み、女は犯して殺すか奴隷として売りつけるのだそうだ。 彼らが襲撃した後にはうめき声すら聞こえない。話によれば、その構成員は百をくだらないという。 生存者がいないのになぜ人数がわかるのか? 信ぴょう性に欠けるが、うわさ話とはそういうものだ。あるいは、被害状況から概算したのかもしれない。 そのような危険地帯は一刻も早く抜けるに限るのだが、隊となるとそうもいかない。隊の構成は馬車と驢馬、戦馬である。驢馬や馬車に乗れる人数は限られていて、当然乗りきれず徒歩の者も大勢いる。下女-端女の産んだ娘-や、入隊して二年に満たず、持ち馬を買えない少年兵たちだ。 途中三度の休憩で交替しながら進む隊の移動速度は、はっきり言ってかなり遅い。次の宿営地までは馬を駆れば一日で二往復はできる距離でも荷車を引く騾馬と徒歩の者はそれが限界だ。 だからこそ、作戦を遂行した後でも十分追いつけたりするのだが。 とはいえ、だ。 行程は既に下見してある。道の左
Last Updated: 2025-12-11
Chapter: 近くに在りて、されど心は遠く 2 ユイナは床に残された、手つかずの碗を見た。 食べる? と持ち上げられたそれに、マテアは首を横に振る。『おなか空いてないの? 今食べないと、夜まで温かい物は食べられないわよ。市の周辺は盗賊も出て危険だから道中の休憩は最低限しか取られないし、お昼は馬車の中で食べるしかないの。 それとも、やっぱり熱いのは苦手なのかしら……』 誰に言うともなくつぶやいたユイナは、仕切り布を持ち上げて、ちょうど近くを通りかかった少女を呼びとめ、碗を手渡した。 向こうへ持っていってと指示したようだ。『できればもう少し休ませてあげたかったんだけど、レンジュが任務で帰ってこれない以上、そういうわけにもいかないわね。 荷物を整理して天幕をたたみましょう。あたしが教えてあげるわ』 ユイナはことさら声を明るく張って、そう提案した。 教える、とユイナは言ったが、実際に荷物をまとめたり天幕をたたんだりしたのは彼女で、マテアがしたのは端を押さえることと杭を抜くこと。それに、大小に分けてまとめられていた荷物の大きい方をハリが連れてきてくれた荷運び用の生き物-荷馬-の背にくくりつけることくらいだった。『小さい方は自分で持つの。もし敵に急襲されて荷を失う羽目になったとしても、最低限残しておかなくちゃいけない貴重品よ』 つまりは保存食に香辛料、携帯ナイフ、簡易ランプといった類いの物だ。 それらが入った荷袋と羊毛の円座を手に、出発を目前に騒然となった人々の問を縫うように歩き、ほろを被った馬車が並んだ場所まで案内される。 すでに同じような荷物を持った女性でいっぱいの馬車を見て、この中へ自分も入らなくちゃいけないのかと硬直したマテアだったが、ユイナはその馬車の前を通り過ぎた。 マテアが入るよう指示された馬車は、まだ誰も乗っていない、小型の馬車だった。 マテアは奥の端に置かれた水樽の影に隠れるように座る。遅れて人がぞろぞろ入ってきても、ユイナが庇うよう前に座ったため、マテアに声をかけたり、触れてこようとする者はいな
Last Updated: 2025-12-10
Chapter: 近くに在りて、されど心は遠く 1 どんっと音をたてて目の前に置かれた素焼きの碗を、マテアはまじまじと見つめた。 碗の中には緑や赤や黄色をした根菜と、黒っぽい肉数切れが汁に浸っており、ほかほかと湯気が上がっている。薄まっているとはいえ、死臭のするそれが、外を歩いたときに見かけた、火にかけられていた鍋の中身と同一の物であると気付いたマテアが顔をしかめるのを見て、アネサは口をへの字に曲げた。『なんだい、その不服そうな顔は! 貧血起こして倒れたって聞いたから、精のつきそうな物を持ってきてやったんだろうがね! 言っとくけど、この粥にはあんたが今まで食ってきた物より、ずっといい物が入ってるんだよ。 あんたがどんな物を口にしてたかなんて、そりゃ知らないけどね。でも今のあんたを見りゃそれがロクでもない物だっていうのはわかるさ。 自分の姿を鏡で見たことがあるかい? 肌は真っ白だし、手足なんて棒っきれだ。そんなんで大の男の世話がこなせるわけないだろう』 じきに出発だ、さあさっさと食いな! レンジュが戻る前に出発の準備をするよ! マテアの方へさらに碗を突き出して、上から圧をかけてくる。だが人の体熱すら炎のように感じるマテアに、こんな熱い物が口に含めるはずがなかった。 たとえ冷めていたとしても食べることはできなかっただろう。碗の中身は奴隷商人の元にいたとき出された食事と同じで、生き物の苦悶と断末魔に満ちている。いくら空腹でも、マテアに口にできる代物ではない。 漂ってくる瘴気を受け入れられず、喉を詰まらせ、思わず口元をおおって顔をそむける。胃液ぐらいしか出るものはなかったが、これ以上近づけられたら本当に吐いてしまいそうだ。 しかしアネサはそんなマテアの態度を、わがままと受け止めた。 アネサのかんしゃくが落ちようとした、そのときだ。『かあさん! 一体どういうつもり!?』 仕切り布をがばりとめくり上げて、またもやユイナが飛び込んできた。 ただし今度のユイナは肩をいからせ、指先にまで怒気が満ちている。『レテルたちがあたしの方へやってきたわ。あたしの言うことをききなさいって、かあさんに指示されたって言ってね!
