Masuk五年間、私は彼のために生きた。 研究ノートを書きデータを整理し、彼の成功を支えた。婚約者として、研究者として、全てを捧げた。 そして――裏切られた。 研究は盗まれ、婚約は破棄され、研究不正の濡れ衣まで着せられた。業界から追放され、全てを失った三十二歳の春。 でも、そこで終わりじゃなかった。 匿名研究者「R.H.」として、私は蘇った。誰にも正体を明かさず、ただ研究だけで世界を驚かせた。三年で、業界の伝説になった。 そして今、かつて私を裏切った男が、助けを求めてきた。彼のプロジェクトは行き詰まり、R.H.――つまり、私の指導が必要だという。 彼は気づかない。目の前にいるのが、彼が「無能」だと切り捨てた女だとは。
Lihat lebih banyak雨が窓を叩く音が、会議室に響いていた。
柊麗華は、自分の五年間が終わる瞬間を、まるで他人事のように眺めていた。目の前には婚約者だった男――芦原達也が立ち、その隣には為末茂美が、申し訳なさそうに、しかしどこか誇らしげに視線を逸らしている。
「麗華、君には感謝している。本当に」
達也の声は、いつもの穏やかな調子だった。まるで天気の話でもするように。
「でも、これは仕方ないんだ。プロジェクトの成功には、より高度な専門性が必要だった。君のサポートは素晴らしかったが……」
「サポート」
麗華は、その言葉を繰り返した。声は震えていなかった。むしろ、不思議なほど平坦だった。
「私が書いた研究ノートを使って、茂美さんと共同で論文を発表する。それが、『プロジェクトの成功に必要なこと』なのね」
達也の顔に、わずかな苛立ちが浮かんだ。
「君は誤解している。あのアイデアは、確かに君が最初の種を蒔いた。でも、それを形にしたのは僕と茂美だ。研究というのはそういうものだろう? 協力して――」
「あなたは、私の研究ノートを盗んだ」
麗華は立ち上がった。テーブルの上には、彼女が五年かけて蓄積してきた研究データが入ったフラッシュドライブがある。達也はそれに手を伸ばし、ポケットにしまった。
「返して」
「これは研究室の資産だ。個人のものじゃない」
「私が自宅で、週末も夜も、睡眠時間を削って書いたノートよ」
「君が研究室のメンバーである以上、その成果は研究室に帰属する。契約書にもそう書いてあるはずだ」
麗華の指が、わずかに震えた。
「婚約は?」
達也は溜息をついた。
「それも、今日で解消させてほしい。茂美と僕は……」
「愛し合っているのね」
為末茂美が、ようやく口を開いた。
「麗華さん、ごめんなさい。でも、私たちは本当に……」
「いいわ」
麗華は、自分でも驚くほど冷静に言った。
「指輪、返すわね」
左手の薬指から、小さなダイヤモンドの指輪を外す。達也はそれを受け取ると、何も言わずにポケットにしまった。
「それと、もう一つ」
達也は、用意していたかのように封筒を差し出した。
「研究不正の疑いで、大学側が調査を始めている。君の過去のデータに、改ざんの痕跡があるという報告があった」
「何ですって?」
「僕も信じたくはない。でも、第三者機関の調査結果を見る限り……」
封筒の中身を見て、麗華は息を呑んだ。そこには、彼女の署名入りの実験データと、その『改ざん箇所』を示す赤い印がついていた。
「これは……私がやったことじゃない」
「証拠は揃っている。君の署名もある」
「でも――」
「麗華、これ以上騒ぐなら、大学は法的措置を取るかもしれない。今なら、静かに研究室を去ることで、表沙汰にはしないと言っている」
麗華は、達也の目を見た。そこには、かつて彼女が愛した優しさはなかった。ただ、厄介なものを処分する時の、冷たい実務的な光があるだけだった。
「分かったわ」
麗華は、自分のコートを手に取った。
「去ればいいのね」
「研究業界は狭い。君のためにも、新しい道を探した方がいい。普通の会社員とか、教育関係とか……」
「私に、研究を諦めろと?」
「君には無理だったんだよ、麗華。サポート役としては優秀だったが、独創性がなかった。それだけのことだ」
麗華は何も答えなかった。ただ、コートを羽織り、会議室を出た。
廊下を歩きながら、彼女は自分の手が震えていることに気づいた。怒りか、悲しみか、それとも絶望か。自分でも分からなかった。
研究室の前を通り過ぎる時、彼女は五年間毎日通ったその場所を、最後に振り返った。
そして、声に出さずに、心の中で誓った。
――私は、諦めない。
――絶対に。
