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琉球狸
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Novels by 琉球狸

セカンドバージン...咲き遅れたシンデレラ

セカンドバージン...咲き遅れたシンデレラ

四十四歳のシングルマザー・白石美奈子。恋も、自分が女性であることも、ずっと心の奥へしまい込んできた。そんな彼女が、行きつけのBARで偶然出会ったのは、憧れ続けてきた国民的人気ダンスユニット「Sky beat」のメンバー・碧だった。一夜の出会いが、止まっていた美奈子の時間を静かに動かし始める。しかし、芸能人と一般人、十五歳の年齢差、娘の存在、そして世間の視線が二人の前に立ちはだかる。それでも、もう一度だけ恋を信じたい――。これは、大人になってから始まる、切なくも温かな再生のラブストーリー。
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Chapter: 第7話 偽りのCinderella...
背の高い、優しそうな雰囲気の男性だった。 結愛が警戒した表情を見せると、男性は慌てたように封筒を差し出す。 「怪しいものじゃないよ。これ、お母さんに渡してほしくて」 白い封筒。表には丁寧な文字で「美奈子様」とだけ書かれている。 「……お母さんの、知り合い?」 「うん。仕事の関係でね。ちゃんと本人から渡してって頼まれたものだから、安心して」 男性はそれだけ言うと、軽く会釈をして去っていった。 結愛はしばらくその後ろ姿を見送りながら、封筒を制服のポケットにしまった。 (誰だろう。お母さん、こんな綺麗な字を書く知り合いいたっけ) なんとなく胸がざわついたけれど、結愛はそれ以上深く考えないことにした。 夕方、仕事から帰ってきた美奈子を、結愛が玄関で待ち構えていた。 「お母さん、おかえり。今日ね、学校に向かうところで男の人に呼び止められて」 「男の人?」 美奈子の表情が一瞬、強張る。 「お母さんの知り合いだって。これ、渡してって」 差し出されたのは、白い封筒だった。 見覚えのない筆跡。 けれど、なぜか胸の奥がざわりと音を立てる。 「ありがとう、結愛。手、洗ってきなさい」 「はーい!わかった」 結愛が洗面所に向かうのを見送ってから、美奈子はリビングのソファに腰を下ろした。 封筒を裏返す。差出人の名前はない。 ただ、封を切った瞬間、ふわりと香った紙の匂いに、なぜか覚えがあるような気がした。 中から出てきたのは、便箋と――小さな箱。 便箋を開くと、少し丸みを帯びた、けれど几帳面な文字が並んでいた。 『急なお手紙すいません。 美奈子さんにもう会えないとメッセージをいただいてから、美奈子さんに僕の覚悟を知ってほしくていろいろと準備をしました。 今度、僕らのアルバムリリースを記念したパーティーをする予定で…… 是非、娘さんと二人で参加して欲しいです。 僕の特別なお客様だから、とスタッフには説明しているので、一緒に入れたネックレスを受付に見せてください』 美奈子の手が、止まった。 (碧……) 心臓が、大きく跳ねる。 震える指で、小さな箱を開ける。 中には、トップにアクアマリンをあしらった、上品で可愛らしいネックレスが収まっていた。 碧の瞳の色を思わせる、澄んだ水色。 「碧ったら、そんな無茶な……」 呟いた声は、思っ
Last Updated: 2026-07-22
Chapter: 第6話 もう幸せになっていい...
「聴いてください... On My Way to Cinderella」ーーー♪♪♪On My Way to Cinderella雨上がり 君を見つけた夜少し寂しそうに笑ってたね誰かのために生きてきた時間を隠すようにグラスを揺らしてた「もう恋なんてしないから...」その言葉の奥にある涙を僕だけは見逃せなかったーーー♪♪♪(優しく指を弾くギターの弦から流れる音色に碧の優しさが、心に響く...)時計の針は戻せなくても未来なら変えられるから君が閉じたその心のドアを焦らず 何度でも叩くよ(ステージ上がライトアップされて、翠はこちらをみているように画面を見つめている)ーーー♪♪♪On My Way to Cinderella今日、僕は君を迎えに行くガラスの靴なんていらない君のその笑顔だけあればいい幸せになる順番なんて誰にも決められないから遅すぎる恋なんてない君は今でも僕だけのシンデレラーーー♪♪♪(「俺、一夜限りのつもりで、昨日美奈子さんを誘ったわけじゃないんです」あの時、碧が話していた決意が目の前にいや、世界中に流れている...私なんかのために...今は、勘違いでも良い。そう感じていた。)「一夜限りの綺麗な思い出...」震える声でそう言ったねその優しさも その強さも全部抱きしめたいと思った君が誰かを守るように今度は僕が君を守りたいーーー♪♪♪時が君を連れて行って忘れることなんて出来やしない会えない時間だけが君への決意を僕にくれた。もしこの歌が届くならもう一度だけ君に笑ってほしいーーー♪♪♪On My Way to Cinderella今日も僕は君を迎えに行く魔法なんてなくてもいい君と歩く明日があれば時計が零時を告げたってこの恋は終わらせない“もう幸せになっていい”そう伝えるために今日、僕は君を迎えに行くOn My Way to Cinderellaーーー♪♪♪曲が終わり、碧が照れながら笑顔で言う。「聴いてくれてありがとうございます」美奈子の頬には、静かに涙が伝っていた。それを見てびっくりしている結愛。「お母さん!どうしたの!そんなに感動した!?」「いや...違うの...ごめんね。」無理に笑おうとするけど、涙が止まらない。その涙は、碧を信じ
Last Updated: 2026-07-22
Chapter: 第5話 for Cinderella...
