LOGIN二十二世紀末、海面上昇により人類は浮島で暮らしていた。 海葬師・深澄は、死者を海に還す儀式を執り行う「記憶潜り」。ある日、深澄は禁じられた海域「沈黙の庭」へ降下する。そこには百五十年前に沈んだ移民船を覆う、発光する巨大な珊瑚礁があった。珊瑚に触れた瞬間、見たこともない祖母・汐音の記憶が流れ込んでくる。 嵐の夜、船と共に沈んだ夫。一人救命艇で生き延びた汐音。そして晩年、自ら海に還った祖母の最期──。 深澄は三世代にわたって受け継がれた子守唄を歌う。 「深き海の底にて、眠りにつく者よ」 その歌が、死者たちを光へと変える──。
View More二十二世紀の終わり、人類は海に還った。
それは敗北ではなかった。適応だった。海面上昇が始まってから百年、人々は陸地への執着を捨て、海と共生する道を選んだ。巨大な浮島群が海洋に点在し、かつての大陸の名残は深海に沈んで久しい。
母に手を引かれ、浮島の縁から海を覗き込んだとき、彼女は不思議な感覚に襲われた。水面下に広がる青い世界が、まるで自分を呼んでいるような気がしたのだ。
「怖くない?」
母が優しく尋ねた。深澄は首を横に振った。怖くなかった。むしろ、懐かしかった。理由は分からなかったが、この海の底に、何か大切なものがあるような気がした。
「あなたは海が好きな子ね」
母は微笑んだ。だがその笑みには、どこか寂しげな影があった。深澄が気づかないほど、かすかな影。
「ママも海が好き?」
「昔は……怖かったの」
母は遠くを見つめた。
「でも今は、少しだけ好きになれたわ。あなたのおかげで」
その夜、母は深澄に子守唄を歌ってくれた。不思議な歌だった。深い海の底で眠る者たちが、いつか光になるという歌。深澄はその旋律を覚えた。体が覚えた。まるで、ずっと昔から知っていたかのように。
だが母は、その子守唄について多くを語らなかった。誰から教わったのか、どこから来た歌なのか。深澄が尋ねても、母はただ微笑むだけだった。
「いつか、あなたが大きくなったら話すわ」
しかしその「いつか」は来なかった。
深澄が十六歳のとき、母は突然の病で倒れた。浮島の医療技術をもってしても、進行を止めることはできなかった。母の体は日ごとに衰弱し、やがて声を失い、最後には眠るように息を引き取った。
葬儀の準備をしているとき、深澄は母の遺品の中から小さな木箱を見つけた。中には古い写真が一枚と、鮮やかな紅色の珊瑚の欠片が入っていた。
写真には若い女性が写っていた。船の甲板で微笑んでいる。風に髪がなびき、背景には広大な海が広がっている。写真の裏には、消えかけた文字で「キサラギにて」と書かれていた。
キサラギ。
深澄はその名前に聞き覚えがあった。歴史の授業で習った。百五十年前、最後の大移動のときに沈んだ移民船団の一つ。八百七十三名の乗員乗客と共に、深海に消えた船。
なぜ母がその船の写真を持っていたのか。
そして、この珊瑚の欠片は?