Last Updated: 2025-12-09
Chapter: 月の乙女と地上の兵士 8「どこにでも転がってる程度の情愛なら救いはある。失敗したと、膝についた土を払って、また進めばいい。 でも、そうじゃないだろ? おれは、あいつに苦しんでほしくないんだ」 よりにもよって、なんであんな厄介な女を欲しがったりしたんだ。隊にいる女の半分はあいつになにがしかの関心を持っていて、あいつの天幕に入り込むチャンスを欲しがってるっておまえも言ってたじゃないか。そういう女を選べよ。 ぶつぶつ、ぶつぶつ。 やりきれないとつぶやいていた不安が、ついにレンジュへの不満に行き着いたところでユイナはぷっと吹き出した。 ハリの丸まった背中に手をあて、身を寄せる。「馬鹿ね」 ハリの、細くて、柔らかくて、大好きな後ろ髪を指で弄ぶ。「あなた、本当は全然わかってないんでしょう、どれだけレンジュが魅力的な男性か。女たちの目に、どんなふうに映っているか。 今愛されてないのが何だというの? 心は変わるものだわ。 たとえ彼女が人でなかったとしても同じ。形のないものは、いくらでも変わることができるし、変えることもできるのよ。 大丈夫。レンジュなら、きっと彼女を射止めることができるわ」 まるで見てきたことのように言うユイナを、ハリは不思議な思いにかられて見つめた。 ユイナはハリを見上げている。そこにはたしかな愛情があった。愛されていることを確信し、その喜びに包まれる幸せに恭順している。 ハリは果実をついばむ鳥のように唇を触れあわせ、耳元に囁いた。「おまえも? あいつの天幕に、行ってみたいと思った?」 ユイナは少し身を離して考え込むそぶりをする。「そうね、興味はあったわね。 だってあなたたちったら、一人で天幕が持てるようになってからは、二人してあたしを閉め出したでしょう? それまではいつも中へ入れて遊んでくれたのに。 一体どっちがあんなに天幕内をいつもごみだらけにしていたのか、すごく知りたかったわ。 でももう知ったし、改善もできたから、いいわ」 くすくすくす。思い出し笑いをしながらふざけて肩
Last Updated: 2025-12-08
Chapter: 月の乙女と地上の兵士 7「どうしたの?」 はじめのうちは好きなだけさせておこうと思っていた。気にしないでいようと。 しかし気絶したルキシュを天幕に寝かしつけ、自分たちの天幕へ戻ってからもう随分経つというのに、座して以来じっと考え込んでいる姿に、ユイナの好奇心が負けた。 アバの葉を砂糖と湯で煮つめたお茶の入ったカップを手渡し、その横に座る。「随分深刻そうに考え込んでるじゃない。そんなの、てんであなたらしくないわよ」 つん、と人差し指で頬をつつく。 子供じみた、けれど親しみのこもつた仕草にハリは苦笑した。「レンジュのことだよ」「それはわかってたわ」 ハリとレンジュは隊にいる男たちの中でも特に仲がいいことで知られていた。 七年前、新兵として一緒に配属されてきた、いわば同期で、それ以来ずっとコンビを組み、生死を共にしてきているからだとみんな思っている。 入隊する前のことについて、語らない者たちは多い。兵士は入れ替わりが激しいこともあって、自然と過去は詮索しないのが暗黙のルールとなっていたからユイナもずっとそうだと思っていた。 だから本当は二人の仲はもっと昔、物心つくかつかないかのころからで、二人は幼なじみの間柄なのだということを、ユイナはハリと暮らすようになってから初めて聞かされた。 レンジュは戦場から遠い地に居を構えられるほど名と力を持った家の生まれで、ハリは彼の両親に仕える使用人の息子だった。常識で考えれば口をきくことも許されない身分差だったが、理解ある両親のもと、歳が近いということもあって友人として付き合うことを許されていた。 そして十五歳になったハリに戦地への出兵命令書が届いたとき。レンジュは自分も行くと志願したという。 貴族なのに? とユイナは疑問に思った。貴族であろうと出兵命令書は発行されるが、まず戦地に行く者はいない。兵士として不適格と判断される理由を選び、証明書を買い、承認されて免除されるのが普通だ。 不公平だがそういうものだ。世の中に公平なものなど存在しない。 だがレンジュはここにやって来た。 何の肩書きもない、ただの一兵卒と
Last Updated: 2025-12-07