結愛を抱きしめながら、美奈子は自分の心の中に、静かに芽生え始めていた感情の存在に、改めて気づかされていた。昨夜、あのBARのカウンターで、隣に座った碧が屈託なく話しかけてきた瞬間から、何かが変わり始めていた。あの出会いは、あの”約束”を揺るがすものになりつつある。それが、幸せなことなのか。それとも、また同じ過ちを繰り返すことになるのか。美奈子には、まだ分からなかった。「……ちゃんと、朝ごはん作るね」しばらくして、美奈子はそう言って立ち上がった。これ以上、この話を続ける気力が、今はなかった。「学校行く準備、していいよ」「……うん」結愛は小さく頷いて、自分の部屋へと戻っていった。一人になったリビングで、美奈子はキッチンに向かいながら、スマートフォンをちらりと見た。碧からのメッセージが、一件届いていた。『美奈子さん、早速メッセージ送ってみました。昨日はありがとう。また会えますか』その短い文面を見つめながら、美奈子は深いため息をついた。ーーーどうすればいいんだろう。答えの出ない問いを胸に抱えたまま、美奈子は包丁を手に取った。娘のために、いつも通りの朝食を作るために。朝食を終え、結愛を学校へ送り出した後。一人になったリビングで、美奈子はスマートフォンを手に取った。画面には、まだ既読のついていない碧からのメッセージが表示されたままだった。『美奈子さん、早速メッセージ送ってみました。昨日はありがとう。また会えますか』何度も読み返した文面。昨夜は、この言葉に胸を弾ませていたはずなのに。今はただ、重たい石を飲み込んだような気分だった。結愛の顔が、脳裏に浮かんでは消える。 ーーまた、あんな思いするのは、絶対に嫌だから!美奈子は深く息を吸い、ゆっくりと文字を打ち始めた。『昨日はありがとう。楽しかった、本当に。でも、今朝帰ってから、娘にすごく怒られちゃって』打っては消し、打っては消しを繰り返す。素直に書こうと決めたはずなのに、指先がなかなか進まなかった。『高校生の娘がいるのに、朝帰りなんて、って。当然だよね。ちゃんと考えなきゃいけないことを、私、忘れてた』一度、深呼吸をする。ここから先が、一番言いたくなかった言葉だった。『碧くんのことは嬉しかった。本当に。でも、私にはもう、娘との約束があるの。誰かとまた一緒にいるってこと、簡単に
Last Updated: 2026-07-22
Chapter: 第4話 恋と約束のあいだ。
タクシーを降りたのは、朝の六時を少し過ぎた頃だった。初夏の空はもう白み始めていて、美奈子は昨夜のドレスの上にトレンチコートを羽織っただけの格好で、マンションのエントランスに向かって歩いていた。足取りは軽いのに、どこか後ろめたい。まるで高校生が門限を破って帰ってきたような、そんな感覚が胸の奥にあった。 ――昨夜、あのBARで初めて会った時の碧の笑顔が、まだ瞼の裏に焼き付いている。二十歳も年下の青年に、こんな気持ちにさせられるなんて。四十四にもなって、まるで恋を知ったばかりの少女みたいだ。エレベーターを降り、玄関の鍵を開ける手が、少しだけ震えた。物音を立てないよう、そっとドアを開く。リビングの明かりが、ついていた。「……ただいま」小さな声で言いながら靴を脱いでいると、ソファの方から声が飛んできた。「おかえりって言えると思う?」結愛だった。制服のまま、ソファに膝を抱えて座っている。目の下にはうっすらとクマができていて、スマホの画面には見覚えのあるSNSのタイムラインが表示されたままだった。「結愛……お泊まり会は?もう学校あるでしょ、早く寝な――」「寝れるわけないじゃん...連絡もつかないし!何からあったのかと思って抜けてきた!」結愛の声は、刃物のように鋭かった。「お母さん、朝帰りだよ? 分かってる? 高校生の娘がいる家の母親が、朝の六時に帰ってくるって、どういうことか分かってんの?」「それは……」「年甲斐もなく、朝帰りとかやめてよね!!」その一言が、美奈子の胸に深く刺さった。反論できない。事実、その通りだから。美奈子は玄関先に立ち尽くしたまま、コートの袖をぎゅっと握った。昨夜の高揚感が、急速に冷めていくのが分かる。「ごめんなさい......心配かけたね」「心配とかそういう次元の話じゃなくてさ」結愛は立ち上がり、キッチンの方へ向かいながら、背中越しに言った。「誰と一緒だったの」問いというより、確認だった。まるで、答えをすでに知っているような口ぶりで。美奈子は言葉に詰まった。碧のことを、どう説明すればいいのか。二十歳年下のアイドルと、BARで出会ったその日のうちに一晩過ごしたなんて、口が裂けても言えない。少なくとも、今は。「……友達と、飲みすぎちゃって。そのまま友達の家に泊まったの」我ながら、下手な嘘だと思っ
Last Updated: 2026-07-22
Chapter: 第3話 ガラスの靴の、その先へ...
碧は一度言葉を切って、 まっすぐに美奈子を見つめた。「美奈子さんのこと、もっと知りたいです」その言葉に、美奈子の胸の奥が、 これまで感じたことのない温かさで満たされていく。十五年間、恋愛なんて自分には縁のないものだと思って生きてきた。 娘のため、生活のため、ただがむしゃらに働いて。 自分の心の中にある「女性」としての部分は、 とっくに眠ってしまったものだと、そう思い込んでいた。けれど今、目の前にいる青年の言葉が、 その眠っていたはずの部分を、静かに揺り起こしていく。「碧くん……」「はい」「私、本当にただの、四十四歳の普通の女なのよ。 綺麗でも若くもないし、芸能人の彼女なんて、 とても務まらないと思う」「務まるとか務まらないとか、そういうことじゃないんです」碧は美奈子の手を両手で包み込んだ。「俺は、美奈子さんだから、知りたいと思ったんです。 綺麗事に聞こえるかもしれないけど、本当にそれだけなんです」窓の外から差し込む朝の光が、 二人を優しく包んでいた。美奈子はしばらく迷った末、 バッグからスマートフォンを取り出した。「……本当に、いいの?」「もちろんです」碧は嬉しそうに笑って、 自分のスマートフォンを差し出した。連絡先を交換しながら、美奈子はふと思った。 これは、人生の思わぬ寄り道なのか、 それとも、新しい何かの始まりなのか。答えはまだ、わからない。 けれど、少なくとも今この瞬間、 美奈子の心は、久しぶりに、確かに弾んでいた。「あ、そうだ」碧が何かを思い出したように言った。「今度、俺たちのライブがあるんですけど、 よかったら観に来てくれませんか? 関係者席、用意しますから」「え、そんな、悪いわよ」「悪くないですよ。俺が呼びたいんです」碧はいたずらっぽく笑って続けた。「それに、美奈子さんが客席で応援してくれてると思うと、 俺、いつもより頑張れる気がするので」美奈子は思わず笑ってしまった。 こんな風に誰かに求められるのは、 一体いつ以来だろう。「わかった。じゃあ、行かせてもらおうかな」「約束ですよ」碧は小指を差し出した。 美奈子は少し照れながら、その小指に自分の小指を絡めた。まるで、少女に戻ったような気分だった。けれど同時に、頭の片隅では現実的な不安も渦巻いていた。 もし、これが週刊誌にでも知られたら
Last Updated: 2026-07-21
Chapter: 第2話 夢と現実の間で...
