Chapter: 月の乙女は魂をとり戻す。永遠に 6 愛されなくてもいいなんて、嘘だ。 そばにいるだけでいいなんて、きれいごと。いつだって、愛されることを望んでいた。 おれを愛してくれ。 おれだけを見てくれ。 おれがきみだけのために生まれてきたように、きみが、おれだけのために生まれてきたのだったらよかったのに……。「……い、やあああああああああーーーーーーーーっ!!」 永遠と思えるほど引き延ばされた一瞬。 マテアは絶叫し、レンジュの元へ走った。 地に横倒れとなった彼の身を起こし、仰向ける。固く目を閉じたレンジュに意識はすでにない。 刃を刺したままでは死ぬのに時間がかかる。それをよく知っているレンジュは刺した瞬間刃を横に引きながら抜きとっていて、傷口からはどくどくと音をたてて大量の血があふれ出ていた。「いや……いやよ、レンジュ……」 マテアは震える両手を傷口にあて、血をなんとかして押し戻そうとする。己を染めていくレンジュの血という現実に、全身が痺れた。 外界を知覚する、あらゆる感覚がその機能を麻痺させ、真っ暗な闇に頭から飲まれていくようだった。 強すぎる動悸は、反対に心臓そのものがなくなってしまったような静寂と空洞を作り出す。 がちがちと奥歯が鳴り、涙があふれて視界がぼやけた。現実であると認めたくないあまり、気が遠くなりかける。「いや……。 おねがい、目を開けて……死なないで……」 本当は、わかっていた。レンジュを殺せないのは、自分の身勝手で他者の命を奪つことが許せないばかりではないこと。それを、恰好の口実にしていた。 認めたくなかったのだ、彼に意かれていることを。 自分が愛しているのはラヤだと、必死に思いこもうとした。 彼をサナンに奪われたくなくて、その一心で禁忌を犯してまで地上界
Terakhir Diperbarui: 2026-01-15
Chapter: 月の乙女は魂をとり戻す。永遠に 5 ラヤは嘘をつかない。 彼の言葉にも気持ちにも偽りはなく、きっと彼はその言葉通り、いつもマテアのそばにいてくれるだろう。彼の心のように透明で輝かしい<|魂《リアフ》>でマテアを包み、マテアの心が常に穏やかであるよう尽くしてくれるに違いない。「帰りたい」 ぽつり。言葉が口をついた。「帰りたいわ、ラヤ。ずっとそう思ってた。月光界に帰りたい、って」 皆のいる、あの草原に。地上界も、レンジュも知らなかった、あの穏やかな暮らしに……。「そうだね。帰ろう。今すぐつれて帰ってあげる」 ふわりとラヤが宙に浮かび上がる。 さあきみもと、促すようにマテアに手を差し伸べたそのとき。マテアは背後に人の気配を感じて振り返った。 そこにいたのは、眠っているはずのレンジュだった。いつからそうしていたのか、天幕の入り口の柱に手をついて、じっとこちらをうかがっている。 峠を越えたとはいえ熱は下がりきっていないし、菌が完全に消滅したわけでもない。これで体力が落ちれば再び繁殖をはじめてその猛威を奮うだろうし、外の風にあたって別の菌に感染するということも十分あり得る。 傷口自体、うっすらと膜が張っただけで、少し衝撃を加えれば、ぱっくりとまた口を開けてしまうだろう。 そんな体で立って歩いたと知って、マテアの顔から一気に血の気がひいた。「レンジュ! だめよ、天幕の中へ戻って!」 ラヤの誘導に従って差し出していた手を引き戻して、レンジュに正面を向く。 レンジュの手に、銀の刃のきらめきを見たのはその刹那だった。『ルキシュ……。なぜかな。正気をとり戻して以来、きみの苦しげな心の声が響いてくるんだ。 きみがおれの中に入った<|魂《リアフ》>とやらをとり戻そうとしてやってきたということも、それができなくて悲しんでいることも……』 きみは、優しい人だから。命が失われることの意味を、誰よりもよく知ってるから。「ああレ
Terakhir Diperbarui: 2026-01-14
