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やまだごんた
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Novels by やまだごんた

没落貴族アデライン・アルマン侯爵令嬢の結婚

没落貴族アデライン・アルマン侯爵令嬢の結婚

「私は鉄道の投資権が欲しいのです」そのために貴族の地位を手に入れたいベッカー商会の若き会長のヒュー・ベッカーは、工業化の波に乗り遅れ見る間に没落したアルマン侯爵家に求婚する 25歳の婚期を逃したアデライン・アルマンは家族や領地のために平民のヒューとの結婚を決意するが、結婚した最初の夜からヒューはアデラインの寝室を訪れることはなかった 「運命の出会いではなかった。後から運命になった」 そんな夫婦のお話です
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Chapter: 24.アルマン侯爵領のベッカー商会
 数年ぶりに見るアルマン侯爵家は、かつての荘厳な雰囲気を失い、美しかった庭は伸び放題の蔦や草木に覆われて、かろうじて屋敷に通じる道だけは整備されているような状況だった。 事前に手紙を送り、面会を取り付けていたとはいえ、平民の来客に家令ですら歓迎していないことがわかるようだった。 それもそのはずだ。 手紙には、侯爵領にあるベッカー商会の撤退について相談したいと書いていたからだ。 貧しかったレンガ職人だった父は、国のあちこちで工場が建てられていると聞いて、朝も夜もレンガを焼き続けた。 なぜそんなことをするんだと子供心に不思議だったし、借金をしてまでレンガを焼く父に、母は泣きながらやめてくれと頼み込んだ。 レンガの材料もだが、木炭の値段がじわじわと上がってきて、借金が返せないと泣いていたが、そんな母を父は殴りつけてレンガを焼き続けた。 倉庫が、庭がレンガでいっぱいになり、やがて家の中にまでレンガが積み上げられた頃、身なりのいい男がやってきてレンガを全て売ってくれと言ってきた。 タダ同然の材料からできたレンガは、これまでの3倍の値段で売れた。 父は更にレンガを焼き続けた。 気が付くと、町はずれの小さなレンガ小屋は、巨大なレンガ工場になっていた。 それがベッカー商会の始まりだった。「手紙は受け取った。お前——いや、君のいう条件とは何だね」 アルマン侯爵は自分の向かいに座った若い男を、淡い琥珀色の瞳で見つめた。 その瞳の色には覚えがある。 ヒューは不意に10年以上前の思い出が蘇るのを、理性で抑え込んだ。今はくだらない思い出など不要なのだ。「まず、前提としてお伝えいたします。侯爵閣下、私は鉄道の投資権が欲しいのです」「ベッカー商会ほどの大商会であれば、容易なことだろう。君も知っている通り、私は侯爵と言っても今や何の影響力も持たない。君の望みに力を貸すことはできん」 アルマン侯爵の言うことはもっともだった。 地位のみでどうにかできる時代はとうに過ぎた。 領地の工業化を嫌い、農業を推奨し
Last Updated: 2026-10-07
Chapter: 23.小さなお茶会
 ヒューから紅茶を贈られたのは嬉しかったが、アデラインには紅茶の淹れ方が分からなかった。「奥様。よろしければわたくしがお手本を差し上げても?」 紅茶を前に首を傾げていたアデラインに助け舟を出したのはキャサリンだった。「男爵家では時折お茶を嗜んでおりましたので」 キャサリンはそう言うと、手慣れた仕草で紅茶を淹れて見せてくれた。「デニス男爵家はとても優雅なご趣味をお持ちだったのね」 アデラインが嬉しそうに言うと、キャサリンは寂しそうに微笑んだ。「夫が東インド会社に伝手がありまして、よく融通してもらっていたのですわ」「まあ」 時折新聞で見る名前に、アデラインは驚きと尊敬の眼差しでキャサリンを見た。「夫はインドの独占貿易が開かれてから、インドからモスリンを買い付けようと何度もインドに使者を送っておりましたの」「そうだったのね」 アデラインはキャサリンの淹れた紅茶を飲みながら、2年前に亡くなった男爵のことを考えた。 デニス男爵家とは直接の関りはなかったが、男爵家の商会が立ち上がっていないことを考えると、おそらくその商談は失敗に終わったのだろう。 今となっては、インドから買い付けるよりも安価なモスリンがイギリスから買えるのだ。 アデラインはヒューが平民でありながら、ベッカー商会をここまで大きくしたことに、改めて賞賛と尊敬の気持ちを抱いた。  冬が本格的になってくると、サロンに招待される日が少なくなっていた。 アデラインはキャサリンやナタリー、時々ポーラやトマスを客に迎えて、暖かい温室で小さなお茶会を開催していた。「今日のお茶はどうかしら?」「あたしは昨日の方が美味しかったですねぇ」 アデラインが差し出した茶を飲みながら、ナタリーは仏頂面を崩さずに答えた。「今日のはちょっと苦みが強いように思いますよ」「あら、わたくしはこちらの方が深みがあって好きですわ」 キャサリンが言うと、ナタリーは仏頂面を少しだけ顰めた。「キャサリンさまは奥様に甘いですからね。その甘さで苦さも和らぐんでしょう
Last Updated: 2026-10-06
Chapter: 22.紅茶