Chapter: 月の乙女と地上の兵士 6 一度は観念した、大事には至らなかったことにほっと胸をなでおろしていたマテアの肩を、ぽんとユイナの手が叩く。『ありがとう、かばってくれて。 にしても、いやなやつよねー。あたし、昔っからあいつが大嫌い。すっこいドケチだし。すぐひとを天幕に連れこみたがるくせに、一度だって食べ物はおろか服も装飾品の一つもくれたことないんだから。真冬の夜の寒さをしのぐために利用する以外であいつの閨に入りたがる女なんか、ただの一人もいやしないわ。 女たちの間じゃ隊で一番の鼻つまみ者なの、知らないのかしら? きっと知らないわね、あれじゃ』 ぶつぶつ、ぶつぶつ。巨漢の姿が見えなくなっても、ユイナは不機嫌な顔でつぶやいていて、歩き出す気配は全くない。 彼女が口にしているのはあの巨漢のことだろう。たぶん。で、表情から、悪口であろうということは察することができるけれど、何を言っているのかは全くわからない。 きっかけは自分の腕がつかまれたことだった。だからマテアとしても彼女が何を口にしているか気にならなくはなかったのだが、訊く術がないこともわかっていたので、黙しているしかなかった。 やがて、うつむいて足元ばかり見ているマテアに気付いたユイナが、顔を上げてくれるよう、あわてて両手を振った。『ごめんね。ごめんなさい。あたしばっかり愚痴ったりして。あなたにこそ、いやな思いをさせてしまったのよね。 でも気にしなくていいわ。あなたがその輪をしてる限り、誰もあなたには手を出さないから。 どの隊でもそうだけど、この隊は特に厳しいの。他人の財産に手をつけたら片手を落とされるわ。二度目で両手、三度目は追放。 あいつにそんな勇気あるもんですか。だから安心して』『そーそー。ああ見えてけっこう小心者だからね、あいつは』 自分の銅輪を差したり、手首をちょん切る動作をしたり。身振り手振りで言いたいことを伝えていたユイナに同意する声が、唐突に間近から起きた。 いつの問に近付いていたのか、革衣をまとった青年がユイナの後ろに立っており、驚く彼女の肩に親しげに手を回す。『ハリ! この役立たず亭王!』
Last Updated: 2025-12-06
Chapter: 藤のある庭 10 私には、翠を救うことができなかった。 姉である華椰さんを愛していた翠。 弟である翠を愛していた華椰さん。 はたして翠が、庭の蔓薔薇の棘を抜いていたのだろうか? 崋椰さんのために。 異様なまでに手入れの行き届いた、膨大な数の薔薇だった。 そして、その身に群がる数千の棘。 摘み取るその手を傷つけないようにと、一体翠はどんな思いで削いでいたのだろうか……。 どんなささいなことで壊れるかも分からない、恐ろしい愛し方だった。 終わりの見えた、恐怖。 行き着く先のない、閉鎖された想い。 そんな翠の愛がどうして歪んだ愚かさだと言えるだろうか。なぜ私たちの信じる常識がすべてなのだと確信できる? それが正しいと、どうして……。 翌朝。 私は翠の元へは行かなかった。 そこにはもう翠はいないのだと、漠然と感じ取っていた。 あの日、あの嵐の夜に、翠の愛した華椰さんは逝ってしまった。 あのとき、その持てる精一杯の愛で翠を抱き締め、そして永遠にこの世から去っていったのだ。 翠はいない。 もう、きっと、どこにも。 華椰さんのいない世界など、翠には何の価値も見出せないものでしかないのだから、翠にとどまることなどできるわけがない。 のちに、親族のだれかの通報によって、駆けつけた警察の者があの屋敷で眠るように寄り添った2つの遺体を見付けたということを伝聞として聞いたけれど、私は、確認にも行かなかった。 あれは、翠ではない。 翠はいない。 そしてあの庭も、ただの藤の庭でしかなくなっている。 もうどこにも存在しないのだ。 あの空間は。 わずかに狂った、乱れた空間。 時間すらも押し黙る孤高さで、彼らのみが確立している世界だった。 まどろむ、かすかに酔いしれるがごとく、こことは違う世界……。 翠も華椰さんもいない今、だれ
Last Updated: 2025-12-01