Chapter: 月の乙女は魂をとり戻す。永遠に 4 後半、温かみに欠けた厳しい声音や、非難するような視線がちくちくと肌を差し、どうにもいたたまれなくなって、逃げ出すようにマテアは岩場を後にした。 気付かれない程度にそっと顧みると、ユイナの想い人は先までと変わらない場で立ちつくしている。 いやな予感が胸で渦巻いていた。 彼が話していたのは、レンジュに関してのことだ。とても真剣な、こわい眼差しで、それでいて淋しげな話し方だった。 レンジュに、何かあったのだろうか。 そう思うと急にこわくなって、ぴたりと足が止まり、前へ進めなくなる。今行こうと後から行こうと結果は同じで、ただ知るのが早いか遅いかだけの違いでしかないというのに、逃げ出したいほど膝が震えた。 このとき、もしユイナが通りかからず、『ルキシュ! やっとみつけた!』 と、呼びかけてくれなかったなら、マテアはいつまでもそこに立ち尽くしていただろう。 袖を引かれる形で天幕へ戻ったマテアは、うっすらと目を開けて自分を見ているレンジュを見て、うっと喉を詰まらせた。じんわりと目尻が熱くなり、目が潤むのが自分でもわかる。 レンジュの目は、今度こそマテアを見ていた。『やあ……』 枕元へ膝をつき、彼が自分を見ようとするあまり気道をふさぐことのないよう、真上から覗きこんだマテアを見て、かすれた声でレンジュは小さく咳く。『無事、だったんだね……』 指一本動かすのも辛いだろうに、よかったと、自分のために笑みを作るレンジュの気持ちが素直に胸に響いて、マテアは目をつぶった。 ぽろりとこぼれた涙が、レンジュの胸にあたって弾ける。 死の淵から戻ってきたばかりで意識が完全に機能していないのか、涙をぬぐおうとマテアの頬に触れかけた手を、横からユイナが掴みとめた。『ね? 言った通り、彼女は無事だったでしょう? さあもういいわね。峠を越えたとはいえ、まだしばらくは病人なんだから、もう寝なさい』 母親のように言って、彼の手をさっさと上掛けの下に押しこむ彼女に
Terakhir Diperbarui: 2026-01-13
Chapter: 月の乙女は魂をとり戻す。永遠に 3どこへ行くともなく、マテアは歩いた。 体が借り物のように感じられ、ふらついて、足がもつれそうになる。転ばないようにと、そればかりに気を配って歩いていると、一度掘り返された後、再び埋められて盛り土になったようなものがいくつもある、変な場所に出た。(なにかしら、これ……) もっと近寄ってよく見てみようと一歩踏み出して、土のにおいに混じって嗅ぎとった死臭に足が凍りつく。 整然と並んだそれらの一番前に、花が飾られていた。その陰に隠れるように、少量の食べ物と水の入った容器。 突如、レンジュの姿が重なる。「ああーあ……」 マテアはじりじりと後ずさり、踵を返すや脱兎のごとく走り出した。 はらはらと涙がこぼれた。レンジュのところでもひとしきり泣いて、ぬぐわないでいたたため、頬がひりひりと痛む。一度息を吸いこみ、ぐっと腹に力を入れて止めるとおさまるかに見えたが、立ち止まった途端、またも熱いものがこみあげて、鼻の奥がツンとした。 西に傾いた月を見上げ、顔面を覆う。 声は出なかった。出ると思って開けた口からもれたのは、ちぎれるような息だった。 もしかすると、本当に泣きたいとき、声は失われるのかもしれない。 もう、何も考えることはできなかった。心臓も、臓腑も、何もかも、自分の内側がごっそりえぐり出されてしまったような、誕生して以来一度たりと感じたことのない、巨大な喪失感が、マテアを襲っていた……。『やあ。ここにいたんだ』 岩場で、一人ぽつんと膝を抱いて月を見上げていたマテアは、声に反応して振り向く。そこにいたのはハリで、マテアが自分に気付いたのを確認した彼は岩場まで歩を進め、同じように膝を抱きこんでその場に座った。 ここにきたということは、自分に何か用があるのだろう。 痺れた頭の隅でぼんやりとそう思って、出方を待つ彼女に向け、ハリは愛想笑いを浮かべようとし、うまくいかなかったのをごまかすように頭をか
Terakhir Diperbarui: 2026-01-12
Chapter: 月の乙女は魂をとり戻す。永遠に 2 差し出された手に握られていたのは、いつかの夜、なくしてしまった腰帯だった。 それがなぜここに? どうしてユイナが持っていたの? 持っていたとすれば、それはあの場にいたレンジュであるはず。 ユイナはきっと、レンジュから預かっただけなのだろう。これからはかすかにレンジュのにおいがするから……。 では彼はもしかして、あれからずっとこれを持っていてくれたというの? においが移るくらい、ずっとそばで? どきん、と胸が鳴る。 自分の物が長く彼とともにあったと思うと、気恥ずかしさがこみ上げた。 差し出されるまま受けとった瞬間、ちりっと熱い、痺れるような痛みが指先に走る。裏を返してみて、そこに走った裂け目とにじんだ血の跡を目にした瞬間、ぎゅっと胸が縮んだ。 これはレンジュの血だ。 直感した瞬間、マテアは見えない何かに背を突かれたように走り出していた。 ああ、なぜ今まで思いつかなかったのだろう。