Chapter: 第4話 極上の湯あみどういうわけだか、中国の王宮のような場所で暮らすようになった私。しかも、都合よいことに、皇貴妃という身分にあるのだから、とても嬉しい。私は貴婦人である。相手として対象になる人がいるなら、それは皇帝をおいて他にいないだろう。何かしたければ、お付きの召使か女官を呼べばいい。実際、女官に服の着替えや、ベッドメイクをしてもらった。恥ずかしかったが、トイレを頼んだときもあった。彼らを使うのにも、すっかり慣れた。二十畳ほどの広い部屋に一人ぽつんといると、ちょっと寂しい。体に少しむずがゆさを感じ、入浴したくなった。召使を呼んだ。「風呂に入りたいのじゃ」「はい。準備して参ります。しばし、お待ちを」やがて、先ほどの召使がやって来て、私の前にかしずいた。この召使はよく目にする。私専用の係なのか。顔こそ違うが、背恰好が現世の夫に似ていた。夫似の召使だ、と心中で思った。「梅皇貴妃。こちらへ」廊下を通り、天井の高い大きな部屋に入った。人が十人以上入っても、ぶつからないくらいの広い空間だ。窓は中国風の装飾飾りで区切られている。赤や緑、金色で塗られている。梁や天井も、中国風の細かな彫刻と飾りが施されている。実に贅沢な浴場である。その部屋には、石組みの浴槽が一つあった。「ここにお立ちくだされ」「そうか」召使は大きな浴場内の中央にある、小型の建物に誘導した。建物内の建物だ。四本の赤い柱で支えられた、小型の屋根付き建物。「この小さな建物はなんという?」「これでございますか。|四柱亭《よんちゅうてい》にございます」「よんちゅう、てい?」「さようで。四つの柱に支えられた『亭』にございます」「さようか」私は四柱亭と呼ばれる屋根付き建物の中心に立った。部屋の中にさらに屋根付き建物を配することが、いかにも中国っぽい。召使は大きな桶二つと無地の|甕《かめ》を三つ用意していた。桶に張った水から湯気が立ち上っている。どこかで水を焚いたのだろう。彼らは俯き、床を見ていた。片膝をついて、何かを待っている。「衣服をお脱ぎくだされ」あ、そうか。たくさんの人がいて、いろいろ準備をしているので、私自身がすることを忘れていた。「うむ。分かった。待っておれ」私は帯に手をかけ、スルスルスルと着物を脱いだ。脱いだ衣服は、女官が素早い動きで回収した。
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Chapter: 第3話 生き物として昔の中国風王宮に来た私。タイムワープってやつなのか。難しい理屈に頭を使う気はない。そんな高級な頭脳すら持ち合わせてない。優雅な音色の笛と弦楽器。ゆるやかに、部屋に吹き渡る風。とても優雅な世界で、いつまでもこの屋敷にいたい、住みたいと願った。天蓋ベッドの部屋から出た。薄くて緑の絹の着物を着る私は、食堂を探した。板張りの廊下を歩く。まっすぐ進み、角を曲がり、またまっすぐ行く。突き当たりに左右の廊下があり、右に行く。あちこちに部屋があり、どこを曲がったのか、よく分からない。それにしても、お腹が空いた。お腹が空いたのに、だれも呼びに来ない。まさか、寝室で食事のわけもないだろう。私は貴族。優美に振る舞うの。そうよ。でなけりゃ、梅皇貴妃じゃないもの。グルルル、グー。また、はしたないお腹の音。体は正直だ。生き物として、しごく当然。食事前にこちらの世界へ来ればよかった。そんなつまらぬ後悔をした。皇貴妃の身分に合う食事を用意してほしい。中国らしい食事。食べられそうなメニューを頭に思い浮かべた。薄いピンクの饅頭、フカヒレのスープ、特製ラーメン。点心で出るケーキ。北京ダック。アワビの煮込み。とにかく、本で見た「満漢全席」のような、|贅《ぜい》を尽くした料理の数々。そんな食事を期待しながら、|涎《よだれ》が出そうなのをこらえて広大な屋敷の中をほっつき歩いた。途中、女官がお辞儀をするので、小さく頷いて会釈した。やっと、それらしい場所に来た。天井の高い部屋だ。ここが食堂だろう。「ここ、食堂かしら」 だれもいない食堂で呟いた。「おーい、だれかおらぬか」返事がない。テーブルには皿数枚が重ねられているだけだ。他の食器も、箸、スプーンもない。時間じゃないから、食べられないパターンかよ。私は、空腹を我慢できず、隣の厨房を覗いた。唖然とした。ここにも、だれもいない。でも、いいものを見つけた。饅頭が二つ、台座付きの食器に置いてある。私がいただくわよ。心の中で唱えるがいなや、素早く饅頭に手を伸ばした。表面がぷりんとして、大きな饅頭だ。手が動くより早く口が饅頭を迎えに行く。かぶりつくように、腹を空かした熊のように、猛烈に饅頭にむしゃぶりついた。そのあまりの旨さに、舌を噛みそうになった。「うまい! ああ、生き返った」あっとい