Chapter: 藤のある庭 9「僕は死にたくなどない。けれど生きていけない! 華椰のいない場所でなど生きていけるものか! もういやだ! こんなこと、真っ平だ! 愛がなんだというんだ? 和明。なぜ僕を縛ろうとする、僕を追い詰める? 愛していると、なぜその言葉は僕をがんじがらめにからめ取ろうとするんだ。 なぜだ! なぜ僕は華椰を愛した? 彼女を失うこと、それだけが僕を殺す。殺してしまう。 いやだ、和明。 僕は死にたくなどない! なのに、僕は死ななくてはいけないんだ! 愛という感情が胸に重過ぎて、僕は呼吸すらできなくなる! 彼女は、その愛持て僕を僕に殺させる!」 「翠、落ち着いて――」 「和明、僕はどうすればいい!? 華椰が行ってしまう! 早く追いかけて、彼女をつかまえないと――」 死なせない! 私は必死になって、翠を壁に押しつけた。 この手を放したら、翠はきっと行ってしまう。 遠くへ、華椰さんが連れ去ってしまう。 それだけは許さない! 翠は、翠のために、翠を愛さなくてはいけないんだ。 私は翠を抑え込み、そして落ち着けと繰り返し叫んでいた。 恐れていた、結果。 翠は自らへの愛情が希薄過ぎる。 崋椰さんを愛しむ、『|翠《これ》』はただそれだけの器でしかないと……一体いつから思い込んだ!? 自身への愛すらも華椰さんのものなのだと、そんな破滅的な想いをどうやって抱え続けてきたのか……。 私の手は翠の手をすべり、その細い体を抱き込んで、私自身の体全体で翠を抑えつけていた。 翠は抵抗する。 彼を束縛しているものが私であると気付いている様子はなく、ただひたすら自身に触れているすべてに拒否を発して、悲鳴のようなものを上げて華椰さんへの拒絶を口にする。 愛情により。 私は、必死に、翠に繰り返していた。 私が愛してやると。 私を愛すればいい。 きみが、愛することしかできないなら、そんな想いしか持てないなら、すべて私にぶつけ
Last Updated: 2025-11-30
Chapter: 藤のある庭 8 そして恐るるべき日は6月上旬の日曜日。 その日は朝から激しい雷雨で、だれも外へ出かけようとしなかった。 窓を打ちつける雨音による苛立ちをまぎらわせるためだけにつけていたラジオは、それでも夕方の6時を過ぎてからの雷鳴には到底打ち勝つことができず。 私は、忌々しさでカーテンを引き締めた。 このときの私は、抑え切れない投げ遣りな思いにささくれ立っていた。 まるで余裕のない、そのくせモヤモヤとしたどうにもならない感覚で占められた胸にイライラが募り、何かを壊したくて、傷つけたくて、たまらない衝動に何度も襲われる。 そんな自分に腹が立ち、そのままカーテンへと突っ伏した私は、そんな感情の嵐をすべて吹き飛ばす驚きに自らの目すら疑ってしまった。 そこには、向かいの壁に背を預けて、2階の私の自室を見上げている人影があった。 ――翠! 私は直感的にそう思うと、窓を両手でたたいていた。 積もった汚れを洗い流すどころじゃない、地にたたきつけてなお深く減り込ませるほどに降る土砂降りの、その中を翠は私の元へやってきたのだ。 傘もささずに。 もう、忘れて久しい翠の姿だった。 そのくせすがりつきたいほどに懐かしさで胸を締め付ける、親友だった。「翠!!」 窓越しに名を呼ぶと、その声が聞こえたように人影が動き――目が合った気がした。 直後、階下へ飛ぶように駆け下りて、そのまま玄関から飛び出す。 はたしてそこにいたのはやはり翠だった。 初夏の雨にずぶ濡れに濡れて、震えている。 背を丸め、いつからそうしていたのか、血の気を失った肌色をして、おびえた目で自らを抱き締める姿はとてもただごとではない。 今にもその場に泣き崩れてしまいそうな、そんな風情だった。 こんな翠はかつて見たことがない。 翠は完全に自分というものを見失い、狼狽していた。 その頬を伝う幾筋もの流れは雨なのか、それとも涙なのか。判別がつかなかったが、私は、涙だと
Last Updated: 2025-11-29