美奈子は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。憧れのスターが、自分の隣で、まっすぐにこちらを見つめている。「え、でも……お忙しいんじゃ……」「今日はもうオフです。それに――」碧は少し声を落として、美奈子だけに聞こえるように言った。「こんな風に、飾らずに話せる人と飲むのって、実は貴重なんですよ」その言葉の温度に、美奈子の胸の奥が小さく疼いた。頬を赤らめる美奈子を見て笑顔になる碧。「マスター!!彼女もおかわりをお願いします」マスターは、オーダーに微笑みながら 颯爽にカクテルを出す。「じゃあ、改めてこの出会いに乾杯」美奈子は碧と乾杯をする。それから、気軽に会話の雰囲気をエスコートしてくれる碧にお酒のペースが進み…気づけばラストオーダーまで、碧と一緒にいた。「じゃあ、そろそろ行きましょうか?」と席を立つ碧。財布を取り出し、焦りながら…「マスター、私、お会計…」笑顔でマスターが一言。「お会計は、お連れ様から頂いておりますよ」「えっ!?」と碧を見ると、碧が一言。「素顔の俺もカッコつけさせてくださいよ」「行きましょうか」碧が手を取る。私は顔を真っ赤にしながら、碧と一緒にBARをでた。そこから、お酒が進み、夢の時間がふわふわと意識を朦朧とさせる。はっと目を醒めると、知らない天井が美奈子を迎える。気付けば、来ていた衣服も床に散らばっている。「はぁ、年甲斐もなく何やってんだろ…」と横を見ると…!?碧が寝ている。「……嘘っ……でしょ?……」美奈子は声にならない悲鳴を、両手で口を押さえて押し殺した。隣で規則正しい寝息を立てているのは、間違いなく碧だった。 乱れた前髪の下、閉じた瞼。テレビで観るときの完璧に整えられた姿とは違う、無防備な寝顔。 それがかえって「本物なんだ」という現実を、美奈子に突きつけてくる。(どうしよう、どうしよう、どうしよう)頭の中で同じ言葉がぐるぐると回る。 昨夜の記憶は、まるで靄がかかったフィルムのように、ところどころ途切れていた。 BARを出たこと。タクシーに乗ったこと。碧が笑いながら何か冗談を言っていたこと。 そして、ホテルの部屋に入ってからの記憶は――正直、断片的にしか残っていない。美奈子はそっと布団の中を確認して、もう一度短く悲鳴を上げそうになった。
Last Updated: 2026-07-21
「夫の子を妊娠したのは親友でした。」

「夫の子を妊娠したのは親友でした。」

「あなたの旦那さんの子、できちゃった」 親友にそう告げられた瞬間、私の世界は壊れた。 しかもその理由は―― 「だって、美咲産めないじゃん」 夫と親友。 一番信じていた二人に裏切られた私は、静かに決めた。 もう、許さない。 愛も、人生も、未来も―― 全部、奪い返す。
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Chapter: 第32話「大事な命でしょ?」
ポケットの中で、スマホが震えた。 画面に表示された名前に、 一瞬だけ呼吸が止まる。 沙織。 嫌な予感がした。 震える指でメッセージを開く。 そこに書かれていたのは... 「拓也……生理来ないんだよね。」 その一文を見た瞬間、 頭の奥で何かが崩れ落ちる音がした。 ……ああ、そういうことか。 今までの沙織の異常な執着も、 あの歪んだ笑顔も、 全部、この瞬間に繋がっていたんだ。 でも... これは、全部俺が招いた結果だ。 逃げ場なんて、どこにもない。 美咲の笑顔が、脳裏に浮かぶ。 あいつは何も知らないまま、 俺を信じている。 ……なのに俺は。 「美咲……本当に、ごめん……」 誰に向けるでもない謝罪が、 小さくこぼれた。 震える指で、沙織に返信を打つ。 「……責任は取るから」 送信ボタンを押した瞬間、 取り返しのつかない現実が、確定した。 ......それから。 俺は仕事を理由にして、 沙織との接触を意図的に避け続けた。 届くメッセージには、 最低限の返事だけを返す。 「大丈夫?」 「いつ会える?」 「ちゃんと考えてる?」 そのどれにも、 曖昧な言葉でしか返せない。 ……わかってる。 最低だってことくらい。 でも...... 正直に言えば。 もう、関わりたくなかった。 あの一言を送ったくせに、 “責任を取る”なんて言ったくせに、 現実から目を逸らしているのは... 他でもない、俺自身だった。 明日バレてもいい…… そんなヤケになった日々を、どうにかやり過ごす。 最低限の生活。 美咲が作ってくれるご飯も、 最近は味がしない。 それでも俺は、 嘘を上塗りしながら生きていた。 そんな日々が続いていた――ある日。 美咲が、妙なことを言い出した。 その日、俺は沙織の家に少しだけ顔を出し、 自宅へ戻った。 「ただいま……」 キッチンから顔を出した美咲が、柔らかく笑う。 「おかえり。いつもお疲れ様」 「……あれ、起きてたの?」 「うん。ちょっとだけ。 拓也の顔見てから寝たくて」 「無理すんなよ……ありがとな」 「ご飯、温める?」 「……軽くでいいや」 いつも通りの会話。 いつも通りのはずなのに―― どこか、空気が違った。 「……やっぱり今日も、遅か
Last Updated: 2026-05-12
Chapter: 第31話「罰を待つ男」
「美咲に何かあったの?拓也さん」 にっこりと笑う沙織に、俺は強く言葉を返した。 「美咲が倒れたって連絡があった!! 今は構ってやれない! お願いだから邪魔しないでくれ!!」 その瞬間...... 沙織の表情が、はっきりと歪んだ。 「……美咲の話はしないでって言ったよね!!」 張り裂けるような声。 その目は、まるで笑っていなかった。 背筋に、ぞわりとした寒気が走る。 ……なんなんだよ。 どうして、こんな時にそんなことが言える。 胸の奥に、怒りと同時に 言いようのない違和感が広がっていく。 そして初めて―― 俺は沙織を“疎ましい”と感じた。 けれど、それは同時に 自分自身への嫌悪でもあった。 美咲を裏切っているのは、俺だ。 この状況を招いたのも、全部......俺自身。 だったら、これは当然の報いなのかもしれない。 ここで取り乱せば、全てが終わる。 分かっているのに、 胸の奥で何かが、ゆっくりと黒く濁っていく。 愛情だったはずの感情が、 形を失い、“執着”へと変わっていく。 ……それを、俺ははっきりと自覚していた。 「……ごめん。悪かった。気が動転してた」 「うん……ならよかった」 何事もなかったかのように、 沙織は俺に抱きついてきた。 その腕の力が、やけに強い。 俺は、それを振り払えなかった。 むしろ.......抱きしめ返してしまった。 事情を話すと、沙織は迷いなく言った。 「一緒に行こうよ。私も心配だし……」 そして、続ける。 「今すぐ行くと逆に怪しいよ? 明日なら自然に会えるしさ」 「……」 「そしたら、二人でもっと一緒にいれるじゃん?」 無邪気に笑うその顔が、 どうしようもなく怖かった。 ……もう俺には、止められない。 ごめん。美咲…… 「病院で、たまたま会ったことにしよう」 その提案に、頷くしかなかった。 断ったら、何をするか分からない。 ......俺は、もう怯えていた。 こうしてまたひとつ、嘘を積み重ねる。 翌日、俺たちは病院へ向かった。 病室で再会した美咲の表情は、凍りついていた。 ……当然だ。 こんな偶然が、あるはずがない。 それでも俺は... 美咲の無事を、この目で確かめたかった。 「美咲!大丈夫か!? 心労で倒れたって聞いたけど
