LOGIN「私は鉄道の投資権が欲しいのです」そのために貴族の地位を手に入れたいベッカー商会の若き会長のヒュー・ベッカーは、工業化の波に乗り遅れ見る間に没落したアルマン侯爵家に求婚する 25歳の婚期を逃したアデライン・アルマンは家族や領地のために平民のヒューとの結婚を決意するが、結婚した最初の夜からヒューはアデラインの寝室を訪れることはなかった 「運命の出会いではなかった。後から運命になった」 そんな夫婦のお話です
View More16歳のヒューは時間さえあれば本屋に行き、店主の目を盗んで、本をこっそりと読んでいた。 数年前ほど前に父の小さなレンガ小屋は、いつの間にか町一番のレンガ工場になっていた。 商売が広がると使用人の数も増えた。その中には文字の読める使用人も数人いたので、ヒューは使用人から字の読み書きを本格的に学んでいた。 読書は学習したことを反復するだけでなく、知識を身に付けるためにも最適だった。 だが、父は「職人が勉強なんかしてどうする」と言って本を買うことを許してはくれなかった。 工場を建てて、飛ぶようにレンガが売れても家はまだ貧しいままだったからだ。 父は学はないが先見の明はあったと、ヒューは大人になってからも思い返す。 だから周りから笑われても、母に泣かれてもレンガを焼き続けたのだ。 工場を建てるにはまとまった数のレンガが必要になる。 父はその事実だけでひたすらレンガを焼き続けていた。 「100や200あってもはした金で買い叩かれるだけだ。工場の壁一面を作れるくらいの量を持ってって初めてまともに商売相手として見てくれる。そんなもんだ」 のちに父がぼそりと言っていた言葉は正しかった。 しかし、金が手に入ると窯を増やしたり、原料や石炭の高騰でレンガ小屋を続けられなくなった窯を買ったりしていたおかげで、いつまでも金は貯まらなかった。 それでもレンガはまだまだ売れて、気が付くとちょっとした規模の工場にまでなっていた。 もちろん、レンガが売れた金だけで建ったわけじゃない。ほとんどが借金だったが、返済には苦労しなかったし少しずつだが、生活は楽になっていた。 ヒューはそれでいいのかもしれないと思ったが、勉強をやめようとは思わなかった。 侯爵家のお嬢様が言っていた通り、得られるものを得られる時に得なければもったいないと思ったからだ。 あのお嬢様のことは正直覚えていなかった。だが、その言葉だけはいつまでもヒューの胸に刻み込まれていた。 ある日、いつも通りヒューが本屋の目を盗んで本を読んでいると、いきなり後ろから頭を殴り飛ばされた。 やせっぽっちのヒューの体が吹っ
「おいおい、今日はやけに煙たいな」 アリスター・ケイルはひっきりなしにパイプをふかすヒューを冷ややかな眼差しで見つめて、揶揄いを十分に含んだ口調で言った。「だったら出て行け」 ヒューはパイプを持つ手に力を入れると、アリスターを睨みつけた。「待てよ。お前のために頑張って絨毯を手に入れた親友に対する言葉がそれか?」「俺は今機嫌が悪い。親友なら察しろ」「奥方と喧嘩でもしたのか?」 アリスターは相変わらず軽薄な笑顔を浮かべている。 いつもなら好ましいこの表情も、今日は殊更腹が立つ。「絨毯の礼なら十分にしただろ」 吐き捨てるように言ったヒューからパイプを取り上げると、アリスターはそれをうまそうに口に含んだ。「そう言うなって。まぁ楽園のアラベスクを作ってる工房があったのは奇跡だったけどな。お前のいう期限に間に合わせるために俺がどれだけ骨を折ったか教えてやろうか?」 アリスターの言葉に、ヒューは苦虫を嚙み潰した顔で睨みつけるだけだった。 アリスターからの伝言には「注文の品を手に入れた。3日後の船で送る」とだけ書かれてあったことを考えると、かなり危ない橋を渡ったことは間違いないのだ。「その依頼主がルセの|地方名士《アヤーン》だと割り出して、シリストラの|軍司令官《パシャ》にちょっとした小銭を握らせてだな——」「もういい。聞かなくてもわかる」 予想通りだった。 つまり、あの絨毯を手に入れるためにアリスターはオスマン帝国の地方名士を失脚までさせていたのだ。 危ない橋どころの話ではない。 それでも、わずか2か月足らずでオスマン帝国からこの国に運び入れるのは、アリスターだからできたことに違いないと思うと何も言えなかった。「それもこれも、お前が奥方のために彼女の気に入る絨毯が欲しいなんて言うから、危険を冒してまでケイル商会の|腕木通信《シャップ・システム》まで動かしてやったんだぜ?」「それについては感謝している。だから今日お前が来ることを許したんだろうが」 ヒューはアリスターからパイプを奪い返すと、不機