レンジュは、あんなにも不義者であったわたしでも、命賭けて助けにきてくれる優しいひと。無事保護されたからと、一度も顔を見せないようなひとではない。 そして、先からの背筋を伝う冷や汗や、指先が痺れるほどの不安感。 レンジュに何かあったに違いないのに! はたして予感は的中していた。 焼け残った資材や盗賊からとり戻した荷物などで作られた天幕の群れの中に一際おそろしさを感じる天幕があって、吸いよせられたように入り口をくぐる。大きめのランプを用いて照らされた内側では、すっかり血の気をなくし、敷物の上でぐったりと横になったレンジュの姿があった。 医師らしき男が脇腹にあてていた布をはがし、薬剤を塗布したものととりかえ、少女が枕元で額に浮き出る汗をぬぐっている。 己を冒し続ける苦痛にわずかばかり歪んだ面。呼吸は浅く、ごくたまに眉端がぴくりと反応する以外、なんの動きもない。 死んだように横たわるレンジュの姿を容易には受け入れることができず、マテアは天幕の入
Terakhir Diperbarui: 2026-01-11
Chapter: 月の乙女は魂をとり戻す。永遠に 1 夜明け近く、マテアは血痕を追ってきた隊の者によって発見された。 そのとき彼女は一人で、まるで彫像のように身じろぎせず雪の上に座していたという。 盗賊団首領・イルクの行方について訊いてみたが、もとより言葉の通じない彼女から何を聞き出せるわけもなく。知らせを受けて迎えにきたユイナに手を引かれて、隊まで連れ戻された。 不思議なことにイルクの物と思われる着衣一式が近くの雪上に落ちていたが、そこから立ち去った足跡はなく、このことに関して満足に説明できる者はいなかった。 ただし、衣服にはレンジュの報告通り左腹部に真新しい剣による裂け跡があり、大量の出血も雪上にみられることから、イルクの死はほぼ確定的とみられる。 それが、隊の出した結論だった。 ユイナに肩を抱かれて隊に帰りつくまでの記憶が、マテアにはなかった。 気付けば馬車の荷台に天幕を縫いあわせて作ったほろを被せただけの中に、毛布にくるまれて座っている。ふくらはぎの傷もあらためて手当てをされて、体中のすり傷に軟膏をぬりこまれていた。『ルキシュ、あなた本当に大丈夫なの? 顔色が悪いわ』 夕刻、食事を運んできたユイナが心配そうに覗きこみ、何度も訊いてきたけれど、とても疲れていて、応じる気になれなかった。 外界から隔離された荷馬車の中にいてもただよってくる、表の死臭に頭が重くふさがれ、ずっと気分が優れない。 外はずっと騒がしく、カラカラと車輪の回る音と、ざくざく土を掘る音があちこちでしていた。同じ調子でぶつぶつとつぶやき続ける長い声は、祈りのように思えて、マテアもそっと、いくつかの詩篇を口ずさんだ。 月光界に帰りたい……。 焼けつくように、そればかりを願う。 その思いはこれまでも常にマテアの中にあった。 心許せる友がいて。創世神リイアムとリオラムに仕え、その慈愛の光を受けながら祈りを捧げるだけで過ぎていた、平穏な日々。一喜一憂はあれど、自分で自分の心が把握できないほど乱れることはなかった。 ここへ来て、まだ
Terakhir Diperbarui: 2026-01-10
Chapter: 第10回 美都子が案内した場所は、廃校舎の裏庭だった。 廃校舎の影に入っていて薄暗いそこはゴミ捨て場で、頑丈な鉄製の焼却炉が隅に置いてある。ゴミを上から放り込み、焼けたあと、下の口から灰を火かき棒でかき出すという古い型の物だ。赤サビが全体を覆うほど浮いて、煙突部分のアルミが途中でへし折れてしまっているが、交換してサビを落とせばまだ十分使えそうに見えた。「あれか」「……う、ん……」 なんとも歯切れの悪い声だ。「外から校舎を撮ってるときに気付いたんだけど、そのときもなんか、嫌だなーって感じてて。雰囲気? なんか、そういうの。 それから英一を捜してるときにここへ来たら、それがもっと強くなってたの。今も、これ以上近づきたくない。でも、もしかしたら……」「あそこに弟がいるかもしれないと思うのか?」 その問いに、美都子はびくっと、目に見えて分かるほど大きく両肩を震わせた。「分かんない」 無意識といった様子で背中を丸め、両方の二の腕をさすり始める。「そうじゃないって、確認してほしくて……」 じっと焼却炉を見つめ続ける美都子を見下ろして、政秀は「分かった」と焼却炉へ歩み寄った。 何の変哲もない、ただの焼却炉だ。(だが、確かに) 見るからに重そうな赤い鉄のドアの取っ手に両手をかけ、一気に引き開く。中を覗き込み、ついで下の、たまった灰をかき出すための小窓を開く。傍らに落ちていた火かき棒を使って政秀は中の灰をかき出して、灰の山が平たくなるまで広げた。 やがて、灰の中からひとつまみ、何かを取り出す。「……何? それ、まさか……?」「いや。子どもの骨じゃない」 指でもてあそんでいた、親指の先ほどの白い何かを尻ポケットにしまって、政秀はもう一度炉の中を覗き込んで中を確認してから赤いドアを閉じた。 美都子の元へ戻ると、彼女は見るからに安堵した
