LOGIN「天の羽衣」×「人魚姫」。本来なら出会うはずのない、言葉が通じない異世界男女のすれ違い王道純愛ラブストーリー。 マテアは月光界で平和に暮らしていた。 月誕祭に両思いの青年ラヤと結ばれるのだ。 しかしマテアは地上界で出会った男に大切なリアフを奪われてしまう。 マテアは奴隷商人のキャラバンに囚われる。 奴隷として彼女が売買された相手は、あの男だった。 レンジュは奴隷商人のキャラバンにいる彼女を見て驚く。 「リアフを返して! この盗人!」 マテアはレンジュにくってかかる。しかし月光界の言葉は地上人には通じない。 「愛してくれなくていい。ただ、そばにいてくれ。俺の命が尽きるまで」 レンジュは彼女のために生きることを決める。
View Moreあれは何?
闇の中、どことも知れぬ山道を走りながら、マテアはそれだけを繰り返していた。
あれは何?
人の通りの絶えて久しい、獣道と称していいほど荒れた小道を、左右の枝葉が複雑にからみあうことで天蓋と化した木々の合間からさしこむ細い月明かりだけを頼りに走り続ける。見開かれた青銀の瞳は、まるで彼女の無茶を諌めるように前をふさいだ枝々の姿を映してはいたが、心に届いていなかった。
わたしに触れると痛いよ。その清らかな肌が切れる。尊い血が流れてしまう。転ぶと危ないから、走るのはもうおやめ。
両側に連なる木々が、己の意志では動けぬ身ながらもなんとかして彼女を傷つけまいと枝の先端を揺らし、さわさわと、葉をこすりあわせてはその耳元へ囁きかけるけれど、彼女の心には届かない。薄衣をからませた両手を胸のところで固く握りあわせ、押しつぶさんばかりに奥歯を噛みあわせることで、どうにか正気を保ち続けようとする――それだけで精一杯の彼女には、木々の囁きを聞きとるだけの余裕はなかったのだ。
そして木々の忠告通り、小道へと伸びた枝々がピシピシと彼女を打ち、肌のいたるところを浅く傷つける。いくつも、いくつも。胸が、痛い……!
握りあわせた手の力をさらに強める。
これほどの恐れを、自分は知らない。 自分という卑小な器では受けとめきれない、器をはるかに凌駕する巨大な恐怖が支配しようとしている。それは、一片の慈悲もみせず、すべてを破壊してしまうに違いなかった。 なんておそろしい。できるものなら気を遠ざけてしまいたかった。それがどれほどたやすく、またもっとも己を楽にするに効果的な手段であるか、彼女は知っている。けれどもそれを選べば後に何が待っているのかも、彼女は知っていたのだ。 意識を手放すのは簡単だ。ほんの少し、力をゆるめればいい。それだけで意識は途切れ、この苦しみから解放されるだろう。しかし、そうしたならばきっと、自分は狂ってしまう。目を覚ましたところで正気には返れない。 とまれない。あまりに恐ろしくて、とまれない! 今足をとめたなら、この背後より追いすがる怪物のような記憶――到底堪えられない恐怖によって『自分』は壊れ、もはや元には戻れない。だから走らなくてはならない。恐怖に追いつかれないために。わたしがわたしであるために。ああ、でも! 永遠に走り続けることなどできはしない。助けて! 誰か、誰か……!
この世界に存在する、あらゆるものから自分を保護し、絶対の優しさで包んでくれる存在を求め、闇雲に前へ向かって手を伸ばす。指に触れたしげみを掻きわけた彼女の前が、突然開けた。すぐ先に、崖の先端が見える。
崖。これ以上道はない。 よろよろと転がり出、もつれる足でその場に倒れ伏す。もう走れないと、全身が訴えていた。先を争って突き上げてくる熱い動悸が気管をふさぎ、ぜいぜいと全身で呼吸をする。肺が痛い。鉄槌で猛打されているかのように頭がずきずきする。肌のすぐ下で、燃え盛る炎という蛇の大群が暴れているみたいだった。 一瞬たりと薄れることのない、我が身を襲う痛みに彼女は何度も何度も咳きこんで、額を地にすりつける。 「う…………」 口元にあてた手を伝って流れ落ちる、涙。あふれてとまらない。あれは、何?