Chapter: 藤のある庭 7「翠!?」「華椰を放ってはおけない。 学校へ通うことが、華椰と2人だけで暮らすことに対する叔父たちからの条件だったが……教室にいてもずっと華椰が心配で、もし僕のいない間に倒れていたらと思うと、教育というものがひどく憎く思えてくるんだ。教師も、校舎も、そこに通ううっとうしい者たちも。 華椰はまともに教育を受けたことがないんだ。あの病気では、大勢の人との生活は無理だから。 でも、何の支障もきたしてないだろう? 生きることに教育など必要としない。学校などわずらわしいだけだ。 これは華椰の頼みでもあったんだけれど……もう、限界だ」 そうして私に向け、その優美な面を寄せ、ささやいた。「僕はもうじき死ぬのさ。前に言ったとおりにね」 「翠……」 「ただ、和明。きみと会えなくなるのは、少し残念だね。華椰も僕の話すきみを気に入ってたみたいだし、とても残念なんだけれど。 ああでも和明、僕も、きみをわりと気に入っていたよ」 ささやく。 かすかに。 そしてゆっくりと近付いた面は、わずかに傾き。 柵ごしに、その唇を私によせた。 唇同士が触れ合う。 不思議と、気持ち悪いという思いはなかった。 ほんの瞬間的なものだったし(少なくとも私にはそう感じられる短さだった)、この幻想的な庭では、それが異常な出来事とは到底思えなかったのだ。 ここは翠の庭。 翠の思いのみの……それは間違いなく私の属している世界とは全く異質の、隔絶した空間であるのだ。 そして、ひどく距離を感じながらもその実薄幕のみで遮られているような、そんな不安定さで胸の詰まる、もろい空間。 私は、そんな場所があるという事実に恐怖しながらも、惹かれる心をどうしても否定し切れず、食い入るように翠を見つめていた。「じゃ、ね、和明。 華椰に僕の嘘だと言わなかったね。それだけは、礼を言うよ。 最後の最後で僕を失望させないでいてくれて、ありがとう」 翠は庭を真っ直に駆けて
Last Updated: 2025-11-28
Chapter: 藤のある庭 6 なぜか翠が現われたとき、私はとてもひどい罪悪感を感じてしまった。 それまで何とも思われなかった今日の訪問が、それは決して、してはいけないことだったのだと今さらのように気付いた、いたたまれない思いで私は痛切に翠に対して心の中で必死に謝罪の思いを投げかけていた。 なぜなのかは分からない。 ただ、切羽詰まった苦しさで、翠に永遠に許してもらえない罪を犯してしまった気がしていて、ひたすら心の中で哀願していたのだ。 翠、怒るなと。 はたして翠は私を見つけて、これ以上はないというほどの敵意と殺意のこもった目で、ひとかけらの慈悲もなく見つめた。「……華椰。 もう入ったほうがよいよ。また発作を起こしたなら、今度こそ、僕は知らないよ。もうきみのためになど、何ひとつしてあげないからね」 再び女性に向き直った翠は、素っ気ない声でそんなことを口にしながらも、とてもいたわりを込めて、持ってきた上着を女性の肩にはおらせた。「ええ、翠良くってよ。そうしたならきっと私はあっさりと死んでしまうのでしょうから。 それもいいけれど、でも、やはり、1人はいやだものね。死ぬのも、残されるのも。 ええ、翠。もう入るわ」 ふざけたように言って、翠の頬をさらりとなでたあと、私に会釈をして、女性は扉のほうへ小走りに駆けた。「走らないで!」 翠がそう言う間にもその女性は扉をくぐり、屋敷の内へと姿を消してしまい……そうしてここには私と翠だけが残ったのだった。 とてもいやな空気だった。 棘を立てた翠。 苛立ち、忌々しげに私を見据える。 私に、自分自身で、己のした行為の愚かさを思い知れと。「あの……、翠。あのひと……きみの妹さん?」 私はそんな翠を恐れ、少しでもいつもの彼に戻そうと、口を開いた。「とてもきれいだね。発作とか言ってたけど、どこか悪いのかい?」 対し、翠は静かに私を怯えさせた。「なぜ、来た」
Last Updated: 2025-11-27
Chapter: 藤のある庭 5 そこには、1人の女性がいた。 翠となんらかの関係があることは、庭にいる姿を見なくとも分かったことだ。 たとえ町ですれ違うだけだったとしても、たとえ気付かない者がいたとしても、翠をだれよりも近くで見ていた私なら分かる。 それほどの微妙さで、翠ととてもよく似た|女性《ひと》だった。 あいにくと女性のいたのは街角などではなく、翠の家の庭園でだったのだけれど。 その女性は、かすかに歌を口ずさみながら、蔓薔薇の垣根の前で舞っていた。 2分程度に咲いた、花も初めの藤の庭。 その色を補うように植えられたらしい蔓薔薇は満開している。そして、女性の手を痛めないようにという配慮からか、垣根の間を縫うように走っている小路は、絶妙に手入れが行き届いていた。 行き過ぎなのではないかと思えるくらいに。 家屋は西洋の造りで、屋敷と呼べるほどに大きく、巨圧感がした。 