 市場を抜けると、大きなホテルにたどり着いた。「ちょうどいい。ここのサロンで休憩しよう」 ヒューの提案にアデラインは戸惑いを見せたが、ヒューすぐに後ろをついていたトビーに目配せをした。 トビーは心得た様子でホテルに入ると、サロンの入り口に立つ使用人に懐から取り出した名刺をみせた。 純金で作られた名刺を、恭しい仕草で胸元から出したハンカチで受け取ると、使用人は颯爽とした足取りで店の中に入っていった。 数分もしないうちに戻ると、トビーに名刺を丁寧に返して「お席をご用意します」と答えた。 トビーは名刺を仕舞うと、主人たちの元に戻り、ホテルの中に案内した。 アデラインはヒューのエスコートでロビーに立つと、ホテル内の贅を尽くした内装や、ベッカー邸の廊下に敷かれた絨毯よりも柔らかい絨毯に足が込むことに驚いて、ヒューの腕にしがみつくように恐る恐る歩いた。 サロンの入り口では使用人が待ち構えており、2人に用意した席に案内してくれた。 おそらく一番いい席であろう、日当たりがよく、他の客からも程よく離れたその席は、腰を包み込むような柔らかな椅子で、アデラインはわかりやすく感動していた。 座るなり胸元からシガーケースを取り出したヒューに、使用人はそっと「後ほどシガールームにご案内いたします」と口添えした。「なるほど」 ヒューは納得した様子でシガーケースを胸元にしまい込んだ。 随分と上品なことだと、小さく溜息をつくが、アデラインはそんなヒューのことは目に入っていないようで、どこか落ち着かない様子で周囲をそっと見回している。 テーブルの上にはメニューがあったが、ヒューはその上に手を乗せたまま、使用人に目配せをした。 使用人は丁寧な態度で2人に近寄ると、ヒューの手の下に置かれたメニューを一瞥してから丁寧に尋ねた。「近頃はコーヒーではなく紅茶を嗜まれる方も多くいらっしゃいます。いかがなさいますか」 使用人の言葉に、アデラインは慌てて「では、わたくしは紅茶をいただくわ」とぎこちなく答えた。「私はコーヒーでいい。それと、私の従者にも同じものを」 ヒューが言うと、使用人は
Last Updated: 2026-10-05
Chapter: 21.農夫の休息
 ギャラリーは小さいながらも、いくつもの絵画や美術品が所狭しと、しかし窮屈さを感じさせない配置で飾られていた。 ヒューはその居心地の良さに感心したが、それ以上にその中に自然に溶け込んでいる自分の妻に目を奪われた。 濃い緑のデイドレスにテンの毛皮の羽織を優雅に着こなしている姿は、他の来場者の毒々しい華やかさとは違い、上品で洗練されているように見えた。 これが教養の差なのか—— ヒューは以前自分が贈ったドレスを思い返して、いかに愚かな贈り物をしたのだろうと自嘲気味に笑った。「旦那様、ここで一枚絵を買うとしたらどれになさいます?」「俺に絵を選べ、と?」 アデラインは授業のつもりなのだろう。教師然とした表情でヒューの困惑した表情を見上げている。「審美眼を持つことは貴族にとっても重要なことですわ」「なるほど、俺の審美眼を養ってくれるというわけか」 ヒューは冗談めかして返したが、どこかでこの会話を楽しんでいる自分に驚きを感じていた。 少し前まではこんな生産性のない会話など時間の無駄だと思っていたのに——だが、その驚きは決して不快なものではなかった。「審美眼はよいものを見ることで養われるのですわ」「では何度もこうやってあなたと出かける必要があるわけだ」 ヒューが何気なく言った言葉だったが、アデラインはすぐに顔を赤くすると、「あちらから見てまいりましょう」とヒューの視線から逃げるように、体ごと向きを変えて絵の方に歩いて行った。「奥様、離れられては困りますよ」 その後ろ姿を追いかけると、ヒューは意地悪な声色でアデラインの手を取って自分の肘に絡ませた。 ヒューの一挙一動に戸惑いを隠さないアデラインを見ているのはとても楽しかった。 ギャラリーの中は決して平和ではなかった。 もちろん、言葉通りではなく、来場した客たちの多くが見知った貴族や新興ブルジョワだったため、絵を見るより挨拶を交わす方が多かったからだ。 だが、一通り挨拶を済ませてしまえば、あとは自由だと思ったのは間違いだった。 誰
Last Updated: 2026-10-04
Chapter: 20.約束
 アデラインが提示した条件は毎晩の夕食を共にすること、そして週に2日の授業だった。「もちろん、外せない約束などもおありでしょうから強制ではありませんわ。でも、その時はちゃんと事前に連絡をくださいませね」 仕事を理由に断ろうとした矢先に、アデラインがやんわりと先制したため、ヒューはその条件を受け入れざるを得なかった。 屋敷で食事をとり、夜は紳士の集まりに出向く。それはそんなに大変な作業ではない。面倒になれば理由を付けて断ればいいのだ。 そう考えることにしたが、3日も夕食を共にすると、この魅力的な時間を断るのは非常に惜しいことにヒューは気付いていた。 トマスの報告では、アデラインはヒドルストン伯爵夫人にいたく気に入られており、サロンに頻繁に出入りしているとのことだったが、それはヒューの想像よりも有益な出来事だったのだ。 アデラインは流行りの物語や、話題の舞台や詩などヒューの興味のなかった様々な分野の話を聞かせてくれた。 それらのおかげで紳士の集まりでも、話題を取りこぼすことが無くなったのは、とても大きな成果だった。 だが、一番の成果は貴婦人たちの動向を把握できることだった。「オルランド伯爵の船が沈んだことで、絹や生糸が高騰していると皆様不安に思われていらしてましたわ」 オルランド商会はこの国の絹の2割を占めていた。 もちろんベッカー商会でも絹の取り扱いはあるが、流通量が少なくなった分、アデラインの言うとおり絹の価格は例年に比べて高騰している。「社交のシーズンはもう終わりでしょう。屋敷に引きこもるのに絹のドレスは不要なのでは」「まあ。旦那様ったら。冬が終われば春がきますのよ?皆様今のうちに次の社交シーズンに向けた衣装を作るのに大忙しですわ」「なるほど。それは死活問題だ」 ヒューはコーヒーを飲みながら口元を緩めた。 この高騰は、前々から絹の在庫を十分に確保していたベッカー商会にとっては痛手でもなんでもなく、渡りに船でしかなかったからだ。「春の社交が始まるまでに絹のドレスが用意できなかったらどうするというんだ?」 ヒューが揶揄うように言うと、アデラインは少し