Terakhir Diperbarui: 2025-11-18
Chapter: 第9回 川原 マサオは、それまでの3人とは少し違った消え方をした。 迎えを待って他の子どもたちと校庭で遊んでいて、気が付いたらいなくなっていたのだ。 他の子どもたちはサッカーボールの奪い合いに夢中で足元ばかり見ていて、ゴールを守っていたマサオを視界に入れている者はおらず、女教師は子どもたちが一緒に遊んでいるのだからと思い、教員室でその日行ったテストの答案用紙の採点を行っていた。 先の3人と違ってマサオは校内で消えたことから、彼らはまず校内を捜索した。 ここで事態は急展開を迎える。 外で行方不明になったと思われていた3人の少女の遺体が、校内で発見されたのだ。 場所は、階段下の掃除道具入れ(物置)だった。そこの奥の壁の1枚が外れるようになっており、そこから校舎の床下へもぐれるようになっていた。 マサオの捜索中、物置をのぞいた女教師が腐りかけた肉のようなにおいを嗅ぎ取り、最近奥の壁板を外した形跡があることに気付いて不審に思い開けると、懐中電灯の光に浮かび上がったのは、腐乱したミツ、ヨシ江、ヨネの遺体だった。 まるで昼寝をしているかのように横たわったその3人の遺体の首には、大人の指で絞められた痕跡がくっきりと残っていた。 犯人は、その夜現場に戻ってきたところを張り込んでいた警察官によって逮捕された。山の反対側に最近建てられた、篠津西保養院(精神病院)の患者で、村上 浩一という55歳の男だった。『ここはもともと軽い疾患の人を短期入院させるための療養所なんです。その中でも彼はおとなしくて、行儀のいい人でした。言っていることもそんなにおかしくはないし、こちらの言うこともよく聞いて、同じ入院患者の世話をみることもたびたびあって。一見、そういった病気の人とは分からないように見えていました』 保養院で働いていた者たちは彼が逮捕されたと聞いて大変驚き、一様にそう語った。『こんなことをしでかす人には見えなかった』 と。 それは、彼を預かる側であった責任をどうにか回避しようという考えもあったのかもしれかなったが。 マ
Terakhir Diperbarui: 2025-11-17
Chapter: 第8回「あたしのせいなの……」 階段の一番下の段に腰を下ろし、両膝を抱き込んで、ゆらゆらと体を揺らしながら美都子は話し始めた。「あたしが、面倒がらずにちゃんと英一と一緒にいたら、こんなことにはきっとならなかった……」「そんなことないわ、美っちゃん」 隣に座った加奈子が手を伸ばしてなぐさめようとしたが、美都子はその手を拒否した。「そうなの! あたしは、あの子のこと邪魔だと考えてたの! すぐピーピー泣くし、口を開けば帰ろう帰ろうって、同じことばっかりぐちぐち言うし、歩くのも遅いし。 もううんざりだった! だからあのとき、加奈子に押しつけて、1人になったの! あの子から離れて、1人になりたかったの……」「……うん。気付いてた」 嫌がる美都子を、それでも強引に引き寄せて、その頭を抱き込む。「なかなか戻ってこないんだもの。そんなに大きな場所じゃないのに、美っちゃん、どうしたのかな? って思って、もしかしてそうなのかな、って」 美都子は電池が切れたように加奈子にもたれたまま、すーっと息を吸い込んだ。「ごめん、加奈子……」「ううん。もしそうなら、いいなって思ってた。あのときの美っちゃん、わたしから見てもちょっと怖かったし、すごく気持ちに余裕がなさそそうに見えてたから。ちょっと離れたほうが美っちゃんのためにもなるって思ったの。わたしは英ちゃんといるの、全然なんともなかったし」「でもあたしは……っ、あのあとも、あたしは――……?」 突然脳裏にひらめいた光景に、美都子は心を奪われた。 ほんの一瞬だったが、それは強烈な衝撃でもって美都子の頭を揺さぶった。 暗い夜の山の中、ナタを持った手で前をふさぐ茂みをかき分けながら走っている自分。ぼろぼろ泣いてえづきながら、ガチガチ鳴る歯の奥で、英一と加奈子の名をくり返し呼