ただ、|静謐《せいひつ》という言葉ですらどうしてもごまかせない、寂しさのようなものがあるのがどこかひっかかる、そんな豪邸だった。「あなた」 女性は真鍮の柵越しに見惚れていた私に気付くと、無邪気にそう言って近付いてきた。「どうかしたの? この家に何かご用事?」 私はといえば、すっかり緊張していて、すぐに言葉を返せなかった。 今考えればあまりにも愚かで恥ずかしく。 だが実際、このときのこの女性の美しさは、翠にかなわないまでもあやしく、優艶であったのだ。 薄紅の夕焼けの空一面に広がる、軽く、結いまとめた髪。 すべての棘を取り払われている薔薇の花束を右手に、先まで摘んでいた薔薇の枝を左手に、その女性は私へと顔を寄せた。「……あの、僕、は……」 「ああ! あなた、翠惟のお友達ね? そうでしょう? 和明さん。そうね? ね、そうでなくては許さないわよ。この屋敷しかない、こんな路地の奥まで来ては。 あなたが和明さんなのね。翠惟のお友達の」 早口にそうまくし立てると、きゃらきゃらと子ど
Last Updated: 2025-11-26
Chapter: 第10回 美都子が案内した場所は、廃校舎の裏庭だった。 廃校舎の影に入っていて薄暗いそこはゴミ捨て場で、頑丈な鉄製の焼却炉が隅に置いてある。ゴミを上から放り込み、焼けたあと、下の口から灰を火かき棒でかき出すという古い型の物だ。赤サビが全体を覆うほど浮いて、煙突部分のアルミが途中でへし折れてしまっているが、交換してサビを落とせばまだ十分使えそうに見えた。「あれか」「……う、ん……」 なんとも歯切れの悪い声だ。「外から校舎を撮ってるときに気付いたんだけど、そのときもなんか、嫌だなーって感じてて。雰囲気? なんか、そういうの。 それから英一を捜してるときにここへ来たら、それがもっと強くなってたの。今も、これ以上近づきたくない。でも、もしかしたら……」「あそこに弟がいるかもしれないと思うのか?」 その問いに、美都子はびくっと、目に見えて分かるほど大きく両肩を震わせた。「分かんない」 無意識といった様子で背中を丸め、両方の二の腕をさすり始める。「そうじゃないって、確認してほしくて……」 じっと焼却炉を見つめ続ける美都子を見下ろして、政秀は「分かった」と焼却炉へ歩み寄った。 何の変哲もない、ただの焼却炉だ。(だが、確かに) 見るからに重そうな赤い鉄のドアの取っ手に両手をかけ、一気に引き開く。中を覗き込み、ついで下の、たまった灰をかき出すための小窓を開く。傍らに落ちていた火かき棒を使って政秀は中の灰をかき出して、灰の山が平たくなるまで広げた。 やがて、灰の中からひとつまみ、何かを取り出す。「……何? それ、まさか……?」「いや。子どもの骨じゃない」 指でもてあそんでいた、親指の先ほどの白い何かを尻ポケットにしまって、政秀はもう一度炉の中を覗き込んで中を確認してから赤いドアを閉じた。 美都子の元へ戻ると、彼女は見るからに安堵した
Last Updated: 2025-11-18
Chapter: 第9回 川原 マサオは、それまでの3人とは少し違った消え方をした。 迎えを待って他の子どもたちと校庭で遊んでいて、気が付いたらいなくなっていたのだ。 他の子どもたちはサッカーボールの奪い合いに夢中で足元ばかり見ていて、ゴールを守っていたマサオを視界に入れている者はおらず、女教師は子どもたちが一緒に遊んでいるのだからと思い、教員室でその日行ったテストの答案用紙の採点を行っていた。 先の3人と違ってマサオは校内で消えたことから、彼らはまず校内を捜索した。 ここで事態は急展開を迎える。 外で行方不明になったと思われていた3人の少女の遺体が、校内で発見されたのだ。 場所は、階段下の掃除道具入れ(物置)だった。そこの奥の壁の1枚が外れるようになっており、そこから校舎の床下へもぐれるようになっていた。 マサオの捜索中、物置をのぞいた女教師が腐りかけた肉のようなにおいを嗅ぎ取り、最近奥の壁板を外した形跡があることに気付いて不審に思い開けると、懐中電灯の光に浮かび上がったのは、腐乱したミツ、ヨシ江、ヨネの遺体だった。 まるで昼寝をしているかのように横たわったその3人の遺体の首には、大人の指で絞められた痕跡がくっきりと残っていた。 犯人は、その夜現場に戻ってきたところを張り込んでいた警察官によって逮捕された。