Last Updated: 2026-10-03
Chapter: 19.貴族とは
「なぜそう思うのですか」  ヒューの感情が読めない声に、アデラインは息を呑んだ。 「……ユンベルグは100年前の画家です。つまり、絵具も100年前のものでなくてはなりません。ですが、この青はかなり濁してはいますが鮮やかすぎます」  アデラインの言葉には迷いがなかった。 「そして、この土に使われている黄色もそうです。昔見た絵はもう少し色褪せていたように思いますが、この絵にはそれがなくて——まるで新しい絵具で描いたような感じがします」  ヒューは絵をよく見たが、元の絵など知らないし、絵具の違いなどもっとわからない。  だが、アデラインの言葉には不思議な説得力があるように感じた。 「最後にサインです——ユンベルグのこの絵は、草のすぐ上にサインがありましたが、この絵のサインは草の上から描かれています。ユンベルグは必ず被写体にかからない場所にしかサインをしない画家です。こんなのあり得ません」  話しながら、アデラインは目元が熱くなるのがわかったが、感情的にならないようにと務めた。  だが、自分の好きだった絵が——華やかだった侯爵家の思い出が、そしてそれを取り戻そうとしてくれたヒューの想いが贋作によって踏みにじられてしまったようで、悔しかった。  ヒューはすぐに客間の入口に立っていたリチャードに向き直ると、「作業員を呼び戻せ」と命じた。 「あなたが安心できるなら、信頼できるギャラリーに鑑定にだそう」  そう言った横顔は、明らかに怒りに満ちていた。  アデラインは客間を大股で出て行くヒューの後姿を見送りながら、自分の物言いが夫の自尊心を傷つけたしまったのではないかと、酷く後悔した。 次にヒューに会ったのは1週間後だった。  結婚して既にひと月以上が経っていたが、アデラインがヒューに会ったのは指折り数える程度だった。  それでも、使用人の前では挨拶の抱擁や、頬へのキスを義務のようにされていたおかげで、屋敷の使用人の態度がわかりやすく変化していた。  ナタリーがいなくても、アデラインが刺繍をしていると甘いバーリーウォーターを持ってきてくれたり、夜遅くまで仕事をしていると蝋燭
Last Updated: 2026-10-02
侯爵家の婚約者

侯爵家の婚約者

エスクード侯爵家の嫡男カインは7歳の誕生会で有り余る魔力を持て余し、魔力を暴走させてしまう。 全てを巻き込んで破壊しようとしたとき、同じ年のジルダ・シトロン伯爵令嬢の魔力吸収の能力によって救われる。 カインの魔力暴走を防ぐため、王はカインとジルダを婚約させることを命じた。 だが、カインは自分の意志で婚約を受け入れ、ジルダのよき婚約者になろうとする。 幼い二人は少しずつ距離を縮めていくが、カインの母の死をきっかけに、その関係は歪になっていく。 17歳になったカインは、ある少女との運命的な出会いを果たす。
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Chapter: 番外編 お役目の日
 石畳で整備された道を、小さなジルダを乗せた獣車がゆっくり走っている。 出かける前にカインの魔力を食べさせた草竜は、機嫌よく貴族街を進む。 あれよあれよと決まった、婚約と同時に贈られた獣車にはまだ慣れない。 母や姉が社交に使うからと、ジルダから取り上げようとしたが、父であるシトロン伯爵が烈火の如く怒っていたのが印象に残っている。 エスクード侯爵家の家紋が刻印された獣車で、奥方や姉が社交に出かけたらどういうことになるかを、伯爵はよくわかっていた。「ジルダ!今日もありがとう。今日は何をして遊ぶ?」「その前に、魔力の吸収をしないと……」 ジルダの到着に、車寄せで待ち構えていたカインが大喜びで迎えると、ジルダは困ったように笑って答えた。 カインはジルダを連れて、カインの子供部屋へ連れて行った。 寝室とは違い、室内には柔らかい絨毯が敷き詰められていて、靴を脱いで遊べるようになっている。「今日はここでしよう。あとからロメオたちも来るんだ」 カインの無邪気な明るい笑顔に、ジルダもつられて顔が緩んだ。 しかし、まだひきつれた不器用な笑みは抜けない。 絨毯に座ったカインは、ジルダの頬を両手でつねった。「こうやって笑えばいいんだよ」「ひ……|ひたい《いたい》……」 ジルダが言うと、カインはすぐに手を離した。 頬を抑えて、自分を不可解な目で見るジルダがたまらなく可愛かった。 魔力吸収は4度目だった。 魔力暴走の後は、カインも魔力が落ち着いていたので10日ほどは、ジルダの役目は来なかった。 やがて呼び出されてから、5日、3日と日を縮めたのだ。「5日でもいいと思いますが」「僕はジルダに会えるなら毎日でもいいよ」 3度目の時にジルダが提案すると、カインがすかさず言ったのを、エスクード侯爵は困った顔で見ていた。「では、魔導士様の言ってた3日に1度にしましょうか」「君に負担にはならないか?」 ジルダの提案にエスクード侯爵が申し訳なさそうに答えたが、だからと断っているわけではないことは7歳のジルダにもわかる。「これからもお迎えに来てくだされば大丈夫です」「わかった――もちろんだとも」 エスクード侯爵家から、ジルダに合わせたかわいい獣車と御者が送られてきたのは、翌日のことだった。「じゃあ、魔力を吸収しますね」「ダメだよ!」 ジルダが立ち