フェニックスのラボでの共同実験が始まった。 達也、茂美、助手の田中の三人が、毎週火曜日と木曜日に訪れ、麗華の指導のもとで実験を行う。 最初の数週間、達也は明らかに居心地が悪そうだった。 自分より若く見える女性研究者に指導される。しかも、その指導が的確すぎて、反論の余地がない。「ここの手順、もう少し効率化できませんか?」 ある日、達也が提案した。「効率化? どのように?」「この工程を省略すれば、時間が半分になります」 麗華は、達也の提案を見て、首を振った。「その工程を省略すると、データの信頼性が損なわれます」「でも、大まかな傾向は分かるはずです」「科学は、『大まかな傾向』では不十分です。再現可能で、検証可能なデータが必要です」 達也は、不満そうに黙った。 麗華は、達也の姿を見て、ある種の哀れみを感じた。 彼は、本質的に研究者に向いていないのだ。 近道を探し、楽な方法を選び、細部を疎かにする。 それは、研究者としては致命的な欠点だった。 一方、為末茂美は真面目に学んでいた。「R.H.先生、この反応、どうして温度を5度上げただけで、こんなに結果が変わるんですか?」「タンパク質の立体構造は、温度に非常に敏感です。5度の差で、フォールディングのパターンが変わることもあります」「なるほど……」 茂美は、熱心にノートを取った。「先生は、どうやってこういう知識を身につけたんですか?」「経験です。何千回も実験を繰り返し、失敗から学びました」「何千回……」 茂美は、驚いたように麗華を見た。「私、まだまだですね」「いいえ。あなたは真面目に学んでいます。それが一番大切です」 麗華は、茂美に微笑んだ。 その瞬間、茂美の目に涙が浮かんだ。「先生…
共同プロジェクトは、予想以上に困難だった。 達也たちが提出したデータは、不完全で矛盾に満ちていた。実験手順は杜撰で、対照実験すら満足に行われていない。 麗華は、毎日深夜までラボに残り、彼らのデータを一から検証し直した。「これは……本当に酷いですね」 ある夜、神宮寺がラボに差し入れの夜食を持ってきた時、麗華は疲れた顔で言った。「大学院生レベルの実験です。いえ、それ以下かもしれません」「芦原達也は、あなたのアイデアを盗んだだけで、実験技術は学んでいなかったということですね」「そうみたいです」 麗華は、モニターに映し出されたグラフを指差した。「このデータ、明らかに改ざんされています」「改ざん?」「ええ。数値が不自然に揃いすぎています。本来なら、もっとばらつきがあるはずです」 神宮寺は、グラフを見て眉をひそめた。「これは……あなたが受けた研究不正の疑いと同じ手口ですね」「そうです。達也さんは、自分の研究でも同じことをしていた。そして、その罪を私に着せた」 麗華の声は、冷たかった。「彼は、研究者としての倫理を持っていません」「この証拠を公表すれば、彼の研究者生命は終わります」「でも、それはしません」 麗華は、神宮寺を見た。「それでは、私も彼と同じになってしまいます」「では、どうしますか?」「正しい方法で、プロジェクトを完成させます。そして、彼に見せつけるんです。本物の研究とは何か、を」 神宮寺は、満足そうに微笑んだ。「あなたは、本当に成長しましたね」 二ヶ月後、麗華は芦原研究所を訪問することになった。 彼らの実験設備を直接確認し、適切な実験手順を指導するためだ。 達也の研究室は、東京郊外の大学キャンパス内にあった。 麗華がその建物の前に立った時、胸が締め付けら
共同プロジェクトの初回ミーティングは、フェニックス本社の会議室で行われた。 麗華――R.H.――は、会議室に入る前に、深呼吸をした。 白衣の下には、シンプルな黒のブラウスとパンツ。髪はきっちりとまとめ、薄化粧。 鏡に映る自分は、一年前の柊麗華とは別人だった。「準備はいいですか?」 神宮寺が、隣に立った。「はい」「では、行きましょう」 会議室のドアが開く。 そこには、三人が座っていた。 芦原達也。為末茂美。そして、見知らぬ若い男性研究員。 達也は、R.H.を見て立ち上がった。彼の視線は、麗華の顔を一瞬スキャンし――そして、何の認識の光も浮かばずに、ただ「初対面の著名な研究者」を見る目になった。 その瞬間、麗華は確信した。 彼は、気づいていない。 目の前にいるのが、かつて五年間毎日顔を合わせていた女性だとは、まったく気づいていない。
その夜、麗華は眠れなかった。 達也と、また会う。 R.H.として。 彼は、自分が柊麗華だと気づくだろうか? ベッドから起き上がり、洗面所の鏡の前に立つ。照明のスイッチを入れると、そこに映ったのは、一年前の自分とはまるで別人だった。 髪。かつては肩までの中途半端な長さで、いつも無造作に一つに束ねていた。「研究に邪魔だから」という理由で、美容院にも年に二回しか行かなかった。今は、腰まで伸びた黒髪を、毎月プロの手でケアしている。艶やかで、重さがあり、動くたびに優雅に揺れる。 眼鏡。あの分厚いレンズの黒縁眼鏡は、もうない。達也が「地味だな」と笑った、あの眼鏡。今はコンタクトレンズで、素顔の自分を隠すものは何もない。 化粧。かつての麗華は、化粧をほとんどしなかった。日焼け止めとリップクリームだけ。「研究者に見た目は関係ない」と自分に言い聞かせていた。本当は、化粧の仕方を知らなかっただけだった