Last Updated: 2026-05-07
Chapter: 第30話「手遅れの夜」
あの日から、沙織からの束縛が強くなる。毎日、執拗に送られてくるメッセージ...「今日、会えるかな?」「連絡ないの?」「部屋で待ってるからね」と誘惑を誘うような、沙織の際どい画像が添付されて送られてくる。そして俺は、その異常な行動を抑えるために、自分自身も狂った流れに巻き込まれていく……。美咲はあの日から、まるで何かを諦めたように、おとなしくなっていた。傷付けた罪悪感はあった。大袈裟になる前に落ち着いたのなら...俺は、それで済んだのだと、勝手に思い込んでいた。最近は、どうやったら沙織との関係が切れるかばかりを考えている。美咲も子供が欲しい...と悩んでいるみたいで相談があったのだが...沙織との一件が終わるまでは...興味がないふりをして、やり過ごした。そんな生活が続いていた。こんな生活が長く続くわけがない...早く、どうにかして終わらせないとその思いで常に心はモヤモヤしていた。そして...とうとう、俺が恐れていたことが起きた。いつものように沙織から着信がくる...「今日、時間ある?」「ちょっと話があるんだけど、これないかな?」沙織から普段とは違うような文面...「大丈夫だよ。部屋に向かえばいいかな?」「ううん。いつもと違う感じが良いからカフェにこれない?」......嫌な予感がする。疑心ながらに俺は「了解」とだけ返事を打ちカフェに向かった。奥の席から手を振る沙織。俺は向かいの席に座る。「どうしたの?急に...長い時間は無理だよ」沙織に少し面倒な態度で声をかける。「たまには良いじゃん?...ちょっと聞きたいことがあったからさ」何か良いことがあったのか?上機嫌な沙織は話を続ける...「ねぇ...私と拓也の将来って...どうしたいとかどうなりたいってある?」将来...?どうしたい?もう、終わりにしたい、は多分答えじゃない。沙織は急に何を考えているんだ?。そもそも関与しないって...「どうしたいって...?」俺は苦笑いをしながら言葉を返す。「だから...私達の将来だよー。結婚とか、子供とか...?ちゃんと考えてる?」また、沙織のズレた感じが出ただが、今回は機嫌良く話している...何を企んでいるんだろう...けどここで話を合わせないとマズイ...「そ
Last Updated: 2026-04-30
Chapter: 第29話「果実の代償」
「必ず!約束するから待ってて」「うん...わかった...でも来なきゃ...」と途中で電話が切れた。俺は...沙織を止めなきゃ...全てが終わってしまう...。と言う答えだけははっきりとしていた。退社後に、すぐに沙織の家に向かう。「...来てくれたんだね。」不機嫌そうにドアを開ける沙織に歪な雰囲気を感じていた。「何があったんだよ?美咲に何か話したのか?...おいっ!ちょっ...」玄関に入るとすぐに押し倒された。上にまたがる沙織...「ねぇ...しよ...」押さえつけられるように俺は抵抗せずに沙織を受け入れた。気持ちが晴れた沙織が俺に倒れ込む...その沙織を抱きしめる。「落ち着いた?...何があったか聞かせてよ?」沙織は目を合わせずに答える。「なんか...幸せそうに拓也の話してた。それが...なんか...見下されてるように感じちゃって...」俺は、その話を理解できなかった。俺たち夫婦の仲には介入しないんじゃなかったか?「私にもさ...何かあったら助けたいだってさ」「頭きちゃってさ...じゃあ拓也さんちょうだいよ!って言ってやろうかなって...」「!?!?...話したのか!?」俺は咄嗟に沙織の顔を見る。「話してないよ...ただ、そんな態度だから拓也さんも疲れるんだよっては言った」俺は、その発言を聞いて血の気が引いた。そんなこと言ってたら美咲はきっと何か勘繰るかもしれない...何を考えてるんだ...この女は...焦りと困惑で表情が歪む前に、沙織を退けて顔を背ける。「ねぇ...怒らないでよ。最近、会えてなかったから寂しかったの」背中から聞こえる声に、俺は冷たく返す。「ひとまず、美咲の様子見てくるから...」背中から沙織が俺を抱きしめる。「また、来てくれるよね...」「あぁ...安心して...離れたりしないから」と沙織の手を振り払い顔を見ずに沙織の家を出た。帰路の最中、頭の中が焦りでいっぱいになる。まずい…沙織の軽率な一言が、どこまで美咲に届いているのか…美咲は昔から人に責められることになれていない。けど...あの一言だけでも、何か引っかかっている可能性は高い「くそっ…」思わず舌打ちが漏れる沙織のことよりも、今は美咲だもし疑われていたら.....
Last Updated: 2026-04-29
Chapter: 第28話「バレてない、はず」
沙織との約束の三ヶ月が過ぎた後も、俺は沙織との関係を終わらせることができなかった。いや、俺が終わらせなかったんだ。終わるはずだった。終わらせるべきだった。それでも、俺は沙織のそばの居心地が...そう思ってしまったんだ。美咲とは...悪いことをしている自覚からか、それとも、バレることへの恐怖からか。明確な理由を説明することができない、が気づけば俺は、彼女と過ごす時間を避けるようになっていた。目を合わせないように。会話を減らすように。“いつも通り”を装いながら、少しずつ距離を置いていく。そうして...半年。一年。時間が過ぎていく中で、本来の噛み合わせだった歯車が狂い始める。美咲と沙織が昔のように交流を持つようになった。バレた訳じゃない。......よな?沙織に聞いても、「気にしないで大丈夫。私がちゃんと対応しておくから、拓也さんはいつも通りにしてて」と笑顔で返された。......気にしなくていいんだよな。と沙織との時間を過ごして自宅に戻る。「おかえりなさい。夕飯できてるよ」美咲はいつものように、俺を待ってくれている。昔はその寂しそうな顔から嬉しそうにおかえり、と言ってくれる事が嬉しかったのに...今はそのおかえりを聞くと苦しい。「今日は疲れたから、お風呂入ったら……すぐ寝るわ」バレてないよな...俺は疑いを持つとすぐに顔に出してしまう...なのでその日はすぐにシャワーに向かい就寝した。大丈夫...美咲はいつもと変わらない...バレてない...バレてない.........次の日の朝、いつもと変わらない美咲の表情に俺はほっとしていた。仕事の支度を済まして、靴を履き、ドアに手をかける。「じゃあいってきます」「.......いってらっしゃい」その声に、一瞬の間があった気がした。振り返るかどうか迷ったが...俺はそのまま家を出た。........そしてまたある日の夜だった。その時は、仕事が立て続けに大きな案件が入り残業が続いていた。...沙織に会いたいな。なんて、思ってしまう自分を押さえ込み美咲を安心させる事もしなきゃと沙織との時間が取れない日々が続いた。そんな時だった。沙織からメッセージが入る。「もう、美咲にうちらのこと喋ってもいい?」
Last Updated: 2026-04-28
Chapter: 第27話「終わるはずだった関係」