Last Updated: 2026-08-21
Chapter: 番外編 結婚前夜
 19歳になったカインは緊張で眠れない日を過ごしていた。 特にこの3日は、空が白々むまでまんじりと過ごしている。 カインは、明日の朝のためにと用意された婚礼衣装と向き合ったまま、何時間も過ごしていた。 ――ついに明日。 カインは、今夜何十回目かの深呼吸をしてみたが、やはり落ち着かない。 昨年のあの夏から季節は2回変わった。 あの日、カインは膝をつき、ジルダのスカートに口付けをした。 貴族の正式な求婚の儀式だ。「ジルダ――僕と……僕の……」「はい。承りました」 カインが言い終える前にジルダが答えた。 カインは顔を真っ赤にして立ち上がると、ジルダの小さな両肩を掴んだ。 まだ涙の渇ききらない頬が、キラキラと輝いてるように見える。「さっ、最後まで言わせてくれ!」「言われるまでもなく、婚約は10年以上も前に成立しておりますし」「そうだけど!……そうだけど、そうじゃなくて……それに、承りましたってなんだ!」 ジルダが答えると、カインは恥ずかしさでジルダを発作的に抱きしめて、ジルダの顔を自分の胸に埋めさせた。「改めて口にすることで伝わることもあるだろ……」「そうですか――そう、ですね」 ジルダは、手持ち無沙汰な両手でカインの背中を抱いた。「では、聞かせてくださいまし」「……」 カインが求婚の言葉を発する事ができたのは、それから一刻ほど経ってからだった。  いつも通りの魔力吸収は、とても楽しみな習慣になっていた。 ジルダの態度は相変わらず澄ましたものだったが、カインにはそれがなぜかたまらなく可愛かった。「カイン様――おやめください」 カインの左手を握って魔力を吸収するジルダの頬を、カインの右手がつつく。 なぜ、あの頃の自分はジルダの事をあんなにも嫌っていたんだろう。こんなにかわいいのに。「カイン――いい加減にして」 ジルダが睨むと、カインは嬉しくて笑ってしまう。 澄ましたジルダも可愛いが、怒ったジルダも可愛い。 カインの右手が、ジルダのほつれた髪を巻き取ると、ジルダは照れたように頬を薄桃色に染める。 そんな毎日が、カインにはたまらなく幸せだった。「カイン、明日は大事な日だと言うのに――」 いつまでも部屋の明かりが消えていないのを察して、侯爵が扉を開けた。「父上――すみません」 叱られた子供のような表情のカイ
Last Updated: 2026-08-21
Chapter: 番外編 初めての大冒険
 10歳になると、爵位を継ぐための勉強が始まる。 それまでの読み書き程度ではない高度な勉強だ。 カインもロメオも、午前中はいつも教師に就いて勉強させられていた。 国や領地の歴史、法律、貴族の勢力分布、それぞれの領地の産業、その特徴……「僕もう夢にも先生が出てくるよ」「……僕は昨日夢の中で王国の相続法を暗唱させれらてたよ」「カインはもうそこまで進んでるの?僕なんかやっと家族法が終わったところだよ」 アバルト侯爵家の裏庭で、木剣を打ち合いながらロメオとカインが愚痴ってるのを、ティン=クェンとジルダは、初夏の日差しを避けるように木陰に敷かれた柔らかい敷物の上で眺めていた。「貴族って大変なんだなぁ」「あなたも貴族じゃないの」 2人を見てこぼすティン=クェンに、ジルダが白々しくつっこむ。「僕は三男だからね。継ぐ爵位もないからこうやってアバルト家に騎士見習いで来てるんだよ」 伸びをしながら言うと、女中が差し出した蜂蜜の入った冷たい水を飲む。「ジルダだって侯爵夫人になるための勉強してるんだろ?疲れないの?」 冷たい蜂蜜水はジルダの喉も優しく潤した。 ジルダはにこっと笑っただけで答えなかった。 実際のところ、ジルダの勉強は苛烈だった。 社交、所作、家政の基礎に加えて、エスクード侯爵家の領地の管理や財政についても学ばなければならない。 だが、ジルダはそれらを文句も言わずにこなし続けていた。 やがて疲れて戻ってきたカインとロメオも、女中から蜂蜜水をもらうと、一息に飲んで息をついた。「明日は領地についての授業だ。カインは?」「僕は歴史の教師が来る事になってる」「いいなぁ。僕なんかこの暑い中毎日走り込みと素振りだよ」 2人の愚痴にティン=クェンが参加する。 確かに、ティン=クェンの肌は2人に比べて随分と健康的に見える。「なあ、こないだ遊びに来てた庭師の子に聞いたんだけど」 ロメオがブルーグレーの瞳をいたずらっぽく輝かせた。「ほらな?ここに大きな穴が開いてるんだ」 首都の外れにある貧民街の奥で、ロメオは得意げに言った。 子守りをしていた乳母がうとうとしたのを見て、ロメオが提案したのは魔獣狩りだった。 首都はその広大な土地を何層もの城壁で仕切られている。 それぞれの城壁には門兵が立ち、城壁内の出入りを厳しく見張っている。 その一
Last Updated: 2026-08-21