アデラインのサロンは初日から好評だった。 自宅ではなく、専用の建物を使うという斬新さが、貴族女性の興味を引いたのが一番強かったのかもしれない。「本当に素敵だわ。アルマン小侯爵夫人」 鮮やかな銀朱に染めた絹のドレスを着たアデラインに、ヒドルストン伯爵夫人は笑顔で話しかけた。 ドレスコードを赤と決めたのは、アデラインの遊び心からだったが、この日に限っては顔色の悪さをドレスの色が補ってくれるという利点があった。「ありがとうございます。夫人のお力添えのおかげで、ここまで来ることができましたわ」 アデラインは笑顔で応えると、夫人を一番いい席に案内した。「まあ、素敵な赤ですわ——それは東洋のキモノですか?」「ええ。タンモノを手に入れることができましたので」「やっぱりベッカー商会で?」 ポッツ男爵夫人は興味津々といった表情でアデラインのドレスを舐め回すように見つめた。「そりゃ、ベッカー商会で買えないものはありませんわ。ご覧あそばして?この絨毯の美しいこと」「本当ですわ。ラドリー子爵夫人。こんな素晴らしい絨毯、わたくし王宮でも見たことがありませんわ」 貴婦人たちは、使用人から茶やシャンパンを受け取ると、思い思いにこの空間を楽しんでいた。 サロンのために雇い入れた使用人たちは、皆申し分なくゲストを満足させている。 アデラインはヒドルストン伯爵夫人近くに腰を下ろすと、安堵の溜息をついた。 夫人がサロンを譲ってくれてよかった。忙しくするおかげで、昨夜のことを考えなくて済む。「顔色が優れないわ、アデライン」 ヒドルストン伯爵夫人はアデラインの顔を心配そうに覗き込むと、優しく頬を撫でた。「いえ、ご招待した皆様をちゃんとおもてなしできるか不安でしたの」 アデラインは誤魔化すように微笑んだが、ヒドルストン伯爵夫人はにやりと意地の悪い優しい笑みを浮かべた。「恋の悩みかしら?」「え?」 アデラインは咄嗟にヒューとのキスを思い出して、顔を赤くした。「男性というのはね、圧倒的に言葉が足りないものなのよ。そのくせプライドだけは無駄に高いの——嫌になるわね」 ヒドルストン伯爵夫人の言葉はアデラインの心を小さく揺さぶった。「男性というのは、わたくしたちが思うほど強くないの。臆病なのね。だから面倒だけど、わたくしたち女が男性の心を察して話させてあげないとい
アデラインが食堂を出ると、すぐにヒューが追い付いて彼女の体を支えた。 いつも自分を支えてくれる頼もしい大きな手が、なぜか他人のように感じてしまう。「旦那様、大丈夫ですわ。ご心配ならキャサリンかナタリーを呼びますので」「そんな状態の君を放っておけるわけないだろう」 ヒューの苛立った声が、アデラインの心を更に締め付けた。 怒らせてしまった—— そう思った瞬間だった。 アデラインの足が地面を離れ、体がふわりと宙に浮いた。「失礼する」 ヒューはアデラインの体を易々と持ち上げて、廊下を大股で進んでいく。「旦那様、降ろしてくださいませ。怖い——」 アデラインは落ちるのが怖くてヒューのシャツにしがみついたが、ヒューは歩くのをやめなかった。「落ちるのが怖いならもっとしっかりと掴まることだ」 そう言うと更に速度をあげて進むので、アデラインはたまらずヒューの首にしがみついて、落ちないように祈るしかなかった。 階段を上がってアデラインの部屋に到着すると、ヒューは一瞬だけ躊躇ってから扉を開けた。 まさかこんな形でこの部屋に入ることになろうとは—— 部屋の中はアデラインの香りで充満していた。 抱き上げた時でさえ、彼女の匂いに理性を失いそうになったというのに。 ヒューは小さく首を振って、気を引き締めると、ゆっくりとアデラインをカウチに降ろした。 そのまましゃがんでアデラインの顔を覗き込むと、さっきまで青ざめた顔をしていたのに、抱きかかえて怖がらせたせいか頬が紅潮している。「俺は君の夫としては物足りないだろうが、君を心配するくらいはさせて欲しい」 ヒューがアデラインの頬を撫でながら言うと、アデラインは俯いたまま首を左右に大きく振った。「そんなんじゃないんです——そんなんじゃ——」 声にならない声を絞り出そうとしたからか、思わず目から涙がこぼれ落ちた。 これまで、どれだけ辛くても泣くものか