山の反対側に最近建てられた、篠津西保養院(精神病院)の患者で、村上 浩一という55歳の男だった。『ここはもともと軽い疾患の人を短期入院させるための療養所なんです。その中でも彼はおとなしくて、行儀のいい人でした。言っていることもそんなにおかしくはないし、こちらの言うこともよく聞いて、同じ入院患者の世話をみることもたびたびあって。一見、そういった病気の人とは分からないように見えていました』 保養院で働いていた者たちは彼が逮捕されたと聞いて大変驚き、一様にそう語った。『こんなことをしでかす人には見えなかった』 と。 それは、彼を預かる側であった責任をどうにか回避しようという考えもあったのかもしれかなったが。 マ
Last Updated: 2025-11-17
Chapter: 第8回「あたしのせいなの……」 階段の一番下の段に腰を下ろし、両膝を抱き込んで、ゆらゆらと体を揺らしながら美都子は話し始めた。「あたしが、面倒がらずにちゃんと英一と一緒にいたら、こんなことにはきっとならなかった……」「そんなことないわ、美っちゃん」 隣に座った加奈子が手を伸ばしてなぐさめようとしたが、美都子はその手を拒否した。「そうなの! あたしは、あの子のこと邪魔だと考えてたの! すぐピーピー泣くし、口を開けば帰ろう帰ろうって、同じことばっかりぐちぐち言うし、歩くのも遅いし。 もううんざりだった! だからあのとき、加奈子に押しつけて、1人になったの! あの子から離れて、1人になりたかったの……」「……うん。気付いてた」 嫌がる美都子を、それでも強引に引き寄せて、その頭を抱き込む。「なかなか戻ってこないんだもの。そんなに大きな場所じゃないのに、美っちゃん、どうしたのかな? って思って、もしかしてそうなのかな、って」 美都子は電池が切れたように加奈子にもたれたまま、すーっと息を吸い込んだ。「ごめん、加奈子……」「ううん。もしそうなら、いいなって思ってた。あのときの美っちゃん、わたしから見てもちょっと怖かったし、すごく気持ちに余裕がなさそそうに見えてたから。ちょっと離れたほうが美っちゃんのためにもなるって思ったの。わたしは英ちゃんといるの、全然なんともなかったし」「でもあたしは……っ、あのあとも、あたしは――……?」 突然脳裏にひらめいた光景に、美都子は心を奪われた。 ほんの一瞬だったが、それは強烈な衝撃でもって美都子の頭を揺さぶった。 暗い夜の山の中、ナタを持った手で前をふさぐ茂みをかき分けながら走っている自分。ぼろぼろ泣いてえづきながら、ガチガチ鳴る歯の奥で、英一と加奈子の名をくり返し呼
Last Updated: 2025-11-16
Chapter: 第7回 そんなはずない、としびれて真っ白になった頭のどこかが必死に言葉をつなげようとする。(そんなはず、ない……だって、今日はもう……聞いたじゃない……、彼が、車に……乗って、やって来た、ときに……) 少しずつ、少しずつ。情景が浮かんできて、言葉が浮かび、のろのろとではあったが頭が回り始める。 それと同時に「美都子!」と名を呼ぶ政秀の鋭い声も聞こえだした。「動け! 美都子! さっさと立て! まだ目が覚めないのか!」 政秀のほおをはたくような声で、はっと正気づいた美都子は、いつの間にか俯いてしまっていたことに気付いて面を上げる。 とたん、強い赤光が目を射た。 水平線に沈んだはずの太陽が、まだ水平線の上にある。 藍色の空は遠ざかり、明と暗の濃い色が複雑に溶け合った、夕方の空が頭上を覆っていた。 時間が逆回転したとでもいうのだろうか? あり得ない。そんなこと、絶対に起こり得ないはずなのに……その起こり得ないことが、今起きていた。「……どういうこと……?」 知らず知らずに言葉が口をついていた。しかし次の瞬間、夕日に照らされた2階の人影たちの、一番奥の端にいる小さな人物の姿が目に入って、美都子は飛び跳ねるように立ち上がるやいなや、廃校舎に向かって全速力で走った。「えいいちぃーーーっっ!!」「美都子、行くな! ――くそッ」 自分の声が全く耳に入っていないと悟るや政秀は加奈子から手を放して美都子を追った。後ろからTシャツをつかんで引き戻し、それ以上行かせまいとする。「放して! 邪魔しないでよ、英一があそこに――」「ばか! よく見ろ!」「見てるって! おじさんこそちゃんと見てよ! あそ