Chapter: 番外編 カインの贈り物
「フェリス……で、ございますか」 エスクード侯爵家の家令であるアレッツォは、首都の屋敷の主であるカインの言葉に思わず聞き返した。「そうだ。社交界で人気なのだろう?」 少しそわそわと落ち着かないのは、気のせいではないらしい。「イレリア様のお上着は先日――」「誰がイレリアのものだと言った」 カインの言葉に、アレッツォはすぐに察することができた。 そして、満面の笑みを浮かべると、深々と頭を下げて退室した。「アレッツォ、随分と機嫌だな」 帰りを出迎えたアレッツォに、エスクード侯爵が声を掛けるほどに、アレッツォはわかりやすくご機嫌だった。「申し訳ありません。つい顔が緩んでしまいまして」「お前がそのように笑うということは、カインになにかあったのか?」 さすがは父親だと、アレッツォは更に嬉しくなった。「ええ。カイン様がジルダ様にフェリスの毛皮を用意するようにと」「カインが?」 侯爵が眉を上げてアレッツォを見ると、アレッツォはわざとらしく得意げに頷いてみせた。 玄関から書斎に移動すると、侯爵はアレッツォから酒精の強い琥珀色の液体を受け取って、一口をゆっくりと流し込んだ。 液体が喉を通過する時にある、粘膜が焼けるような感覚が侯爵は好きだった。「ここのところ、あれほどジルダに近寄ろうとしなかったのにか」 独り言のように呟く侯爵に、アレッツォはただ微笑むだけだった。「ジルダは何が好きかな」 夏の月の始まりにジルダが生まれたのだと聞いて、カインはジルダへの贈り物を選んでいた。 春の月――自分の生まれた月に出会った婚約者は、最近やっと笑ってくれるようになっていた。 エスクード侯爵家の持つ商団の倉庫で、7歳のカインの小さい手は、装飾品や細い糸で織られた上等なリネンを大人さながらの手付きで選んでいた。「ジルダは肌の色が白いだろ?だから柔らかい布地じゃないと」 いつも触れる手から、ジルダの肌の柔らかさを感じていたカインは、もっと柔らかい布をと商団の番頭であるセズンに言いつけている。「カイン様。この布はどうですか?」 アレッツォが積み上げられた布地の中から見つけた、細い綿の糸で織られた生地は、とても柔らかくて肌触りがよかった。「アレッツォ!これだよ」 カインは輝かしい笑顔でアレッツォをみると、セズンは慌ててその生地を取り上げようとした。「
Last Updated: 2026-08-21
Chapter: 86.最終話・罪と罰
 日記はそこで終わっていた。 最後までカインのことが綴られていた。カインの幸せな未来を望む震えた文字だけが、紙面を埋め尽くすように書かれていた。「おばさまが最後に私をお呼びになられたのは――私のせいです」 ジルダは静かに言った。 アルティシアはカインに会いたかった。 触れる事は出来なくとも、どんな目で見つめられようとも、どれだけ憎まれようとも、最後にカインの姿を目に焼き付けたかった。 だが、それよりもしなければならいことがあった。「最後の最後まで、あなたの呪いをこれ以上大きくしてはいけないと、あなたの事だけを考えておられました。そして、私にあなたを支えてくれと何度もおっしゃってました」 アルティシアは何の関係もないジルダに、カインの運命を背負わせたことを詫びていた。 だが、その上でカインを支えてほしいと幼いジルダに頼み込んだのだ。 ジルダはカインが泣いているのに気が付かない振りをした。「あなたがおばさまの一件で私を嫌いになったのはわかっていました。でも、私があなたよりもおばさまとの時間を過ごしたのは本当の事だもの。恨まれても仕方がない――」「僕は母上の葬儀で泣かなかった。悲しくなかったんだ」 カインは漸く口を開いた。「父上が悲しみを堪えて僕を抱き締めたけど、僕は何の感情もわかなかった」 母を見殺しにしたも同然だと、カインは嗚咽を漏らした。「母は僕ではなく、ロメオや君を愛していたと思っていた。だから君を憎んでいたんだ」「違う――」 ジルダはカインの涙を優しく拭うと、少し悩んでから口を開いた。「憎んでいいのです。憎まれて当然なのです」 そう口に出して初めて、ジルダの目から涙がこぼれた。 アルティシアに触れる事により、カインの命は新たな魔力となって蓄積されていった。 それはまさに呪いと言って相応しく、カインの心を支配する黒い魔力だった。黒い魔力はカインの感情に大きく反応し、その魔力を増幅させると心を蝕んだ。 エスクード侯爵家の侍医とジルダはその存在に気付いたが、既にカインの心は殆ど黒い魔力に食われかけていた。対処法はただ一つだけ、ジルダがその黒い魔力を吸収する事だけだった。「黒い魔力……」「ええ……それさえ取り除けば、カイン本来の魔力は安全だったから」 ジルダは涙を流しながら、ゆっくりと話す。 いつもの堅苦しさは消え
Last Updated: 2026-08-21
Chapter: 85.母の日記