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Chapter: 皇貴妃になる鳥が額にぶつかって、気を失った私──まったく、そんな偶然が起きるものなのか?いたって平凡で、それまでは変わったことなど何も起きなかった私。正月に縁起がいいモノと言えば、一富士、二|鷹《たか》、三なすび。あの鳥は鷹。そうではなく、もっと小さかった。小さいけれど、鋭い加速だった。私を獲物と勘違いしたみたいに、まっしぐらに飛んできた。うん。ぶつかる前のことをちゃんと覚えている。私は、何もかもを失ったわけではない。記憶がしっかりしてる。ちゃんと命もある。体も五体満足で、手足も動くし、顔も首も、上下、左右に動く。恐る恐る、手を額に持って行く。ちゃんと、額はあった。ちゃんとあるし、穴も開いてない。凸凹がないのが、本当によかった。ぶつかった形跡は今のところなさそうだ。詳しいことは鏡を見ないと分からないが、傷はないような触り心地だ。よかったぁ。整形外科に通わなくて済む。でも、ちょっと待ってよ──私はここにいていいのだろうか。知らない場所に、いきなり来てしまった。お邪魔……ではないのなら、ま、いっか。自身の記憶はしっかりと頭に残っている。私は普通のマンションに暮らす、平凡な主婦で|梅本《うめもと》|香里《かおり》。運悪く、高い階に住んでいた。それでなのか、大空から鳥が飛んで来た。鳥がぶつかった一瞬で、世界が変わった。どうしてこんな場所にいるのだろうか。どのように聞かれても、私には説明がつかない。夢でも見ているのか。そこははっきりした色と形から成る、独立した世界だ。たいへん、たいへん、たいへんよ。私はまったく知らない世界にいた。そこは王宮だった。私は王宮の建物の中にいた。そこは、明らかに、きれいな王宮だった。きれい? いや、いや。もっとすごい。きらびやかなとは行かないまでも、壁は朱塗りの壁であり、柱は太くて頑丈そう。天井に灯りはないが、部屋の四隅に|行灯《あんどん》が配されている。昔の中国風の王宮であり、なんとなく何かの映画で見た風景である。そして、現世では高級な中華料理店でしか流れないような、優雅な音色の笛と弦楽器がどこかで奏でられている。仕切りのないこの部屋にゆったりした音色が、風に乗って運ばれる。「女子十二楽坊の音楽だわ」その程度の理解でも充分すぎるほどの、とても優雅な音の世界。そんな中、私は|天蓋《てんが
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Chapter: 冬の朝の来訪者悪い夫にはどこかで罰が下る。そう思う私は愚夫の妻。どこにでもいそうなありふれた女だ。そして、夫も平凡を絵に描いたような、普通の会社員である。夫の性格は悪い。「このクズ野郎!」私は夫に怒りをぶつけた。「なんだと。だれが稼いで飯が食えてると思ってる?」夫は居直った。「はあ? 何様のつもりなの? つまんねぇ昭和の台詞ね」「つまらなくていい。こっちには仕事があるんだ。おまえを養う義務もな」「思い上がっちゃって。そんなんで、よく浮気したわね」「浮気はしてないよ」夫は平然と否定し、首を振った。「嘘つけ! 私には分かるわ。シャツにいつもと違う香りがしたのよ」「だから言ってるだろ? 帰りの電車が混んで、知らない女の香水かなんだかがついたんだろって」昨晩、夫の浮気でケンカになった。こんな風景は、我が家では日常茶飯事だ。そして、ケンカが収まらず、二人とも相手を無視し、黙ったまま朝の支度をした。そんな冬の朝のことだった。年も明けた一月八日。少し曇り、ときどき太陽が顔を覗かす。夫はこちらを見向きもせず、バタバタと出て行った。それを奥で確認し、私はIHコンロのボタンを押して加熱を止めようとした。夫が出て行って、ゆっくりとリプトンの紅茶を飲もうとした。お湯は沸いていた。「おーい。カオリ」玄関で聞き慣れた声がした。嫌な夫が戻って来た。私はツカツカと歩き、玄関を覗いた。玄関で夫は立ったまま、私に指示を出す。「忘れ物をした。机の上のUSBメモリ、取ってきてくれ」「知りません」「こら! 急いでるんだ」「自分でどうぞ」「フン。分かったよ」夫は玄関で靴を脱ぎ、ふてくされて上がり込んだ。小さな机の上にノートパソコンが置いてある。そこに挿しっぱなしになったUSBメモリを、ピンと抜いた、「バーカ」夫の背中に悪口を浴びせた。「行ってくるぞ」じつに忌々しげな言い方だ。腹が立つ。 「うるさい。早く行け!」私は顔を背け、玄関を指さした。玄関でバカな夫が、まだぶつくさと文句を唱えている。「なにさ。おまえが悪いんだろ?」そんな風に毒づきたくなる。「今晩も遅くなるぞ。飯はいらないからな」夫は飯か仕事のことしか考えてない。USBメモリも仕事で使うのだろう。家にまで仕事を持ち込まないで、と私は思う。でも、コロナのときはひどかった。家の中でリモート
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