沙織との約束内容はこうだった。 三ヶ月間生理週間を除いた日に、 沙織の自宅に行き性交渉を行う。 それで懐妊した場合は、認知もせず 何もしてこなくて良い... もし出来ない場合には、三ヶ月後... この関係をなかった事にしてほしい...と 仕事に関しては沙織が話をしてくれて 成約がすんなり決まった。 他店舗への紹介などもすんなりと話が 進んでいった。 俺は、会社の評価も上がり... 今までの劣等感を拭い去らせてくれた。 ただ... そこに罪悪感が上塗りされていった。 沙織が休みの日などに必ず通知が入る。 「今日、何時に終わります?」 初めは苦し紛れに... 「20時ごろに向かいます。」 退社後に、沙織宅に向かう。 玄関を開けた瞬間、 理性は簡単に途切れた。 いつものように、 流されるままに時間が過ぎていく。 不埒な下着姿で出迎える沙織を 玄関口でそのまま抱きしめて... 1時間ほどで約束をこなす。 事後のシャワーは一緒に...と言う 後付で出来た内容も済まして 俺は美咲の元に向かう...。 自宅のドアを開け、出迎えてくれる美咲に 俺は嘘をつく... 「ただいま、今日も仕事遅くなってさ」 「ううん。大丈夫だよ。いつもお疲れ様」 そう言って、何も疑わない目で笑った。 その素直な笑顔をくれる いつもの優しさに 胸が苦しくなった。 その苦しさも回数を重ねるごとに 痛みが鈍くなっていく... 責任を感じずにする沙織との行為が 癒しになっていく自分がいた。 「拓也さんは何も悪くないのよ。 だから私を抱く時だけは楽しんで...」 腕の中にいる沙織が呟くその言葉に 甘え...堕ちていく... 俺は悪くない... 悪いことなんてしていないんだ...と ....... そうして、約束の三ヶ月が経とうとしていた ある日... ベッドの中、俺の腕の中にいる沙織が言う 「結局出来なかったね... 拓也さん、今までありがとうね。」 「それってどう言う...」 俺は突然のありがとうの言葉に戸惑ってしまう 「これ以上は、二人に迷惑かけきれない。 だから約束は約束で... 拓也さんとの時間も終わりにしなきゃ...」 約束... 当初の約束で、俺と沙織は契約していたんだ。 そして
Last Updated: 2026-04-27
三百年の妻〜常夜の花嫁〜

三百年の妻〜常夜の花嫁〜

久遠市の常夜湖で、若い女性ばかりを狙った連続殺人事件が起きている。 湖の管理を任される白瀬孝一は、事情聴取の最中、旧久遠村の歴史を調べる女子大生・桐野澪と出会う。 彼女が追っているのは、洪水の記録から“消えた二十歳の巫女”。 ——その話を聞いた夜。 孝一は、満月の湖畔に立つ妻・いろはの姿を目撃する。 「二十歳って……いちばん綺麗な年頃よね」 完璧な微笑みの奥に潜む、見知らぬ顔。 愛しているはずの妻が、もしも秘密を抱えているとしたら。 これは、三百年の時を越えた“独占愛”の物語。
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Chapter: 第38話 孝一の決意。
常夜には、朝が来ない。来るのは、灰色の薄明かりだけだ。 夜でもなく、昼でもない。 境界を失ったまま、時間だけが止まっている。孝一は、その光の中を一人で歩いていた。足音が、やけに響く。 生きている者の音だと、この世界そのものが忘れてしまったかのように。——澪。名前を思い浮かべるだけで、胸の奥が締めつけられる。さっき、自分が澪に言った言葉を、何度も反芻していた。「澪を現世に返してくれ。」あの瞬間、澪がどんな顔をしていたか。 孝一は、正直、見ていなかった。 見る勇気が、なかった。もし目を合わせていたら。 もし澪の表情を見てしまっていたら。 自分は、決意を貫けなかったかもしれない。「……これでよかったんだ。」声に出してみる。 誰もいない常夜に、その言葉は虚しく吸い込まれていくだけだった。これでよかった。 澪を、こんな場所に縛りつけるわけにはいかない。 澪には、現世で生きる時間がある。 自分のような者に付き合わせて、消えていく時間ではない。そう、自分に言い聞かせる。 何度も、何度も。言い聞かせなければ、立っていられなかったからだ。灰色の空を見上げる。 太陽もなく、月もない。 それでもどこかに、光の気配だけはある。その光の向こうに、何があるのか。 孝之助の記憶が、答えを知っていた。——お前は、まだ何も知らない。頭の奥で、そんな声がした気がした。今回、俺は孝之助の記憶を鮮明に脳内に受け入れた。自分のものではない記憶。 孝之助という男が、生涯をかけて見てきたものだ。それは、300年前から始まっていた。分かっているのは、ひとつだけだ。この忌まわしき呪いはヒルコの存在ではなく人が人を想う感情が拗れて生んだ悲劇だと...そして悲劇を過去に収めた存在がいたこと。御影。孝之助の記憶の中で、その名前は、常に畏怖と共に語られていた。黄泉の国に、王はいない。いるのは、ただ一人の女王だけだ。死者すら、その前では言葉を失うという。 生者が足を踏み入れることさえ許されない領域を、たった一人で統べている存在。御影は、気まぐれだと言われている。 気に入らない者には、一瞬で永遠の閉塞を与える。 気に入った者には、時に驚くほどの寛容さを見せる。そのどちらに転ぶかは、誰にも分からない。孝之助の記憶の中には、御
Last Updated: 2026-07-15
Chapter: 第37話「あなただ。」
「神主さん、忠告ありがとうございます。でも……私は、孝一さんを迎えに行きます」「いろはさんとの約束だから……」自分でも驚くほど、その決意は揺らがなかった。神主は、わずかに目を伏せる。「……桐野さんの気持ちは、わかる」低く、静かな声。「だが――あちらへもう一度行くなど、それは……叶わぬ話である」「どうして……!?」思わず声が強くなる。その瞬間、私は――気づいてしまった。常夜流し。村長も、孝之助も……そして、ヒルコも――すべては、“常夜”へ――“黄泉”へと繋がるための儀式。「……お気づきになられましたかな」神主の声色が、わずかに変わる。「そう。常夜へ行くには――再び“常夜流し”を行う他、術はない」その言葉が、胸の奥に、重く沈む。「桐野さん……」神主は、静かに私を見据えた。「――再び、惨劇を起こすおつもりか?」「そっ……それは……」神主の視線に射抜かれ、胸の奥で固めていた覚悟が――揺らぐ。「そう、それでよい」静かな声が、逆に残酷だった。「せっかく与えられた命を、無碍にする必要はない」私は、うつむく。言葉が、出ない。「……ごめん……」ぽつりと、零れた。――孝一さんの、あの時の表情が浮かぶ。伸ばしかけた手。何かを伝えようとしていた、あの目。「でもっ……」顔を上げる。「でもっ……!」喉が焼けるように痛い。「私は……孝一さんに、もう一度……会いたいんです」震える拳を握りしめる。唇を、強く噛む。それでも――私は、神主に縋るように叫んだ。「どうにか……手段はないんですか……!?」神主は――すぐには答えなかった。沈黙。重く、張り詰めた空気が、部屋を満たしていく。やがて、ゆっくりと口を開いた。「……ないわけでは、ない」「……え?」思わず顔を上げる。神主の目は、先ほどまでとは違う色を帯びていた。「ただし――」低く、釘を打つような声。「それは、“人が踏み入れてはならぬ領域”だ」胸が、大きく脈打つ。「それを行えば、あちらへ辿り着くことはできよう」「ただし……」神主は一歩、私に近づく。「今度は――戻れる保証はない」言葉が、理解に追いつかない。「それって……」喉が、ひどく乾く。神主は、はっきりと言い切った。「“迎えに行く”のではない」「――桐野
Last Updated: 2026-04-11