 数日後、ジルダはカインの元に一冊の赤い革で装丁された本を持ってきた。。「これが、おじ様のおっしゃった続きです」 事件の後始末がおわり、ようやく落ち着いたのを見計らって、カインは日記の話をジルダに打ち明けた。 ジルダは相変わらず表情を変えなかったが、「次のお務めの日にお持ちします」と返事をした。 魔力吸収は必要なくなったのに、魔力吸収は続いていた。 カインは「あんな袋では信用できない。――いや、ジルダが作ったものだから信頼に足るだろうが、それでもジルダでないと安心はできない」と言い張ったからだ。「おば様から渡された日記です。まずは中をお読みください」 ジルダは、カインが一人で読みたいだろうと席を立とうとしたが、カインにしっかりと腰を抱かれて立ち上がれなくなった。「傍にいてくれ。――君は僕の婚約者だろ」 ジルダは何度見ても見慣れない、自分を見つめる青い瞳に強く断る事が出来なかった。 アルティシアの日記には、カインの成長が事細かに書かれていた。 初めて寝返りをした日、初めて離乳食を食べた日、熱が出てぐずったが抱いてやれないもどかしさ、歩き始めや話始めた日など、全ての出来事が空白がもったいないと言わんばかりの小さな文字でページ一杯に書き残されていた。 そこには、カインのどんな小さな仕草でも覚えていたいと言う、母の姿があった。 カインが4歳になる少し前の日付のページを捲ると、カインが初めて寝室に来た日の事が書かれてあった。 アルティシアが扉の開く音で目が覚めると、小さな歩幅の足音が聞こえてきた。カインだとすぐに分かった。 カインはベッドの周りをうろうろすると、アルティシアの眠っている横にやってきて、しばらくアルティシアを眺めていた。そして、アルティシアの手にそっと触れた。 その手はカインが赤ん坊の頃に触れた以来で、大きくなったと思ったが、やはり小さいままで、アルティシアはその手の温かさに幸せを感じて、握り返したい衝動を抑えるので精一杯だった。 飛び起きてカインを叱りつけ、二度と寝室に入ってこないようにと言わなければならないのに、アルティシアは動くことができなかった。 あと一秒だけ、あと一秒と繰り返しながらカインの小さな手に全ての意識を集中していた。 やがてカインが手を離すと、耐え難い寂しさを感じ、カインが部屋から出て行くのを確認してか
Last Updated: 2026-08-21
付喪神狩

付喪神狩

古い道具には年月と共に人の情念が蓄積され、それが意思を持ったものが付喪神と呼ばれる。 容姿端麗だが口も性格も女癖も悪い大和御門は日本で唯一の付喪神狩として、付喪神を祓う能力者。 自分に取り憑いた大口真神を引き連れ、同居中の相方・棚橋亨と繰り広げる現代異能バトル
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Chapter: 番外編 5.如月正明の受難3
あの頃はまだ若くて、夢も希望もあったんだ。 如月は当時を思い出すと頭を抱えた。 いや、俺に拒否権なんてなかった。もし嫌がったとしても東雲さんの事だ。どんな手を使ってでも俺を引き込んだだろう。 特殊捜査課に配属されてからの4年間は、如月にとってまるで地獄の日々だった。 特殊捜査課――と言っても、犯人を逮捕するわけではない。なぜなら犯人は既に死んでいるのだから、死んだ人間に日本の法律は適用されない。 それを利用して殺人や犯罪が行われることがある。それが呪いだ。そして、呪い以外にも心霊現象を利用した例も少なからずあるのだと、東雲が言った通り如月は毎日のように全国各地で起きる超常現象を調べるために駆け回っていた。 犯罪でなくとも、超常現象や心霊現象が公になると、法の抜け穴が生まれ文字通り無法地帯になる。 「超常現象に対応するよう法を改正すればいいと思うだろうが、現代の科学では超常現象や心霊現象を解明できない。となると、この事実が超常現象などによるものだという証拠を提出することができない。証拠が提出できないと立件もできない」 東雲はわざとらしく肩をすくめて見せたのを如月は思い出していた。 だから隠匿する必要があるのだ。その為に特殊捜査課は存在するのだと、着任してすぐに説明された。 そして、霊感が一切なく、心霊現象からの干渉を受けない如月は、調査員として最適の人材だった。 「ほんっと、びっくりするくらい霊力がないんだな、あんた」 着任してすぐに紹介されたのは、敬語も話さない小生意気だが切れ長の目が特徴的なやたらと美形の少年だった。 18歳のその少年は、2年前に|大口真神《オオグチマガミ》の依り代に選ばれ、|付喪神《ツクモガミ》狩りを行っているのだと東雲は説明した。 「君が行う調査は、その事件が心霊現象によって起きたものかの確認と、その背後関係だ。そしてそれが付喪神によるものだった場合は、この彼――大和御門(やまとみかど)君に依頼を出すことになる」 御門と紹介された少年は、警察官ではなく民間の祓い屋なのだと東雲は言った。 こんな子供が――? そんな疑問はすぐに払拭された。この少年は大口真神の能力を使って悪霊や付喪神を喰う事ができるのだ。 その様子を霊感のない如月は見る事はできないが、代わりに如月の左手には付喪神
Last Updated: 2026-09-22
Chapter: 番外編 4.如月正明の受難2