マテアはこの世界を形成するものすべてに向かい、問い続けた。
どんっと音をたてて目の前に置かれた素焼きの碗を、マテアはまじまじと見つめた。 碗の中には緑や赤や黄色をした根菜と、黒っぽい肉数切れが汁に浸っており、ほかほかと湯気が上がっている。薄まっているとはいえ、死臭のするそれが、外を歩いたときに見かけた、火にかけられていた鍋の中身と同一の物であると気付いたマテアが顔をしかめるのを見て、アネサは口をへの字に曲げた。『なんだい、その不服そうな顔は! 貧血起こして倒れたって聞いたから、精のつきそうな物を持ってきてやったんだろうがね! 言っとくけど、この粥にはあんたが今まで食ってきた物より、ずっといい物が入ってるんだよ。 あんたがどんな物を口にしてたかなんて、そりゃ知らないけどね。でも今のあんたを見りゃそれがロクでもない物だっていうのはわかるさ。 自分の姿を鏡で見たことがあるかい? 肌は真っ白だし、手足なんて棒っきれだ。そんなんで大の男の世話がこなせるわけないだろう』 じきに出発だ、さあさっさと食いな! レンジュが戻る前に出発の準備をするよ! マテアの方へさらに碗を突き出して、上から圧をかけてくる。だが人の体熱すら炎のように感じるマテアに、こんな熱い物が口に含めるはずがなかった。 たとえ冷めていたとしても食べることはできなかっただろう。碗の中身は奴隷商人の元にいたとき出された食事と同じで、生き物の苦悶と断末魔に満ちている。いくら空腹でも、マテアに口にできる代物ではない。 漂ってくる瘴気を受け入れられず、喉を詰まらせ、思わず口元をおおって顔をそむける。胃液ぐらいしか出るものはなかったが、これ以上近づけられたら本当に吐いてしまいそうだ。 しかしアネサはそんなマテアの態度を、わがままと受け止めた。 アネサのかんしゃくが落ちようとした、そのときだ。『かあさん! 一体どういうつもり!?』 仕切り布をがばりとめくり上げて、またもやユイナが飛び込んできた。 ただし今度のユイナは肩をいからせ、指先にまで怒気が満ちている。『レテルたちがあたしの方へやってきたわ。あたしの言うことをききなさいって、かあさんに指示されたって言ってね!
「どこにでも転がってる程度の情愛なら救いはある。失敗したと、膝についた土を払って、また進めばいい。 でも、そうじゃないだろ? おれは、あいつに苦しんでほしくないんだ」 よりにもよって、なんであんな厄介な女を欲しがったりしたんだ。隊にいる女の半分はあいつになにがしかの関心を持っていて、あいつの天幕に入り込むチャンスを欲しがってるっておまえも言ってたじゃないか。そういう女を選べよ。 ぶつぶつ、ぶつぶつ。 やりきれないとつぶやいていた不安が、ついにレンジュへの不満に行き着いたところでユイナはぷっと吹き出した。 ハリの丸まった背中に手をあて、身を寄せる。「馬鹿ね」 ハリの、細くて、柔らかくて、大好きな後ろ髪を指で弄ぶ。「あなた、本当は全然わかってないんでしょう、どれだけレンジュが魅力的な男性か。女たちの目に、どんなふうに映っているか。 今愛されてないのが何だというの? 心は変わるものだわ。 たとえ彼女が人でなかったとしても同じ。形のないものは、いくらでも変わることができるし、変えることもできるのよ。 大丈夫。レンジュなら、きっと彼女を射止めることができるわ」 まるで見てきたことのように言うユイナを、ハリは不思議な思いにかられて見つめた。 ユイナはハリを見上げている。そこにはたしかな愛情があった。愛されていることを確信し、その喜びに包まれる幸せに恭順している。 ハリは果実をついばむ鳥のように唇を触れあわせ、耳元に囁いた。「おまえも? あいつの天幕に、行ってみたいと思った?」 ユイナは少し身を離して考え込むそぶりをする。「そうね、興味はあったわね。 だってあなたたちったら、一人で天幕が持てるようになってからは、二人してあたしを閉め出したでしょう? それまではいつも中へ入れて遊んでくれたのに。 一体どっちがあんなに天幕内をいつもごみだらけにしていたのか、すごく知りたかったわ。 でももう知ったし、改善もできたから、いいわ」 くすくすくす。思い出し笑いをしながらふざけて肩
