FAZER LOGIN「私は鉄道の投資権が欲しいのです」そのために貴族の地位を手に入れたいベッカー商会の若き会長のヒュー・ベッカーは、工業化の波に乗り遅れ見る間に没落したアルマン侯爵家に求婚する 25歳の婚期を逃したアデライン・アルマンは家族や領地のために平民のヒューとの結婚を決意するが、結婚した最初の夜からヒューはアデラインの寝室を訪れることはなかった 「運命の出会いではなかった。後から運命になった」 そんな夫婦のお話です
Ver mais重いカーテンが開かれ、一気に明るくなった部屋でアデラインは目を覚ました。 「おはようございます。奥様」 ナタリーは相変わらずの仏頂面で、アデラインに頭を下げた。 「おはよう。ナタリー」 アデラインはまだ眠気をひきずったまま、もそもそとベッドから這い出た。 サイドボードには花の絵が散りばめられた陶器のたらいが2つ並んでいて、1つからは心地よさそうな湯気が立ち昇っている。 アデラインはひとりで微笑むと、湯気が立っているほうのたらいで顔を洗った。程よい温度のお湯が、夜の冷気で引き攣った顔をゆっくりと解してくれるようだ。 続いて冷たい水でもう一度洗う。冷たい水は肌を引き締めて血行を良くしてくれるのだ。 顔を洗い終えるとナタリーの差し出したガーゼの手拭いで顔を拭き、鏡台の前に腰を下ろした。 鏡台の上には昨日はなかった薔薇の香りのする化粧水や、蜜蝋を練り込んだ良い香りのするクリームなどが並べられていた。 鏡越しにナタリーを盗み見ると、少しだけ気まずそうにブラシを持って立つ姿に、アデラインは気がついていないふりをしながら微笑んで、目の前に並べられた化粧水のボトルを手に取った。 食堂で軽い朝食を済ませたアデラインは、自室に戻るとトマスから預かった予算表を睨んでいた。 一見複雑な簿記の記述に見えたが、読み込んでみるととてもわかりやすくまとめられていることに、アデラインは感心した。 おかげで今年の予算の使い道と、残りの金額を把握することができた。 アデラインはひと息ついてナタリーを呼ぶと、トマスとポーラを自室に来るよう伝言を頼んだ。 「この屋敷に招いたゲストのリストも持って来るように伝えてね」 アデラインが付け加えると、ナタリーは頷いて部屋を出た。 10分とかからずにトマスとポーラが部屋を訪れると、アデラインは予算表と書き記したメモ書きをトマスに渡した。 「屋敷の模様替えをしたいと思うの。このお屋敷にはとても高価な装飾が多いから、それを活かした配置にしたいわ。旦那様に了解を取って下さる?」 「旦那様は屋敷のことは奥様のお好きなようにとおっしゃっておられました」 トマスが答えると、アデラインは少しだけ驚いて、ついポーラを見てしまった。 ポーラは真っ直ぐに立ったまま、アデラインの顔を見返して小さく頷いた。彼女も承
ベッカー邸の食堂で初めて摂る夕食は、アルマン侯爵家とは違い、ロシア式でサービスされるのだと、食堂に向かう途中でトマスが教えてくれた。 アルマン侯爵家では、フランス式——と言えば聞こえがいいが、質素な食事がいくつかテーブルに並べられただけのもので、一品ずつ提供されるロシア式は本や新聞でしか見たことがなかった。 「本日の給仕を務めさせていただきます、第一侍従のジーン・フィッシャーです」 トマスが紹介した従僕は、夫と同じとび色の瞳を細めて会釈をした。 瞳の色は同じでも、ジーンはフットマンらしく若々しく、彫刻のように美しい顔が華やかで、ヒューガードとは全く違うとアデラインは思った。 ジーンは、丁寧な所作でグラスにシェリー酒を注ぎ入れたが、左手でグラスの底を押さえていた。 アデラインは少しだけ眉をしかめたが、すぐにシェリー酒を口に運んだ。 癖のない舌触りのシェリー酒は、するすると喉を通り抜けた。アーモンドのような香りが鼻をくすぐり、爽やかな口当たりが食欲を増してくれるようだ。 こんなに上等なシェリー酒は口にしたことがない。 ほっと感嘆の溜息をつく間に、目の前にスープの皿が差し出された。 湯気の立った皿はそっと受け皿の上に運ばれたが、置かれる際に食器同士の重なる音が静かな食堂に小さく響いた。 アデラインは気付かないふりをして、食事を続けようとスープ皿を覗き込んで息を呑んだ。 スープは透明な琥珀色が美しい、初めて見るものだった。 「こちらはコンソメスープでございます」 トマスが伝えると、アデラインは驚きと興奮が入り混じった顔でトマスを見つめてから、もう一度スープを見つめた。 「これが……」 本で読んだコンソメスープは、大量の肉や野菜を使い捨てる上、大変な技量を要する、それはそれは贅沢なスープだった。 そんなものを一生口にすることなどないと思っていたのに、目の前で光り輝いているのだ。 アデラインはそっと、スープを掬うと一口目をゆっくりと味わった。 透明な液体の中に濃厚な牛肉の甘味が溶け込み、それを野菜たちのスパイシーな香りが包み込む。今までに味わったことの無い美味しさに、気が付くと皿はすぐに空っぽになっていた。 部屋に戻ったアデラインは、木綿の生