Chapter: 第36話「満ちる夜の前に」
神主は、わずかに目を伏せた。 「……ここから先は」 静かに、言葉を選ぶ。 「確たる記録ではなく――あくまで、私の推測となりますが」 蝋燭の火が、小さく揺れる。 「その男――澪様のお父上は」 「ヒルコ様に“触れられた”のでしょう」 「いえ……あるいは」 わずかに、間を置く。 「“選ばれた”のかもしれませぬ」 喉の奥が、乾く。 「その結果として起きたのが――」 「先ほどの日誌に記されていた、あの惨劇」 神主の声は、あくまで静かだった。 だからこそ、逃げ場がない。 「意思を侵されたのか」 「それとも、自ら受け入れたのか」 「そこまでは、分かりませぬ」 「ですが――」 神主は、ゆっくりと顔を上げた。 「ヒルコ様は、“媒介”を得た」 「人の世界へ干渉するための――足掛かりを」 空気が、重く沈む。 「そして……」 その視線が、まっすぐに向けられる。 「澪様」 名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねる。 「あなたは――その先におられる方だ」 蝋燭の火が、大きく揺れた。 「血の繋がりか」 「あるいは、より強い“適性”か」 「理由は定かではありませぬが……」 ほんのわずかに、声が低くなる。 「ヒルコ様は」 「あなたを、“器”にしようとしたのでしょう」 沈黙。 息が、うまく吸えない。 「――いえ」 神主は、小さく首を振る。 「“しようとしている”のかもしれませぬな」 火が、じり、と鳴った。 神主は、ふと口を閉ざした。 そして―― 何かに引っかかったように、わずかに眉を寄せる。 「……ですが」 ゆっくりと、視線を落とした。 「先ほどの桐野さんのお話……」 「少々、気がかりでしてな」 蝋燭の火が、小さく揺れる。 「その……孝一という御方と」 「いろは殿に“化けた”ヒルコ様が」 「共に日常を過ごしていた、と仰いましたな」 わずかな沈黙。 「……だとすれば」 神主の声が、わずかに低くなる。 「ヒルコ様は――すでに」 「“愛”に触れていたはずだ」 空気が、ぴたりと止まる。 「求め続けていたものを」 「手にしていた、はず……」 その言葉は、自分に言い聞かせるようで
Last Updated: 2026-04-07
Chapter: 第35話「愛を持たぬ神」
神主は、静かに目を細めた。 「では――」 ゆっくりと、口を開く。 「この社に伝わる話を、いたしましょうか」 その声音は、どこまでも穏やかで―― 「桐野さんがお知りになりたいことも、 その中に含まれておるでしょう」 そして、神主は語り始めた。 社の奥は、ひどく静まり返っていた。 揺れる蝋燭の火だけが、かすかに空間を照らしている。 「――昔の昔、この地には“最初の神”が居られたと伝えられております」 神主は、ゆっくりと語り始めた。 「しかし、その御子は……不完全であられた」 「形は崩れ、感情も持たず……ただ、空腹だけを宿しておられた」 外で風が鳴る。 「そのため、海へと流されたのです」 「流れ着いた先で、その御子は――人に拾われました」 「食を与えられ、体を拭われ、声をかけられる」 「理由など、分からなかったでしょう」 「なぜ、自分のようなものに」 「なぜ、見知らぬ存在に」 「なぜ、施しを与えるのか――と」 蝋燭の火が、揺れる。 「けれど、その施しは……温かかった」 「やがて、その疑問は形を持ちます」 「そして――知るのです」 「それが、“愛”であると」 わずかな沈黙。 「……ですが」 「その神には、“愛”を感じることができなかった」 「持っていなかったのです」 火が、じり、と鳴る。 「だからこそ――その神は、“愛”を欲した」 「理解ではなく」 「模倣でもなく」 「――本物を」 空気が、重く沈む。 「その歪みは、やがて“出来事”として現れました」 「人が一人、また一人と消える」 「そして、共通していたのです」 神主の目が、こちらを射抜く。 「深く愛されていた者ばかりが、消えていった」 喉が詰まる。 「ヒルコ様は、“知ってしまった”のです」 「愛というものの温度を」 「けれど、自らは生み出せない」 「だから――求めた」 「“自分で感じる”ために」 神主は、はっきりと告げる。 「器を」 背筋が冷える。 「感情を持つための器」 「――人の、体を」 「強く愛されている者ほど、その器として相応しい」 「だから、選ばれたのです」 「愛されすぎた者たちが」 長い沈黙。 「……しかし」 神主の声が、わずかに変わった。 「その所業を、見過ごさぬ存在がおりました」 蝋
Last Updated: 2026-04-06
Chapter: 第34話「黄泉帰りの記録」
第34話。私は、その社へと足を運んだ。これまで何度も調査に訪れていたはずなのに――どうして、今まで気づかなかったのだろう。「……すいません」静まり返った境内に、声を落とす。「どなたか、いらっしゃいませんか」しばらくの沈黙――「……はい、今参りますよ」戸の奥から、年配の男性の声が返ってきた。ゆっくりと、扉が開く。現れたのは、神主と思しき人物だった。その目が、私を捉えた瞬間――わずかに、空気が張り詰める。「あの、突然お伺いして申し訳ありません。私、桐野澪と申します。旧久遠村の調査をしていて……」名乗った、その時だった。神主の表情が、はっきりと変わる。驚きとも、困惑ともつかない顔で、じっと私を見つめていた。「……まさか……このようなことが……」小さく呟いたあと、静かに言う。「お嬢さん。どうぞ、中へ」促されるまま、私は社の中へと足を踏み入れた。通されたのは、奥の座敷だった。「ここで、少しお待ちくだされ」そう言い残し、神主は奥へと引っ込む。取り残された静寂の中、私は無意識に息を潜めていた。やがて――「すまん、すまん……書物を探しておってな」神主が戻ってくる。その手には、古びた冊子が握られていた。「桐野さんは……こちら側の人、ですかな?」「……え?」思わず聞き返す。こちら側――?神主は、私をじっと見据えたまま続けた。「いや……常夜の気配を纏っておる。屍人が訪ねてきたのかと思ったが……」その言葉に、背筋が冷える。「……常夜を、ご存じなんですか?」思わず身を乗り出すと、神主はゆっくりと頷いた。「無論。だがまずは……あなたの話を聞かせてくだされ」神主は、私の正面に腰を下ろす。私はノートを開き、これまでの出来事を語り始めた。孝一さんのこと。いろはさんのこと。常夜のこと。ヒルコのこと。そして――孝一さんの存在が、少しずつ消えていること。神主は穏やかな笑みを浮かべながら、何度も頷き、相槌を打っていた。だが――ヒルコの名を口にした瞬間だけ、その表情が、わずかに歪んだ。すべてを話し終えたあと。神主は、静かに一冊の書物を差し出した。「これは……?」受け取ると、それはかなり古い日誌のようだった。紙は黄ばみ、端は擦り切れている。「旧久遠村の村長の娘が記したものだ。……奇妙な
Last Updated: 2026-04-03
Chapter: 第33話「白瀬の痕跡」