深澄が珊瑚に触れた瞬間、世界が変わった。
視界が揺れ、耳鳴りがして、そして──海の底に沈んでいく感覚。暗闇の中で、誰かが歌っている。あの子守唄を。女性の声。優しくて、悲しくて、それでいて希望に満ちた声。
「深き海の底にて、眠りにつく者よ」
深澄は気を失った。
目が覚めたとき、彼女の頬には涙が伝っていた。夢を見た。海の底で、光る珊瑚に囲まれた女性が歌っている夢を。その女性の顔は見えなかった。だが、深澄には分かった。
あれは、自分の血縁者だと。
母の葬儀が終わった後、深澄は決意した。海葬師になろうと。死者を海に還す者になろうと。そしていつか、あの珊瑚の秘密を解き明かそうと。
それから十年。
深澄は浮島でも屈指の海葬師となっていた。特に「記憶潜り」と呼ばれる儀式においては、彼女の右に出る者はいなかった。死者の遺品を持って深海に潜り、故人の魂が安らかに眠れる場所を見つける。それは技術だけでなく、感性と直感が必要な仕事だった。
だが深澄には、もう一つの目的があった。
母から受け継いだ紅い珊瑚の欠片を、いつも懐に忍ばせていた。そしてどの潜航でも、心の片隅で探していた。あの歌が聞こえた場所を。光る珊瑚礁を。キサラギの沈んだ場所を。
浮島政府は「沈黙の庭」と呼ばれる海域への立ち入りを禁じていた。公式には海底地形が不安定で危険だからとされている。だが深澄は知っていた。それが建前に過ぎないことを。
本当の理由は、誰も語らない。語れない。
なぜなら、あそこには──
記憶が眠っているから。
深澄の新しい儀式は、浮島の人々の間で評判になった。 海葬に、歌を加える。それは単純なことだった。だが、その歌には不思議な力があった。 遺族たちは、深澄の歌を聞いて涙を流した。 だが、それは悲しみだけの涙ではなかった。 慰めがあった。希望があった。 死者は消えない。形を変えて、存在し続ける。 いつか、光になる。 その信念が、人々の心を癒した。 深澄のもとには、多くの依頼が来るようになった。だが、深澄はすべてを受けるわけではなかった。 彼女には、もう一つの使命があった。 記憶を探すこと。 深澄は定期的に、深海に潜った。新しい珊瑚礁を訪れ、その成長を見守った。 珊瑚は少しずつ、だが確実に育っていた。 まだ記憶を宿すには小さすぎる。だが、いつか──何十年後、何百年後──また巨大な珊瑚礁になるだろう。 そして、新しい記憶を保存するだろう。 深澄は思った。 これは循環なのだと。 生と死、記憶と忘却、個と全体。 すべてが繋がり、循環している。 ある日、深澄は一人の少女と出会った。 十二歳の少女、名前は珊瑚。 皮肉な偶然だった。 珊瑚は母親を海で亡くしていた。事故だった。突然の嵐で、母親の船が転覆した。 珊瑚は海を憎んでいた。「海は、お母さんを奪った」 珊瑚は深澄に言った。「私、海が嫌い」 深澄は珊瑚を見た。 その目に、かつての祖母を見た気がした。 海を恐れ、憎みながら、それでも海に惹かれていた汐音を。「珊瑚ちゃん」 深澄は優しく言った。「海は、お母さんを奪ったんじゃないの」「でも──」「海は、お母さんを受け入れたの」 深澄は珊瑚の手を取った。「お母さんは、今も海の中にいる。消えてない。形を変えて、存在してる
数週間後、深澄は海葬師として新しい儀式を執り行っていた。 依頼主は、あの鷹臣だった。 医者の予想よりも早く、鷹臣の体調は悪化した。彼は自分の死期を悟り、深澄に最後の依頼をした。「俺を、深い場所に送ってくれ」 鷹臣は病床で言った。「お前が見つけてくれた場所に」 深澄は頷いた。「分かっています。必ず」 鷹臣は三日後、静かに息を引き取った。 葬儀の日、深澄は鷹臣の遺体を特殊な繭で包んだ。これは深海の圧力にも耐える素材で作られており、遺体をゆっくりと分解させながら、海の生態系に還していく。 深澄は蒼鯨に繭を載せ、鷹臣が選んだ場所へと向かった。 三千メートルの深海。 かつて「沈黙の庭」があった場所の近く。今はもう珊瑚礁はない。だが、深澄はここを選んだ。 鷹臣もまた、あの珊瑚礁を見た人間だったから。 深澄は繭を海に沈めた。 繭は静かに降下していく。暗闇の中へ、深海の底へ。 