Terakhir Diperbarui: 2025-11-16
Chapter: 第7回 そんなはずない、としびれて真っ白になった頭のどこかが必死に言葉をつなげようとする。(そんなはず、ない……だって、今日はもう……聞いたじゃない……、彼が、車に……乗って、やって来た、ときに……) 少しずつ、少しずつ。情景が浮かんできて、言葉が浮かび、のろのろとではあったが頭が回り始める。 それと同時に「美都子!」と名を呼ぶ政秀の鋭い声も聞こえだした。「動け! 美都子! さっさと立て! まだ目が覚めないのか!」 政秀のほおをはたくような声で、はっと正気づいた美都子は、いつの間にか俯いてしまっていたことに気付いて面を上げる。 とたん、強い赤光が目を射た。 水平線に沈んだはずの太陽が、まだ水平線の上にある。 藍色の空は遠ざかり、明と暗の濃い色が複雑に溶け合った、夕方の空が頭上を覆っていた。 時間が逆回転したとでもいうのだろうか? あり得ない。そんなこと、絶対に起こり得ないはずなのに……その起こり得ないことが、今起きていた。「……どういうこと……?」 知らず知らずに言葉が口をついていた。しかし次の瞬間、夕日に照らされた2階の人影たちの、一番奥の端にいる小さな人物の姿が目に入って、美都子は飛び跳ねるように立ち上がるやいなや、廃校舎に向かって全速力で走った。「えいいちぃーーーっっ!!」「美都子、行くな! ――くそッ」 自分の声が全く耳に入っていないと悟るや政秀は加奈子から手を放して美都子を追った。後ろからTシャツをつかんで引き戻し、それ以上行かせまいとする。「放して! 邪魔しないでよ、英一があそこに――」「ばか! よく見ろ!」「見てるって! おじさんこそちゃんと見てよ! あそ
Terakhir Diperbarui: 2025-11-15
Chapter: 第6回 話に出た平屋へ向かうため、政秀は外へ出た。 時刻は午後6時。真夏の強い落日が水平線近くの空をえんじ色に燃え上がらせている。対比して、頭上の空は藍色の濃さを増し、星のまたたきが強まっていた。 太陽は、これから沈む一方だ。そろそろ懐中電灯が必要な暗さかと政秀は思ったが、まだ大丈夫だろうと思い直し、校庭の端に設置されている、|件《くだん》の平屋へ向かって歩き出す。「行ったって、英一はいないよ? もう何度も見たもん」「俺はまだ見ていない」 美都子を見下ろして「おまえはついて来なくてもいいんだぞ」と言うと、美都子は「もーっ! 意地悪!」と両手を振り上げて怒る動作をした。 平屋の引き戸は開いたままだった。大方美都子が英一を捜しに来たとき、開けっぱなしのままで閉めなかったのだろう。作業員の手が入っている様子はない。 作業員は会社が下の資材置き場に設置した簡易トイレを使うはずだから、ここに来たのは英一、美都子、加奈子の3人だけだ。「ついてるな」「え? 何が? ついてる?」 きょろきょろと自分の体を点検する美都子はほうっておいて、政秀は担いでいたスポーツバッグを地面に下ろし、チャックを引き開けた。中から5枚の紙札と紐付きの小さなベル型の鈴(手鈴)を取り出す。「これ何? 何て書いてあるの?」 ひょいと脇から伸ばされた手につかまれる前に、政秀はそれを美都子の手の届かない高さに持ち上げた。「だめだ、触るんじゃない」「ケチっ。いいじゃん、ちょっとぐらい触らせてくれたって。減るもんじゃなし!」「おまえは破きかねない」「しないよ!」 ぷーっとほおをふくらませる美都子と、またもや彼女をとりなす加奈子。2人の前で、政秀は平屋の前に片膝をつくと、その紙札――符を、平屋の開いたままの戸口に放射状の円形になるように並べて置いた。 おもむろに政秀の指が下を向いて開かれた。するりと紐付きの鈴が指を伝い下りて、チリン、と小さな軽い音を鳴らす。「えー、なになに
Terakhir Diperbarui: 2025-11-14