「.......取り返しに、行く.....」そう決意を固めた私は、それから今まで調べた旧久遠村の歴史と孝一さん宅であった怪奇現象...そして、常夜流しについて...情報を照らし合わせることにした。いろはさんが話してくれた常夜についても...ノートにひとつ、ひとつ書き出していく。旧久遠村では、ヒルコのせいで...記録に残っていた壊滅的水害。これがヒルコが起こした事?常夜流しの記録違い...孝一さん宅でヒルコが話していた「罪隠し」それは村長が起こしたって。その罪が常夜流しだった?だとしたら理由はなんだったんだろう。いろはさんとの会話が頭に浮かぶ...「あの人と私は愛し合っていたの。その私をここに迎えに行くと聞かずに...」そうだ。いろはさんは私と出会った常夜にいた...「常夜流しを続けたの...」孝之助は常夜に迎えにいくために...常夜流しが必要だった。黄泉帰りのための供物...そのために...孝之助は人を生贄にしていた!?点と点が繋がっていく。村長は一度、黄泉帰りをしていてそのタイミングが水害と合っている。と言うことは代償的なことだとして...その代償でいろはさんは、常夜にそしていろはさんを迎えに行こうとした孝之助は、村長と同じ事をしようと常夜流しを続けていた。「そして、仕舞いにはヒルコとの約束の縛りを設けてヒルコの力を手に入れたとたんに、騙されて...」約束の縛り...ヒルコの力っていうのは...そして、いろはさんがいたあの常夜...うぅーん......やっぱり、色々と繋がらない部分がある...「もっと調べなきゃ...」私は、久遠市の資料館に向かおうとタクシーを呼ぶため携帯を取り出し、画面をスクロールする。ん?...あれ?...携帯の中、どの履歴を見ても「白瀬 孝一」の名前がない!?アドレス帳を開くも...トーク履歴を見ても...えっ?...えっ?...なんで?......何が起きたのわからずに、焦る私は、白瀬孝一宅に向かうことにした。「確か、孝一さん宅は常夜湖の近くで...」近づくにつれて...私は目の前の現実に戸惑いを隠せなかった。「孝一さん宅が...」「ない...」タクシーを迂回してもらい孝一さんの職場に向かう...。「すいませ
Last Updated: 2026-04-02
魔性の女に惚れられた俺は、多分人生詰んだ。

魔性の女に惚れられた俺は、多分人生詰んだ。

祖父が遺した一つの昔話――。 「薔薇のように気高く、向日葵のように眩しく、百合のように艶やかな女。彼女に恋をした者は、誰一人生きて幸せになれなかった。」 二十一歳の朔夜は、秋の繁華街で祖父が語った伝説そのものの女性・鞠子と出会う。彼女は初対面のはずなのに、朔夜の名前を知り、「私はあなたをお慕いしております」と微笑む。 惹かれた者は破滅する――その伝説は本当なのか。それとも、彼女には誰にも語れない秘密があるのか。 これは、呪われた恋の始まり。
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Chapter: 第11話 喪失の朝...柊木瑞稀
帰宅途中に視線を感じる。 さっきの佐伯と言う警察なのだろうが、 今日はもう何も話をする気になれない。 俺は後ろを振り向くことなく真っ直ぐに 自宅へ向かった。 ーーー「霧島、帰宅しました。」 朔夜をつけていた男性がどこかに連絡をしている。 「はい、警察も霧島をマークしているみたいです。 今後はより気をつけていかねばと...」 「はい!はい!申し訳ありません。」 一度電話を切り、また別の所に連絡を入れている。 「あのヘマした二人はどうした?。 そうか...もう口を割らないように餌やりでも しておけ。」 「もうヘマするんじゃねぇぞ!!!」 受話器に怒号を浴びせ電話を切った。 「ったく...あのお方は、無茶が過ぎるぜ。」 男性は、朔夜の部屋が電気が消えるのを確認して 夜の闇へと消えていった。 ーーーその日朔夜は祖父の夢を見ていた。 「なんで死んだの?」 と俺が聞くと... 祖父は少し間を置いてから答えた。 「嫉妬で死んだんや」 「嫉妬で人が死ぬの?」 「死ぬ」 祖父は断言した。 「嫉妬は毒や。自分の中で育てすぎたら、自分を殺す」 ......はっ! 目を覚ますと自宅のいつもの天井が見える。 ドンドンッ!ドンドンッ! 「またか...」 扉を開けると瑞稀がいつものように朝食セットを 片手に笑顔で立っている。 「朔夜さん!おはようございます。今日も元気な1日を......」 俺は、瑞稀の言葉を遮るように扉を閉めようとする。 扉を掴んで焦る瑞稀。 「待ってください!どうしたんですの!? 朔夜さん、よく見てみたら元気もなさそうですし」 「ごめん!今日は帰ってくれ。付き合う気になれないんだ。」 と改めて、扉を閉めようとすると... 「勤務先のバーテンダーさんのお話かしら?...」 瑞稀が1トーン声を落として呟く。 「なっ!...なんで、それを!」 「だから心配になって顔を出しに来たんですの。 下に警察の方も見張っております」 「入れてくださらない?」 俺は、扉を開けて瑞稀を部屋に招き入れた。 「...でどういうことだよ??なんで瑞稀が知っている??」 瑞稀に質問をすると何食わぬ顔で、いつものように朝食を準備していた。 「まぁ、ひとまずご準備してください。」 「それからお話しますから..
Last Updated: 2026-07-22
Chapter: 第10話 残酷な知らせ...
店長はしばらくスマートフォンを見つめたまま動かない。「……店長?」ゆっくりと顔を上げた店長の表情は、さっきまでとは違っていた。「朔夜……。」低く震える声が、静かな店内に落ちる。「紗英が……見つかった。」「でも...」「でも...?」「死体で見つかったんだって...」店長が青ざめた顔で明らかにショックを受けた顔をしている。「え?......そんな......冗談きついですよ。」戸惑う俺に店長は、喝を入れるような声で言う「こんな冗談言えるはずないだろ!!俺は、警察に向かうから店番頼めるか?」「はい!!」店長は、すぐに店を出た。(「死体で見つかったんだって...」)先ほどの店長の声が響く...。紗英さんがどうして?死体ってどういうことだ?...(「その時も、まだ彼女がいなかったら――私をもらってくれる?」)「クソッ!どうして紗英さんが...」考えれば考えるほど、訳がわからない。誰かに恨まれるような人じゃないし、重い病気なんて話も聞いたことない...じゃあ、どうして...色々な感情が複雑に胸を苦しめる中、俺は店長の帰りを待った。ネガティブな感情は押し殺し、俺が出来る一生懸命な接客を心掛けながら...(「カウンターに立つ時はね、もっと笑顔。」)(「せっかくそんなにかっこいい顔してるのに、真顔だともったいない。」)(「そうそう!」)カウンターに立ちながら、紗英の影を浮かぶ。「笑顔にならなきゃ...」俺は唇を噛みながら、紗英に言われた笑顔を守った。紗英さんに言われた笑顔だけは今夜だけでも守っていたかった。ーーー午前1時過ぎ。閉店前になり、お客様も退店した頃...アパートに訪れていた佐伯が店の扉を開いた。「すいません、そろそろラストオーダーでっ...あなたは、佐伯さん?」「いきなりですいません。黒田から連絡ありませんでしたか?霧島さんの護衛に着くようにと指示がありまして」一礼をしながら、入店してくる佐伯に食い気味に俺は言葉を返す。「理由も話さずに護衛だなんて...意味がわかりません。閉店作業もありますのでお引き取り願えますか?」紗英さんのこともあり、疑心暗鬼になっていた俺は佐伯を睨みつけてしまう。「まぁ、そんな...でもおっしゃる通りですね。私たちは外で待機してますので、色
Last Updated: 2026-07-20
Chapter: 第9話 失踪...そして...