 |如月《きさらぎ》と|東雲《しののめ》は、如月が交番勤務を終えて所轄署に勤務になった時からの付き合いだった。 上司だった東雲は、涼しい顔で職務を淡々とこなし、如月の面倒もよく見てくれていた。 かなり若く見えたが35歳と聞いて驚き、更に二人目が生まれたところだと聞いて再度驚いたのをよく覚えている。 全てにおいてスマートなこの上司は、如月の事を気に入っていたのか、よく飲みに連れて行っては相談に乗ってくれたり、的確なアドバイスを与えてくれた。 存在感の無さに定評があった如月に、調査を主体で行うよう計らってくれたのは東雲だった。 その東雲が、ある日警察を辞めるのだと言う噂を耳にした。 如月の同僚が誤認逮捕をした相手が、大物政治家の子息だった為、責任をとって辞職するのだと言う。 ――昨日も一緒に飲んでたのに、そんな話一度も言わなかったじゃないか。 如月は裏切られて様な気持ちになり、その日から東雲と業務以外の会話を避けるようになっていた。 警察という組織にいる以上、ずっと一緒に机を並べて仕事ができるとは思っていなかった。だが、同じ組織にいれば、再び仕事を共にする機会もある。辞めてしまってはそれも叶わない。何より、兄とも慕っていた東雲がそんな下らない理由で警察を去らなければならない事が許せなかった。「如月君、ちょっといいかな」 噂を耳にしてから5日目の事だった。調査から戻ると、如月は東雲に呼ばれて署の奥にある小さな会議室にいた。 夕陽が差し込み、部屋は赤く照らされている。「私が警察を辞めると言う噂を聞いたと思うが」 会議卓の椅子に腰かけて如月にも座るよう勧めると、おもむろに口を開いた。 如月は言葉を発する事ができず、小さく頷くしかできない。認めると東雲が遠くに行くような、そんな子供のような想いに駆られていたからだ。「君は、幽霊だとかお化けだとかを信じるかな」 突拍子もない東雲の言葉に、如月は我が耳を疑った。――幽霊?お化け?科学捜査が基本の警察が何を言っているんだ? もしかしたら、自分がショックを受けないよう冗談から入るつもりなんだろうかとさえ思っていた。
Last Updated: 2026-09-21
Chapter: 番外編 3. 如月正明の受難1
 今日は恋人の誕生日だった。  |如月正明《きさらぎまさあき》は、出張で会えないと彼女に伝えていたが、実はこっそりと彼女の家で待ち伏せをしてサプライズをしようと決めていた。  付き合って半年だが、年齢的にも結婚を視野に入れた付き合いに発展させたいと思い始めるほどに、如月は彼女との交際を真剣に考えていた。  ロマンチックな演出が大好きな彼女の為に、最高のサプライズでプロポーズしようと、如月は心に決めていた。 『出張でお祝いはできないけど、君が帰宅する19時頃にプレゼントを届けるようにしたので受け取ってほしい』  事前にそう連絡をしていたから、真面目な彼女はきっと仕事が終わると真っすぐに帰宅するはずだ。  彼女の帰宅時間は大体いつも18時半から19時である事は把握しているので、如月は18時からずっと彼女の部屋の近くの階段に潜んでいた。  彼女の住むマンションは、ワンフロアに4つしか部屋がない。2戸ずつがエレベーターを挟んで向かい合わせに作られていて、そのエレベーターの隣に如月の潜む非常階段はある。  18時45分。彼女の部屋がある8階にエレベーターが止まった。  時間的にも彼女だろう。  逸る心を抑えて、如月は彼女のフロアから階段を上った踊り場に隠れてフロアの様子を見守った。  刑事という仕事上、こう言った張り込みは得意だった。  ましてや、人畜無害を体現したような平均的で特徴もない外見は、ぱっと見ただけで誰かの印象に残るような存在感はほぼない。  その存在感の無さが今はこうして役に立つのだから、人生は面白い。  エレベーターが開くと、会話が聞こえてきた。――会話? 「――本当にいいわけ?彼氏からプレゼント届くんじゃないの?」  若い男の声だ。 「だって受け取らなきゃバレるじゃない。――ほんと、誕生日も仕事とかありえなくない?」  彼女の声が続く。 「だからって彼氏の留守中に男家に連れ込むなんて、|真綾《まあや》も悪い女だよな」 「だって、公務員だから結婚相手にはいいかもしんないけど、ぶっちゃけつまんないんだもん」 「体は俺の方がいいんだろ」
Last Updated: 2026-09-20
Chapter: 人形編 31.名付け
「名前っつーのはさ、存在を縛るわけよ」 |亨《とおる》が向いたりんごを食べながら、|御門《みかど》は説明をした。「名をつけることで存在を認める。言い返すと名前ってのは存在そのものとも言える。だから名を知ると呪う事ができる。――昔の人間が名を明かさなかったのはそういうこった」 御門が語った篠川夫妻から聞き出した話は、亨の想像を超えていた。 |暁《あかる》が産まれて1年が過ぎた頃、夫婦はある占い師に出会った。 占い師は娘の身を案じる夫婦に、もう1人子供を作り、その子供に戸籍の名とは違う名前をつけるよう言った。 そうする事で産まれた子の生命力が姉の弱い魂を補うだろうと。そして、その名は家族以外が知る事の無いよう、誰にも言ってはいけないとも。 そうして、それから2年後に夫婦は再び子を授かり、まゆみと名付け、占い師の言った事を思い出し真名を宵と名付けた。「あいつらがつけたのは暁と反対の意味を持つ|宵《よい》だ。占い師に言われたんだと。近い名をつける事で魂の結び付きはより強固になるってな。とんでもねえ話だわ。生命力を分けるどころか、妹に姉の身代りをさせる|呪《まじな》いだったわけよ」 だが、篠川夫妻は占い師の言葉を覚え違えていたのか、勘違いしたのか、反対の名をつけた。 それにより、|呪《まじな》いの形が歪み、生きたいという執念が強かった暁の魂がまゆみの魂を貪り始めたのだ。 「あいつの生きる執念は凄まじかったからな。その執念と、親が知らずにかけた|呪《まじな》いが混じりあったんだろうな。まゆみは暁に食われたんだ」「そんな――それじゃあまゆみさんは」 亨の言葉に御門は軽く肩をすくめた。「子供の頃から喰われてた。まゆみが好きな事をやらせてもらえたってのは暁がやりたかった事だろうよ。そうやって少しずつ浸食されて暁が死んだっつー5年前には完全に喰われてたはずだ。あれはまゆみ――いや、宵という名を奪った暁だ」 亨は目の前が暗くなるような気分だった。 姉との思い出や両親に蔑ろにされていた悲しい過去を話していたのは暁だったというのか。「気にすんな。奴らは嘘をつくもんさ。特に奴の狙いはとーるちゃんだったからな。取り入るためにはなんでもするさ」 御門の言葉に亨は下を向き、「なんで僕なんですか」と吐き出すような声で尋ねた。「とーるちゃんの霊力は特殊だからねぇ