そして、深澄は歌い始めた。「深き海の底にて、眠りにつく者よ」 深澄の声が、通信機を通じて蒼真にも聞こえている。「波の揺籃に抱かれ、夢を見よ」 蒼真は何も言わなかった。ただ、静かに聞いていた。「いつかまた、潮が満ちるとき」 繭が、視界から消えた。「わたしたちは、光になる」 深澄は歌い終えた。 しばらく、沈黙があった。 やがて、蒼真の声が聞こえた。「美しい歌だな」「ええ」 深澄は微笑んだ。「大切な歌よ」 深澄は浮上を始めた。 だが、その途中で──奇妙なものを見た。 かつて珊瑚礁があった場所に、小さな光が見えた。 深澄は蒼鯨を近づけた。 そこには、新しい珊瑚が育ち始めていた。 まだ小さい。だが、確かに光っている。 深澄は息を呑
深澄が蒼鯨に戻ったとき、通信機が激しく鳴っていた。「深澄! 深澄! 応答しろ!」 蒼真の声は、怒りと安堵が入り混じっていた。「ごめん、蒼真。心配かけた」「心配? 心配どころじゃない! お前、禁止区域に入っただろう! どうなってるんだ!」「説明する。今、浮上するから」 深澄は蒼鯨のバラストを調整し、浮上を始めた。 上昇しながら、深澄は考えた。 今、何が起きたのか。 珊瑚礁は消えた。死者たちの魂は解放された。 では、彼らはどこへ行ったのか? 深澄は思い出した。祖母の最後の記憶で見た光景。魂が上昇し、海面を超え、空へ、そしてその先へ。 宇宙か? いや、もっと抽象的な何かかもしれない。 量子レベルでの情報の再編成。意識のネットワークへの統合。あるいは、単純に──次の存在形態への移行。 深澄には分からなかった。 だが、一つだけ確かなことがあった。 彼らは、平和だった。 苦しみから解放され、次の段階へ進むことができた。 そして、それを可能にしたのは──歌だった。 三世代にわたって受け継がれた、あの子守唄。 深澄は思った。歌には力がある。言葉には力がある。 それは科学では説明できない力。だが、確かに存在する力。 記憶を繋ぎ、魂を慰め、そして──解放する力。 蒼鯨は浮上を続けた。 千メートル。 五百メートル。 やがて、光が見え始めた。太陽の光。 深澄は窓の外を見た。 そして、息を呑んだ。 海面の上、夜空に──流れ星が降っていた。 いや、降っているのではない。昇っているのだ。 無数の光の筋が、海から空へ、そして宇宙へと伸びていく。 死者たちの魂。 彼らは、本当に光になったのだ。 深澄は涙が止まらなかった。 美し
記憶が洪水のように押し寄せてきた。 だが、それは祖母の若い頃の記憶ではなかった。年老いた汐音の記憶だった。 汐音は小さな船に乗っていた。一人で。夜の海。星が無数に輝いている。 彼女の髪は白く、顔には深い皺が刻まれている。だが、目には決意があった。 手には、紅い珊瑚の欠片。 深澄が母の遺品の中で見つけたものと、同じ欠片。「ずっと、ここに来たかった」 汐音は海を見つめながら呟いた。「でも、怖くて来られなかった。渚が生まれてから、ずっと」 渚──深澄の母。 汐音は娘を産んだ後、海を恐れるようになった。船の沈没のトラウマ。夫を失った悲しみ。海は汐音から、最も大切なものを奪った。 だが同時に、汐音は海に惹かれ続けた。矛盾する感情。海を憎みながら、愛していた。「渚は大きくなった。もう、私がいなくても大丈夫」 汐音は自分の手を見た。痩せて、血管が浮き出ている。「私の時間も、そう長くない。医者はまだ数年と言うけれど、自分の体は分かる。もう、終わりが近い」 汐音は珊瑚の欠片を握りしめた。「だから、最後に──あなたたちのそばに帰りたい」 汐音は立ち上がった。 そして、何の躊躇もなく、海に飛び込んだ。 水が冷たい。だが、汐音は泳いだ。深く、深く。 呼吸が苦しくなる。肺が悲鳴を上げる。だが、汐音は潜り続けた。 やがて、光が見えた。 深海に、不可思議な光。青白く、時おり紫色に変わる光。 珊瑚だ。 汐音の意識が薄れていく。酸素が足りない。体が限界を訴えている。 だが、汐音は微笑んだ。 届いた。あの場所に。 汐音の体が珊瑚に触れた。 その瞬間── 汐音は見た。 蓮がいた。 若い頃の蓮。嵐の夜、汐音を救命艇に乗せた蓮。あの笑顔。「待っていたよ」 蓮が言った。