「――え?」 聞き間違いかと思った。 「行方が、分からない……?」 「はい。ご家族から捜索願が出ています。」 頭の中で、何かがぐらりと揺れた。 「そんな……。」 「最後に、紗英さんに会ったのはいつですか?」 佐伯が、優しい声で尋ねてくる。 その柔らかさが、逆に不気味に感じられた。 「……四日前です。」 「四日前、というと?」 「お店の営業が終わったあとです。ふたりで、軽く飲みに行きました。」 「なるほど。その後は?」 「店を出て、それぞれ帰りました。それ以来、会ってません。」 「連絡は?」 「してません……。次のシフトで会うと思っていたので。」 「シフトの日は?」 「三日前です。」 「その日、紗英さんは?」 「来ませんでした。連絡もなくて……店長も心配してました。」 「なるほど。」 黒田は、手元のノートに何かを書き込んだ。 その仕草の一つひとつが、やけに重く感じられる。 「朔夜さん。」 「はい。」 「紗英さんとは、恋愛関係にありましたか?」 直球すぎる質問に、思わず言葉が詰まった。 「――いえ、違います。ただの、バイト先の先輩後輩です。」 「そうですか。」 黒田が、俺の顔をじっと見つめる。 その視線に、思わず目を逸らしそうになった。 「ただ紗英さんのスマートフォンが、自宅近くの路上で発見されています。」 「――え。」 「本人の姿はありませんでした。」 その一言で、俺の思考が完全に止まった。 スマホだけが、路上に。 紗英本人は、いない。 「そんな……。」 声が、震える。 「じゃあ、紗英さんは……。」 「まだ分かりません。」 黒田が、遮るように言った。 「だからこそ、事件性がある可能性も含めて、あらゆる方向から調べる必要がありまして。」 事件性――。 その言葉の重さに、背筋が冷たくなった。 「朔夜さん。率直に伺いますが、あなたと紗英さんの間に、何かトラブルはありませんでしたか?」 「トラブル……。ないです、そんなの。」 「金銭的なこと、恋愛的なこと、どんな些細なことでも構いません。」 「本当に、何もないです。」 声が、少し大きくなってしまった。 自分でも驚くほど、動揺していた。 「……失礼、責めているわけではありません。」 黒田が、少しだけ口調を和らげる。 「念の
Last Updated: 2026-07-15
Chapter: 第8話 最後の帰り道 神代 紗英
タクシーを降りた紗英は、夜明け前の住宅街をひとり歩いていた。火照った頬に、冷たい風が心地よい。「朔夜になんて事言ったんだろ……。」口元を押さえ、思わず笑ってしまう。「我ながら、めちゃくちゃ恥ずかしいよ。」もらってくれる、なんて。酔った勢いとはいえ、よく言えたものだと自分でも呆れる。でも――と、紗英は思う。嫌そうな顔はしていなかった。あの戸惑った表情を思い出すと、また頬が緩んだ。「ま、いっか。」「なんてね、で済ませとこう。」自宅マンションまでは、あと少し。街灯の少ない裏路地に入ると、辺りは急に静かになった。自分の足音だけが、アスファルトに響く。その時だった。背後から、エンジン音が近づいてきた。タイヤが軋む音とともに、黒いバンが紗英のすぐ後ろで急停車する。「え……?」振り返る間もなかった。スライドドアが勢いよく開き、中から黒い覆面を被った男が二人、飛び出してくる。「な――」声を上げる暇もなく、太い腕が紗英の体を捕まえた。「ちょっ!何っ――」口を大きな手で塞がれる。革の匂いと、汗の匂いが鼻をつく。「キャァ……ンンッ!」くぐもった悲鳴だけが、誰にも届かないまま夜に消えていく。必死に抵抗するが、女の力ではどうにもならなかった。体が宙に浮き、そのままバンの中へ引きずり込まれる。スライドドアが、乱暴に閉められた。「……っ、ンーッ!」薄暗い車内。紗英の視界に映るのは、覆面の奥の、感情の読めない目だけだった。エンジン音が唸りを上げ、バンは静かな住宅街を走り去っていく。紗英のスマートフォンだけが、アスファルトの上に落ちたまま、通知の光を点滅させていた。――それに気づく者は、まだ誰もいなかった。気づけば、倉庫のような場所に連れ込まれ、紗英は柱に括りつけられていた。何が起こったのか、理解できない。怖い。苦しい。視界を奪われたまま、闇の中で音だけを頼りに状況を探る。そんな中、男たちの声が聞こえてきた。「……あの人に言われてるんだ。さっさと片付けるぞ。」「はい!わかりました。」片付ける――。その言葉の意味を、紗英は必死に考えていた。「……っ、ンー!ンーッ!」猿轡越しにくぐもった声を上げても、誰も反応しない。冷たいコンクリートの床。かび臭い空気。かすかに聞こえる、換気扇のような機械音。ここがど
Last Updated: 2026-07-14
Chapter: 第7話 夢を語る夜 神代紗英
第3章 日常瑞稀との時間を終えた俺は、安堵から気づけば意識が飛ぶように眠っていた。目が覚め、軽くシャワーを浴びて大学のレポートを机に広げ、期限の近い課題を黙々と進めた。気付けば時計は午後六時半。「……そろそろ行くか。」制服に着替え、いつものBARへ向かった。店の扉を開けると、ウイスキーと木の香りが迎えてくれる。「おはようございます!」「おはよう、朔夜!」カウンターの奥から明るい声が返ってきた。「今夜もよろしくね。」彼女の名前は神代紗英(かみしろ・さえ)。俺の一つ年下だが、この店の看板バーテンダーだ。接客もカクテルも一流。将来は自分のBARを開くことを夢見ていて、店長からの信頼も厚い。俺も密かに尊敬している先輩だった。「今日は少し混みそうだから、グラス多めに出しておこうか。」「了解です。」「あと、氷も追加お願い!」「はい!」営業前の店内は慌ただしい。グラスを磨き、氷を補充し、酒瓶を並べる。そんな準備の時間も、いつの間にか好きになっていた。開店時間になると、店内にはジャズが流れ始める。俺がカウンターへ入ると、紗英が横目でクスッと笑った。「朔夜。」「はい?」「カウンターに立つ時はね、もっと笑顔。」「え?」「せっかくそんなにかっこいい顔してるのに、真顔だともったいない。」「いや……そんなこと言われても。」「ほら、少し口角上げて。」言われるまま笑ってみる。「そうそう!」紗英は満足そうに頷いた。「その方が絶対いい。」「ありがとうございます……。」「こうやって素直に直せるところ。私は結構好きだよ。」「褒められてるんですか?」「もちろん。」そう言って笑う紗英につられて、俺も思わず笑ってしまう。「よし!今日も楽しんでいこう!」「はい!」その一言だけで、不思議とやる気が湧いてくる。営業が始まると、店内は次第に賑わいを見せた。紗英はお客様一人ひとりの好みを覚えていて、「今日はいつものハイボール?」「今日は甘めにしましょうか?」そんな何気ない一言だけで、お客様の表情が柔らかくなる。俺もドリンクを運びながら、その接客を必死に真似していた。長かった営業も終わり、時計は午前2時を回っていた。「お疲れさま!」「お疲れさまでした。」店内を片付けながら、グラスを洗っていると、紗英が隣へ
Last Updated: 2026-07-09
Chapter: 第6話 償いは死をもって...
......昨日...... ... 「ふふっ...うちの顔に、何かついてはります?...」... 「昨日?...昨日は...」 昨日はバイト帰りの途中に寄り道をして、 鞠子と会ってた。 「助けて...朔夜...」 この時、素直に言えてたら... 「一瞬でも、朔夜の女になれたんは嬉しかったよ...」 いや、言えるはずがない。 俺は咄嗟に、嘘をつかずに事実を隠した。 「昨日は、バイト帰りに繁華街を散歩しながら 帰ったよ。」 瑞稀はこちらを真顔で目を見開きながら 詰め寄ってくる... 「本当に!!?本当に何もなかったのですか!?」 「あぁ...普通に散歩して帰ったよ...」 このテンションの時の瑞稀はやばい... どうにかやり過ごさないと... 「あぁ...本当だよ。嘘はついていない」 瑞稀は数秒間、重なるぐらいの距離で俺を覗く。 「嘘...ですよね?フフッ...朔夜さん、今回は詰めが 甘いみたいですよ。」 !?!?...見られていたのか!?... でも、何も悪気は... 「ほっぺた、誰かに殴られたんでしょ? 腫れてますわよ。ほら、手当しますわ。」 「あぁ、ごめん。 瑞稀に心配かけたくなかったからさ」 ため息をつきながら、 「救急箱とってください...」と待つ瑞稀に 焦りを隠しながら、俺は手当をしてもらう。 以前、瑞稀は親との家庭環境のもつれから 精神的な発作を起こして両親を殺めようとした。 両親が世間に知らせてはいけないと、 表だった公表はされていないが... こうやって、瑞稀が自由気ままにできるのは ある意味両親にさえ恐れられている。 「まぁ、よかったですわ...」 ため息混じりに言葉を切り出す瑞稀... 「何がよかった?」と返すと、 「もし、女の子と会っていることを 隠しているのなら... 私......どうなるかわからなかったから...」 ははっ...とリアクションをした俺は そのまま手当を受けた。 そこに、瑞稀の携帯から着信がなる。 「失礼、少しお外で話してくるわ...」 携帯を持ち、外に出る。 俺は深いため息をついた。 危なかった... 今は、鞠子と出会ったことや 祖父の話はするべきじゃない。 鞠子が本当に呪いの類であっても、瑞稀は その相手を消滅させ
Last Updated: 2026-07-08
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