Chapter: 第5回「こっちです」 言葉で説明するより見てもらったほうが早い。加奈子は案内するように先に立って歩き出し、政秀は黙って後ろに従った。 ドアのない正面玄関を入ると、がらんとした空間がある。床の変色具合からしておそらく靴箱があったのだろうが、今はなかった。作業員によって運び出され、解体されたに違いない。ほとんどが作業員のものだと推察できる、大人の靴跡だらけの木でできた長い廊下が正面にあり、右側に横並びで3部屋あった。一番奥の突き当たりにあるのが階段だろう。 外から眺めた時点で分かっていたが、この2階建て校舎は部屋数が少ない。建てられた当時18人しか生徒はいなかったのだから、それを鑑みればむしろこれでも多いほうなのだろう。引き戸の上に室名札、廊下の壁に掲示板と、内装は学校だが構造的には民宿に近い。 1階にあるのは教員室、食堂、文芸・工作室。それらの前を通って廊下を進む。大きな窓からそれぞれの室内が覗けた。窓は格子状のすりガラスが嵌まっていたが、どれも経年で変色し、割れるか、ひびが入っている。中の様子は外観から想像していたとおり、廃墟のそれだった。 漂う空気はほこり臭く、かすかにカビ臭い。木製の壁、天井、全てが風雨に浸食されて黒ずみ、割れた窓から入った土とそこから生えた雑草だらけの床に、剥がれた天井板の一部が垂れ下がっている。 机、椅子、棚などといった物がなく、がらんどうの部屋の中央に砕けた一部の木片があるだけなのはいささか不自然に見えたが、おそらくそういった大物はすでに作業員が運び出したあとなのだろう。 廊下も同じで、政秀が足を乗せ、体重をかけるたびにぎしぎしときしみ音をたてる。老朽化がかなり進んでいて、場所によっては真っ黒に腐ってへこんでおり、踏み抜きそうなほど沈み込む所もあった。「こっちだってば! 早く早く!」 政秀と違って何度もここへ入っている美都子には、廃校舎内のそういった一切はもう関心の|埒《らち》外なのだろう。周囲に目を配りながらゆっくり歩く政秀には付き合えないというように横をすり抜けて前へ出、軽やかな足取りで後ろを振り返って彼を急かしてくる。「おじさんはやっぱり、歩きが遅いなー」「おじさん
Terakhir Diperbarui: 2025-11-13
Chapter: 藤のある庭 10 私には、翠を救うことができなかった。 姉である華椰さんを愛していた翠。 弟である翠を愛していた華椰さん。 はたして翠が、庭の蔓薔薇の棘を抜いていたのだろうか? 崋椰さんのために。 異様なまでに手入れの行き届いた、膨大な数の薔薇だった。 そして、その身に群がる数千の棘。 摘み取るその手を傷つけないようにと、一体翠はどんな思いで削いでいたのだろうか……。 どんなささいなことで壊れるかも分からない、恐ろしい愛し方だった。 終わりの見えた、恐怖。 行き着く先のない、閉鎖された想い。 そんな翠の愛がどうして歪んだ愚かさだと言えるだろうか。なぜ私たちの信じる常識がすべてなのだと確信できる? それが正しいと、どうして……。 翌朝。 私は翠の元へは行かなかった。 そこにはもう翠はいないのだと、漠然と感じ取っていた。 あの日、あの嵐の夜に、翠の愛した華椰さんは逝ってしまった。 あのとき、その持てる精一杯の愛で翠を抱き締め、そして永遠にこの世から去っていったのだ。 翠はいない。 もう、きっと、どこにも。 華椰さんのいない世界など、翠には何の価値も見出せないものでしかないのだから、翠にとどまることなどできるわけがない。 のちに、親族のだれかの通報によって、駆けつけた警察の者があの屋敷で眠るように寄り添った2つの遺体を見付けたということを伝聞として聞いたけれど、私は、確認にも行かなかった。 あれは、翠ではない。 翠はいない。 そしてあの庭も、ただの藤の庭でしかなくなっている。 もうどこにも存在しないのだ。 あの空間は。 わずかに狂った、乱れた空間。 時間すらも押し黙る孤高さで、彼らのみが確立している世界だった。 まどろむ、かすかに酔いしれるがごとく、こことは違う世界……。 翠も華椰さんもいない今、だれ
Terakhir Diperbarui: 2025-12-01
Chapter: 藤のある庭 9「僕は死にたくなどない。けれど生きていけない! 華椰のいない場所でなど生きていけるものか! もういやだ! こんなこと、真っ平だ! 愛がなんだというんだ? 和明。なぜ僕を縛ろうとする、僕を追い詰める? 愛していると、なぜその言葉は僕をがんじがらめにからめ取ろうとするんだ。 なぜだ! なぜ僕は華椰を愛した? 彼女を失うこと、それだけが僕を殺す。殺してしまう。 いやだ、和明。 僕は死にたくなどない! なのに、僕は死ななくてはいけないんだ! 愛という感情が胸に重過ぎて、僕は呼吸すらできなくなる! 彼女は、その愛持て僕を僕に殺させる!」 「翠、落ち着いて――」 「和明、僕はどうすればいい!? 華椰が行ってしまう! 早く追いかけて、彼女をつかまえないと――」 死なせない! 私は必死になって、翠を壁に押しつけた。 この手を放したら、翠はきっと行ってしまう。 遠くへ、華椰さんが連れ去ってしまう。 それだけは許さない! 