Last Updated: 2025-11-15
Chapter: 第6回 話に出た平屋へ向かうため、政秀は外へ出た。 時刻は午後6時。真夏の強い落日が水平線近くの空をえんじ色に燃え上がらせている。対比して、頭上の空は藍色の濃さを増し、星のまたたきが強まっていた。 太陽は、これから沈む一方だ。そろそろ懐中電灯が必要な暗さかと政秀は思ったが、まだ大丈夫だろうと思い直し、校庭の端に設置されている、|件《くだん》の平屋へ向かって歩き出す。「行ったって、英一はいないよ? もう何度も見たもん」「俺はまだ見ていない」 美都子を見下ろして「おまえはついて来なくてもいいんだぞ」と言うと、美都子は「もーっ! 意地悪!」と両手を振り上げて怒る動作をした。 平屋の引き戸は開いたままだった。大方美都子が英一を捜しに来たとき、開けっぱなしのままで閉めなかったのだろう。作業員の手が入っている様子はない。 作業員は会社が下の資材置き場に設置した簡易トイレを使うはずだから、ここに来たのは英一、美都子、加奈子の3人だけだ。「ついてるな」「え? 何が? ついてる?」 きょろきょろと自分の体を点検する美都子はほうっておいて、政秀は担いでいたスポーツバッグを地面に下ろし、チャックを引き開けた。中から5枚の紙札と紐付きの小さなベル型の鈴(手鈴)を取り出す。「これ何? 何て書いてあるの?」 ひょいと脇から伸ばされた手につかまれる前に、政秀はそれを美都子の手の届かない高さに持ち上げた。「だめだ、触るんじゃない」「ケチっ。いいじゃん、ちょっとぐらい触らせてくれたって。減るもんじゃなし!」「おまえは破きかねない」「しないよ!」 ぷーっとほおをふくらませる美都子と、またもや彼女をとりなす加奈子。2人の前で、政秀は平屋の前に片膝をつくと、その紙札――符を、平屋の開いたままの戸口に放射状の円形になるように並べて置いた。 おもむろに政秀の指が下を向いて開かれた。するりと紐付きの鈴が指を伝い下りて、チリン、と小さな軽い音を鳴らす。「えー、なになに
Last Updated: 2025-11-14
Chapter: 第5回「こっちです」 言葉で説明するより見てもらったほうが早い。加奈子は案内するように先に立って歩き出し、政秀は黙って後ろに従った。 ドアのない正面玄関を入ると、がらんとした空間がある。床の変色具合からしておそらく靴箱があったのだろうが、今はなかった。作業員によって運び出され、解体されたに違いない。ほとんどが作業員のものだと推察できる、大人の靴跡だらけの木でできた長い廊下が正面にあり、右側に横並びで3部屋あった。一番奥の突き当たりにあるのが階段だろう。 外から眺めた時点で分かっていたが、この2階建て校舎は部屋数が少ない。建てられた当時18人しか生徒はいなかったのだから、それを鑑みればむしろこれでも多いほうなのだろう。引き戸の上に室名札、廊下の壁に掲示板と、内装は学校だが構造的には民宿に近い。 1階にあるのは教員室、食堂、文芸・工作室。それらの前を通って廊下を進む。大きな窓からそれぞれの室内が覗けた。窓は格子状のすりガラスが嵌まっていたが、どれも経年で変色し、割れるか、ひびが入っている。中の様子は外観から想像していたとおり、廃墟のそれだった。 漂う空気はほこり臭く、かすかにカビ臭い。木製の壁、天井、全てが風雨に浸食されて黒ずみ、割れた窓から入った土とそこから生えた雑草だらけの床に、剥がれた天井板の一部が垂れ下がっている。 机、椅子、棚などといった物がなく、がらんどうの部屋の中央に砕けた一部の木片があるだけなのはいささか不自然に見えたが、おそらくそういった大物はすでに作業員が運び出したあとなのだろう。 廊下も同じで、政秀が足を乗せ、体重をかけるたびにぎしぎしときしみ音をたてる。老朽化がかなり進んでいて、場所によっては真っ黒に腐ってへこんでおり、踏み抜きそうなほど沈み込む所もあった。「こっちだってば! 早く早く!」 政秀と違って何度もここへ入っている美都子には、廃校舎内のそういった一切はもう関心の|埒《らち》外なのだろう。周囲に目を配りながらゆっくり歩く政秀には付き合えないというように横をすり抜けて前へ出、軽やかな足取りで後ろを振り返って彼を急かしてくる。「おじさんはやっぱり、歩きが遅いなー」「おじさん
Last Updated: 2025-11-13