重いカーテンが開かれ、一気に明るくなった部屋でアデラインは目を覚ました。 「おはようございます。奥様」 ナタリーは相変わらずの仏頂面で、アデラインに頭を下げた。 「おはよう。ナタリー」 アデラインはまだ眠気をひきずったまま、もそもそとベッドから這い出た。 サイドボードには花の絵が散りばめられた陶器のたらいが2つ並んでいて、1つからは心地よさそうな湯気が立ち昇っている。 アデラインはひとりで微笑むと、湯気が立っているほうのたらいで顔を洗った。程よい温度のお湯が、夜の冷気で引き攣った顔をゆっくりと解してくれるようだ。 続いて冷たい水でもう一度洗う。冷たい水は肌を引き締めて血行を良くしてくれるのだ。 顔を洗い終えるとナタリーの差し出したガーゼの手拭いで顔を拭き、鏡台の前に腰を下ろした。 鏡台の上には昨日はなかった薔薇の香りのする化粧水や、蜜蝋を練り込んだ良い香りのするクリームなどが並べられていた。 鏡越しにナタリーを盗み見ると、少しだけ気まずそうにブラシを持って立つ姿に、アデラインは気がついていないふりをしながら微笑んで、目の前に並べられた化粧水のボトルを手に取った。 食堂で軽い朝食を済ませたアデラインは、自室に戻るとトマスから預かった予算表を睨んでいた。 一見複雑な簿記の記述に見えたが、読み込んでみるととてもわかりやすくまとめられていることに、アデラインは感心した。 おかげで今年の予算の使い道と、残りの金額を把握することができた。 アデラインはひと息ついてナタリーを呼ぶと、トマスとポーラを自室に来るよう伝言を頼んだ。 「この屋敷に招いたゲストのリストも持って来るように伝えてね」 アデラインが付け加えると、ナタリーは頷いて部屋を出た。 10分とかからずにトマスとポーラが部屋を訪れると、アデラインは予算表と書き記したメモ書きをトマスに渡した。 「屋敷の模様替えをしたいと思うの。このお屋敷にはとても高価な装飾が多いから、それを活かした配置にしたいわ。旦那様に了解を取って下さる?」 「旦那様は屋敷のことは奥様のお好きなようにとおっしゃっておられました」 トマスが答えると、アデラインは少しだけ驚いて、ついポーラを見てしまった。 ポーラは真っ直ぐに立ったまま、アデラインの顔を見返して小さく頷いた。彼女も承知
「わたくしは、朝は食堂で食事をします」 アデラインが言うと、トマスは「承知いたしました」と頷いた。 ヒューガードがどの程度の権限を認めたのかという問いには、トマスは明確には答えなかった。「奥様に不自由がないようにと仰せつかっております」との返事は、肯定的に受け止めると女主人の全権を認めるとなるし、否定的に受け止めると単なる客人の扱いだとなる。 アデラインはどちらなのかと問いただすことはしなかった。その代わり、確認すればよいのだ。「屋敷の誂えを整えたいわ。屋敷の維持費や改修費の予算を見せてもらえるかしら」 その要望にも、トマスは黙って頷いた。 アデラインはその動作を見て、満足そうに頷いた。 トマスの答えで、旦那様はそれなりに自分に裁量を任せてくれている——アデラインはそう確信することができた。「夕食前に使用人を集めてちょうだい。挨拶がしたいわ」「かしこまりました。全員、玄関ホールに集まるよう申し伝えます」「お願いね」 アデラインが言うと、トマスは目元で微笑んで見せた。目尻に皺が寄るのを見て、父のアルマン侯爵が懐かしくなったが、別れたのはつい昨日のことだ。 それなのに、これからここが自分の生活する場所なのだと思うと、もう数か月も会っていないかのような切なさが胸を締め付けた。 これが結婚というものなのだろうか。 これまで一緒に過ごした温かい家庭からでて、新しい環境で1人の大人の女性として生きていく。そこにはもう、愛しい父や妹たちの温もりはなく、代わりに得た新しい家族の手を取って歩く。それが結婚なのだと亡くなった母から教えられた。 だが、アデラインはすぐに否定した。 何故なら、結婚とは1人でするものではない。そして、自分の夫は手を取るどころか、初夜はもちろん、結婚したばかりの朝にすら顔を出さないのだ。 いくら世間知らずなアデラインにもわかる。こんなのは普通じゃない。 アデラインはトマスの目尻の皺から目を逸らして、小さく両手を重ねて握った。 それでも—— もう結婚生活は始まってしまったのだ。 それならば、少なくともこの屋敷の女主人として、そして、次期アルマン侯爵夫人として堂々と振舞わなければならない。 アデラインは深く息を吸い込むと、ぐっと胸を張った。「夕食のお召し替えはいかがいたしましょう。ミセスポーラを呼んでまいりましょう