Last Updated: 2026-08-21
Chapter: 人形編 30.真名
「|高天原《たかのあまのはら》に|神留坐《かむずまりま》す|神漏岐神漏美《かむろぎかむろみ》の|命以《みこともち》ちて|皇親神《すめらみおやかみ》|伊邪那岐《いざなぎ》の|大神《おほかみ》|筑紫日向《つくしひなた》の橘の|小門《おど》の|阿波岐原《あわぎはら》に|禊祓《みそぎはら》ひ|給ふ《たもう》時に|生坐《あれま》せる|祓戸《はらえど》の|大神等《おおかみたち》|諸々禍事《もろもろまがごと》|罪穢《つみけが》れを祓い|給ひ清め給ふ《たまえきよめたもう》と申す事の由を|天つ神地つ神《あまつかみくにつかみ》|八百万《やおよろず》神達共に|聞食《きこしめ》|畏み畏み《かしこみかしこみ》も|白《もう》す」  |東雲《しののめ》がまゆみを引き付ける間に、|御門《みかど》は|祓詞《はらえのことば》を読み上げた。 御門の体から|真神《マガミ》が姿を現す。 真神はその目にまゆみを捉えると、東雲を飛び越えてまゆみの左肩に喰らいついた。「|大口真神《オオグチマガミ》――」 まゆみはニヤリと笑うと、微動だにせずその牙を受け止めた。「|亨《とおる》さんの霊力はお前を抑えると聞いたけど――事実のようね」『そう思うか――』 真神は不敵に笑うと、いつの間に背後に回っていたのか、まなみの体は御門に抱きかかえられた。「返してもらうぜ――とーるちゃんの霊力」 そう言うと、御門は抱きかかえたまゆみの眉間を人差し指で押さえつけた。「|天《あま》の|瓊矛以《ぬほこをもっ》て国を鎮む――顕現せしませ――|宵《よい》!」「お前!なんでその名前を」 術はまゆみの体を縛りあげ、霊力が御門の指を伝って流れ出していく。 御門を振り払おうと体を動かすが、御門の力は強く、体から御門の指に霊力が流れ出すを止められない。「まさか|真名《まな》を持ってたとはな」 御門はそう言うと、まゆみの肩に嚙みついた。 まゆみの白い皮膚が裂け血が滲む。血液と共に霊力が更に御門の体に流れ込んでいく。亨の霊力を感じ、御門は立てた歯をよりまゆみの肩に食い込ませた。「離せ!私のものよ!――」 急速に失われる霊力を感じ、まゆみは手に持っていたナイフを御門の足に突き立てた。「御門君!」 東雲が叫ぶと同時に、真神がまゆみの肩に再び牙を立てた。今度はその体を貫くと、まゆみの体から黒い|靄《もや》が立ち、人の形
Last Updated: 2026-08-21
Chapter: 人形編 29.本体
 篠川家に到着すると、まゆみが出迎えた。 |東雲《しののめ》が|亨《とおる》の代わりの助手だと挨拶をすると、一瞬残念そうな表情を見せたが、すぐに元に戻り二人を家の中に迎え入れた。 |御門《みかど》は両手をポケットに入れたまま、家の中に上がると「まゆみちゃん――」と、まゆみの背中に声をかけた。「何?」 振り返ったまゆみに、御門はいたずらっぽい笑みを浮かべると、ポケットから鍵を取り出してまゆみに手渡した。「とーるちゃんさ、今朝家ですっころんで足捻っちゃってさ。なーんか体調悪いみたい。悪いけど様子見てきてくれない?」「え――でも……」 御門から鍵を受け取ると、まゆみは頬を紅潮させながら、戸惑っているように見えた。「今日は俺も遅くなりそうだし、とーるちゃんの知り合いってまゆみちゃんくらいなんだよね。住所は後で送っとくから、平気そうならすぐ帰ってくれていいからさ」 御門の言葉に、「様子を見るだけなら――」と、心なしか嬉しそうに答えると、二人をリビングに案内してさっさと自室に戻り、人形を持った両親がリビングに入ってくるのとほぼ同時に、まゆみは家を出て行った。「何度もご足労いただき、ありがとうございます。――あの、娘の……|暁《あかる》が本当に我々を呪っているのでしょうか」 頭を下げながら真理子が御門に尋ねた。「呪いなんかじゃねーよ。言ったろ、生きる事への執念がすげーんだよ。あんたらの娘は」 東雲は隣で柔和な表情を崩さず、茶を飲んでいる。「――どういうことですか」 篠川が気色ばむと、御門は二本立てた指を篠川に向けた。「茶番はいいんだよ――思った通り、本体はあの女だな」 そう言って御門は早口で「|急急《きゅうきゅう》|如律令《にょりつりょう》」と唱えると、篠川は御門の霊力に縛られ動けなくなった。「この――」 さっきまで涙ぐんでいた真理子は、手元にあった雑誌を御門に投げると、60歳を目の前にした中年とは思えない素早い動きで御門に襲い掛かった。「|天霊霊地《てんれいれいち》|霊霊《れいれい》――我が元に|来越《きこ》し給え」 東雲が隠し持っていた人形の呪符をかざすと、呪符は|錫杖《しゃくじょう》を手にした御門ほどの大きさの鬼神の姿に変わった。 鬼神は襲い来る真理子の攻撃を錫杖でいなすと、錫杖を振りかざし真理子の体を打ち付ける。 式神が攻撃
Last Updated: 2026-08-21
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