「どうしたの?」 はじめのうちは好きなだけさせておこうと思っていた。気にしないでいようと。 しかし気絶したルキシュを天幕に寝かしつけ、自分たちの天幕へ戻ってからもう随分経つというのに、座して以来じっと考え込んでいる姿に、ユイナの好奇心が負けた。 アバの葉を砂糖と湯で煮つめたお茶の入ったカップを手渡し、その横に座る。「随分深刻そうに考え込んでるじゃない。そんなの、てんであなたらしくないわよ」 つん、と人差し指で頬をつつく。 子供じみた、けれど親しみのこもつた仕草にハリは苦笑した。「レンジュのことだよ」「それはわかってたわ」 ハリとレンジュは隊にいる男たちの中でも特に仲がいいことで知られていた。 七年前、新兵として一緒に配属されてきた、いわば同期で、それ以来ずっとコンビを組み、生死を共にしてきているからだとみんな思っている。 入隊する前のことについて、語らない者たちは多い。兵士は入れ替わりが激しいこともあって、自然と過去は詮索しないのが暗黙のルールとなっていたからユイナもずっとそうだと思っていた。 だから本当は二人の仲はもっと昔、物心つくかつかないかのころからで、二人は幼なじみの間柄なのだということを、ユイナはハリと暮らすようになってから初めて聞かされた。 レンジュは戦場から遠い地に居を構えられるほど名と力を持った家の生まれで、ハリは彼の両親に仕える使用人の息子だった。常識で考えれば口をきくことも許されない身分差だったが、理解ある両親のもと、歳が近いということもあって友人として付き合うことを許されていた。 そして十五歳になったハリに戦地への出兵命令書が届いたとき。レンジュは自分も行くと志願したという。 貴族なのに? とユイナは疑問に思った。貴族であろうと出兵命令書は発行されるが、まず戦地に行く者はいない。兵士として不適格と判断される理由を選び、証明書を買い、承認されて免除されるのが普通だ。 不公平だがそういうものだ。世の中に公平なものなど存在しない。 だがレンジュはここにやって来た。 何の肩書きもない、ただの一兵卒と
一度は観念した、大事には至らなかったことにほっと胸をなでおろしていたマテアの肩を、ぽんとユイナの手が叩く。『ありがとう、かばってくれて。 にしても、いやなやつよねー。あたし、昔っからあいつが大嫌い。すっこいドケチだし。すぐひとを天幕に連れこみたがるくせに、一度だって食べ物はおろか服も装飾品の一つもくれたことないんだから。真冬の夜の寒さをしのぐために利用する以外であいつの閨に入りたがる女なんか、ただの一人もいやしないわ。 女たちの間じゃ隊で一番の鼻つまみ者なの、知らないのかしら? きっと知らないわね、あれじゃ』 ぶつぶつ、ぶつぶつ。巨漢の姿が見えなくなっても、ユイナは不機嫌な顔でつぶやいていて、歩き出す気配は全くない。 彼女が口にしているのはあの巨漢のことだろう。たぶん。で、表情から、悪口であろうということは察することができるけれど、何を言っているのかは全くわからない。 きっかけは自分の腕がつかまれたことだった。だからマテアとしても彼女が何を口にしているか気にならなくはなかったのだが、訊く術がないこともわかっていたので、黙しているしかなかった。 やがて、うつむいて足元ばかり見ているマテアに気付いたユイナが、顔を上げてくれるよう、あわてて両手を振った。『ごめんね。ごめんなさい。あたしばっかり愚痴ったりして。あなたにこそ、いやな思いをさせてしまったのよね。 でも気にしなくていいわ。あなたがその輪をしてる限り、誰もあなたには手を出さないから。 どの隊でもそうだけど、この隊は特に厳しいの。他人の財産に手をつけたら片手を落とされるわ。二度目で両手、三度目は追放。 あいつにそんな勇気あるもんですか。だから安心して』『そーそー。ああ見えてけっこう小心者だからね、あいつは』 自分の銅輪を差したり、手首をちょん切る動作をしたり。身振り手振りで言いたいことを伝えていたユイナに同意する声が、唐突に間近から起きた。 いつの問に近付いていたのか、革衣をまとった青年がユイナの後ろに立っており、驚く彼女の肩に親しげに手を回す。『ハリ! この役立たず亭王!』