翠は、翠のために、翠を愛さなくてはいけないんだ。 私は翠を抑え込み、そして落ち着けと繰り返し叫んでいた。 恐れていた、結果。 翠は自らへの愛情が希薄過ぎる。 崋椰さんを愛しむ、『|翠《これ》』はただそれだけの器でしかないと……一体いつから思い込んだ!? 自身への愛すらも華椰さんのものなのだと、そんな破滅的な想いをどうやって抱え続けてきたのか……。 私の手は翠の手をすべり、その細い体を抱き込んで、私自身の体全体で翠を抑えつけていた。 翠は抵抗する。 彼を束縛しているものが私であると気付いている様子はなく、ただひたすら自身に触れているすべてに拒否を発して、悲鳴のようなものを上げて華椰さんへの拒絶を口にする。 愛情により。 私は、必死に、翠に繰り返していた。 私が愛してやると。 私を愛すればいい。 きみが、愛することしかできないなら、そんな想いしか持てないなら、すべて私にぶつけ
Terakhir Diperbarui: 2025-11-30
Chapter: 藤のある庭 8 そして恐るるべき日は6月上旬の日曜日。 その日は朝から激しい雷雨で、だれも外へ出かけようとしなかった。 窓を打ちつける雨音による苛立ちをまぎらわせるためだけにつけていたラジオは、それでも夕方の6時を過ぎてからの雷鳴には到底打ち勝つことができず。 私は、忌々しさでカーテンを引き締めた。 このときの私は、抑え切れない投げ遣りな思いにささくれ立っていた。 まるで余裕のない、そのくせモヤモヤとしたどうにもならない感覚で占められた胸にイライラが募り、何かを壊したくて、傷つけたくて、たまらない衝動に何度も襲われる。 そんな自分に腹が立ち、そのままカーテンへと突っ伏した私は、そんな感情の嵐をすべて吹き飛ばす驚きに自らの目すら疑ってしまった。 そこには、向かいの壁に背を預けて、2階の私の自室を見上げている人影があった。 ――翠! 私は直感的にそう思うと、窓を両手でたたいていた。 積もった汚れを洗い流すどころじゃない、地にたたきつけてなお深く減り込ませるほどに降る土砂降りの、その中を翠は私の元へやってきたのだ。 傘もささずに。 もう、忘れて久しい翠の姿だった。 そのくせすがりつきたいほどに懐かしさで胸を締め付ける、親友だった。「翠!!」 窓越しに名を呼ぶと、その声が聞こえたように人影が動き――目が合った気がした。 直後、階下へ飛ぶように駆け下りて、そのまま玄関から飛び出す。 はたしてそこにいたのはやはり翠だった。 初夏の雨にずぶ濡れに濡れて、震えている。 背を丸め、いつからそうしていたのか、血の気を失った肌色をして、おびえた目で自らを抱き締める姿はとてもただごとではない。 今にもその場に泣き崩れてしまいそうな、そんな風情だった。 こんな翠はかつて見たことがない。 翠は完全に自分というものを見失い、狼狽していた。 その頬を伝う幾筋もの流れは雨なのか、それとも涙なのか。判別がつかなかったが、私は、涙だと
Terakhir Diperbarui: 2025-11-29
Chapter: 藤のある庭 7「翠!?」「華椰を放ってはおけない。 学校へ通うことが、華椰と2人だけで暮らすことに対する叔父たちからの条件だったが……教室にいてもずっと華椰が心配で、もし僕のいない間に倒れていたらと思うと、教育というものがひどく憎く思えてくるんだ。教師も、校舎も、そこに通ううっとうしい者たちも。 華椰はまともに教育を受けたことがないんだ。あの病気では、大勢の人との生活は無理だから。 でも、何の支障もきたしてないだろう? 生きることに教育など必要としない。学校などわずらわしいだけだ。 これは華椰の頼みでもあったんだけれど……もう、限界だ」 そうして私に向け、その優美な面を寄せ、ささやいた。「僕はもうじき死ぬのさ。前に言ったとおりにね」 「翠……」 「ただ、和明。きみと会えなくなるのは、少し残念だね。華椰も僕の話すきみを気に入ってたみたいだし、とても残念なんだけれど。 ああでも和明、僕も、きみをわりと気に入っていたよ」 ささやく。 かすかに。 そしてゆっくりと近付いた面は、わずかに傾き。 柵ごしに、その唇を私によせた。 唇同士が触れ合う。 不思議と、気持ち悪いという思いはなかった。 ほんの瞬間的なものだったし(少なくとも私にはそう感じられる短さだった)、この幻想的な庭では、それが異常な出来事とは到底思えなかったのだ。 ここは翠の庭。 翠の思いのみの……それは間違いなく私の属している世界とは全く異質の、隔絶した空間であるのだ。 そして、ひどく距離を感じながらもその実薄幕のみで遮られているような、そんな不安定さで胸の詰まる、もろい空間。 私は、そんな場所があるという事実に恐怖しながらも、惹かれる心をどうしても否定し切れず、食い入るように翠を見つめていた。「じゃ、ね、和明。 華椰に僕の嘘だと言わなかったね。それだけは、礼を言うよ。 最後の最後で僕を失望させないでいてくれて、ありがとう」 翠は庭を真っ直に駆けて
Terakhir Diperbarui: 2025-11-28
Chapter: 藤のある庭 6 なぜか翠が現われたとき、私はとてもひどい罪悪感を感じてしまった。 それまで何とも思われなかった今日の訪問が、それは決して、してはいけないことだったのだと今さらのように気付いた、いたたまれない思いで私は痛切に翠に対して心の中で必死に謝罪の思いを投げかけていた。 なぜなのかは分からない。 ただ、切羽詰まった苦しさで、翠に永遠に許してもらえない罪を犯してしまった気がしていて、ひたすら心の中で哀願していたのだ。 翠、怒るなと。 はたして翠は私を見つけて、これ以上はないというほどの敵意と殺意のこもった目で、ひとかけらの慈悲もなく見つめた。「……華椰。 もう入ったほうがよいよ。また発作を起こしたなら、今度こそ、僕は知らないよ。もうきみのためになど、何ひとつしてあげないからね」 再び女性に向き直った翠は、素っ気ない声でそんなことを口にしながらも、とてもいたわりを込めて、持ってきた上着を女性の肩にはおらせた。「ええ、翠良くってよ。そうしたならきっと私はあっさりと死んでしまうのでしょうから。 それもいいけれど、でも、やはり、1人はいやだものね。死ぬのも、残されるのも。 ええ、翠。もう入るわ」 ふざけたように言って、翠の頬をさらりとなでたあと、私に会釈をして、女性は扉のほうへ小走りに駆けた。「走らないで!」 翠がそう言う間にもその女性は扉をくぐり、屋敷の内へと姿を消してしまい……そうしてここには私と翠だけが残ったのだった。 とてもいやな空気だった。 棘を立てた翠。 苛立ち、忌々しげに私を見据える。 私に、自分自身で、己のした行為の愚かさを思い知れと。「あの……、翠。あのひと……きみの妹さん?」 私はそんな翠を恐れ、少しでもいつもの彼に戻そうと、口を開いた。「とてもきれいだね。発作とか言ってたけど、どこか悪いのかい?」 対し、翠は静かに私を怯えさせた。「なぜ、来た」
Terakhir Diperbarui: 2025-11-27
Chapter: 藤のある庭 5 そこには、1人の女性がいた。 翠となんらかの関係があることは、庭にいる姿を見なくとも分かったことだ。 たとえ町ですれ違うだけだったとしても、たとえ気付かない者がいたとしても、翠をだれよりも近くで見ていた私なら分かる。 それほどの微妙さで、翠ととてもよく似た|女性《ひと》だった。 あいにくと女性のいたのは街角などではなく、翠の家の庭園でだったのだけれど。 その女性は、かすかに歌を口ずさみながら、蔓薔薇の垣根の前で舞っていた。 2分程度に咲いた、花も初めの藤の庭。 その色を補うように植えられたらしい蔓薔薇は満開している。そして、女性の手を痛めないようにという配慮からか、垣根の間を縫うように走っている小路は、絶妙に手入れが行き届いていた。 行き過ぎなのではないかと思えるくらいに。 家屋は西洋の造りで、屋敷と呼べるほどに大きく、巨圧感がした。 ただ、|静謐《せいひつ》という言葉ですらどうしてもごまかせない、寂しさのようなものがあるのがどこかひっかかる、そんな豪邸だった。「あなた」 女性は真鍮の柵越しに見惚れていた私に気付くと、無邪気にそう言って近付いてきた。「どうかしたの? この家に何かご用事?」 私はといえば、すっかり緊張していて、すぐに言葉を返せなかった。 今考えればあまりにも愚かで恥ずかしく。 だが実際、このときのこの女性の美しさは、翠にかなわないまでもあやしく、優艶であったのだ。 薄紅の夕焼けの空一面に広がる、軽く、結いまとめた髪。 すべての棘を取り払われている薔薇の花束を右手に、先まで摘んでいた薔薇の枝を左手に、その女性は私へと顔を寄せた。「……あの、僕、は……」 「ああ! あなた、翠惟のお友達ね? そうでしょう? 和明さん。そうね? ね、そうでなくては許さないわよ。この屋敷しかない、こんな路地の奥まで来ては。 あなたが和明さんなのね。翠惟のお友達の」 早口にそうまくし立てると、きゃらきゃらと子ど
Terakhir Diperbarui: 2025-11-26